当日

その日は暖かく、風が強い日だった。
最近の陽気で開いた桜の花弁が、ひらひらと地面に舞い降りていた。
私の立つ道路の所々が、桃色に覆われていた。
私にもその花弁は舞い降りていた。
そして、今私に背中を見せた人にも

「――――おにい…!」

なぜか出てしまった私の声は、最後まで続かなかった。
いっそ、何も考えずに叫べたらいいのに
なにかを
私の中に溜まっている、もやもやしたなにかを全て

兄が、振り返る。
見慣れない制服の肩についていた、桜の花弁を見つけて苦笑する。
そして私は、兄がそんなことをしている間も焦りつづけて

―――なぜ呼び止めてしまったのだろう―――
―――何を言えばいいのだろう―――

「えーと………兄…さん」

兄は
少し寂しそうな、困ったような表情で

「――――何?」

なぜだろう。
何故、兄はそんな表情をしているのだろう。
なぜ……私は、こんな所にいるのだろう。
必死に考えて、今ここにいる理由に思い至った。
見送りだ。

「あの………お手紙、ください。何してるか……とか」

そんなことしか
そんなことしか言えないのだ、今の私は
なぜ私は、子供なのだろう。
どうして私は、こんなにも無力なのだろう。
腕の中のぬいぐるみに、思い切り力を込めた。
ぬいぐるみは、僅かに形を変えるだけだった。

「――――うん、わかった。毎月手紙出すよ」

兄は
微笑んで
返事をして
そして

「……それじゃ」

背中を向けて歩き出した。
私はその背中を見送る。
みおくる。
みおく―――――

風が吹いた。
桜の花弁がいっせいに吹き荒れた。
兄の後ろ姿が霞んだ。

兄が消える。
兄が行ってしまう。
私の前から……兄が、いなくなってしまう。

その時はじめて
私は胸を焼く焦燥感に気付いた。
言わないと
何か言わないと
絶対に………後悔する。
でも、私は何を言えばいいのだろう。
私に、何が言えるのだろう。
……何が、言いたいのだろう。
私は――――――――



「――――――――お兄ちゃん!!」


ラブひなEX

貴方と私の別れの日に





5日前


「え………?」

可奈子は絶句した。
まばたきを忘れたかのように目を見開いて、口を半開きにして。
椅子に座って、こちらを振り向いた体勢のまま、可奈子は固まっていた。

「お兄ちゃん……なんて、言ったの……?」

呆然としたまま、可奈子が聞きかえす。
俺は……そんな可奈子の姿に、やっぱり言わない方が良かったのかと、思った。
けど…それは、可奈子を騙したことになってしまう。
今まで…5日前になるまで黙っていた奴が言えるセリフじゃないけど、可奈子を裏切るのは嫌だから
だから俺は、もう一度話した。

「俺……遠くの高校に行くんだ」

「それでさ……家からは通えないから、向こうで寮に入ることになる」

「向こうでも色々しなきゃいけないことがあるから…後五日くらいで家を出るんだ」

俺が話している間も、可奈子はずっと黙ったままだった。
理解しているのかいないのかも、わからない。
可奈子は……俺のことを、どう思っているのだろう。

「……いや……」
「え…?」
「行っちゃいや!お兄ちゃん!」
「かな…こ…」

可奈子の
可奈子の半ば隠れた目に、俺は光るものを見つけてしまった。
可奈子が泣いていた。

「やだよう……うぐっ……いっちゃやだよう……」

俺は呆然としていた。
そんなふうにすすり泣く可奈子の姿を、見たことがなかったから
想像したことすらなかった。
可奈子だって本当は、10歳になったばかりの子供なのに
それほどまでに、可奈子は泣かない子だった。
でも、もしかしたらそれは
俺の勝手な勘違いだったのだろうか。
もしかしたらずっと、俺が気付かないだけだったのだろうか?
だって今
可奈子は……泣いている。

「やだよう……やだ…あっ…!」
「………」

気がつくと俺は、可奈子を抱きしめていた。
椅子に座ったまま泣きじゃくっていた可奈子は
腕の中に収まってしまうほど…小さかった。

そして俺は、この小さな妹を今から傷つけるんだ。

「…………ごめん」
「……っ!あ……あ……」

背中に回した手から、震えが伝わってくる。
胸に押し付けられた頭から、くぐもった嗚咽が聞こえてくる。
可奈子を抱きしめるのは、きっとこれが初めてで
もしかしたら、これで最後かもしれない。
可奈子は……もう、これまでのように慕ってくれないかもしれない。
それは、とてもとても寂しいことだけど

それでも俺は、可奈子と離れていく道を選んだんだ。


可奈子は、それからずっと泣きつづけていた。





4日前


闇の中
私は一人うずくまっていた。
もう時間の感覚はないけれど、おなかの空き具合から朝になったのだとわかった。
……こんな気分でもおなかは減る。
なんて浅ましいんだろう……私は
このまま、誰にも見られないまま消えられればいいのに


今でずっと、疑問を抱いたことなどなかった。
兄が傍にいることに
兄の傍にいることに
それは、ずっとずっと続いていくはずのことだった。
兄妹なのだから
だから兄も、どこか近くの高校に入ると、漠然と思っていたのだ。
兄と一緒にいることに、疑問も不安も覚えなかった。
それはずっと前から続いてきたことで…ずっと続いていくはずだと、思い込んでいた。
……なんて愚かだったのだろう、私は


昨日から一睡もできない。
もしも眠ってしまったら、そのまま兄がいなくなってしまいそうで
けれど、兄のところに行って説得できるわけでもない。
そんな中途半端な状態のまま私は朝を迎えていた。
兄がこの家からいなくなるまで、あと4日。
あと四日しかないのだ。

そして私は何もできない。

私は………子供だ。
10歳になったばかりの子供に過ぎない。
兄を説得することもできない。
兄に着いていくこともできない。
ただ……こうして、泣いていることしかできない。
そんな私なんか、消えてしまえばいいのに


―――――――――――――――――



不意に、気配。
誰かが扉の前にいる気配が、私のところまで伝わってきた。
普段の私なら気付かなかっただろうけど、今はベットの上でうずくまっているだけだから
抜け殻のような心は、周囲の変化をよく通した。
そして、その気配の主が兄でないこともなんとなくわかった。

「可奈、朝御飯だよ」

ドア越しに通ってきた父の声に、私は答えない。
ただ、部屋の隅でうずくまっているだけ。
しばらく沈黙のあと、もう一度だけ父の声が聞こえた。

「食事はここに置いていくから……冷めないうちに、食べるといいよ」

何か(おそらくは食事の載った盆)が床に置かれるような音がした後、父の気配は遠ざかっていった。
その間、ずっと私はその場にうずくまっていた。
今は、父とも話したくなかった。

我が家の家事を取り仕切る父は、いつものんびりとしている。
そしてその態度を崩すことはない。
常に私たちのことを思いやっているかのように行動する。
本当の娘でない私にも、兄と同じように接する。
だから私は、父のことが好きではない。
きっと今話しても、説教めいたことを思いやりに溢れた笑顔で言われるだけなのだから
それに……父は知っていたはずだ。
兄がこの家から出て行くことを
そしてそれを、ずっと私に教えてくれなかった。
今までずっと私と兄を公平に扱ってるように思わせて
結局は………偽善だ。


私はそれからずっと、闇の中に座っていた。
時間の感覚はまるでないけれど、空腹はますます酷くなっていた。
眠っていれば楽なのだろうけど、恐怖がそれを許さなかった。
結局私は空腹感に勝てずに、ドアを開けた。
冷え切った粥と水が、盆の上に置かれていた。
浅ましい私はそれを食べた。
盆の下に挟まれた手紙に気がついたのはその後だった。


可奈へ――――

まず最初に謝っておこうと思う、すまない。
進学の件は、景から硬く口止めされていた。だからといって許されることでもないが、景の意思は尊重したかった。
それが、結果的に君を悲しませることはわかっていた。
僕のことは嫌いになってもいいが……一つだけ、聞いて欲しい。

可奈、君の景に対する気持ちは知っていた。
だからといって僕たちが、景を君から引き離そうとしているわけじゃない。
これは純然な景の意思だ。
少なくとも僕は、それを尊重したいと思う。
なぜその高校に行きたいのかはわからないが…景のそんなわがままは初めてだから。
だから……酷なことだとは思うが、君からも景を応援してほしい。
君が認めてくれるなら、景も安心して――――


そこまで読んで私は手紙を破り捨てた。
そのまま部屋の中に戻り、再び闇の中でうずくまる。
だから……だから、父とは話をしたくなかったのだ。
父は……いつも、正しいことしか言わないから
そして、それが正しいことだとわかっているから

結局その日、私が部屋から出ることはなかった。




3日前


ガッ――――!

俺は母さんに顎を打たれて、その場に転倒した。
平手なんて生易しいものじゃなく、親指の付け根による脳に響くような打撃。
尻餅をついたまま、俺は揺れる視界でなんとか見上げた。
母さんはいつものように静かな表情だったけど…明らかに、怒りの気配を纏っていた。

「貴方……何をやっているの?」

俺はついさっきまで、部屋で荷物の整理をしていた。
向こうに持っていくもの、ここに置いていくものを分けるために
そして、扉を蹴破って部屋に乱入してきた母さんに殴り倒された。
その時たまたま持っていた教科書の類は、部屋中にばら撒かれて白いページを見せていた。

「こんなところで、可奈子を泣かせたまま……何を、やっているのかと、聞いてるの」

圧倒するような視線に、俺は答えることができない。
今になって、頭がガンガンと痛んできたから
そして……俺自身、可奈子に何をしてやれるのかがわからないから

「貴方が自分で決めたことに…私はとやかく言う気はないわ」

母さんは俺に背を向けた。
俺はまだ尻餅をついたまま、喋れない。
言うべきことも…見つからない。

「けれど……貴方が、少しでもあの娘を大切に思っているなら――――」

最後まで言わずに、母さんは去っていった。
結局、何をするかは自分で決めろということだろう。
母さんは、どこまでも母さんらしかった。
俺はあんなに…『自分らしく』生きていくことはできていない。
自分が何をするべきかも、はっきりしない俺は
……それでも、可奈子に何かをしてやれるだろうか……


可奈子が昨日から、部屋の中に閉じこもっているのは知っていた。
俺は、いまさらになって後悔していた。
こういう状況になる覚悟は……できていたはずなのに
この家を出ると、決めた時から


部屋の前に立ち、中に何度か呼びかけても返事がない。
一応断ってから、ドアを開く。
もう何度入ったかわからない可奈子の部屋に、俺は再び足を踏み入れた。
そこは闇の世界だった。

この部屋に最初に足を踏み入れたのが、遠い昔に感じる。
確かそれは……俺が、10歳の頃だったはずだ。
可奈子と会ったばかりの頃。
思えば…あの時からずっと、可奈子は俺の後ろにいた。
その関係は、ずっと続いていくようにも思えたときもあったけど……そんなはずは、ないんだ。
だって俺には

「可奈子……」

呼びかけてみると、僅かに影が動いた。
闇に慣れてきた俺の目は、部屋の隅でうずくまる可奈子のシルエットを捕らえることができた。
ゆっくりと、歩み寄る。
可奈子は、逃げもしなければこちらを見もしない。
ただ、膝を抱えてうずくまっていた。

「可奈子……」

ふと、頭の隅で記憶が疼いた。
闇の中でうずくまって、世界を否定している可奈子。
そんな可奈子を、俺はどこかで見ていたような気がした。
今よりずっと小さく、そして世界を否定してた。
確かそれは……可奈子と初めて会った頃。
俺は、その時……

「可奈子……」

三度目の呼びかけと共に、俺は可奈子の頭を撫でていた。


はじめまして
………
ねえ、君の名前は?
………
僕は、景太郎って言うんだ
………かなこ
かなこ…かなこか。うん、いい名前だね
………
ねえ、かなこって呼んでいいよね?これから兄妹になるんだからさ
……別に
その代わり、僕のこともお兄ちゃんって呼んでいいからさ
………
……呼んで、くれないかな?
……お……おにい……ちゃん……
……ありがとう、かなこ
あ……


「あ………」

あの時と同じように頭を撫でられて、あの時と同じように顔を上げる可奈子。
その目は、あの時と同じように真っ赤に充血していた。
……もしかしたら俺は、あの頃の可奈子を呼び戻してしまったのだろうか。
俺がこの家を出て行ったら、可奈子はずっとこのままなのだろうか。

「なあ、可奈子。俺……」

それでも俺は、この道を歩むと決めたんだ。
今の俺にできるのは、少しでも可奈子への裏切りを少なくすること
だから俺は可奈子の頭を撫でたまま、そのことを話し始めた。

「俺……約束、したんだ」


10年前の約束を

もう、俺しか覚えていないだろう約束を

そして、ずっと俺の中でくすぶっている約束を

果たす道を、俺は選んだ。

だって俺には

やるべきことなんて……他に、無い。

「俺はあんまり頭良くないから、浪人するかもしれない」

「それでも…約束を果たせるまで、頑張りたいんだ」

「でもここにいたら、そんなことはきっと許されない」

「きっと、父さんの後を継がなきゃいけなくなる」

「だから、遠くの高校を選んだんだ」


いつしか可奈子は、食い入るようにしてこちらを見つめていた。
このことを人に話すのは初めてだけど……やっぱり、正気を疑われているのだろうか?
確かにそれはそうだろう。
どう頑張っても、大学に入れるのは約束してから13年後。
ましてや東大だ、それ以上かかるかもしれない。

「馬鹿みたいなことかもしれないけど……」

それでも俺は
一抹の期待と、何より『目指すもの』がある道を

「選んだんだ……」

俺は可奈子の頭をもう一度だけ撫でて、その部屋を後にした。
ドアを閉めるその時まで、背中に視線を感じながら
………俺は、可奈子に何をしてやれるのだろう。
この道を選んだ、俺は





2日前


「おはようございます、兄さん」

私は部屋の中で荷物の整理をしている兄に、朝の挨拶をした。
ダンボールに荷物を詰め込んでいた、兄の動きが止まった。
信じられないものを見たように…あるいは、信じられないようなことを聞いたように

「か……可奈…子……?」
「私も手伝います」

部屋の中にするりと入り込み、開いているダンボールの中身を確認。
それが冬物の衣類だったので、近くのタンスを開いて一枚ずつ畳んでいく。
兄の服は大きいので、まだ少し私の手には余るけど

「可奈子……急に、どうしたんだ?」
「何がですか?」
「その……手伝ってくれるなんて」
「別に、変じゃないですよ」

兄に背中を向けたまま、私は答える。
そう、別に変じゃない。
兄の旅立ちを、妹が手伝うだけのこと
それだけのことだから

「それじゃ、なんで……」

兄が後ろで口篭もる。
多分、この口調のことだろう。
昨日の今日で、不自然なのはわかっている。
だから私はできる限り『普通』に答えた。

「私も、いつまでも兄さんの後ろにばかりいられないですから…」


昨日の夜、部屋にやってきた兄。
私ははじめて、兄の『目標』を聞いた。
その姿を、呆然と見ていた私。
私は初めて知った。
ずっと一緒にいて、一番良く知っていると思っていた兄に、こんな姿があったことを
『目標』を語る兄の姿は、今まで見たことが無いほど輝いていた。
……醜い私はその輝きに照らされて、小さくうずくまることしかできなかった。


淡々と、黙々と、私は兄の衣類をダンボールに詰める。
兄が家を出て行くための準備をしていく。
その間、会話はほとんど無い。
せいぜい、事務的なやりとりがあるだけ。

「兄さん、出しておいたほうがいい服はありますか?」
「え?いや…全部しまっていいけど…」
「でも、明日と明後日は何を着るんですか?」
「あ、そうだな……でも、二日ぐらいなら制服着てるから」

兄は小物の整理をしながら、傍らを見上げる。
部屋の壁には、真新しい制服がかけてあった。
兄が行く高校の制服。
黒一色の学生服。
私に隠すために、1度も袖を通されたことのない服。


昨夜、わかったこと。
私には……目指すものがない。
今までずっと、そんなことは考えたこともなかった。
望みといえば『兄の傍にいたい』という漠然とした考えだけだった。
そして今まで、私はずっと兄の後ろにいたから
『今』が幸せなら、後はどうでもいい……そんな、浅はかな子供だったから


「可奈子、ありがとう。助かったよ」

ようやく整理が終わって兄にそう言われたのは、日も暮れた頃だった。
部屋の中のほとんどのものはダンボールに詰められている。
私は筋肉痛になりかけている体を起こしながら答えた。

「当たり前のことを…しただけですから」

それを聞いた兄は、なぜか少し寂しそうな表情をした。
兄の旅立ちを妹が手伝うなんて、当たり前のことなのに。
兄に対して、妹が必要以上に近づくことなんてありえないのに
ましてや………

「なあ、可奈子」

兄の声が、私を思考の海から引き上げた。
しっかりしないと
しっかりしないと……兄の、妹ではいられない。
私みたいな浅はかな子供では…ダメだから

「なんですか?兄さん」

母のようにしっかりと
父のように思慮深く
そして、兄のように……先を見て
私は、完璧な人間になりたい。
だって、今の私は

「明日さ、散歩でも行こうか?」
「………え?」

兄のたった一言で、こんなにも心が揺らいでしまうから。

「兄さん…荷物整理は?」
「可奈子が手伝ってくれたおかげで、思ったより早く終わりそうだから」
「なら……いいです」
「うん」

兄と一緒に出かける。
今まで当たり前だったこと
そして心が躍ったこと
けれどこれからは、兄に甘えていては……いけない。
もっとしっかりしないと
兄がいなくても大丈夫なくらいに


だって、兄はもうすぐいなくなってしまうのだから……





1日前


これ以上ないほど、空は青く澄んでいた。

いつも外出の際に持っていくバッグを背負う。
着慣れない制服に、そのバッグはやはり似合わなかった。
ずいぶん長い間使ってきたものだけど、やっぱりこれは置いていくことにする。
これからも使っていくには、いろいろな思い出が詰まりすぎているから
………思い出の数に反して、バッグは何も入っていないかのように軽かった。
今までの俺を示すかのように


玄関に行くと、可奈子がそこで待っていた。
淡い色をしたワンピースを着て、前髪の間からこちらをじっと見つめてくる。
俺は、そんな可奈子にどこか違和感を感じた。
いつもだったら、可奈子はすぐに俺のところに寄って来る。
いや…そもそも、準備ができたのなら俺の部屋に来てる。
けれど、昨日から可奈子は様子が変だ。
まるで、俺の知らない少女のように

「お待たせ、可奈子」
「いいえ。別に待ってません」
「この制服、今日はじめて着るんだよね……変じゃないかな?」
「そんなことありません。似合ってますよ」

けれども俺は気付かないふりをして、いつものとおりに可奈子に接する。
突然敬語で話すようになったこと。
俺のことを『お兄ちゃん』ではなく『兄さん』と呼ぶこと。
それらはきっと、明日にはいなくなってしまう俺に対しての、可奈子なりの答えなんだろう。
確かに俺は寂しさを感じてるけど…それは、俺の身勝手な感情に過ぎない。
それが自分で決めたことなら、俺が口出しをしてはいけない。
……兄としての俺は、そんなことしかできないから。
けれど…俺は時々、兄としての立場を越えて可奈子に接してしまいそうになる。
なぜなら

「それじゃ、行こうか」
「……はい」

可奈子が時折、すごく無理をしていると分かってしまうから
そんな時俺は、無性に可奈子を抱きしめたくなる。
今までずっと一緒にいてくれた
大切な、存在だから


思えば俺は
ずっと、可奈子に助けてもらってきたような気がする
春の日差しの中でも
夏の小雨の中でも
秋の紅葉の中でも
冬の空気の中でも
可奈子の、笑顔に


「桜、咲いてますね」
「そうだね」
「人…いませんね」
「平日だからね」
「はい」
「…もう少し、歩こうか?」
「はい」

山すそにあるその公園は、桜の花が満開だった。
今日は風が小さいけど、風が吹けば桜吹雪になるだろうと思わせた。
地面に落ちた桜のはなびらを踏みしめながら、可奈子と一緒に公園の中を歩いていく。
今まで、春が来るたびに繰り返してきたこと。
あたりに咲き誇る桜の花は、俺が覚えている限りずっと変わっていない。

昔から、俺は春になるとこの公園によく来ていた。
満開の桜は、おぼろげな記憶を僅かなりとも鮮明にしてくれる。
桜吹雪の中で交わされた約束を
俺の中で、いつまでもくすぶっている何かを


―――大人になったら絶対トーダイで会おうね―――
―――ヤクソクだよ―――
―――わかった―――
―――東大だね―――



……なぜ俺は今日、公園に来るのに可奈子を誘ってしまったのだろう。
今までずっと、可奈子が勝手についてくるだけだったのに。
俺が約束を思い返している間、ずっと公園で遊んでいる可奈子。
ここ数年繰り返されていたのは、そんな光景だった。
けれど…今日は違う。
可奈子は、ずっと俺の隣にいた。
背後に隠れるわけでもなく、前で手を引くでもなく、ただ一緒に歩いていた。
しっかりと前を向いて。

「兄さん」
「なに?」
「その約束も……こんな、桜の季節にしたんですか?」
「…そんな感じ。どうしてわかったんだ?」
「兄さんは……ここに来ると、いつも懐かしそうな目をしてましたから…」
「……そっか」
「私も、そんな約束が欲しかったです」
「あんまりお勧めできないけど…俺なんか、頭悪いから大変だろーな」
「兄さんなら大丈夫ですよ」
「そうかな?」
「……頑張れば、きっと」
「おいおい」

何気ない会話の中にも、俺はどうしようもない違和感を感じてしまう
なぜだろう。
なにが足りないのだろう。
気を取り直そうと、手に下げたバッグを持ち直す。
こつんと、固い感触が足に当たった。

「?なんだろ……あ」
「どうしたんですか?兄さん」
「いや…バッグの中にカメラが入ってた。この前、キャンプに行ったときの余りだな」
「こっちで現像してから、向こうに送りましょうか?」
「そう?それじゃあ…」

手のひらほどのカメラを可奈子に渡す―――前に。
俺は、ふとあることを思いついていた。
それは本当に些細なことで、俺はためらうことなく口に出していた。

「少し残ってるから、一緒に写真でも撮ろうか?」
「……はい」

可奈子の表情は、なにも変わらなかった。
ただ…本当に一瞬だけ、その態度に戸惑いが見えたような気がした。
そしてその一瞬だけ、可奈子が俺の知っている可奈子に戻ったような気がした。
そうか……そういえば、可奈子と二人だけで写真を撮るのは、初めてなんだな…

「…なあ、可奈子」

カメラをちょうどいい高さの木の上において、タイマーをセットして。
シャッターが切られるまでの僅かな間に、隣で佇む可奈子を見ながら。
俺は可奈子が笑っていないことに気付いた。
昨日から、そして今も。
俺は可奈子の笑顔を見ていない。
それは、可奈子が自分で決めたことだから。
それはきっと、明日にはいなくなってしまう俺に対しての、可奈子なりの答えなんだろう。
でも……
それでも俺は、自分が知っている可奈子が見たかった。
だから

「笑って…くれないかな……?」


パシャ


思えば俺は
ずっと、可奈子に助けてもらっていた
笑顔の、可奈子に。
けれど、俺は可奈子と離れていく道を選んだんだ。
俺も可奈子を見習って、兄妹離れしないとな…
一人で歩んでいけるように。
俺が選んだ道は、一人でしか進めない道だから





当日

「――――――――お兄ちゃん!!」

叫んでいた。


私は完璧な人間になりたい。
険しく困難な道を選んだ兄に、負けないほどの。
そうでないと、兄の隣にいることはできない。

あの夜。
夢を語る兄の姿に、私は打ちのめされた。
そして、いやがおうにも気付かされた。
私には、なにもないことに。
私は今まで、何もしようとしてこなかったことに。
だから、だから私は
一人の人間として
兄に追いつけるように
その隣に並べるように
……なりたい。

「お兄ちゃん……私、頑張るから……」


…そして私は、ずっと兄の隣にいたい。
けれどそれは、妹のままではダメなのだ。
ずっと、妹のままで十分だと思っていた……いや、そんなことを疑問に思いもしなかった。
そんな漠然とした思い込みは、あの夜に跡形もなく壊された。
妹のままでは……兄の約束した女には勝てない。
だから私は、三日前のあの夜に決めた。
妹であることを、やめると。
三日前のあの夜に感じた、高鳴る鼓動に従おうと。
妹ではなく……女として、兄を愛することを。

「がんばるから……」


決めたのに

頑張っているのに

なのになんで私は

このごに及んで

「だから……いかないで……」

妹として、兄にすがっているのだろう……


――私は、完璧な人間になりたい――


兄が
私と目を合わせないまま振り向いて
私と目を合わせないまま近づいて
私と目を合わせないまま……いや、私が目をそらしていて

「……可奈子……!」


わたしは兄に抱きしめられていた。


「お前は、俺の妹だよ……」
「………」
「何があったって、お前は俺の妹なんだ」
「………」
「そして…お前が認めてくれるんなら…俺は、可奈子の兄でいられるんだ…」
「………」
「だから……そんな、無理しなくていいんだ」
「……うん」

そうかもしれない。
そうなのかもしれない。
私は……今まで何もしてこなかった自分が好きではないけれど
妹としての自分を切り捨てようとしていたけど
それでも

「私……お兄ちゃんの妹でよかったよ…」

だから、私は兄に出逢うことができたのだから。
そしてなにより、兄が私を妹として大切に思ってくれるから

私は、あなたの妹であることを誇りに思います……



そうして、私たちはそれぞれの道に、別れた。









1800日前

僕は、体についた泡を流した。
木でできた桶から溢れ出たお湯が、僕の体を流れて床に広がっていく。
そんなのをなんとなく見てから、僕は振り向いて声をかけた。

「かなこー。背中流してやるから、こっちきなよー」
「………」

かなこは顔を半分くらい沈めてぶくぶくやってたけど、僕の声に応じてザバンと立ち上がった。
なんでザバザバじゃないかというと、かなこはまだ5歳で僕よりもずっと背が低いからだ。
そういえば、僕は『かなこ』という名前の漢字を知らない。
5日前、婆ちゃんにいきなり『この部屋にいる娘はお前の妹になるんだよ。とりあえずね』とか言われて、紹介されたんだ。
そのときかなこはなんだか部屋に閉じこもってて、ちょっと(ホントはすごく)恐かったけど
もうすっかり慣れて、こうやって体を流してあげたりしている。
シャンプーをつけて頭をごしごししてやると、かなこはとても気持ちよさそうな顔をする。
だから僕は頑張って(かなこの髪はとても長い!)かなこの頭を洗う。
かなこの顔に垂れていたシャンプーをぬぐった僕は、ふとあることを思いついた。

「なあ、かなこ」
「……?」
「婆ちゃんが言ってたけど、この旅館をいつか僕たちにくれるんだって」

婆ちゃんは、この旅館の『おかみさん』をやっている。
『おかみさん』っていうのはどういうことかわからないけど、婆ちゃんはこの旅館では一番偉い。
だからきっと、僕たちにくれるっていうのもほんとなんだろう。
……『いつか』っていうのがいつなのかはわからないけれど。

「そしたら、二人で旅館をやろうな」
「………うん」
「かなこも、乙姫さんみたいにちゃんと仕事しないとな」
「おと……?」
「前にここで働いてた人なんだ。すっごくやさしい人」

でもかなこはちっちゃいから、布団を敷くのも大変そうだな。
そんなことを、かなこの頭をごしごししながら思う。
そうすると、僕は料理でも作るのかな?
父さんに頼んで、料理とかを教えてもらったほうがいいのかな。

「……お兄ちゃん」
「うわっ!かなこ、ごめん!」

考え事をしていたせいで、いつのまにかかなこの頭が泡まみれになっていた。
っていうか、かなこの長い髪が泡を含んで大きくなって、雪だるまみたいだ。
笑うよりも、恐い。でももっと恐いのは、それが苦しそうにフルフル震えてることだ。
僕は慌てて、お湯をかなこにかけた。
ザバッとお湯が流れて、かなこの顔があらわになる。

「お兄ちゃん……ひどい」
「ごめんごめん。ちょっと考え事をしてたら…」
「考え事?」

かなこにじっと見つめられて、僕は困ってしまった。
そのまま言うのはちょっと恥ずかしいので、前々から考えてた別のことを話すことにする。
それは……

「妹ができたんだから、もっとしっかりしなきゃいけないと思って」
「うん」
「これから自分のことは、『僕』じゃなくて『俺』って言おうと思って」
「……しっかりしてる」
「そ、そう?」

僕は……いや、俺はちょっと照れて後頭部をかいた。
なんだかかなこに、初めて兄らしい目で見てもらえたような気がする。

「お兄ちゃん…私も、お兄ちゃんと一緒に旅館やりたい…」
「そうか?じゃあ僕…じゃなくて、俺かかなこが結婚するまでは一緒に旅館やろうな」
「ううん」
「え?かなこ、お嫁さんになりたくないのか?学校の女の子は、みんな『お嫁さんになりたい』って言ってるけど…」
「お兄ちゃんと結婚するから、いい……」











2500日後

「ここが…お婆ちゃんのひなた荘……」

そして、私の約束の場所。


あの、別れの日から
私はずっと、歩んでいる。
人間として
女として
妹として
兄の隣にいるために。

「兄さん……」

私が最も愛する人。
世界中の誰よりも、愛している人。
人間として
女として
妹として
だから私は、世界中の誰よりも兄を愛している。
私の歩んできた道は、そのことを信じる道。

「私、頑張ってます……」

後悔しないために。
私が『浦島可奈子』であるために。

「だから……待ってて、お兄ちゃん」

もうすぐ私は
貴方の隣に、行きます。



そして私は一歩を踏み出し―――――――


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