第21話『紅蓮よりの使者』
そこに立っているのは、2人の男だけだった。
1人は絶望に満ち満ちた顔をしている。
悲鳴を上げそうなのを必死に押さえているかのようだ。
蛇に睨まれた蛙、などと言う生温いものではない。
首筋にナイフをゆっくりと刺し込まれている。
まさにそのような言葉がふさわしい。
1人は余裕に満ち満ちた顔をしている。
その両手には棍を握っている。
明らかに達人と分かるその気迫が、眼前の男を圧倒していた。
敵を生かすまいとする明確な殺意が、そこらに迸っている。
いや……目の前の敵を嬲り殺そうとしているようにも見える。
「何故だ……! 何故貴様が国級に味方する!」
佐波の切羽詰った言葉を聞いても、鳴里は見逃す気にはならなかった。
同時に、佐波の質問に答える気も無い。
彼にとって『佐波ガンジは敵だ』と言うことが、事実であり全てなのだ。
無言のまま、鳴里は間合いの外から棍の突きを放った。
8m以上は離れているにも関わらず、佐波は吹き飛んだ。
空中で2回転ほどしてから、佐波は受身を取るために地面に手を付いた。
瞬間、鋭い痛みと共に、何かが引き裂かれる音がする。
受身には何とか成功したが、佐波はそのとき音の正体にようやく気が付いた。
「無駄だ。俺の『コールド・キングダム』からは逃れられない」
佐波の左手の皮膚の一部は、先程手を付いた場所に張り付いていた。
佐波が受身を取る寸前、鳴里がその場所の温度を一気に低下させたのだ。
結果、佐波の手の皮膚は剥ぎ取られ、余計な怪我を被った。
鳴里の付加能力『コールド・キングダム』は、強力な能力である。
特に、佐波のように水分に関係した付加能力を持った相手には効果覿面だ。
付加能力が発動した瞬間に凍らせてやれば、その物体はコントロールできなくなる。
それどころか、熟練した鳴里の手にかかれば、付加能力の発動さえも防げる。
その気になれば、佐波を氷漬けにでもできる。
だが、その場ではそれはできないことなのだ。
今、鳴里には余裕があって、敵に関する情報が無い。
なんとか佐波を生け捕りにして、情報を手に入れたいのだ。
仲間の数なり、能力なり、予定している作戦なり。
数を上げれば、必要な情報など文字通り腐るほどある。
当然、そんなことは佐波も理解していた。
「なぁ、鳴里……いや。鳴里副隊長殿と言うべきかな?
アラサワ隊長も可哀想になぁ? まさかコールド・キングダムの……」
佐波の言葉に反応して、鳴里の眉が少しばかり動いた。
だが、佐波が把握できたのはそれだけだった。
鳴里は滑るような奇妙な踏み込みで佐波に接近すると、拳の一撃を顔面に叩き込む。
付加能力も何も使っていない、単純な技術の結晶だ。
多少なりとも格闘技の経験のある佐波でさえ、全く見えなかった。
それほどまでに、鳴里の技は研ぎ澄まされていた。
「戯言はコヘレトの前で言ってもらおうか。
もっとも、俺が直々に尋問してやってもイイんだがな」
仰け反り顔を抑える佐波に、鳴里は静かに言った。
生死をかけた戦いをしているとは思えない落ち着きに、佐波は不思議と懐かしさを感じた。
鳴里圭吾は、昔の悪鬼羅刹の魂を未だに持っているということに。
だが、そんな佐波の思いとは関係なく、鳴里の攻撃は再び繰り出された。
無言のまま、左手1本で握っていた棍を滑らせる。
拳よりも数段速い、鳴里が得意とする棒での突きが、佐波に向かって放たれた。
全く反応できなかった佐波は、左の肩を強かに打ち抜かれる。
衝撃で肩の中が粉々に砕けたが、あまりの痛みに神経が麻痺したため、痛みは感じなかった。
と、佐波も棍より近い間合いに入って新たな武器を構えた。
ナックルガードの付いた、そこそこ大振りのナイフだ。
いざという時のために背中に隠してあったのだが、それが役に立った。
佐波は、何とか動く右手でそれを握ると、余っていた迅速の気を一気に開放した。
時間が何十倍にも伸張した世界で、姿勢を低くしてから鳴里に襲い掛かる。
頭が元の腰の位置にくる程に体を傾け、腰だめに構えたナイフで鳴里に突きを放った。
チラリと鳴里の目を見たが、佐波の動きに全く付いてこれないようだ。
回避も、防御も、相打ちも不可能だと、佐波は口を歪めて笑い、鳴里の腹にナイフを突き立てた。
だが、ナイフは鳴里の腹に刺さることは無かった。
鳴里に触れたそばから、ナイフが砂糖細工でできているかのように崩壊したのだ。
刃の半分が崩れ落ちたところで、佐波はようやく鳴里から距離をとる。
しかし、攻撃の手は易々と休めなかった。
今度は、すっかり短くなった刃を首筋に素早く叩き込んだ。
ほぼ正確に頚動脈を狙ったのだから、普通なら即死だろう。
むき出しの部分だから、皮膚の下に細工が無い限り確実に死を与えられるはずだ。
その筈だったのに、ナイフは再び砂糖細工のように砕け散った。
全く理解できない。
見た目には、服の下にも首筋にも変わった様子は無い。
佐波のナイフも取り立てて丈夫なものではないが、人を殺めるには十分すぎる強度がある。
目の前の出来事は、あってはならないことと言っても過言ではなかった。
何が起こったかは理解できなかったが、とにかく鳴里から離れなければいけない気がした。
佐波が慌てて鳴里から離れ、大股で10歩の距離を稼いだ。
丁度その時、迅速の気が完全に消失した。
薬の制限時間のこともあるが、佐波の気が絶対量を下回りそうになったのが主因だ。
度重なる酸の発生と不慣れな迅速の併用が、少ない佐波の気を削り尽くしたのだ。
その事態を当人は意外には思わなかったが、危機に直面しているとは感じていた。
それと時を同じくして、鳴里が佐波の動きにようやく反応した。
先程ナイフを突き立てられた部分を軽く撫ぜると、口だけで笑ってみせた。
正義の代弁者を名乗るにしては不気味な笑みが、再び佐波の恐怖を煽った。
「どうした、佐波? いいんだぞ。遠慮せずに、その欠けたナイフで刺してみろよ」
佐波は、辛うじて挑発に乗ることは無かった。
自分の力では鳴里に全く歯が立たないことを知っていたから、と言うだけではない。
自分の任務は、鳴里を倒すことでも、国級月戒を倒すことでもない。
更に言えば、彼らの生徒を虐殺することも佐波の目的ではない。
彼の目的は、もっともっと簡単なものであった。
月戒らの中にいる裏切り者と接触するか、作戦の開始を伝えること。
これが彼の目的であり、彼の服従すべき人間の意志である。
当然、彼の流儀には合わなかったのだが、彼は命令に逆らうような男ではない。
いっそのこと強酸の膜でも被せてやろうかとも思ったが、彼の自制心は確かだった。
まず、他の仲間たちとの計画通り、国級月戒に自分の存在を気付かせる。
その上で、戦闘を派手にやらかして作戦の開始を悟らせる。
そうしたら、後は脇目も振らずに逃げるだけ、という作戦であった。
ただ、それだけの単純な作戦だった。
にも関わらず、容易に足止めを食らってしまった。
まさか、自分が鳴里圭吾と対峙してしまう羽目になるなんて。
苦々しい思いを内に隠しつつも、佐波は逃げる算段を立てていた。
誇張表現などではなく、佐波は仲間内では相当強い。
付加能力が戦闘に向いているし、戦闘経験そのものも豊富だ。
それに加えて、相手の能力を多少なりとも知っている。
自慢ではないが、チームの中枢を担っていると言ってもいい。
だから、ここで自分が死ぬわけにはいかなかった。
その時。
鳴里の背後に大きな人影が飛び掛った。
その人影も普通よりも随分大きいのに、その背丈の倍以上はある剣を高々と掲げている。
予定に無かった増援に、佐波の目が丸くなった。
鳴里は、相変わらず右手で棍を握っているだけだ。
「おぉぉぉぉおお!」
人影は獣じみた声をあげ、膨大な剣を鳴里に振り下ろした。
まるで質量が無いかのように軽々と振り下ろされたそれは、轟音とともに清水の舞台の一部を吹き飛ばした。
そのときに生じた土煙のようなものと招かれざる客の存在は、佐波に有利に働いた。
煙にまぎれて、増援の男が佐波を抱きかかえる。
どこに剣を捨てたのかは知らないが、彼はすぐさま両手で佐波を担ぎ直した。
皮肉にも、幸運の女神は佐波に微笑んだようだ。
どちらかと言えば大柄な佐波よりも相当大きな増援は、佐波を抱えて飛び降りた。
まさに『清水の舞台から』という下らない考えが佐波の頭をよぎったが、これはまた別の話である。
その際、佐波の視界には、鳴里のいた場所の土煙しか目に入っていなかった。
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佐波を抱えていった男は、少し珍妙な容貌をしていた。
目は鋭く、髪は黒い。
耳が少々大きめだったが、これは大した特徴ではない。
筋骨隆々とした体も、彼の性質を物語ってはいないだろう。
彼は、毛深かった。
人間とは全く違い、真っ黒な毛が全身を覆っている。
顔も腕も脚も首も、彼の体で露になっているところなど瞳くらいしかない。
人間とは違い、獣のような……いや、獣そのものであった。
「佐波さん、大丈夫でしたか?」
意外にも、その獣の口から出てきた言葉は人間じみていた。
むしろ、人間の発する言葉と全く同等と言ってもいいほど明瞭な発音だった。
体と不釣合いな為に少々不気味に感じるが、それでも佐波は驚かなかった。
「すまんな、相田。肩が砕けたが、それ以外は大したことは無い」
十分大事なのだが、相田もやはり大して驚かなかった。
唯一『迅速の薬』を扱える佐波なら、粉砕骨折も数分で回復する。
もっとも、オリジナルの月戒なら完治に1分とかからないのだが。
相田と呼ばれた獣と佐波は、寂れたボロ家の中にいた。
佐波の左手はガーゼと包帯で、左肩は壊れたナイフの柄と包帯で応急処置してあった。
かなり粗末な応急処置なので、すぐにでもちゃんとした治療をする必要があるだろう。
もちろん、普通の人間ならと補足する必要があるが。
「相田。他の連中はどうした?」
壁に寄りかかって鼻をヒクヒクと動かしている相田に、佐波がこぼした。
相田は刃の短いナイフを持っており、周囲に気を配っていた。
彼の敵を探す術とは、主に嗅覚によるものだった。
他の器官も並外れているが、嗅覚だけでも十分である。
だから、相田は佐波の言葉に耳を傾け、答えることができた。
「レオナが狛犬と交戦中、フミヨミも何とか鳴里から逃げおおせました」
「トノシマはどうした?」
「確か、今朝京都行きの電車に乗ったと言う情報があります」
小さくした打ちした佐波は、続けて溜息もついてやった。
トノシマの能力には非常に厄介な制限があるが、いないよりはマシな人物なのだ。
戦闘のノウハウは叩き込まれているし、頭もそこそこ切れる。
駆け引きに弱いのが玉にキズだが、それ以外は上々と言ってもイイ。
それと、ちょっと間が抜けてる所も欠点なのだが、そこは無視したいところだ。
「ヨシュア様から指令はあったのか?」
肩と掌の痛みを無視して、佐波は相田に聞いた。
かなり痛みに強い佐波ではあるが、そろそろ鎮痛剤が欲しくなってきたころだ。
と、相田が佐波の右腕に注射針を突き刺し、中の液体を流し込んだ。
佐波が御所望の鎮痛剤だ。
「ハイ。今日中に呪術協会のスパイと合流するそうです」
そう言った相田の顔は、何故か少し強張っていた。
重症を負っていた佐波は、それには気が付けなかった。
そして佐波は、生き延びる最後のチャンスを失うこととなる。
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土煙の中、鳴里は笑っていた。
自分の肌を傷つけることができる者など、この世に一握りだ。
彼と同じく氷に耐性のある者か、彼の氷を上回る熱を扱える者。
もしくは、それすらも無効にできる技能や莫大な気を持つ、国級一族の面々。
そういった、ほんの一握りの人間のみだ。
そして、先程の男は、そのどちらにも属さなかった。
気はそこそこあったし、付加能力も充分に強力なものと言える。
ようするに、鳴里とは相性が悪かったのだ。
「今のは……『大斧剣』だな。遊ぶには丁度良かったかも知れん」
くっくっく、と不気味な笑いをすると、鳴里は棍を握っていた右手を見た。
僅かだが、掌に裂傷が見え、棍が血で濡れている。
剣の男の一撃は、全くの無駄ではなかった。
もっとも、鳴里の棍の握りが甘かったから手の皮が擦り切れただけなのだが。
鳴里は、小さな溜息をついた。
その溜息は4月にしては余りにも白く、気持ち悪いくらい湿り気を帯びている。
彼の溜息が恍惚によるものだということに、誰が予期できただろうか?
そもそも、長身痩躯の優男が、氷の悪魔だと誰が知ることができようか?
氷を繰る王は、余りにも死に餓えていた。
紅蓮よりの使者は、平和すぎる生活に満足し切れていなかった。
極寒の狂戦士は、戦いの中でしか己を維持できなかった。
彼、鳴里圭吾は、今はただ命の奪い合いを求めていた。
月戒は、まだ気が付いていない。
コヘレトが何故、鳴里圭吾を麻帆良学園に寄越したのか?
何故、他の精鋭ではなく鳴里圭吾だったのか?
どうしてこのタイミングで彼を月戒の傍に置いたのか?
全てを知るのは、神とコヘレトと、『来知』の不限人のみ。