(少々、侮ったな……)

 大木に背を預け、深く深く息を吐きながら、ネメシスは胸中で一人ごちた。

 どうにも視界が定まらない。体を動かそうにも、少し揺れるだけで腹部が激しく痛む。

 鏡が無いから解らないが、恐らく今の自分の顔は、それはそれは蒼褪めているだろう、とネメシスは思う。

 左手を見れば、刃の部分が消えて、殆ど柄しか残っていない短刀が一振り。

 それも、見つめる内に掌の圧力に耐え兼ねたように、ボロボロと崩れ落ちて砂へと還ってしまった。

 それを見届けて、ネメシスは苛々とした口調で呟く。

「……何が、『今回はそれで十分』、だ。たった五度振るっただけでこの様ではないか。お陰で痛い目にあった。痕が残ったら、一体どうしてくれるんだ」

 今、ここにはいない相棒に向けての悪態は、しかし内から現われた反論によって、次の瞬間には封じられていた。

(いいや、本当は違う。解ってはいるさ。五度も避わされて、逆に反撃を許した私が甘かった、という事くらいは)

 その、受け止めるにはあまりに気分が悪い事実に、しかしネメシスは己の内でさえも言い訳は行わない。そんな事、出来るはずが無いのだ。

 ……何故なら、ネメシスは“絶対的な致死能力”という、あまりに反則的な力を持っているのだから。

 ありとあらゆる存在を等しく殺す。闇属の魔術の中でも最高の一つ、『殺害概念』とも言うべき性質。

 それがネメシスが魔術書より引き出した、全ての存在に死を与えるという、文字通り、死神の力だ。

 故に、専用端末であるレクイエムを使えなかったとは言え、ジョーカを五枚用意したゲームで負けたようなものなのだ、自分は。

 もはや、ルシファに文句を言える義理ではない、という事は解っている。いや、文句どころか、今の様をルシファが見れば、確実に呆れてしまう事だろう。弁解の余地も無い。

 しかし……

 「あれが、咒法というものか。……なるほど、私やルシファのように傑出した特異能力ではないようだが、魔術より遥かに応用が利くらしい。純粋出力はそれほどの物でもないが、選択肢の多彩さが凶悪だ。……大丈夫か、あの馬鹿は」

 思わず心配してしまうような言葉を呟いてしまった。その事に妙な苛立ちを覚えながらも、それでもネメシスは、痛む腹部を手で押さえ、顔をしかめながらも立ち上がる。

「成り行きとは言え、たった一人の相棒であることに変わりは無い。ここで見捨てるのも、度量の足りない話だろう。……そう、別に心配をしている訳ではない。私はただ、最低限の義理を果たすだけだ」

 そう、自分に言い聞かせるように呟いて、ネメシスは歩き出す。

 胸中で何度も悪態をつきながらも、出来る限りの急ぎ足で。

 

NamelessTales

Act2.絡まる糸と空回る意図
THE OTHERS2 ルシファ&ネメシス

 

 激しい痛みに、いい加減意識が飛びそうになってきた時、ネメシスはようやっと探していた人物を見つけた。

 そいつは、先ほどのネメシスのように木にもたれていたが、こちらに気づくと、のろのろと片腕を上げて呼びかけてきた。

「よう、無事か」

 やたらと間延びした声音に、ネメシスはこめかみが疼くのを感じた。

 木にもたれて動かなかったから、まさか重傷を負っているのかと思えば、とてもそんな様子は無い。

 暗すぎてよく見えはしないが、声から察する限り、ネメシスより遥かに健康体だ。

(その癖、動かないで休んでいたのは、ただ面倒だったからか……)

 心配して損した、と呟きかけ、慌てて内心の声を誤魔化す。別に、元より心配などしていなかった、と。

 そして、怒りの表情を装い、ネメシスは歩みを速めた。もちろん、文句を言ってやる為だ、とネメシスは誰に聞かせる訳でもないのに、心の中で呟く。

「貴様、人が痛みを堪えて探してやったというのに、無傷の癖に一体何を――」

 ――やっていたのだ。という言葉は、ついに発する事は出来なかった。

 何故なら、ネメシスは喋りながらも歩いていたし、故に、彼の詳細が見える距離まで近づいていたのだから。

 そして、ルシファは言った。

「ああ、悪いな。流石の俺も、今動くのちょっとキツイんでね……まあ、油断した俺が悪かったんだが」

 それでも、流石にアレは反則だよなぁ……と、呟きながら苦笑いするルシファ。

 その声音は全く何時も通りで、何の違和感も感じ取る事は出来ない。が、

 それを見て、ネメシスは叫んだ。

「ば、馬鹿者! そんな体で何軽口を叩いている!?」

 その言葉が終わらぬ内に、ネメシスはルシファに駆け寄り、抱き起こした。腹部に走る激痛を無視して、だ。

 しかし、それは無理からぬ事だった。何故なら……

「っ……、悪いが、あんまり触れないでくれないか。ああ、お前にこうやって抱いてもらえるのは、それこそ願っても無い事なんだが、流石に傷口しかないような体では、その綺麗な手を汚してしまうだろう? 折角似合っている衣装も台無しだ。どうせ時間が経てば再生するから、その時改めて――」

「――良いから喋るな!」

 傷に響く、という言葉は出てこなかった。

 ――彼は、その程度の言葉など、遥かに飛び越してしまっている傷を、全身に負っていたのだから。

 一体どういう攻撃を受ければ、こんな体になるのだろう。そう言いたくなるような、凄惨と表現するのも生温い、その体。

 彼は、全身のありとあらゆる部位に傷を負っていた。それも、とてつもなく鋭く、深い傷を。

 服は大量の出血によって余す所無く染められ、それこそ襤褸布と呼んでも差し支えない具合だったし、露出している肌を見れば、そこには無数の切傷が縦横斜めに、敷き詰めるように刻まれていた。

 その内の何本かは極めて深く、右手は比較的無事だったが左手は機能を果たすとは思えない程にズタズタになっていて、その指が全て繋がっている事が奇跡と呼べるような外見だ。胴には、普通ならそれ一つで致命傷である筈の貫通痕が、数えるのもおぞましいほど大量に穿たれている。心臓を含めた全ての臓器が、恐らく機能を停止しているのは間違いなかった。

 唯一完全に無事なのは首から上で、それは彼が己の能力によって、自身最大の急所への攻撃を無効化したからだろう。

 そして、彼が自分を探す為に動けなかった、その最大の理由をネメシスは見つけた。……それは、

「お前、左足が……」

 ルシファの左足は……ほぼ完全に、切断されていた。

 僅かに繋がってはいるのだが、筋肉や神経、骨や腱までもが見事に裂かれ、残すのは僅かな皮のみである。

 どう考えても使い物にならない。それは、左足だけで無く、彼の体そのものが、ありとあらゆる機能を失っているのだった。

「大丈夫だ。俺がこの程度では死なない……いや、死ねない・・・・は、お前が一番良く知っているだろう?」

 ――だから、心配するな。その言葉が終わらない内に、通常では考えられない現象が起きた。

 なんと、断ち切られた左足が、徐々にではあるが繋がり始めたのだ。

 怪異はそれだけでは終わらない。再生は左足だけではなく全身に及び、比較的浅かった傷は完全に消えてしまった。

 その現象に、ネメシスは驚きを覚えはしない。彼女はその現象を見た事があるのだ。胸にあるのは、ただただ安堵のみ。言い訳も誤魔化しもする気が起きないほどの、確かな安堵。

 そう、ルシファはこの程度では死なない。ネメシス以外の人間が彼を殺すなら、それこそ首を断ち切るしか、方法は無いのだから。

 けれど、それでも……例え命に別状は無いとしても、致命傷でも死なない体だとしても、それでも、

(痛みが無い訳では……ないだろう)

 ネメシスはそう叫んでやりたかったが、それが全く意味を為さない事だというのは理解していたし、ならば彼を困らせるだけの、それこそ子供の癇癪と変わらない。

 故に、口を突いて出そうになった言葉を懸命に押し込めて、それでもルシファの身を案じる視線だけは隠せなかった。

 気の遠くなるような腹部の激痛。恐らく、ネメシス自身もかなりの重症だ。肋骨の数本は折れているだろうし、内臓も完全に無事ではないだろう。けれど、ルシファはこの痛みの何十倍にもなるそれを、まるで平気な顔で耐えている。

 勝てない。そう思った。こいつには、絶対に勝てないと。ルシファがこんな事になってしまったからこそ湧き出る、それは素直で純粋な、ネメシスの本音だった。

 そして、しばらく経って、ある程度傷が回復すると、ルシファは何でもない様に言う。

「心配させて、悪かったな。けれど大丈夫だ。俺を殺すのは、お前だけの役目だから」

 ――他の誰にも譲ってはやらないから、心配するな。そんな事を笑顔で……言った。

 その言葉に対してネメシスは、強烈な反発を内心で覚えながらも、それだけは言ってはならないと己を戒め、本音とは真逆の言葉を紡ぐ。そうしないと、この関係が崩れてしまうから。ネメシスは、それが何より怖いのだから。

「……ああ、そうだ。覚えていてくれて、何よりだ。お前を殺すのは、私だけの役目なのだから、な」

 そう言って、強引にルシファの腕を掴んで体を引き上げる。左足はもう繋がってはいるし、出血自体はとうに止まっていたけど、それでもネメシスが掴んだのは、一番軽傷である右手だった。

「っ……悪いが、まだ一人じゃ歩けないんだ。直ったら追いかけるから、先に帰っていてくれ」

 そんな事を平気で言うルシファ。ネメシスは彼を思いっきり睨み、わざと乱暴に、引き摺るようにして歩き出した。

 しかしその身は、彼が倒れないように左側に回り、体重を自分にかける様に。服に彼の血が染み込むのも厭わず、支える様に。

 そんな態度に彼女の意地を感じ取り、ルシファは苦笑いを浮かべ、けれどもう、自分を置いて行けなどと言う事はしなかった。

 


 

「しかし、厄介な事になったな……」

 街へと向かう道の途中、唐突にルシファはそう言った。

「ああ、そうだな」

 本当はあまり喋らせたくないのだが、このまま黙っている訳にもいかない。

 なので、気が進まなかったが、先の事を話し合う事にした。

「正直、予想外だ。俺自身もそうだが、お前と正面からやり合って殺されないヤツがいるとは」

 ルシファは、ネメシスが負けた、とは言わない。彼女が傷を負ったのは、ルシファが架したハンデのせいであって、彼女本来の実力が出せなかったからである。

 だが、それでも驚愕すべき事実ではある。本物の死神に出会って、その刃が壊れるまで避け続けたのだから。

「確かに、あの女の力は厄介だ。見えなかったから何とも言えないが、アレは本来、中・遠距離で生きるタイプだと思う。なのに、近距離というこちらのフィールドで、この私が競り負けたのだから、な」

 あの女は、何らかの理由で消耗していた。こちらに制限というハンデがあったなら、向こうには残量というハンデがあった。

 どちらのハンデがより重いかと言えば、能力の大部分を封じていた自分だろうが、それでも賞賛に値する腕である事は間違いない。

「しかし、予想外で言うなら、お前の方はどうなのだ。『魔眼』は使わなかったのか?」

 そう、確かにネメシスの魔術は最強だが、それと同じくらい、ルシファの使用する魔術は最悪・・だ。

 ありとあらゆる概念を停止させる彼の眼が相手では、何であれその効果を発揮できない。

 停止させる対象を、ただ一つに限定しなければならないのがネックだが、それでも使いどころさえ間違わなければ、どんな相手だろうと負けはしない筈なのだ、本来は。

「使ったさ。……ただ、油断した」

 それが弁解でも言い訳でもない事は、ある程度付き合いのあるネメシスには解る。

 故に、なおさら不可解だった。何故、油断などしたのだろう。普段の彼ならありえない事だ、とネメシスは判断する。

「一撃で“動き”を停止させた。殺すつもりはなかったから、とりあえず腕の一本くらい貰おうと近づいたんだが……」

 そこで、ルシファは一度言葉を切る。その表情は、不可解に対するものだ。

「あいつ自身は何もしなかった。けれど、突然何かに囲まれて、気付いたら……」

 ……この有様さ。そう、淡々と彼は語る。思い出すような表情を浮かべながら、ルシファは推測を口にした。

「恐らく、罠の類だろう。戦闘中に事前に仕掛けを撒いておいて、意思一つで起動するトラップ。意識までは凍結させていなかったから、予め準備されていた物までは停められなかった」

 分析を終えて、ルシファはもう一度、先の言葉を口にした。厄介な事になった、と

「言いたくないが、今度の依頼は相当ヤバイ。それこそ、あの時・・・と同じくらい

 その言葉に、ネメシスは咄嗟に顔を上げる。ルシファの顔を凝視し、問うた。

「それは、言い過ぎではないか? 幾らなんでもアレ・・と……大陸全土を巻き込んだ、本物の戦争・・・・・と同じという事は無いだろう?」

 ネメシスの言葉。それには、微かに怯えと忌避の色が見える。

 しかし、ルシファはその言葉を否定する。首を横に振り、静かに告げた。

「いや、依頼人の正体とターゲットたちの立場……どうにもきな臭過ぎるし、一人ひとりが強力だ。下手に組織同士のいざこざに巻き込まれれば、それこそ収拾がつかなくなる」

「――」

 確かに、とネメシスは思う。ターゲットの一人、自分と戦ったマリアという女は、この大陸の闘争の、中枢に近い位置にいる。

 この依頼を進めれば、恐らく自分たちは最も危険な争いに巻き込まれることになるだろう。ルシファは今度こそ本当に死ぬかもしれないし、自分とてそれは同じだ。というより、基本的には通常の人間でしかない自分は、彼より遥かに死に易い事だろう。

「では、どうする?」

 だから、その問いは、恐らく回避を求める言葉だった。このままでは危ない。あの依頼は反故にしよう、と。

 それは確かに伝わった筈だ。けれど、その上で彼は、ルシファは首を縦には振らなかった。

「どうするも何も、俺たちはプロだ。一度請けた依頼は、何があっても続ける。結果の如何に関わらず、な」

 それは、保留に近い続行宣言だった。依頼の失敗も見据えて、けれどまだ降りはしない、と。

 ルシファの答えに、ネメシスはため息を吐きながら笑みを浮かべた。尤も、その笑みは呆れの意味しか持っていなかったが。

「解った。お前の言うとおりだ。私たちはプロ。多少の困難で投げ出していては、流石に、この矜持にも傷がつく」

 ネメシスはそこで言葉を切った。内心で、私は馬鹿なのだろうか、と解り切った問いを浮かべながら。

「――この案件を続けよう。私をコケにしたあの女にもう一度会い、お前を傷つけたあの男に報復を与え……そして、私たちを巻き込んだ、謎の依頼人の顔を、一度見てやろうじゃないか」

 

 

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