翌日、早朝。

 日が昇って幾らも経たない時間帯に、私は準備を終えて部屋を出た。笠、錫杖、作務衣の上に袈裟。それから僅かばかりの手荷物。結局荷物の大部分は梱包するにとどまった。

 私がこの部屋で、ひなた荘で過ごした三年余り。その証とも言える部屋の荷物は、自らの手で処分するにはあまりに惜しかった。それは未練なのだろう。昨日までの自分と決別するために、積極的に処分しなければならないのかもしれない。けれども

「…………」

 少しだけ、昔のことを。昨日のことのように、過去の始まりを思い出して

 私は、私の部屋だった場所、後にした。

『青山素子です。どうかよろしくお願いします』
『『『ようこそ、ひなた荘へ!!』』』



 階段を下りる。手摺に刻まれた傷を、柄にもなくなぞっていく。この傷の一つ一つに込められた歴史を想像した。私が来る以前から積み重ねられ、私の去った後も積み重ねられるもの。傷の一つにつけた憶えのあるものを発見して、僅かに苦笑した。私もまた、このひなた荘に刻み込まれた歴史の一つか。そう思えば、全てが取るに足らないことのような気さえした。

 階段を下りる。居間のソファーで一人、式神を肩に載せた姉上が茶を啜っていた。

「くえー」
「行くか」
「……はい」
「寮人に別れは?」
「そのような資格が……私にはありません」

 浦島を死の淵に立たせた。自制の一切を失って同居人を危険に晒した。剣を持つ者として、許されぬ罪悪。皆に会わせる顔などない。

 けれど本当は、もっと独りよがりの理由なのだ。皆は止める。きっと止める。その制止に抗えるだけの自信が、私にはない。何よりあいつは、あの男は。

「ほな、言伝の類はあるか」
「……いえ」
「…………」
「姉上……今まで多くの御迷惑をかけ、申し訳ありませんでした」

 唯一の肉親に、私のこれまでの人生で一番深く関わった人に、笠を押さえて一礼した。私にとってこの人は、一言ではとても語り尽くせない。ただ敢えて言うのなら、姉上だった。私にとって姉という概念は、生涯変わらずこの人の形をしていることだろう。

 何処に身を寄せるかは未だ定かではない。だがどちらにしろ、尼として世俗と縁を切ったのなら、もう二度と会うこともない。これが今生の別れとなろう。

「寄せる先の、当ては? 神鳴ゆかりの寺にはせえへんのか」
「全国を巡って、落ち着ける場所があれば、其処にしようと……思います」
「くええっ」
「そか……ほな、素子」
「はい」

 ことりと、姉上が湯飲みを机に置いた。

「欲に溺れたこと、神鳴を穢したこと……一生悔いて暮らすがええわ」
「……はい。姉上……」

 それで、終わった。

 私が幼い頃より目指し、練磨し、積み重ねてきたものは、それで終わった。ひどくあっけなく。後には何も、残らなかった。

 そうして私は姉上を残し、居間を後にする。

 最後だというのに、最後まで……視線を合わせることは、できなかった。



『立派な剣士になり、素子』
『はい、姉上!!』



 数え切れないほど通った廊下を渡り、玄関に着く。以前私は、むつみさんが来た時も紆余曲折あり、今と同じようにひなた荘を去ろうとした。その時、浦島が待っていて、引き止めてくれた場所には、今回は誰もいなかった。ほんの少しだけ昔のことを思い返す。泣きたくなるほど大切な、記憶の欠片。

 

『ここでずっと待ってた……逃げられると困るから、他人のふりしてた……』
『……なる先輩は?』
『……比べて……選んだ……』

 …………

 三和土で、用意した草鞋に履き替える。その最中、背後からぱたぱたと軽い足音が追って来た。

「素子さん……っ!」
「……しのぶか」

 駆けてきたのは男ではなく少女。浦島の様子を看ているはずのしのぶだった。走り込んできた勢いのまま、しのぶが袈裟の端を掴む。

「そんな格好でこんな時間に、何処に行くつもりなんですか!」
「まだ身を寄せる先は決めていない。その内に便りは出す……誰にも会わずに行くつもりだったが、お前が起きていたのは意外だったな」
「浦島先輩の看病とか色々考えることがあってほとんど徹夜でしたからっ!」
「なるほどな」

 浦島はまだ目を覚ましていない。可奈子がその命を守るため、敢えて全霊で打ち込んだ一撃。いくら不死身で頑丈でも四半日程度で意識を取り戻すはずもなく、今しばらくは先だろう。

 あいつがこの場所にいるはずはなかった。

 振り返りもせぬまま、草鞋を履く私に。しのぶは珍しく、激昂した言葉を叩き付けた。

「また逃げるんですか! また、あなたは逃げるんですか!?」
「…………」

 ……そうだな。私は今まで、幾度も幾度も逃げてきた。だから今度もそうに違いないと、思うのも無理はない。いや、事実そうなのだろう。私はまた逃げ出すのだ。ただ一つ、今までと違うことがあるとしたら。

「しのぶ……私は負けたんだ」
「……どういう、意味ですか」
「此処にいることのできる、資格を失ったんだ。資格のない人間は去らねばならない。それは自明だろう。最早、私にどうこうなる問題では……ないのだ」

 思えば最初から、こうなることは決まっていたような気がする。

 今にして思えば、浦島の心の隙に付け込んで想いを果たしたあの日から、こうなることは決まっていたような、気がする。私がどう足掻こうと、決まっていたことのような気がする。運命などという必然ではなく、構造的な欠陥として。

 だけれども、その感慨は少女には伝わらなかったらしい。当然だ。しのぶが子供のように、激しく頭を振る。

「わからないわからないわからない! あなたはなんで、そうやっていつも! 一人で勝手に!」
「…………」
「それじゃ浦島先輩はどうなるんですか! なんで先輩に会って行かないんですか! こんな時間に、誰にも言わずに!」
「…………」
「あなたは逃げているだけだ! あなたはまた逃げ出すんですか!」
「また、か」

 以前のことを少しだけ思い返す。もう一年と半年前になるだろうか。こうしてしのぶに、逃げているだけだと怒鳴られたことがあった。場所は噴水で時刻は深夜。私は同じように座り込みうなだれて、少女は同じように激昂していた。

 だけど今度は、一年半年前の深夜とは違い

 ただ、私が決意するだけで救われたあの時とは違い

 もう、全てが終わっていた。

「部屋にな、私の刀が置いてある。止水を姉上に、ひなを浦島に返してもらえれば……助かる」
「……それだけですか……」
「他の荷物は好きにしてくれ。物騒なものには封をしておいた故、姉上に任せた方がよいだろう」
「……この期に及んで、言うことは、それだけですか……!」
「なる先輩には……すまないと、伝えてくれ」
「素子さん!」
「浦島は……」


「皆に、返す」


 ぱあん、と頬を張られた。

 固定していなかった笠が、ぱさりと三和土に落ちる。私は足袋の用意をしていた手を少し休めてそれを拾い上げた。それからもう一度平手を受けるかと思ったが、代わりに今度は凄絶な憎悪を浴びせられた。

「馬鹿にしないでください……!」
「…………」
「私が……私たちが、そんな、飢えた野良犬みたいに見えたんですか! 浦島先輩のことをそんなふうに思っていたんですか!」

 何様のつもりだと、しのぶは言いたいのだろう。何様のつもりだと、私も自分に問うた。私は臆病者で、裏切り者で、卑怯者で、愚か者。ならば何を言おうと今更だ。何より私はもう去るのだから。どうせこうして、逃げるように去るのだから。憎悪を浴びせられるのは、本望ですらある。

 ただ、心が痛かった。

「あなたには……失望しました」
「…………」
「そこまで言うのなら、浦島先輩は私が貰います! 他の誰に奪われるかもしれない! そもそも想いは届かないのかもしれない! でも、そんな恐怖に屈したりはしない! 何よりあなたのような卑怯者には絶対に返さない!」

 ……ああ

 ゆらりと、しのぶが一歩下がった。私は振り返らない、振り向けない。とても視線は合わせられない、そんな資格はどこにもない。

 けれど、今、間違いなくしのぶは涙を流している。きっと半泣きのままで叫んでいる。

「もしも浦島先輩が、それでもあなたのことを追うなら。今のこと全て話します。あなたがどんな風に逃げていったのか、どんな言い様で浦島先輩を捨てたのか、全部話します」
「…………」

 裾を払って立ち上がる。袈裟は既に掴まれてはいなかった。引き止める手は自ら振り払った。背に浴びせるのは、ただ罵声と憎悪だけとなる。

 敷居をまたぐ。最後の言葉だけは、聞きたくなかったから。

「もしも、浦島先輩が。それでもあなたのことを求めたのなら」

 そんな、悲劇の可能性を。少女は更なる惨劇の保証で塗りつぶした。

「あの人を、殺して。私も、死にます」




『あなたは! 浦島先輩のことが好きなんじゃなかったんですか!?』

『行って…………行きなさい! 青山素子!!』

「オーッスモトコー!」

 戸を閉め、寮の建物を出て数歩進んだところで、玄関屋根の天頂に座り待っていた少女から声をかけられた。笠を押さえて、振り向く。

「スゥか」

 笠を押さえる左手に、僅かだが力が篭った。先程のような罵声は当然だ。だから視線は合わせられない。覚悟すら失った私には、こうして視線を遮りながら振り向くのが精々だった。

 けれど意外と言うべきか。スゥの口から漏れたのは、恨み言や非難の声ではなく、普段通りあっけらかんとした物言いだった。

「行くんかー?」
「……何も、言わないのか」
「モトコの『いつか』が来たんやろー?」
「…………」

 昨日のことを思い出す。たった数時間前のことなのに、幾年も昔のように感じられた。

『ウチは王女やからなー。いつかひなた荘を出なあかん』
『せやから、モトコの『いつか』が今来たかもしれん、思うただけや。ナハハ』

「いや、私は……道を見失った……だけだ」
「そーなん? ほなココにおればええやん」
「私は……此処にいる資格すら失った、外道畜生の類だ。去らねば、ならん」

 思えば、このひなた荘という場所は、とても優しいところだった。

 本質的にはただの同居人という関係でありながら、とても暖かな間柄。背負わされた道を急く人はおらず、自ら行うと決めたことを助けてくれる人は多く。とても居心地の良い場所だった。影響されて、外道畜生の本性を持つ私ですら、優しい人間のフリができた場所だった。

 この場所は……優しい、猶予だった。今となってはそう思う。

「ほな土産おるかー? 色々用意してきたでー。モルモル式ペンダントなんてどやー?」
「いや、それも気持ちだけで良い。これより過去と縁を切る身で、かようなものは受け取れん。それとスゥ、このような場合は餞別と言うのだ」
「なはは、そっかー」

 取り出しかけた怪しげな物品を仕舞い、笑う彼女があまりに普段通りで

 私はつい、資格などないと知りながら尋ねていた。私と同じ運命を負った少女に、最後にこれだけは、聞いておきたいこと。

「お前は……この場所を去らねばならない道理を……覆したいと、思ったことはないのか?」
「んー」

 沈黙。

 私は、思った。思ってしまった。この場所を去らねばならないという道理そのものを、姉上を倒すことで覆そうと思ってしまった。それが裏切り、それが恥。私は人間としての道理を忘れた外道畜生に堕ちた。それを贖うために尼となり、二度と此処には戻らない。

 けれど、だけど。思ったことはなかったのだろうか。あらゆる仁義を無視したならば、そう思うことはむしろ自然なのではないのだろうか。この場所は、それだけ優しいところだった。背負うものがある人間にとっては、尚。

「ウチの夢はなー、ひなた荘をウチの国に持ってくることなんよ」
「……は?」
「ケータロがいて、モトコがいて、なるやんがいて、みんなみんな笑ってて……ずっとみんな一緒やったらええなあって、思うねん」

 少女の語るそれは、あまりに荒唐無稽な夢だった。実現するはずのない、文字通りの夢物語。

 だけど、それでも、少女には必要な夢なのだと理解できた。この場所で心穏やかに過ごすために、いずれ訪れる未来を受け入れる瞬間まで、必要な夢。

 私が、いずれ神鳴に戻らねばならないことを無意識のうちに忘却して、浦島と付き合っていたように。

「そう、か……」
「ニャモっちに聞かれたら怒られそうやけどなー。なかなかニャモっちみたいにはなれへん」
「ニャモと……そんなことを話してたのか」

 かつて数ヶ月だけ、ひなた荘にいた少女のことを思い返す。しのぶとそっくりの外見を持ちながら、歳に似合わぬ強固な性根を持ち合わせた異国の少女。

 正直、あまり話したことはない。だけどなんとなく、あの少女が生き抜くことに特化しているのはわかっていた。猫科の動物のような、と言うべきだろうか。隙を見せず、隙を伺い、誰にも懐かず、一人で生きていく。私がとても及ばない、そういう完成された強さがあった。

 ニャモ=ナーモのことを少しだけ話し、私は一番懐いてくれた少女と別れた。

 カオラ=スゥとの別れは、普通だった。だけど再会の約束だけは、避けた。

『猫だって、死ぬときは人のいない場所に行く。
 そんなに孤独ばかりだったら、人と馴れ合うのは苦痛でしょう?
 貴女は自分の不幸にかこつけて、皆の好意を欲しがっているだけ。
 孤独なら孤独なりの、誇りはないの?』

『ひなた荘は確かにとても居心地のいい場所だけど、そこにいつまでも留まってはいられない。
 だから私は、ケータロに貰ったもの、そしてここで得たものを無駄にしないために、先に進む』

 前庭を抜け、石段をゆっくりと降りていく。

 ひなた荘の、長い石段。両側に植えられた桜は、青々とした葉を茂らせている。五月だが、早朝の空気は凛と冷えている。少し、霞が出ていた。遠くを眺めると、景色を霞ませる程度のかすかな霧。

 錫杖をつきながら石段を降りる。ふと、止まる。

 横を向くと桜の木の一本に、浦島可奈子が背を預けていた。

「やあ」
「最後は……お前か」

 声をかけてきた少女からは、あの瞬間浦島を止めて連れ去った時の激情は見当たらない。普段通りの平静と、普段通りの冷徹。だがあの激情が消えたわけではない。戦うための鉄化面が下に、この少女は溶岩の炎を秘めている。

「とりあえず、よくも散々寮をぶち壊してくれましたね。以後遠慮しろという言葉は何処の耳で聞いていたのですか。中庭全域と本館の一部。今日明日で直せるようなものでもないですよ」
「すまんな……私にはそれしか言えない」
「でしょうね、今の貴女では」

 笠を上げる。錫杖を握る手を下ろす。可奈子には、視線を合わせられた。可奈子と私だけは最初から最後まで、一切手加減も気遣いもなく、相争う間柄だったから。

「私を……斬るか?」
「まさか。その必要がなくなりました。勝手にリタイアしてくれるのなら、わざわざ手を出すこともない。その余力で他の敵を刺しますよ」
「やはり……貴様だけは道連れにして去るべきなのかもしれないな」
「戦りますか? 今、この場で」

 樹に背を預けたまま、両手を広げて笑う可奈子に、私もまさかと首を振った。意味がない、それこそ意味がない。私はこの件に関わる資格も権利も全て失って、去るのだから。

「それで、どうでしたか?」

『何、大した理由でもありません。ただの占いです』

『今貴女が直面している事態は、私にいずれ訪れる選択と同種のものなのです。であるならば、同じ轍を踏まないため参考にするのは別段おかしなことではないでしょう』



「私は……そもそも、最初から間違えていたのだと、わかったよ」
「ふむ?」
「お前の……言う通り、だったな。どうしてか、私のような異常が浦島と通じ合えた。そのこと自体がそもそも間違いだったとしか……思えない」

 私が昨日、姉上に牙を剥いた原因を。浦島が、こんな私を助けるために死にかけた原因を。遡って考えるのなら……そもそも、最初から、間違っていたとしか思えない。

 一年と半年前。浦島と共に山篭りに行き告白が通じた、あの日から……こうなることは、運命だった。この終局は、きっと必然だった。

「結局、私にとって浦島は……本来の道を踏み外させる、疫病神のような人間だったな」
「……それだけ、ですか?」
「それだけだったら、こうも容易く落ちぶれはしない」

 私は、幸せだった。

 その言葉に、昨夜ひたすら繰り返したその言葉に、この期に及んでさえ嘘はない。私が本来の私のままで生きていたのなら、けして得る事のなかった日々。何もかも失った今なら、それがどれだけ幸せだったのか良くわかる。

 可奈子が、その切れ長の瞳をゆっくりと閉じた。祈るよう、願うように。

「それこそ……傾聴に値する、意見です」
「お前も……そうなのだな。浦島のおかげで、幸せだったのだな」
「正しく」

 石段の途中で笠を押さえて立ち止まった私と、桜の幹に背を預けた少女の間に、僅かな沈黙が降りた。それは他の誰でもなく、青山素子と浦島可奈子の間でしか共有できない空気だった。

 この外道二人の人生に、ただ一つ間違いがあるとしたのなら、それはずっと昔から。だけれども、その間違いは幸せなことだった。正しくはなくても、幸福という概念をその身で学ぶ、ただ一つの機会だった。それが幸運か不運かは、判らない。命が尽きるそのときまで、きっと。

「それで、どうするのです?」
「別に、どうも。尼として諸国を巡り、行脚の果てに何処かの寺へ身を寄せるつもりだが……可奈子には関係ないだろう」
「そうですね。負け犬の末路など聞いた私が野暮でした。いずれ兄をモノにした際に、報告程度はしますがね」
「……そう、か。正直、貴様だけは道連れにすべきかと思っていたが、意外と大丈夫なのかも、しれないな」

 これで、きっと、大丈夫だろう。

 しのぶの啖呵を思い出す。可奈子の覚悟を感じ取る。今は此処にはいない、なる先輩の暖かさを思い出す。

 ひなた荘は、きっと大丈夫だろう。浦島は、きっと大丈夫だろう。

 私が欠けても

「それでは、素子さん」
「さらばだ、可奈子」



『――――勝負はまだ終わってないぞ、浦島可奈子』

『……まったく、誰が言ったんでしょうね。私と貴女が似ているなどと』



 そうして

 皆と別れ、一歩また一歩と石段を降りて行き

 とうとう、踏み出した足が最後の段に達した。

 目を閉じる。一瞬で、私の中を今までの人生全てが通り過ぎていった。

 その一瞬だけ、足を止めて、その一瞬に何も起こらなかったという事実で、自分自身に引導を渡して

 最後に一度だけ、振り返る。



 長い石段と、脇に植えられた桜の木々と、その上に建てられた古い旅館の建物と、思い出の全てを瞼に、焼き付けた。


 そうして私、青山素子は。青葉茂る五月の朝

 女子寮ひなた荘を、退寮した。





ラブひなEX

その身が重ねた全てを賭けて 彼女は此処に証を立てる

後編





 初夏の日差しがカーテンによって弱められながらも部屋を優しく照らし、涼やかな風は窓から吹き込んで部屋の空気を清浄していく。

 眠ってしまいそうなほどに、心地良い日だった。この畳敷きの部屋で、何も考えられずに昼寝をできたら、どれだけ幸せなことだろう。

 穏やかな沈黙が、ずっと部屋を占めていた中

「――――素子、ちゃん」

 部屋に敷かれた布団で横になり、意識を失っていた彼が目覚めながら呟いたのは、そんな一言だった。

 青山素子という人のことだった。

――――傍らで、ずっとその目覚めを待っていた、私のことではなく。

「……浦島先輩」
「あ……しのぶちゃん」

 浦島景太郎という、彼。

 前原しのぶという、私。

 今この管理人室にいるのは、この二人だけだ。

 名を呼び、呼ばれた、私達二人、だけだ。

「しのぶちゃん、素子ちゃんは……?」
「……素子さんは」

 青山素子という、人。

 彼女はこの部屋にはいない。けれどこの二人の胸の中にはいる。特に彼の胸の中には、その真ん中にいつだって、揺ぎ無いほどしっかりと、青山素子という少女がいる。

 その事実はわかる、その気持ちはわかる。痛いほどに、痛いほどに。だってそれは私だってそう、だから。

 だから私は、じくじくとした痛みを抱いたままで、彼の質問に答える。

「素子さんは……出て行きました」
「っ!」
「待って!」

 起きあがりかけた彼の腕を反射的に掴んでしまう。両手で、しがみつくように。その制動よりも行為そのものに驚いて、浦島先輩が私を見る。

 どうして止めるのか、今すぐに追いかけないといけないのに、どうして

 非難、非難非難非難非難非難。口に出されない視線だけの、私にとっては刺すようなそれ、刺されるような痛み。私は可奈子さんではない。その痛みすら歓喜に変換できるような精神構造は持ち合わせていない。

 だから痛い。それに怖い。今から口にすることが、臆病な私には怖くてたまらない。嫌われるという恐怖が抑えきれない。

 けれど、それでも

「素子さんは……自分から、行ったんですよ」
「…………っ!」

 浦島先輩の表情が泣き出しそうに引きつる。ああ、彼は傷ついている。ああ、彼は気付いていた。さっき、この部屋で目覚めた瞬間から。この部屋に私と浦島先輩の二人しかいないとわかった瞬間から、ずっと。それを、繋いだ手から伝わってくる震えで感じ取って、私は声にならない息をついた。

 傷つけたくない、傷つきたくない、幸せになってほしい、幸せになりたい。本当は誰もがそれだけを望んでいるはずなのに、何故こんなにもこの世界には擦れ違いが多いのだろう。何故、こんなにも胸が痛いのに……彼を、傷つけねばならないのだろう。

「素子さんは……みんなにさよならを言って……行ったんですよ」
「でも……!」
「自分の足で、自分の意志で……ひなた荘を、出ていったんですよ……」

 素子さんの筋書きで、成瀬川先輩の代わりに

 前原しのぶは、そう騙る。





 物干し台に、登った。

 流れる髪、立つ背中、肩に留めた鳥、携えた長刀。それら全て、見晴らしの良い風景すらも取り込んで、一枚の絵画のように女がいる。

 その居住まい、その在り方には一分の隙もありはしない。もしも完璧などという概念が、芸術品や無機物ではなく人間に宿るとしたら、もっとも近いのはこれだろう。

 化け物め、と本人にとっては慣れたものであろう悪態を心の中で吐いてから、私はその女に声をかけた。

「やあ、十二時間ぶりですね」
「おや、可奈子はん。ウチに何か御用どすか」

 女が背を向けたまま返答する。今日の風は穏やかだ。物干し台という高所にあっても、凪いでいると表現して良いほどに風圧は弱い。彼我の距離、三m程度まで縮めてから私は足を止めた。

「傷はどうですか。昨夜は肩口に負っていたようですが」
「この『疾風』には傷の治りを早める式が備わっとります。あの程度でしたら二刻もあれば足りますわ」
「それも見越した上の苦戦でしたか。つくづく掌の上というわけですね」

 浦島は兄も母も祖母もそうだが、家系的に行き当たりばったりが多い。青山はその逆で、小細工を好む家系なのかも知れないとふと思う。青山素子はとてもそんなタイプではないにしろ。

 さて

「それで結局、貴女は何が目的だったのですか? そろそろ教えてくれても良いでしょう」
「おや、可奈子はんにはウチの目的、話しとったと思いましたが」
「継承者候補としての青山素子が資質を問う? 馬鹿な。ならば何故、あんな風に追い出したのですか。力量が充分なら連れて帰って性根を叩き直せば良い。あの愚か者が気にするほど、神鳴という人種は他者を考慮はしないでしょう。他に目的があったと勘ぐる方が余程自然です」
「せやなあ……ま、可奈子はんならええか」
「くえー」

 そっと女が振り向く。真正面から見据えられ、私の中で生存を司る部分が絶叫するのを矜持で止めた。絶望的な壁が目の前に存在するような錯覚。

「実は、ウチの師範が素子に厄介な式を仕込んどったこと、今になって掴みましてな」
「それは、アレですか。素子さんが先日と昨日、我を忘れて暴れ回ったあからさまな暴走状態の?」

 確かにあれはおかしかった。太刀筋から迷いが消えていたのはさて置くとしても。普段の青山素子の力量を十とするのなら、十二か十三に達するほどの強化が為されていた。剣速、足運び、反応速度、知覚能力、全てに於いて。

 ただ単純にキレていたというのでは説明が付かない。ならば太刀筋が鈍るばかりのはずだ。例えて言うのなら、火事場の馬鹿力というものを十全に制御する、そんな印象を受けたものだった。

 女が、ああ、と首を振る。

「あれは修羅法と言いましてな。青山に伝わる秘伝の暗示や。自我の複列制御、余計な思考と感情の封印、神経伝達の統合、潜在筋力の解放。術理はそんなところどす」
「……暗示でクロックアップにマルチタスク? 流石、千年も人間の手による人外殺しを考えてきた連中は発想が違いますね。一体どれだけ発狂させたのやら。というより、そのために血統を操作した口ですか?」
「神鳴は血筋を混ぜるの嫌いますが、青山に限ればそうでもあらへん。ウチも直系とちゃいますしな」

 昨夜の姿を思い返す。正確無比な機械のように、理性を失った鬼のように、勝つためでなく生きるためですらなく、ただ目の前の存在を斬り捨てるためだけに駆動する、あの姿を。人とは思えない。だが獣でも機械でもない。敢えて呼ぶのなら、剣鬼。

 白状しよう。あの、剣鬼二人の死闘を目の当たりにして、私の膝には震えが来ていた。文字通りの百戦錬磨、この浦島可奈子がだ……!

 だが、女は

「確かに修羅の暴走も怖いと言うなら怖いどすが、ウチか可奈子はんがおれば止められる。現に、そうやったろ?」

 二度と戦りたくはないなどと、矜持に賭けて言えるわけもない。だが女は、それすら真の驚異ではないと切って捨てて

「天衣と言います」
「……天衣」

 口にした瞬間、背筋を悪寒が這い上がった。同意するように鳥が「くえー」と鳴く。呆れを通り越して諦めたような響きの鳴き声だった。

 私が今知ったのはその術式の名前だけだ。具体的な情報など無いに等しく、だから背筋を這い上がった悪寒は戦士としての直感だった。それに関わってはいけないという危機感。喉がからからに干上がった。唇を舐めて舌を潤す。

「ホンマはウチが継ぐはずでした。せやけどウチは壊れて駄目になってしもうたから、御婆様は素子に式を施したんよ。覆水盆に返らず、されど水は再び汲めば良し……とばかりにや」
「……それで?」
「せやけどそれはな、諸刃の剣も良いところの技や。下手に纏おうものなら、街一つを潰して余りある力なんよ」
「どこの戦略兵器ですか。いきなり信憑性がガタ落ちましたが」
「せやなあ。なんせ元々が六百年も前の話や。多少の尾鰭はあるかもしれん」
「…………」

 昔々、あるところに一人の少女がいました(中略)少女は神様を裏切り、街一つと山一つを火の海にしてしまいました。

 浦島に伝わる口伝の一つ。イカレたお伽噺にしか聞こえないそれは、しかし事実だったと浦島は言う。そのような悲劇を出現させないために、敵を芽の内に摘み取れと、浦島は言う。

「……お伽噺ですよ」
「そしたら後は、ウチ自身の実感しかあらへんな。あれは確かに、世界を壊す力でしたわ」
「…………」

 伝説の一端をその身に纏った女が、事も無げに異常を語る。この現世に在ってはならないことを、関わりたくも知りたくもないことを。その神経と威圧に私は我知らず気圧されて――――いや、いや、いや。大事なのは、その事実そのものではない。つまり、どういうことになのか。この女が此処に来た目的は、この女が先程口走っていたことは。

「その術式が……青山素子に施されていると?」
「ゾッとしたろ。なあ、可奈子はん」

 仮に、仮にだ。もしもそんな戦略規模の術式を、昨夜の暴走状態で青山素子が発動させていたのなら。

 想像はそこで停止した。私はその術式の内実と発動を目にしたわけではない。ただ知るのは結果のみ。街が一つ壊滅したという結果のみ。だからいっそ、口に出すのは気楽だった。

「我々は、全滅のアゴ先を綱渡りしていたというわけですか」
「修羅法も起動と制御にはそれなりの力量が必要やけど、天衣はそれに輪をかけた上にコツがおる。今の素子に天衣を纏うのは、どう足掻いても無理やろな。せやけど……何年か後には、判りまへん」

 女がほんの僅か、笑う。そこで初めて、私はこの目の前の相手から感情を読み取った。自嘲の混じった苦笑。まず、それに感情が秘められていたこと自体に対する驚き。直後に意図を理解した。女が此処に来た意図の全てと、この現状の意味を理解した。

 ああ……そうか、なるほど。そういうことか。

「資質を問う、とは……そういう意味ですか」
「…………」
「青山素子が天衣とやらを使いこなせるか否か。貴女が確かめに来たのは、神前仕合の資格などではない。最初からそれだけだった。素子さんをとことんまで追い詰めたのも、手傷を負ってまで力量を測ったのも……全て、見極めるためですか」

 青山素子が、とても天衣を起動できぬ程度の器ならば、放っておいても問題は無い。修羅法だけならば、先刻も口にした通り私がいれば対処できる。最悪でもこの寮の住人が皆殺しになる程度、だ。

 青山素子が天衣を起動できて尚、完全に制御できるだけの器を有していたのなら、連れて帰って直々に鍛え直せば良い。なにしろ元経験者の監督だ。今は無理でもいずれは可能となるだろう。

 だけれども、現実の青山素子はその条件のどちらも満たしはしなかった。放置するには危険過ぎ、全てを託すには未熟過ぎた。いや、必要とされたのは力量や未熟という要素ではなかったのかもしれない。女は未来の可能性すら消し去った。青山素子の技を封じて放逐した。つまり、つまりだ

「素子さんがこれから先、どう足掻いてもどう研鑽を積んでも、貴女という前例に……届く器ではない。貴女はそう見極めたわけですね、『天鈴』」
「…………」

 空気が、凪いだ。女の肩に留まった鳥が「く、くえー」と鳴いた。女は表情を何一つとして表さない。表さない、まま

「せや」
「でしょうね。でなければ兄の存在と拷問で、脅す理由が見つからない」

 昨夜この女によって行われた、襟首を掴んで直接電撃を連打するという拷問は。青山素子の肉体に、二度と技を振るうなという枷を取り付けるための儀式。

 昨夜この女によって行われた、兄を挑発して死地に誘い、寸前で生かすというデモンストレーションは。青山素子の心に、二度と立ち上がるなという枷を取り付けるための儀式。

 その二つを以て、青山素子という剣士にして危険物は封印される。未来永劫、その身が朽ち果てるまで。

 その末路があまりに可笑しくて、少し笑ってやった。

「あはははははは。哀れなものですね、素子さんも」
「…………」

 その可能性の全てを見極められ、レッテルを貼られ、打ち捨てられた。貼られた札にはただ一言、汝天衣を纏うには不足也。神鳴に生まれ、此処まで生きてきた青山素子の全ては、そのたった一言で定義づけられたのだ。

 しかも青山素子自身はそのレッテルのことなど知りもしない。己が見限られた真の理由も、原因も、何一つ知らないままに出ていった。それが更に、滑稽の上塗りだった。

 それを決めたのは他でもない、最強とさえ呼ばれたこの女だ。およそ強さに関して出した答えに、彼女よりも弱い誰に異議が唱えられるものか。

 私は、青山素子の運命について、どこかの神に憐れでも請うてやろうかとしばし目を閉じたが、生憎そんな概念など自身が一切信じていないのに気付いて目を開けた。

 さて

「舐めるな最強!」

 彼我の距離三mで上半身を回転させクイックドロウ。

 意識が加速した。

 腰背より右手で抜き放ったIMIマイクロウージーの銃口を旋回させ前方に向けると同時、銃身の腹にトンと刀の峰が置かれた。ずれる照準。

 女と、女の腕と、長刀と、短機関銃と、私の腕と、私が、一瞬だけ直線状に並んだ。私の後に動きながら、その抜刀は機先を完全に制した。それが示すのはただ単純に速度で劣っているという事実。かつて『神速』とさえ呼ばれたこの私がだ。

 斬

 遊底とフレームを分けるようにして真っ二つとなった銃器から一瞬早く右手を離した私は、だがその一瞬で左半身を刃圏に一歩ねじ込むことに成功していた。彼我の距離、互いに一歩を縮めて残り一m半。

――――――山のような壁を前にする重圧から、山のような津波を前にしている重圧にプレッシャーが倍加した。生存本能が逃走せよと絶叫している。だが今更退いても意味がない。活路と勝機はただ、前にのみ。

 服に巡らせたワイヤーを引っ張って全ての装備をパージ。

 踏み込んだ左足が床を踏むのと同時、右から刃の切り返しが襲ってくる。全ての装備を排除した私の加速と集中力は、この時相手に匹敵した。だが斬撃が捉えられない。五感の限界ではなく、独自の感知法を用いて意識上の死角を縫われている

 ならば

 浦島流静寂凪ぎ

 瞬間

 踏み込んだ左足から放射状に発生させた気で斬撃の軌道を見切った私は、右からの横薙ぎを両手の平で白羽取りしていた。

 半瞬の静止。ゴトゴトと、パージした銃器とナイフと暗器と小道具と榴弾が板張りを打つ。白刃を伝わって、驚愕の気配。

――――――舐めるなと、言った!

 合気

「転!」
「――っ!」

 刀を中心として、女の体がその場で半回転した。隙。刀を手放し掌にした左腕を構えながら右足で床を蹴る。私の為し得る最速にして最巧の機動。刃圏を突破し至近距離に突入。

 この、絶対とも言える達人の間合いを正面から突破して、クロスレンジに持ち込むまで。銃を抜いてから二秒足らず。修羅法も極意止水も、起動されては戦力差が生じ過ぎる。ならばその暇を与えない不意打ちの速攻こそが勝機。此処まで全ては神速の攻防。そして天地逆となった無防備な相手に私は真正面から思い切り

「浦島流――――」
「惜しい」

 神鳴流奥義斬魔掌弐之太刀

 投げによって半回転した女が逆立ちの姿勢で、とんと床に手をついた。受身の動作と同時、床を透過して閃いた気刃が踏み込んだ直後の私を捉え

 避けようも無く

 斬

 斬撃は、股下から肩口に抜けた。纏った服の左半身が弾け飛ぶ。五体は断絶せず、その斬撃は神経系のみを麻痺させるように透過して

 それで、決着はついていた。私には青山素子やこの女のように、五体を介さず斬撃のみを行うような練気の技量は無い。ならば掌を構えた左半身に、気刃を浴びせた時点で勝負はついていた――――のだろう、神鳴の常識でなら。

 刹那、笑ってやった。微笑むのではなく獰猛に。女が僅かに目を見開いた。その表情で、今まで溜まっていた鬱憤が途方もなく晴れる。この程度の致命では、我が神速は止められない。

 次の刹那で彼我の間合いは無と化した。溜めに溜めた左掌を解き放つ。

――――極意散水の名に於いて、龍牙!
「っ!」
「くえーっ!?」

 

 クリーンヒット

 凄まじい手応えが左腕を伝わった。女の体がもんどりうつように吹き飛ぶ。合気の際に女の肩から弾き飛ばされた鳥が、一瞬遅れて鳴いた。極めて稀な、在り得ないと言い切っても構わないだろう現象。

 女はかすかに埃を巻き上げながら、物干し台の真ん中で停止した。うつ伏せに倒れ、長刀を傍らに落とし、ぴくりとも動かない。

「…………」
「…………」
「く、くえー?」

 ざあ、とこの日には珍しく強風が吹き

「……神鳴流浦島家が秘中の秘。かつて『稲妻』が神鳴殺しの代名詞とした極意散水……初めて見たわ」

 埃の一掃された後には、何事も無かったかのように長刀を鞘に納める女が立っていた。

 ……ダメージは、あるはずだ。練気を用いて思い切り打ち込んだ一撃だ。自ら後方に飛ぶことで軽減も何もなく、肉体が砕けていてもおかしくはない一撃だった。だが女は、そんな理屈など知ったことではないとばかり、ゆらりとその場に立っている。前々から思っていたのだが、どうして神鳴流の人間というのはこうも頑丈にできているのか。神鳴流には練気を肉体強化に使用する技がないはずなのだが。

 対して私は……とりあえず、服の弾け飛んだ左半身の、胸元と足の付け根を右手で庇った。可能ならば着替えたいところだが、この状態ではそれもままならない。左半身は、先程の手応えを最後に感覚すらも麻痺していた。

「せやけど、完璧に透過できたわけでもあらへんようやな。動かせたのは一瞬だけか」
「ええ……ですが」

 彼我の距離は現在七m。左半身は動かず、全ての装備は投げ捨てた。対して相手は、どう見積もってもダウン寸前とは思えない。加えて最早同じ手は使えない。戦闘を続行するのなら、私は逃げることもできず殺されるだろう。

 だが、どうした。それがどうした。私は既に、目的を果たしている。

「ですが、今のが……見切れましたか?」
「――――――」
「今のが、予定通りでしたか?」

 今日は風が弱い。押し殺したような声量でも、声は届いているはずだった。だが女は答えない。静かに立っている。絶壁のような威圧感は目に見えて弱まった。相手が変わったのではない、私が変わっただけの話だ。

「来るとは、予想していたでしょうね。そうして、軽くあしらえると予測していましたね? 確かに、力量差を考えれば妥当でしょう――――だが、だが結果はこれだ! 貴女の予測などこの程度だ!」

 修羅法も極意止水も、起動されたのなら戦力差が開きすぎる。こちらは武装を放棄し左半身麻痺。このまま戦闘を続行するのなら私は殺されるだろう。だが、一撃を叩き込んだ。女の予想を上回るという一点に於いて、私はこの戦闘に勝利した。

 この最強に、勝利した。

「何より腹が立つことは、その程度の判断で、私と青山素子の決着に水を差したことだ! 舐めるな最強! 貴女は一体何様のつもりだ!」
「…………」

 柄にもなく私は声を張り上げていた。今日は風が弱い。通常の声量で伝達は充分だろう。それでも声量を上げたのは、ずっと煮えたぎっていたものを吐き出すためだった。

「もちろん素子さんにも問題はある! ああそうだ、あの女に問題がないわけがない。あれは馬鹿だ、救いようのない馬鹿だ。だが、それでも。だがそれでも! 何も教えないまま追放しなければいけないほど弱くはない!」

 知らぬ間に術式を施され、それが原因で追放される。その境遇に同情したわけではない。断じて、あんな女を弁護するわけではない。

 ただ

「青山素子がそこまで弱いと思われているのは、私の矜持に関わります」

 ただ、あの女は同類だった。

 浦島可奈子という人間は、おそらくは生来の殺人者だろう。他者が大事と思うものに価値を感じず、倫理も常識も些細と投げ捨てることが出来る。罪悪感などというものは生まれてこの方感じたことはなく。自分と関わりのない人間がどうなろうが真実どうとも思わない。殊更に死を好むわけでもないが、生というものに意味も見いださない。一切の我欲を知らず、一片の希望も抱かず、何一つとして興味を持たず、故にその本質は死神にも似る。それが本来だ。浦島流という異常組織で、淡々と殺人を積み重ねていくのに適した、それが本来の姿だろう。

 だが、浦島可奈子という人間は、浦島景太郎という人間を兄に持つことで、その全てを狂わされた。行くべき道を踏み外し、我欲のために他者を害する最悪の凡夫へ堕ちた。それは、幸せという名の蜜がため。このような身では幻想でしかないその概念に、私は兄のせいで囚われた。笑うしかない。こんな生来の殺人者が、幸せになりたい、などと。

 それは、青山素子も同じはずだ。流派を継ぐために育てられ、他一切に価値を持たない。実際そのように育てられたどうかは知らないが、そのような人間性が求められているのは確かだろう。そして兄と邂逅し、本来の在り方を狂わされた。幸せという幻想は、麻薬のようにその身を蝕んだことだろう。私たちはつくづく同類でしかない。

 だが、あの女は、その狂いを間違いと言い切った。この現状が在るべき姿ではないと言って、兄の前から自ら去った。

 ふざけるな、ふざけるな! 認めない、その言葉だけは絶対に、認めるわけにはいかない。

 あの人と出逢い、あの人に想いを抱き、身分違いの幻想を抱いたこと。それが間違いだった、などと。それだけは言わせない。

 どんな地獄に堕ちようと、百人以上を斬り倒そうと、人間として歪み尽くしてしまおうと、それだけは絶対に言わないし言わせない。

 あの人に、恋をした。その事実だけは、世界と自身がどれだけ歪もうと、正しいことだと私は証す。

 それを証明するためならば、私は自ら命を張ることが出来る。次の瞬間に斬り殺されようと、胸を張って暴言を吐くこともできる。

「それに……昨日のアレが青山素子の全力だと思ったのなら、大間違いですよ」
「……ほお」
「くえー」

 よりにもよって私の吐いた、場末のチンピラ以下の負け惜しみに、女が興味深そうに目を細めた。鳥が呆れたように鳴いた。

「修羅と化し、神鳴最強の極意を駆使した素子の強さが、あんなものではないと言いはるか」
「私と素子さんの戦績はね、一勝一敗一分なんですよ」
「くえー?」
「単純な結果の問題です。以前あの状態と化した素子さんに、私は相討ちにまで持ち込んだ。ならば互いに極意を駆使した力量は互角。一勝と一敗という結果がある以上、実力以上を引き出したことになる」
「時の運、いうものを可奈子はんはどう考えとりますか?」
「責任逃れですね。論じるべきは常に戦術と情報、私はそう信じてますが」
「言いはるなあ。せやけど可奈子はんは現に、ウチに一撃を叩き込んだ。まんざら嘘とも限らへん、やろ?」
「くえー」
「ご自由に考えてください。私はただ結果から導き出される推測を述べているだけです」

 真顔で大嘘を吐く。真実は逆だ。

 ほとんどあらゆる人間が、特定の条件が揃うと弱体化するように、私と青山素子にもそれはある。いわゆる弱点というものだ。そしてこの二人の条件は、完全に対称となっているのだ。同類というにも限度があるだろう

『二度も三度も同じ手に引っかかるのは、無能の証明に他なりませんよ』

『勝負はまだ終わっていないぞ、浦島可奈子』

 たった一つの条件が揃うならば、私はひどく弱くなる。青山素子は強くなる。そしてまた、逆も真なり。私は

 此処は、こんなにもひどい場所で

 そして、貴方が傍にはいない

 ならば、それはきっと良いことで

 笑ってやった。

「賭けましょう、『天鈴』。もしも次、素子さんが貴女と戦うことがあるのなら。彼女が貴女に勝つ方に」
「くえー」
「それもええかもしれませんな。せやけど今の一撃に免じて勝負を受けるにしても、可奈子はんは何を賭けなはる?」
「別に、何でも構いません。なんなら私が青山の継承者候補にでも成りましょうか。どうせ要るのでしょう?」
「ほほ。面白い冗談やわ可奈子はん。それならウチは何を賭けましょか」
「それはもう決まっています。私は要りませんから、くれてやればいい。『それ』を」
「せやな。ほな、そうしましょか」
「では。私は少々腹の立つ用事が出来ましたので、失礼します」
「くええー」

 動かない左半身をずるりと引きずって、能面のように微笑む女を後にして、物干し台を後にする。

 私は

 ……私は





 昨夜の記憶は、途中で切れていた。

 部屋に一人閉じ篭って悩む素子ちゃんに会いに行き、感情と本音の爆発を目の当たりにして。それに何らかの形で答えるよりも早くお姉さんが現れ、俺に素子ちゃんの置かれた立場の真実を教えた。素子ちゃんが今直ぐ、剣を捨てるか実家に帰るか選ばなければいけないということを。その直後、素子ちゃんが変貌した。まるで見たことのない、何もかもに刃を振るう鬼のような在り方に。後は、斬劇斬劇斬劇。建物の一部と中庭を全壊させた激闘は、結果としてお姉さんの勝利で決着した。

 そして、その後。

 片手で吊り上げられ、幾度も雷撃に晒される素子ちゃん。五体はばたばたと痙攣し、見るに耐えない姿で絶叫する彼女。行けば死ぬとわかっていた。わかっていたけど俺は、止める可奈子を振り切って、素子ちゃんが目を見開くのを無視して、お姉さんに突進し

 そこで記憶が途切れている。

「――――素子、ちゃん」
「……浦島先輩」
「あ……しのぶちゃん」

 微風と陽射しの差し込む自室で、目を覚ました俺が何よりもまず気にしたのは、そのことだった。

 素子ちゃんは無事なのか。素子ちゃんは、あれからどうなったのか。素子ちゃんは、どうしたのか。自分の状況や場所や時間を探るより、まず気にしたのはそのことだった。

 そして、そこにいたしのぶちゃんは、その疑問に答えてくれた。

「素子さんは……出て行きました」

「自分の足で、自分の意志で……ひなた荘を、出ていったんですよ……」

 あの後。玄関で、素子さんと別れた後。言われた通り彼女の部屋に足を踏み入れた私は、返すべき日本刀二本と、書き散らされた文を発見した。

 四百字詰め原稿用紙に何枚も何枚も書き重ねられたそれは、多分小説というものだった。それも、恋愛小説と呼ばれる類の。

 舞台はいつも、ひなた荘。登場人物はみんな、知っている人。だけどそれは、ノンフィクションではなくフィクションだった。知り尽くした場と人で、描かれる物語だけが空想だった。

 素子さんの趣味がそうした文章を書くことだなんて、私はその期に及んで初めて知った。あの人が出て行ってから、初めて知った。

 内容は

 まず、最後まで完結しているものがただの一つもなかった。原稿用紙は綴じることもなく乱雑に積まれていたので確認するのが大変だったけど、多分それは間違いない。

 登場する人物は、ほとんど全て私の知っている人たち。成瀬川先輩、キツネさん、カオラ、素子さん、サラちゃん、ニャモちゃん、お姉さん、浦島先輩。全員が出ている話もあれば、話によっては書かれない人もいた。だけど、だけど必ず、浦島先輩だけは物語の中にいた。素子さんがいなくても、浦島先輩だけは全ての物語で描かれていた。

 その中でも、一番新しく書かれていたのは

 ……その文を手に取って、私は理解した。

 素子さんは、こうなることを知っていた。この結末を予期していた。ずっと以前から、ずっとずっと以前から。自分が今朝のように、ひなた荘を去ることを知っていた。そうとしか思えない。

 なら

 その通りにしよう。それで、望み通りのはずだ。そうなんでしょう? 素子さん。

 そもそも、こんなものを処分せず部屋に残している時点で、それが望みだとしか思えない。少なくとも私は、真実がどうあれそう信じることに決めた。

 ならば演じよう。素子さんの脚本に従って、配役された成瀬川先輩に代わって、愛する人を騙すため、この結末を演じよう。

『そこまで言うのなら、浦島先輩は私が貰います! 他の誰に奪われるかもしれない! そもそも想いは届かないのかもしれない! でも、そんな恐怖に屈したりはしない! 何よりあなたのような卑怯者には絶対に返さない!』

 最後は、気弱で控えめな少女が、全てを手に入れた。そんな物語を演じ尽くそう。

 きっと、これが、私が浦島先輩を手に入れる、最大にして最後の機会となるだろう。



 気付けば、俺は

 布団で横になった状態から立ち上がろうと半身を起こしたまま、肘を掛け布団についていた。

 柔らかい感触が両腕に触れている。めくられた布団が視界を埋めている。なら俺は、膝を抱えるように俯いているのか。

 どうして、どうして、どうして。

 体は痺れていない、眠気は消え去った、無理に押さえ付けられているわけでもない。こんなところにいる場合じゃない。立たなきゃいけない。立って

「……終わったんです」

 しのぶちゃんの、湿っぽく沈んだ声が、俺の頭を右から左に通り抜けた。駄目だ、この言葉は聞いちゃいけない。聞きたくない。

 俯いたまま両手で耳を押さえようとして、その気力さえ失った自分に驚く。

 為す術も無く、耳を通り脳裏に染み渡る、言霊。

「もう……終わったんです、浦島先輩」

 ……何が

 何が……!

 唐突に膨れ上がった、理不尽に対する怒り。それを原動力に俺は布団をはね除けた。だけどその熱は、衝動のまま八つ当たりとなる。短絡な行動。よりにもよってその場にいたしのぶちゃんに、俺は掴みかかった。

「何が終わったって言うんだ!」
「素子さんのことがです! あの人はもう、ひなた荘を出ていったんですよっ!」
「……!」

 肩を乱暴に掴まれた少女が、倍する激情で俺を怒鳴りつけた。その、しのぶちゃんから発せられたとはとても思えない怒声に、乱暴な気分は一瞬で萎えた。驚きと、そんな声を上げさせてしまったことに対する、やるせなさ。

 肩を掴んでいた手を力無く下ろす。しのぶちゃんがその瞬間、僅かに表情をしかめたのが、ひどく罪悪感を呼んだ。大の男の握力で、こんな細い肩を思い切り掴んでしまったのだ。痛かったに決まっている。痣になっているかもしれない。それでも表情を努めて抑えているのは……俺に、気を使っているからだろう。

「ごめん……しのぶちゃん」
「いえ……本当に辛いのは、浦島先輩だと思いますから……」

 ……ああ、そうだ。

 素子ちゃんが、ここにはいない。

 目を覚ました瞬間に、嫌な予感は憶えていた。その予感を打ち消したくて、しのぶちゃんに聞いた。だけどその返事は、予感を裏付けるものでしかなかった。

 昨日のことを思い出す。昨夜、初めて知った、俺がそれまで知ろうともしなかった、素子ちゃんの事情を思い出す。

『素子、ウチは言うたはずやな。選びなはれ、と』

『素子が青山の候補として神前仕合に臨むのなら、ウチと今すぐ京都に帰ってもらいます』

 そして、素子ちゃんがここにはいない。

 素子ちゃんは、出ていった。

 彼女が選んだのは、此処に残ることではなく、本来生きてきた剣の道に戻ることだった。

「……ぐ……う……」
「浦島……先輩」

 体が勝手に折れた。敷き布団の上で無様にうずくまる。背中にかけられたしのぶちゃんの声に答えられない、答える余裕もない。口から独りでに嗚咽が漏れた。

 当たり前の、ことだ。帰るべき場所に帰るのは、当たり前のことだ。素子ちゃんにはそれがあった。それだけのことじゃないか。むしろ、喜ぶべき事のはずだ。

 ひなた荘は、ただ、一時の宿に過ぎない。

 いつか、みんな此処を出ていく。共に暮らすことがどれだけ当たり前になっても、家族同然と本当に信じていても、いつかはみんな此処を出ていく。その最初の一人が、素子ちゃんだったという、ただそれだけのことなのかもしれない。

 この場所に来たから、みんなと出逢えた。この場所があったから、みんなと過ごせた。だから俺は此処に住む限り、素子ちゃんと一緒にいられると、疑うことすらしなかった。

 馬鹿で愚鈍な自分に吐き気すら覚える。

 どうして俺は気にもしなかったのか、疑おうとはしなかったのか、知ろうとしなかったのか。素子ちゃんの事情を。どうして、この日常が当然のものではないことに、気付こうとしなかったのか。

 知っていたのなら、気付いていたのなら。あるいは、あの日々は続いていたのかもしれない。素子ちゃんは、此処に居てくれたのかもしれない。

 だけど、もう、終わった。

 素子ちゃんは、此処との繋がりを断ち切った。もう帰って来る事はない。

 このひなた荘があったからこそ、俺は素子ちゃんと出逢えて、暮らせた。そして当然のようにその日々は終わる。ひなた荘は一時の宿だ。人は、別れるようにできている。

 でも、俺は

「う……ぐ……」
「……ねえ、浦島先輩」

 不意に、ふわりと

 しのぶちゃんが、うずくまった俺の背に抱きつき、囁いた。

「……私は……此処にいます……」

 あまい、匂いがした。



 書き散らされ、全てが完結しないままに打ち捨てられた、文の数々。

 私の知る人々と、私の知る舞台で描かれる、多くの物語。

 それは……それはきっと、可能性だったのだと思う。

 あの人が、素子さんが、思いを馳せた、可能性。

 物語の主人公は、成瀬川先輩だったり、むつみさんだったり、私だったり、時には可奈子さんだったりした。素子さん自身は、登場したりしなかったり。全てに共通するのはただ二つだけ。浦島先輩は、必ず主要な役回りで出てくること。そして、これが恋の物語であること。

 だから……これは、可能性だったのだと思う。

 素子さんが思いを馳せた、浦島先輩と添うことのない、可能性。

 あの人は、浦島先輩と結ばれて、幸せではなかったのだろうか。

 好きな人に想いが通じて、幸せではなかったというのだろうか。

 …………

 その結論に怒りを覚える前に、もう一度考えた。どうせ私は浦島先輩と付き合っていない。その心情はわからない。だから勝手に想像した。あの人の書き散らした断片を手に、妄想に等しく推測した。

 もしかしたら、あの人は、そもそも

 私たちが、当たり前に思い描き、求める幸せというものを、必要としない人間だったのではないのだろうか。

 私たちが、当たり前に幸せを求めるように。本来あの人には、当たり前に求めるものがあったのではないのだろうか。

 ただひたすら、他に目もくれずに。たった一つの道を練磨し極めるためだけに、育てられ生きてきたのではない、のだろうか。

 凛々しくて、格好良くて。根本的に、私たちとは違う人。一言で表すなら、孤高。その印象は、私が素子さんと会ってからずっと、揺るぎないものだった。少なくとも、素子さんに秘められた様々な人間らしい面を、私は浦島先輩が来るまで見たこともなかった。想像もしなかった。

 男嫌いであること、意外と逆上し易いこと、亀が苦手であること、女の子らしい服も似合うこと。それらの発露は全て、浦島先輩が来てからだった。

 ああ、そうだ。

 浦島先輩と、関わったから。

 それこそが、素子さんを壊した要因なのかもしれない。ただひたすらに道を極めるだけで。幸せ、なんてものは最初から必要もなかった素子さんを。浦島先輩が、ただの恋する少女にしてしまった。いや、あの人がしたのは、きっと更に残酷なことだ。

 道を極めなければいけないその身のままで、恋するという幸せを教えてしまったこと。

 数時間前、素子さんと交わした最後の会話を思い出す。その中で幾度も繰り返された、『資格がない』という言葉の意味を、私はこの期に及んで理解する。

 あの人が口にしたのは、昨日今日の話じゃない。ずっと前から。浦島先輩に恋をした、その時から。その想いのままに告白して浦島先輩と付き合うことになった、その時からずっと今まで。素子さんは、お姉さんの求める資格を失っていた。

 せめて、その想いが届かなければ良かったのだろう。想いは形を成すことなく、素子さんなら本来の道を進む力へ昇華もできたはずだ。

 ……だけれども、現実は。

 だから、素子さんの書き散らした文の数々は、きっと可能性だったのだと思う。

 浦島先輩と出逢わなかった可能性。浦島先輩に恋をしなかった可能性。私や成瀬川先輩が、浦島先輩と付き合っていた可能性。そして素子さんの告白が、優しく断られる可能性。

 描かれる、可能性の物語。全てに共通して描かれているのは浦島先輩。そして、その裏にはきっと、あるべき姿の素子さんがいるのだろう。

 素子さんにとって、浦島先輩と付き合うのは、苦難だったのだろう。

 素子さんにとって、あるべき姿ではなかったのだろう。




「私は……ずっと、此処にいますから……」

 ずっと年下の少女に、背中から抱きつかれて

「何処にも……行きません」

 以前のことを、思い出した。半年前に、俺が留学することを決めて。スゥちゃん以外のみんなから無視されて。だけど試験の当日に、しのぶちゃんがお風呂で

『……好きです、先輩……行かないで……』

 しがみついて、涙を流して、震えながら懇願した、あの時のしのぶちゃんの姿と。それに付随する思い出を想起する。

「……しのぶちゃん」

 あの時、俺は

 あの時の、俺達は

『いつか………………迎えに来いよ』

『……うん。お互いに、頑張ろう』

 そうして、俺達は

 信じた。

「ありがとう……しのぶちゃん」
「え……」

 たとえ今別れたとしても、いずれ再会できることを。恋人という間柄に縛られない互いの関係を、ありのままに認めて前進していけると。

 自分と、彼女と、互いの間に培ったものを

 信じたんだ。

「……ありがとう、しのぶちゃん。でも、俺は行くよ」
「……先輩!」

 背中から一際強く回された手を、そっと外して振り向く。しのぶちゃんの体は小さく震えていた。ずっと年下のこんな少女にすら、俺は気を使わせていた。ただ、自分のことをだけを見ていた。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
                      
 自分が代わって傍にいてあげると、《妹のような少女に、そんな慰めまで言わせてしまった》。

 《半年前も、今も》

「なんで……なんで! 素子さんは自分の意志で出て行ったんですよ!? もう、全部終わったんです! なんで……」
「ああ、素子ちゃんは出て行った。それはわかってる」

 素子ちゃんが、俺に一言も言わずに出て行った。その事実は俺を途方もなく打ちのめした。素子ちゃんは自分の意志で、剣を継ぐという道を選んだ。それは、俺の道とはもう交差しない道程で。それを選んだ素子ちゃんの意志は覆しようがない。その事実は、俺という人間を途方もなく打ちのめした。

 だけど

「俺自身が諦めても、素子ちゃんが捨てても、まだ終わっていないものがあったんだ」
「……それは」
「俺と素子ちゃんで築いたもの。いずれ名前のつく、大事な時間。それはまだ、この中で、終わっていない」

 とん、と胸を叩く。

 

 人がいずれ死ぬというのなら、きっと人にはその瞬間まで戦う権利がある。

 人がいずれ別れるというのなら、きっと人にはその瞬間まで抗う権利がある。

 たとえ敗れる必然だとしても、最後のその瞬間まで、戦おう、抗おう。

 この俺の、生と間柄に、積み重ねてきた全てに賭けて

「だから、俺は素子ちゃんを追う。一言もなく終わりだなんて最後は、絶対に納得できないから」
「そう……ですか」

 そうして、不意に

 俯いたしのぶちゃんの声音から、全ての震えと色が消えた。

 がしゃんと、下から小さな音。それは、床に置いてあった妖刀ひなを、しのぶちゃんが拾い上げる音だった。



『もしも、浦島先輩が。それでもあなたのことを求めたのなら』

『あの人を、殺して。私も、死にます』

 ………………………………




「……結局、これしか……ないんですね」
「し、のぶちゃん……?」

 刀の鞘の半ばを、両手で掴んで下げた少女が、暗い声で呟いた。カタカタと、ひとりでに妖刀が鳴る。

 疑問を憶えた。素子ちゃんの愛刀、妖刀ひな。どうしてそれが俺の部屋にあって、しのぶちゃんの手に握られているのか。そして、そうして。本来の持ち主ではなく、そういった荒事に最も不向きのしのぶちゃんが、その妖刀を握る姿がどうしてこんなにも様になって見えるのか。

 何かの内圧が、急激に高まろうとしていた。撃鉄の上げられた銃口、火を入れられたエンジン、そういったものに共通する圧力の気配が、肌に直接作用した。じっとりと背中に冷や汗が浮かぶ。ざわりと鳥肌が立つ。

「……何を、どう足掻いても……駄目なら。私には、こうするしか、残されていないじゃないですか……」

 そう、最後にしのぶちゃんは暗い声で囁いて

 手にした黒刀を



 がしゃんと、俺に託すよう押しつけた。


「素子さんのヘボ作家ぁー!!」
「へ?」
「浦島先輩なんて大ッ嫌いです! これと! これ持ってどこにだって行っちゃえばいいんです!」
「ご、ごほっ!」

 わけのわからない絶叫の後、しのぶちゃんがもう一振り刀を拾い上げて俺に叩きつけるよう押しつけた。衝撃にむせる。

 それでもなんとか支えたのは、素子ちゃんの愛刀である止水とひな、だった。再度の混乱。

 どうしてしのぶちゃんが、これを持っているというのだろう。ひなの方は、元はひなた荘に封印されていたものだから、出て行く際に返したと考えればわかる。悲しいけれど理解はできる。

 だけど止水は、この半ばで砕けた刀は、元々素子ちゃんの持ち物だ。実家に戻って剣を継ぐのなら、持ち帰ってしかるべき物。それがどうしてこんな所にあるのか。

 どうしてと、一番近くにいる少女に聞いてみたら

 知るもんですか、と拗ねるように返事をされた。

「そんなの、私が知るわけありません。わかってたって教えません」
「いや、あの、しのぶちゃん?」
「いっつもいっつも都合の良いときばっかり頼らないでください。それこそ素子さんに聞けばいいじゃないですか」
「……そうだね」

 そうだ。

 聞きたいことがあれば聞けばいい。言いたいことがあれば言えばいい。そうしなければ何もわからない、何も伝わらない、何も変えられない。必然なんて、ありはしない。俺達はただ、努力を怠っていた。

 けれどそれでも、まだ終わりじゃない。誰がなんて言おうと、俺自身が認めてはいない。まだ、終わりではないと。

 行こう。

「それじゃ――――行ってくる」
「何処にいるのか……わかるんですか?」
「とりあえず、前に行った京都の実家に向かうよ。そこにいなかったら……見つかるまで、探す」
「…………」
「じゃあ、しのぶちゃん。本当にありがとう」

 刀二振りを持ち替える。どうしようかと考えて、手近な布で二本纏めて片手に下げることにした。ずしりとした武器の重みが腕を伝わる。何か無音の抗議が聞こえたような気もするけど、幻聴だろう。

 そうして、障子を開けて出ていこうとする俺の

 背中に向かって、しのぶちゃんが囁くように問いかけた。

「……浦島先輩も、戻ってこないんですか?」
「……しのぶちゃん?」
「どこに行ったのかもわからないあの人を捜して、日本中を巡って。そうして素子さんを見つけたら……向こうで一緒になる、つもりなんですか?」
「っ!」

 凶器が、深々と背中に突き立つ。

 そんな錯覚を覚えた。無論それは言葉だし、しのぶちゃんに狂人じみた殺気があるわけもない。だからその錯覚は、俺の側の問題だった。罪悪感の為す錯覚。

 口から出任せなんて不義理は出来ない。俺は、正直に答える。

「……そうする覚悟はあるよ。そうなったとしても、俺はきっと後悔しない」
「――――――」

 ひ、と息を飲む音が聞こえた。どんなに心許す相手とも、人はいずれ別れるという現実。俺がついさっきまで陥っていた想像を、しのぶちゃんもまた恐れているのだろう。当たり前だ。ずっと年下の少女なのだから。恐がりな少女なのだから。

 だから俺は、でも、と続けた。でも

「でも、約束する。俺は、必ず帰ってくるよ」
「……あ」
「これじゃ……駄目かな、しのぶちゃん」
「いえ、いえ……いいです。行って下さい……浦島先輩。私……待ってます、から……」

 しのぶちゃんの声音が嗚咽混じりのものに変化した。すぐさま慰めたい衝動を押し殺して、俺は振り返らないまま管理人室を後にする。

 最後に、しのぶちゃんも、小さな嘘をついてくれた。

「きっと……素子さんも、待ってます……」

 それでも、あの人は

 どうして、書き散らされた文は全て、中途で終わっていたのだろう。

 どうして、在るべき姿の自分自身ではなく、幸せそうな浦島先輩のことを書き続けたのだろう。

 そんなの、決まってる。

 好きだからだ。それでも、素子さんは浦島先輩のことが好きだからだ。在るべき姿と違っても、たとえ痛苦しか得るものが無くても。浦島先輩の幸せが、幸せな浦島先輩が、好きだからだ。

 だから素子さんは、物語の全てを最後まで書き終えることができなかった。浦島先輩が自分以外と添い遂げる姿など、自分で書いていて辛くないわけがない。

 だから浦島先輩は、物語の中でいつも恋をしていた。たとえ仮想の話でも、あの人の辛い姿なんて見たくはない。

 全て、浦島先輩が好きだったから。

 そして、それは、きっと、今も

 でなければ、別れ際にあんな事を言うものか。わざわざ悪役を演じるものか。逃げるように去っていくものか。

 ……結局、両想いだったのだ。

 私の入る隙などない。

 二人は、在るべき姿が違いすぎて、互いの想いにしか共通項はないけれど。逆に

 あらゆる不一致と障害を貫いて、あの二人は両想いなのだ……!






 



「……可奈子?」
「はい」

 素子ちゃんを追うために

 刀二振りを手に管理人室を出て、数歩も進まないうちに俺は足を止めざるを得なかった。なぜなら

 一階に降りる階段の入り口を、半裸でぐったりとした可奈子が塞いでいたから

 わけがわからない。

「どう……したんだ、その格好」

 可奈子の服は、長いスカートに長袖の上着という、この季節とは思えないものだったけど。その上更に、左半分が内側から弾けるようにして破れていた。服というよりも襤褸に近い。当たり前のように下着と肌が見えていたけれど、可奈子本人はまるで隠す様子もなく。それがかえって異常を際立たせていた。

「この程度は予想済みでした。問題ありません」
「って」
「それより兄さん。そんなものを持って、何処に行くのか教えてくれませんか」
「……!」

 そうだ。

 可奈子のことも気になるけれど、火急でなければそれでいい。後で聞こう。それより今は、素子ちゃんを追わないといけない。

 しのぶちゃんに背中を押してもらったせいか、体はすぐにでも駆け出しそうなほど逸っている。けど可奈子はそれをわかっているのだろうか。階段を塞ぐように、手摺に寄りかかっている。通れない。

「俺は素子ちゃんを追うよ。だからそこをどいてくれ」
「ヤです」
「可奈子!?」
「嫌だと、言ったんです」

 言って、ずるりと妹が、左足を引きずりながら俺の前に改めて立ち塞がった。言葉の通り、何があろうと俺を通しはしないという意志の表れ。だけど、それより

「なあ、その足……怪我してるのか?」
「どうしても行くと言うのなら、その刀で私を斬り伏せて征けばいい。見ての通り私はロクに動けません。装備も全て放り捨てた。今なら兄さんにだって私を倒せますよ」
「倒す、って――――」

 死体のような顔色に、目だけを爛々と光らせて、可奈子はずるりと一歩踏み出した。気配に圧されて下がりそうになるのを反射的にこらえた。駄目だ、駄目だ。此処で退いたら、この程度で退いていたら、とても素子ちゃんは探し出せない。探し出して話なんてできるわけがない。

 意を決して前に出た。俺と可奈子の顔がひどく接近する。もしかしたら生まれて初めて、俺達兄妹は、真正面から本気で睨みあった。

「どくんだ、可奈子」
「いいえ、どかない。退くときは私が死ぬときです。そして私は貴方になら、どんな形で殺されようと満足できる」
「そ……んなことはしない、そんなことはできない。可奈子、お前は極端すぎるぞ。どいてくれ」
「どうして」
「素子ちゃんを追うんだ」
「どうして」

 蒼白な顔色の可奈子が、更に唇を噛み締めた。それこそ幽霊のように、「どうして」と三度繰り返した。

「どうして……素子さんなんですか!」
「何故、って」
「あんな女の何処がいいんですか! あの女と貴方では、住むべき世界が違います。根本の価値観が異なるんです。血と泥に塗れて闇を渡る、あれはそんな女です。どうしてあんな女を、貴方は!」
「可奈子! 言って良いことと悪いことがあるぞ!」

 あまりの言い草に、咄嗟怒鳴りつけてしまう。今までの数少ない経験では、妹はそうなると決まって萎縮した。だけど今日の可奈子は怯みもしなかった。逆に刀を下げた俺の手首を掴んで、噛みつかんばかりに身を乗り出した。

「どうして! どうして! ああいう人間が好みだったんですか!? そんなに異常が好きだったんですか!? 剣を振る姿に憧れたんですか!? なら、もしも私が青山素子と同じ種類の異常なら、同じように愛してくれるんですか!?」
「…………」

 可奈子が、絶叫する。その様は必死だった。驚くのを通り越し、俺はかえって冷静になる。そうすれば様々なものが見えた。

 今までの自分全てが覆るかどうかの、瀬戸際。可奈子がそんな場所で戦っているようで、少しだけ罪悪感を憶えた。いや、今更になって気付いた。

 可奈子の事情も、俺は知らない。妹だからと、ただそれだけで全てわかった気でいた。どんな事情があろうとも、可奈子が妹として大事なのは間違いない。だけど可奈子は、そんなことを聞いているのではない気がした。理由はわからないけれど、今言うべき事は他にあるような気がした。

「可奈子、それは違う。俺はたとえ、素子ちゃんと同じ外見と条件を持つ人が現れても、それだけじゃ好きにはならない」
「なら、なんでっ……!」
「俺が、素子ちゃんを確かに好きだと言えるのは……彼女が、俺を変えてくれたから」

 素子ちゃんは美人で、気高くて、強くて、純情で。だけどそんな要素一つ一つに俺は惚れたわけではない。最初のきっかけがどうあれ、今の俺が素子ちゃんを好きなのは

「俺は、自分が嫌いだった。でも今は、こんな自分も悪くないと思う。それを教えてくれたのは、素子ちゃんなんだ」
「――――――」

 

 いつから、だったのだろう。

 俺は、自分が好きではなかった。それはずっとずっと以前から。最初のきっかけは憶えてはいない。だけど何時の間にか、こんな俺なんて、と自嘲して諦めるような人間となっていた。

 そんな自分が嫌で嫌でたまらなくて、幼い日の約束を盾にして、望みもない東大受験を繰り返しもした。俺はきっと、誰かから手を差し伸べられるのをただ待っていた。

 だけどひなた荘に来て、みんなに出逢えて。俺はみんながみんな、頑張っていることを知った。成瀬川も、素子ちゃんも、しのぶちゃんですら。同じ人間でありながら、俺の万倍も努力して、自分の居場所をつくっていた。生きていた。そう、ひなた荘は生きる場所だった。

 俺は彼女達の姿に、憧れた。仲間になりたいと心底思って、みんなのことを気遣えるよう努力した。成瀬川を好きになった。その恋は結局実らなかったけど、俺は今でも後悔はしていない。

 そうして、そんな俺のことを、素子ちゃんは好きだと言ってくれた。

 素子ちゃんのことは元から好きだった。それは色恋とは別の、人間としての好意だったと思う。まっすぐに立ち、間違ったことなど何もない。そんな彼女に尊敬を抱いていた。だから、素子ちゃんが俺を好きだと言うのは、最初何かの間違いだと思っていた。

 俺には尊敬されるべき部分など無い、二十年間も無駄に生きてきた浪人生だと。俺はやはり、自分のことが好きではなかった。ひなた荘に来る前のこと、全て無くしてしまいたいと思うほどに、自分のことが嫌いだった。

 でも、それでも。素子ちゃんは俺のことを好きだと言ってくれた。まっすぐに立ち、間違ったことなど何一つもないと生きる少女が、堂々と口にするその言葉が……いつしか、俺自身の価値観をも、塗り替えていた。信じられていた。

 いつから、だろう。いつから俺は、素子ちゃんのその言葉を信じていたのだろう。俺が好きだという、その言葉を。俺は素子ちゃんが好きになった人間なのだという、認識を。そんな自分なら、俺もまた……好きになれるという、救済を。

 俺は、自分が嫌いだった。けれど今は、こんな自分も悪くはないと思う。

 

「素子ちゃんが、俺を変えてくれた。救ってくれた。俺が好きなのは、素子ちゃんの形じゃない。俺を変えてくれた、素子ちゃんだ」

 可奈子が、目をいっぱいに見開いて、俺を見つめている。俺は子供に一つ一つ物を教えるように、空いている右手を可奈子の後頭部にそっと回した。視線を固定する。

「だから今の俺は、素子ちゃんのものなんだ。素子ちゃんが好きだという想いは、今の俺でいる限り、絶対に消えない」

 それが、どうして、という問いの答えだった。

 数秒、廊下を沈黙が支配する。

 可奈子の瞳で波のように揺れる感情をじっと見据えて、もう一度、口を開いた。

「だから、俺は素子ちゃんを追う。どいてくれ、可奈子」
「……………………いや、です」

 囁いて、可奈子が目を閉じる。その一瞬だけ、妹がまるで泣いているように見えて

「っ!」

 次の瞬間。ありったけの気力を費やして左腕を持ち上げた可奈子が、それでがしりと俺の首筋をロックした。ぐいと体重を掛けられ、額同士がごつんと接触する。痛みはなかった。それよりも、なによりも、すぐ目の前にある可奈子の瞳が、泣いてばかりいた昔に戻ったように思えた。

「私も……そうです」
「え……」

 刀を下げた俺の左手首を右手で掴み、右腕で後頭部を押さえつけられ、左腕で首を固定し、額に額を押し付けて。二人とも首すら動かせない体勢で、妹が

 自分も同じなのだと、告白した。

「貴方が私を変えてしまった。貴方とさえ出逢わなければ、私はこうして苦しむこともなかった。希望も願望もありはしない、そうなるべき運命を、貴方が崩してしまったんです。貴方にとっての素子さんが、私にとっての貴方なんです……!」
「な……い、つ?」
「十と二年前。貴方と出逢えたその時から」

 …………知らなかった。

 可奈子が引き取られた当時のことは、もうよく思い出せない。おぼろげに旅館の印象がある程度。けれど可奈子にとっては、それが発端であり全てだったのだ。俺が素子ちゃんによって変われたように。可奈子も、また

「私もそうです。貴方と同じ人が現れても心動かされはしない。私は、私を壊してしまったお兄ちゃんでなきゃ駄目なんです」
「…………」
「先刻の言葉を借りるなら……私は、貴方の、ものです」

 だから、通さない。

 それは、俺が素子ちゃんを追うのと、全く同じ理由と次元で。

 その気持ちが、痛いほどに理解できてしまった。当たり前だ。俺も今まさに、全く同じ動機を抱いて、行動しようとしているのだから。理解できないはずがない。

 俺達兄妹は、どうしてこんなところばかり似ているのだろう。

「全く等価の理由です。私が譲る理屈はありません」
「……ああ」
「そうした場合この世界では、力で以って押し通るのが流儀です。この刀で、私を斬り伏せますか」
「だめだ……できない。お前は、妹なんだ。妹を傷つける兄が、何処にいるっていうんだ」
「流儀です。貴方の求める素子さんが、居るべき世界の流儀です。私は」

 そこで、一度、言葉を切り

 妹は……目の端を涙で滲ませて、囁いた。

「私は……貴方に、そんな世界に触れてほしくない。貴方には陽の当たる場所で笑っていてほしい。そのためならいくらでも血泥を被れる。汚れたこの身と付け焼刃の願望では資格がないのだとしても……私はせめて、唯一自由に出きる死を、貴方のために使いたい」
「――――――」
「死ねと、言ってください。そうすれば私は、貴方の居ないあの場所で、幽霊となって貴方を守れる……今までのように、これからもずっと」

 ……それは

 それがきっと、浦島可奈子という人間の根幹を為す、告白であり懇願なのだと直感した。

 俺には、その言葉の意味が半分も分からない。生と死に答えを出さねばいけない場所。あんな気の弱い妹に、こんな告白をさせる場所。実感が湧かない。それがつまり、素子ちゃんや可奈子の生きる世界と、俺の生きてきた世界の違いなのだろう。

 だけど、分かることもある。

『今までのように、これからもずっと』

 それは……それは、可奈子がずっと、そんな世界から、俺を守っていてくれたのだという事実を示す言葉。

 俺自身すら知らない場所で、ずっと、ずっと。

「……ありがとう」
「あ……」

 ぎゅうと、可奈子を抱きしめた。元から締め合っているような体勢だけど、抱くような力の質に変わる。くたりと可奈子の体から固さが抜けて、俺の肩に額を押しつける姿勢に変化した。

「今まで、ありがとう。ずっとずっと守ってくれて。俺は、お前が妹であることを、誇りに思う」
「――――――!」

『私は、貴方の妹であることを誇りに思います』

「でも、大丈夫だ。俺ももう、昔の俺じゃない。どんな道を歩こうと、後悔はしない。それに……しのぶちゃんと、約束したんだ」
「…………」
「俺は、必ず、戻ってくるって」

 素子ちゃんを捜して、日本中を巡って。そうして彼女を見つけたら、向こうで一緒になる。

 そうする覚悟はある。そうなったとしても後悔はしない。だからこの約束は守られない可能性もある。

 けれど、それでも。約束を交わすことに意味はある。守られないかもしれない、忘れ去られるかもしれない。けれど人には、約束することが必要なんだ。未来を知ることのできない人間は、その暗闇を約束で埋めて明日に向かう。信じて、進む。

 今、一歩を進むために、明日の約束を交わす。それは制約という枷ではない。誓約という、人との絆。

 …………

 可奈子が、俺の肩に顔を当てたまま、ぽつりと呟いたのは。そのまま一分も経ってからだった。

「…………」
「…………」
「結局……私は、お兄ちゃんには勝てないんですね……どんな時でも私は……そういうふうに、できている」
「可奈子……」

 するりと、可奈子が一切の拘束を解いた。俺が後頭部に回していた左手からもあっさりと抜けて、可奈子が下がる。半分破けた服、ぐったりとした体に蒼白な顔色。そして俺よりも頭一つは低い背丈。一瞬前まで抱きしめていたから、余計にその小柄な体躯がわかってしまって。

 こんな小さな体で、どれだけの夜を越えてきたというのだろう。実感は未だにできない。できると、安易に言ってはいけない。俺はやはり、陽の当たる場所を生きてきた、生かされてきた。俺はそれすら知らなかった。無知は罪だろうか。願いを裏切るのは罪だろうか。

 可奈子が、右手でポケットから小箱を取り出した。見覚えがある。自分自身で購入したものだ、忘れようがない。昨日の昼に、可奈子に取り上げられたままだった、指輪の箱。

「返します。悔しいですけれど……これは、私のものではありません」
「……ありがとう」
「行ってください。怒鳴りつけてやってください。あの女は、全てが間違いだったと決め付けて出て行った。それだけは正さないといけない。そんな結論は許せない。だから……今だけは、道を開けます。気をつけてください。此処から先は……無力が罪となる世界です」
「ああ」

 もしも素子ちゃんと出逢っていなかったら

 俺は可奈子の願う通り、こちら側に留まっていたのかもしれない。

 でも、俺は変わった。素子ちゃんに救われた。その変化はもう消しようがないし、消したくはない。

 そうして、全てを認めていく強さと優しさも、俺は彼女から教えてもらっているはずだから。

「兄さん」
「うん」
「もしも私が……素子さんと同じように、貴方に一言も残さず、ひなた荘から出て行ったら……お兄ちゃんは」
「探しに行く。見つかるまで探す。当たり前だろ、妹なんだから。たとえこんな風に素子ちゃんが止めたって、俺は行くからな」

 指輪の小箱を、受け取り

 階段の入り口で、すれ違いざまに

 可奈子と、そんな、誓約を交わした。

『ですから、占いです。素子さん、今貴女が直面している事態は、私にいずれ訪れる選択と同種のものなのです』

『お前も……そうなのだな。浦島のおかげで、幸せだったのだな』

「兄さん!」

 階段の、一段目に足を掛けたところで、可奈子が後ろから呼び止めた。今度のそれは阻止ではなく、母親が我が子を心配するような響きがあった。

「武器は……要りますか? ナイフから銃器まで、対戦車以下なら用途に合わせて一通りは準備できますが」
「いや、いいよ。戦争に行くんじゃない。それに俺には、素子ちゃんから預かっているコレがある」
「なら、せめて話だけはさせてください。情報は力になります」

 妹に、年下の少女に、まるで母親のように心配される。けれどそれも当然だろう。これから行く場所では、可奈子の方が先輩だ。俺はずっとぬるま湯の中で生きてきた。それでも、行かなきゃならない。そのために必要ならば、可奈子の言葉は全て受け入れるつもりだった。

 だけど、それでも、可奈子の言い出したことには、驚いた。

「青山素子は……尼になりました」
「……へ?」
「これから話すのは、青山素子が陥った、私が知る限りの事柄です。外道の事情であることを踏まえて……聞いて力にしてください」


 ……結局、私は勝てなかった

 あの人に、ではない。元より私は、あの人に勝てるようにはできていない。

 真正面から見つめられれば、膝が折れる。息吹を感じれば、心臓が乱れる。肌に触れたならば、何もかもがどうでもよくなる。声を掛けられたのなら、心の壁が全て崩れ去る。

 後ろから刺すことは、できるかもしれない。けれど、それだけだ。あの人の命を奪うことはできても、あの人の意志を折ることはできない。私は、どう足掻いてもあの人には勝てない。それは、わかっていたことだ。

 ……勝てなかったのは、自分にだ。

『もしも私が……素子さんと同じように、貴方に一言も残さず、ひなた荘から出て行ったら……お兄ちゃんは』

 あの問い掛けは、違うはずだった。本当に全ての勝負を賭けるのなら。あの時私は、こう言うべきだったのだ。

『貴方が行くというのなら……私は、死にます』

 そうすれば、はっきりする。

 あの人にとって、浦島可奈子と、青山素子と、どちらが大切なのか。それで全てはっきりする。

 ……でも、私には言えなかった。

 もしも、それでもあの人が、行ったのなら

 死ねと言われたら、私は死のう。元よりそれが本領だ。私の命は生きるためではなく、死を使うためにある。私がこの死を使いきるまで、あの人を闇から守れたのなら、それで意味は充分だ。私は、在るべき姿に戻り、この狂気から開放される。

 あの人に貰った、幸せに生きるという、分不相応な願望は……それで、全て消え去るのだ。

 私は……勝てなかった。その恐怖に、結局、勝てなかった。

『貴方が行くというのなら……私は、死にます』

 あの時、そう言えば、全ての決着はついていた。歪な価値観を備えた私か、それでもなおあの人が振り向いてくれない痛苦の、少なくともどちらかは、それで消えていた。

 でも、それが、怖くて。怖くて怖くてたまらなくて。その恐怖すら、あの人から貰った願望が、生み出しているものだとわかっていたけれど。結局私は、恐怖に勝つことができなかった。

 そして、代わり、私が聞いたのは。両立が可能な『逃げ』の問い掛けだった。

『もしも私が……素子さんと同じように、貴方に一言も残さず、ひなた荘から出て行ったら……お兄ちゃんは』

 ……けれど、もう結果は出ていたのかもしれない。

 その返答を、私は予想していたし、言ってしまえば期待もしていた。青山素子に今回突きつけられた選択は、いずれ私も選ばなければいけない種類のものだ。浦島流として闇を駆けるか、ただの女として兄の傍にいるか。どちらも選択できなかったのなら、青山素子のようにどちらでもない存在として、此処を去るかもしれない。

 そうなったら、そうなったとしても、貴方は

『探しに行く。見つかるまで探す。当たり前だろ、妹なんだから。たとえこんな風に素子ちゃんが止めたって、俺は行くからな』

 その返答は、些細な慰めだった。いずれ訪れるかもしれない未来への恐怖に、耐えるため必要な慰めだった。

 故にそれは、誓約。

 でも、兄がそう答えてくれたのは。一瞬の迷いもなく、そう答えてくれたのは

 その、強さと、優しさと、気高さは……あの人が言う通り、青山素子の、影響なのかもしれない。

『俺は、自分が嫌いだった。でも今は、こんな自分も悪くないと思う。それを教えてくれたのは、素子ちゃんなんだ』

 けれど、それでも、あの人は私のお兄ちゃんだった。

 私がずっと抱いてきた姿と違っても、たとえ他の誰かのものであろうとも、私を変えてしまったあの人に代わりは居ないのだ……







「オーッス、ケータロー!」
「スゥちゃんっ……!」

 ひなた荘の入り口を飛び出し、そのまま前庭を抜けて石段を降りようとしたところで、上からスゥちゃんの声が降ってきた。

 一瞬の時間も惜しかったけれど、反射的に振り向いた俺のところに、石みたいなものが飛んでくる。受け止められたら格好良かったんだろうけど、額にごつんと当たって跳ね返ったものをなんとかキャッチした。痛い。

「アイタタタ……えと、なんだこれ。ドラ○ンレーダー?」
「なんや急いどるみたいやから先に渡しとくわ。写っとる光点がモトコの居場所やでー」
「素子ちゃんの!?」
「発信機受け取ってくれへんかったから、打ち上げたドローンと連動させなあかんけどな。流石に高度二千mからの監視はわからへんやろ」

 玄関屋根の上にちょこんと乗って、スゥちゃんがカタカタとノートパソコン(のようなもの)を叩いている。詳しい原理はわからないけれど、俺の手にしたレーダーには確かに、小さな光点があった。中心からの距離が、俺と素子ちゃんの距離。

「ありがとう、スゥちゃん!」
「なーケータロ」
「大丈夫、戻ってくるよ。しのぶちゃんとも約束した」
「うおー!? ウチの言うこと何もあらへんやんか。恨むでシノムーっ」
「じゃ、行ってくる!」

 俺は再度、駆け出す。左手にはしのぶちゃんから託された刀を、右手にはスゥちゃんから借り受けたレーダーを

 胸には、可奈子に教えられたことによって芽生えた、怒りと悲しみを

 俺は……!






 私は

 海辺を一人、ゆっくりと歩いていた。

 ザア、ザアと。規則正しく繰り返す、波の音が耳に心地良い。波に合わせて、ゆっくりと進む。

 行く当てはない。それは姉上や可奈子に話した通りだ。だからこうして砂浜を歩いているのも、大して意味はない。ただ気の向くままに歩いてきて、この場所に辿り着いた。

 何もない場所。もう二ヶ月もしたら、海水浴客で賑わうだろう海辺も、今は人影がなかった。誰も居ない、何もない。まるで今の私のようだと、埒もないことを思った。

 今日は風が弱く、海は凪いでいる。私の心もまた、ひどく静かなものだった。昨日までの、思い悩むばかりだった自分が、まるで嘘のように。格好ばかりではあったが、悟りの一つでも開けたのではないかと錯覚してしまう。

 ……いや、当たり前か。

 そもそも今の私は、心惑わすようなものを何も持ち合わせていないのだから……心静かなのも、当然だ。

 姉上に敗れた。

 神鳴の使命を放棄した。

 ひなた荘を去った。

 東大には合格できなかった。

 浦島と……もう、二度と逢うことはない。

 私は全てを失った。


「…………」

 さく、さくと、砂浜に足跡を残しながら歩いていく。打ち寄せる波が、その跡を消していく。

 海は何処までも続いている。空は何処までも繋がっている。水平線の上に昇った太陽が、その広大を静かに照らし出している。

 私が全てを失おうと、世界は変わらず在り続けている。

 であるならば、私が全てを失ったのも……些細なことだと言えるのだろう。

 まるで、他人事のようにそう思う。実際、昨日までのことがまるで夢の中の出来事だったように。今の私には実感が沸かなかった。

 それで、良いだろう。そういう、ものなのだろう。

 そうして、いつか。

 神鳴のことも、浦島のことも、全て……過ぎたこととして、思える日が来るのだろう。

 いつかは


「…………」



 いつか

 いつかは。

 その、いつかは。


「素子ちゃん!」
「……浦島」






 その、いつかは

 本当に、訪れるものだったのだろうか

 訪れたとして、私はその自分に、納得できただろうか

 今となっては、わからない。

 …………



「やっと、追いついた……!」
「……どうして」


 男が、私の後方十歩の位置で、息を切らせながら立ち止まった。

 私は、男の前方十歩の位置で、背中を向けたまま立ち止まった。

 何処とも知れない、浜辺で

 二度と逢わないはずの私達は

 再会した。

 もう、全て、終わったはずだった。

 初めから間違いだったことは当たり前に打ち切られ、次こそ正しい物語が始まるはずだった。

 そこに私は居ないし、居てはいけない。

 間違っても……終わったものが再開するなど、あってはいけないのだ。

 一体、それを為す、それが許される、どんな理由があるというのだ。

 初めから、間違っていたというのに

「どうして、は、こっちの台詞だ……!」
「…………」
「どうして、俺に何も言わずに、出て行ったりしたんだ! 素子ちゃん!」

 その声音は、燃えるほどの熱を帯び

 その声音は、ただただ懐かしく

 どうして、どうして。

 浦島に顔を見せずにひなた荘を出て行ったのは、会ってしまうのが怖かったからだ。決意が……否、諦念が崩れてしまいそうで怖かったからだ。

 その身に、死を運ぶしかできない女が。間違って付き合っていた女が、どういう顔をすれば良いというのか。

 だから、この再会も無かったことにするしか、私には出来ず。砂を草鞋で蹴って、歩き始める。早足

 浦島も走り出す。走り出しながら、声

「待て、素子ちゃん!」
「…………」
「逃げるのか!」

 逃げた結果がこれなのだ。選ばなくてはいけない瞬間に逃げたからこそ、私はこうして全てを失った。

 今の私は逃げているのですらない。ただ終わっているだけだ。

 もう、昨日までの青山素子はいないのだ。

 ……だから、逃げるのか、などという罵声を浴びせないでくれ。

 いつか、と言えるだけの時間が過ぎた後になら、きっと心静かで居られたのに。何時とも知れぬ『いつか』を……今の私は持ち合わせていない。

 早足で、歩く。どんな顔をすればいいのか、どうすればいいのか、わからないままに。

 浦島が、駆け足でぐんぐんと間を縮め、私の肩に腕を伸ば

 突

「が……っ!」
「…………」

 手が、私の肩を掴もうとする寸前

 私が反転すると同時に突き出した錫杖が、男の左胸に捻じ込まれていた。

 腕に、伝わる、鈍い手ごたえで、肋骨にひびが入ったのだと、確信できた。凄まじい激痛だと実感できた。

 私の心が、電撃に打たれた時以上の、悲痛な絶叫を上げた。

 ひぎ、ああ、あ、あ、あ……!

「…………」

 錫杖を引き戻す。つっかえ棒が取れたように、男がその場に崩れ落ちた。即座に背を向けて、早足を再開する。

 笠で、視線は合わなかった。合わせずに済んだ。それだけがマシだと言えた。これで浦島はもう来ない。これが完全な決別だ。それが哀しいのか正しいのかすらわからなくて、心はただ絶叫し続ける。あ、あ、あ

 あらゆる思考と感情が混ざり合って、私の脳裏はぐちゃぐちゃだった。ただ、歩みを進める。早足で、少しでも遠くに離れる。今度こそ終わった。最悪だった。こんな別れこそを私は避けたのに。せめて最後だけは綺麗に終わらせたかったのに

 どうして、浦島は

「……どうして」

 ぴたりと、足を止める。

 どさ、と、そこそこ重量のあるものが浜辺に投げ出される音がした。かすかに鍔鳴りがした。砂を踏みしめる音がした。

 十歩後方で、男の、声が聞こえた。

「……怒ったぞ……」

 その、男の、そんな、声を

 私は初めて耳にした。その男が、そんな行為へ走るのに、私は初めて遭遇した。信じられない。信じられなかった。驚愕のあまり、振り返ってしまう。そこには

 鞘と止水を投げ捨てて、抜き身の妖刀ひなを手に、怒りに顔を真っ赤にさせ、こちらに駆け出してくる浦島景太郎の姿があった。

 雄叫び

「俺は怒ったぞ! 素子ちゃん!」

 間合い

 浦島が、私に対して本気の怒りを露にしたことはない。

 ただの一度もない。

 そもそも、浦島が穏やかな気性の人間である、という要素はとても大きいのだろう。刹那の交錯よりも穏やかな日々に幸福を憶え、人に合わせて和を保つ。惚れた弱みがあるとはいえ、私達のような人間が容易くたしなめられるのは、奴自身の家族からして奇人変人だからだろうと気付いて少し落ち込んだこともある。

 だが、れっきとした人間である以上、そういった感情は必ず持ち合わせているはずだし、現に。浦島が、なる先輩と激しく言い争う姿を、私は幾度か目撃している。

 付き合う、前の話だ。

 浦島が、私に対して本気の怒りを露にしたことはない。ただの一度も。あれだけ酷い修羅場を幾度も越えてきて。私は浦島に対して何度も怒りをぶつけてきて。更に多くの場合、非が私にあったことを考えれば、それは異常だ。

 浦島は、いつでも優しかったと、今更のように気付く。

 付き合う、前から。浦島が声を荒げることはあっても、その態度はいつも、家族を気遣う保護者のものだった。

 浦島は、いつでも、年下の少女に対するよう、私には優しかった。

 仮にも恋人という間柄であったことを考えるのなら……それは、どうなのだろう。

 そもそも住むべき場所が相反するのだとしても。為すべき道理が違うのだとしても。それさえ失って、こうして身一つで向き合った時。私は浦島にたいして、対等に立ってさえいなかったのだと……今更のように、気付かされた。

 そして、今

 打

「ぐ……っ!」

 間合いが接した瞬間。浦島が手にした刀を振り下ろすよりも遥かに早く、私が一歩踏み出して薙いだ錫杖の柄が、男の胴に深々と食いこんだ。

 反射的に振るおうとした神鳴の業は、昨夜雷撃の記憶によって封じられた。故にその一撃は練気を帯びず、技も何もなく最短を貫くものとなった。

 激痛のはずだ。浦島の体がぐらりと揺らぐ。だが、堪えた。

 悲鳴

「この……程度でっ!」

 砂を踏みしめ、力任せに刀を横薙ぎ。私はゆらと、上半身を仰け反らせることで、胸を狙ったそれをかわした。生じた隙捻じ込むよう、下に残した錫杖を跳ね上げる。左腕を痛烈に打った。骨に響いた感触。

 悲鳴

「この程度で……!」

 顔を苦悶に歪めながら、浦島は得物を手放さない。がむしゃらに振り下ろしてくる刀に、鏡合わせの軌道で錫杖を衝突させた。切り落とし。横腹を叩かれて黒刀は剣筋を逸らされる。錫杖はそのまま振り下ろされ、がつんと浦島の頭部を打った。

 悲鳴

「ぐっ……く!」

 それでも浦島は得物も意識も手放さず、戦意を失わない。砂に先端を埋めてしまった刀を引き抜き、振り上げようとして

 その、隙だらけの五体を私は、錫杖で打って打って打った。腹、胴、肩。全てにみしりと、鈍い手応え。悲鳴

 今度こそひとたまりもなく、吹き飛ばされるように、浦島が倒れる。どさりと、砂が散った。

 それでも

「……な、め、るなっ!」
「――――――」

 黒刀を杖代わりにして

 浦島が立ち上がる。

 その身は既に傷だらけで、出血こそ少ないものの動くことすら辛いだろうに。立ち上がることすらやっとだろうに

 その目は、怒りに燃えている。折れることのない怒りに燃えていた。

 ……どうして

 どうして……!

「舐めるな……! 俺がこの程度で、諦めると思ったのか! 素子ちゃん!」

 いくら私が神鳴の技を失おうと、浦島が私に太刀打ちできるわけがない。元より、殺し合うために積み重ねてきた時間と密度が違うのだ。

 それは、浦島もわかっていたはずだった。これだけ幾度も一方的に打たれていれば、わからないはずもない。 いや、私と過ごした時間の密度を考えるなら、戦闘の有利不利など百も承知のはずだ。

 なのに、どうして

 その身を打つ衝撃と痛苦は、耐え難いものだろう。浦島が、肉体的な苦痛に体を慣らすような訓練を経験しているはずがない。そんな環境を経てきたにしては、あの男は優しすぎる。

 なのに、どうして

 どうして退かない、どうして諦めない、どうして追ってきた、どうして倒れない、どうしてどうしてどうしてどうして

 悲鳴

 男の体を、一度打つたびに。私の心は、引き裂かれんばかりに悲鳴を上げる。

 その痛苦は浦島の万分の一だったことだが、幾度目かの殴打と悲鳴を繰り返した末に、私はとうとう耐え切れなくなって――――泣き言を、吐いてしまった。言葉を、交わしてしまった。

 ……どうして

 どうして、と



「どうして……っ」
「どうして、は、こっちの台詞だ!!」

 乱打乱打乱打

 防戦、金属音金属音

「どうして、俺に。何も言わず出て行ったんだ!」

 遭ってしまえば絶対に、こんな思いをするとわかっていたから。

 悲鳴、悲鳴悲鳴悲鳴悲鳴限界

「なにも……!」

 ぱさりと、笠が落ちる。

 絶叫

「貴様は何も知らないくせに!」
「がっ……!」

 反撃、殴打、掌打。全弾命中。

 たまらず、血を吐きながら浦島が倒れる。私は更に得物を振りかぶった。

「貴様は! 私の事情を何も知らなかったくせに! 私を狂わせるだけ狂わせておいて! 貴様に何が分かるんだ! 今更!」
「……なら!」

 倒れた相手へ力任せに叩きつけられる錫杖を、倒れたままの浦島が黒刀で凌ぐ。金属音、金属音。

 三撃目の隙に、浦島は横転して抜け出した。錫杖が砂浜を叩く。全身砂まみれになりながら、男が立ち上がった。

「なら! どうして話さなかったんだっ!」
「……っ!」

 斬撃、受止、鍔競

「神鳴流の事情のこと! 神前仕合のこと! 素子ちゃんから話してくれていたら、俺はもっと何かが出来た! せめて一緒に悩むことは出来たはずだ!」

 私は浦島に話すことが出来なかった。

 いずれ別れなければならないと、こんな私に、どうして言うことができただろう。

「ふざ……けるな!」

 足腰の強靱にものを言わせ、強引に浦島を弾き飛ばして鍔競りを振り解いた。得物を振るうに足る間合い。即

「貴様はただの人間だろうが!」
「がっ……!」
「幸せになるべく生きる人間が! そんなことを聞いてどうする! どうやって私の事情を理解できるというんだ! 元から住む世界が違ったのだと……どうしてわからない!」

 絶叫と共に、最早理もなく振り回した錫杖が、男の側頭部をしたたかに打った。鈍い感触と悲鳴。ぐらりと浦島の体が倒れかかる。だが、耐えた。

 体勢を立て直して、こちらを睨む、浦島の顔は。頭部から流れる血で真っ赤に染まっていた。

「舐めるなと……言った!」

 砂浜を思い切り蹴って、突進しながら浦島が刺突。見切り。私は体を反転させてすれ違いざま、相手の側頭部に肘を叩き込む。

 びしゃりと、血がしぶいて、私の頬に散った。

 共に、動きが止まる。

「素子ちゃんの、その事情で……その程度で、諦めると思われたことが」
「…………」
「何よりそれが……悔しいし、腹が立ったんだ」

 叩き込んだ肘越しに、私と浦島の視線が真っ向から交差した。既に、視線を遮る笠はない。

 朱に染まった形相の中で、ただ真っ直ぐな目が、私の魂を捉える。

 ……ああ

 その瞬間、私が頑なに張り巡らせていた理屈の防壁が、残らず崩れ落ちて

 決して言うべきではない言葉を、終わった身では口にする権利などないことを……言ってしまっていた。

「……すまない」
「……うん」

 そして

 満足そうに、血塗れの形相とはかけ離れた穏やかさで、浦島は微笑んで

 ぱたりと倒れ、意識を失った。



 …………

 …………

 …………


 全て、終わったはずだった。

 全て、失ったはずだった。

 なら、この邂逅はなんなのだろう。何の意味が、あるのだろう。

 あれから

 意識を失った浦島を、介抱するため近くの東屋に運んだ。海を一望できる岬の突端に設けられた、雨除けに木のベンチ。その一つに浦島を横たわらせ、私はそっと膝枕をした。浦島は、穏やかな寝顔を見せている。

 浦島が負った数々の怪我は、血を拭って布を当てて、応急で手当てを行っておいた。思ったよりも傷は浅く、浦島の頑丈に感謝する。当たり所が悪ければ、死んでいてもおかしくはない殴り合いだった。

 ……また、か。

 やはり私は、浦島のような常人にとって、死を運ぶ存在でしかないのだろう。

 事実は、変わっていない。互いの世界の隔絶は、何も変わっていない。

 私が行動として為すべきは、今すぐ錫杖と荷物を掴み、浦島を置いて立ち去ることなのだろう。

 でも、私は

 潮騒に合わせるように浦島の胸が上下するのを、私はずっと見守っていたけれど。ふと顔を上げて、遠い水平線を眺めてみる。

 深い群青の海と、水色を薄く広げた空が、私の視界と心に、色鮮やかに描き出された。

 気付く。

 つい先程まで、浦島に追いつかれるまで、自分の心から色が失せていたことに気付く。

 世界が広く見えると思った。けれど私に見えていた、浦島の居ない世界は

 ひたすらに灰色の、何の意味も見いだせない世界でしかなかった。

 でも、今は

――――――そもそもからして、間違っていた。

 これが……間違っていることなのだろうか。

 こんな色鮮やかな世界を知ることが、そうして得た思い出の全てが、間違っていると言えるのだろうか。

『素子ちゃんがどんな道を選ぶにしても、素子ちゃんが越えてきた日々は絶対に無駄じゃない。それだけは……信じてほしい 』

 

 ……今更、だな。

 私は、もう謝ってしまっていた。

『……すまない』
『……うん』

 浦島に、何も言わずにひなた荘を出て行ったこと。

 出て行かざるを得ない事情と必然を、今まで浦島に打ち明けようとしなかったこと。

 そして……全てが間違いだったと、断じたことを

 謝罪した。

 それこそが間違いだったと、認めたのだ。

 けれど

 今更、事実は変わらない。もう全てが終わったという事実は変わらない。あらゆる道を私が失ったと言う事実は変わらない。私は神鳴を去った人間だし、私は浦島に死を運ぶしかできない女だ。

 もう、全て終わったのだ。

 でも

 ならばどうして、世界に色が戻ったのだろう。

 ならばどうして、私たちは此処にいるのだろう。

 そうして、そんなことを考えていた私は

「素子……ちゃん」

 目を開けながら、寝惚け眼でそう口にした浦島に

「……なんだ、浦島」

 私は自然に答えていた。







 ひどい、夢を見ていた。

 一番大切な人が、目が覚めたらいなくなっている。そんな夢だった。目を開けた瞬間から始まって、泣いて叫んでその人を探しても現実が変わらない。そのうちにこれは夢だと気付いて、安堵と共に目を開けたら、大切な人がいなくなっている。延々と、その繰り返しだった。

 大切な人の名前を呼ぼうとして、だけど呼んでしまって応えがなかったら、その時こそトドメを刺されてしまうような気がして。俺はその人の名を忘れたように、ただ夢の中をさまよい続けた。それが事実だと、知っていたから。彼女がいなくなったのが、事実だと知っていたから……俺は目を覚ませなかった。

 でも

 彼女の、声が聞こえたような気がした。

 彼女の、手が触れたような気がした。

 何より、彼女の在り方を、感じられた。

 まっすぐに立ち、間違ったことなど何一つもないと生きる少女の姿が、この胸の中に。

 その残像と思い出を足場にして、俺は彼女の名前を呼んだ。

「素子……ちゃん」
「……なんだ、浦島」

 俺は此処にいる。

 君が其処にいて、良かった。

 目を覚まして、素子ちゃんの膝枕を辞して、最初にしたのは彼女に謝ることだった。

「ごめん、素子ちゃん。いきなり斬りかかったりして、本当にごめん」
「う、浦島。わかったから土下座は止めてくれ。それより傷は大丈夫なのか?」

 その場にきちんと正座して、深々と頭を下げた俺を、素子ちゃんが少し慌てたように止めた。確かに記憶を失う前は、血塗れになって打ち合っていたのだから心配ももっともだろうけど。

「大丈夫、少し痛いところが残ってるぐらいだから。ほら、俺不死身だし」
「前から思っていたのだが、どうしてお前は不死身なんだ? 母に殴られ続けていたというだけでは説明が付かないぞ」
「さあ、わからない。けれど、そのおかげで素子ちゃんと今此処にいられるのなら。俺は自分がそういう体質であることを感謝こそすれ厭んだりはしない」
「お前は……」

――――――それが無駄だったとは絶対に思わないと誓えるよ。未来永劫、このひなた荘での思い出がある限り

 この体質にどんな理由があろうとも、そのせいで未来にどんな苦難を追うことになろうとも、今この瞬間の感謝を忘れない。そのおかげで、俺は素子ちゃんを止めることができた。

 しのぶちゃんや、可奈子や、スゥちゃんのおかげで、素子ちゃんに追いつけたように。手助けしてくれた全てに心から感謝しよう。俺はきっと恵まれている。

 そして、後は、俺が全力を尽くす番だ。

 応援してくれたみんなのために。俺自身の救いがために。そして彼女の幸せを望むが故に。

 顔を上げて、素子ちゃんをじっと見て、言う。

「だけど素子ちゃんに言ったことは、何も間違っていないから謝らない」
「…………」
「俺も悪かった。何も知ろうとせず、助言にすら乗れなかった。だからといってこんな風に、黙って出て行って良い理由にはならない」

 それはある種の傲慢なのだと想う。

 本来ならば、素子ちゃんがどうするかは素子ちゃん自身が決めるべき問題でしかない。一人前の生命にはそういう義務と権利がある。それを認めないのは子供扱いだ。そして俺にとって素子ちゃんは、年下の少女ではあるけれど、俺にとっては理想とさえ言える気高さを持った人間だった。

 だから、素子ちゃんが間違っていると言うのは、俺の我侭なのだ。共に居たいという、我侭が根本的な動機なのだ。これが傲慢でなくてなんなのだろう。

 でも

「……そう、だな。その通りだ、浦島」
「素子ちゃん」
「すまんな。迷惑と心配を……かけた。私はもう少し、浦島に相談すべきだったのだろうな」
「……何を言われたって、迷惑なんかじゃなかった」
「私はな……浦島」

 つ、と素子ちゃんが、脇に置かれた妖刀ひなの鞘をなぞった。その瞳は、遠いものを見るように細められている。

「この剣が、命を容易に奪えるものだから……いつしか、心さえも容易く変わるものだと……思うようになっていたのだろうな」
「…………」
「怖かった。この日々が、この関係が失われる『いつか』が。今まで得たことのないものだったから、殊更に。人間がどうすれば死ぬのか、命が失われればどうなるのかは、幼い頃から骨身に叩き込まれてきたから、特に恐ろしくはないのだがな……」
「そう……だったんだ」
「浦島は、死ぬのが怖いか?」
「……ああ。怖い」

 一瞬、返答に迷ったけれど、結局正直に答えた。いつかこの命が失われる時を、回り全ての関係が終わってしまう時のことを思う。それは恐ろしい想像だった。人間が当たり前に抱く、根源の恐怖。

 だけれども、素子ちゃんは

「私はな、怖くないんだ。この身命は流派の一部。使命を果たすための道具に過ぎぬ。そう教えられて生きてきたし、神鳴の者にはそれが当然だ。無論、私もそう……信じていた」
「……そっか」
「剣は折れぬ、だが命は尽きる。私達の命は、生きるためにあるのではない。効率的に死ぬためにある」
「可奈子も……言ってたな」

――――死ねと、言ってください。そうすれば私は、貴方の居ないあの場所で、無敵となって貴方を守れる

 世界が違うとは、そういうことなのだろう。俺が当たり前と考えている生きるという行為が、素子ちゃんの側では何時か尽きるものであり。俺達が常に逃れようとするとする死というものが、当然のように横行しているという価値観。

 俺にとって、生とは在って当然のものであり

 素子ちゃんにとって、死とは当たり前に訪れるものだった。

「……けれど、私は。お前の死が恐ろしくてたまらない」
「え……」
「自身は元より、天寿を全うできるとは思っていない。死ぬのも特には怖くない。だが、そんな私といれば確実に死期が早まる。私はお前にとって死神にも等しい存在だ」
「そんなこと……っ」
「それでも、それでも。意志さえ在ればどうにかなると思っていた。これまでのように、私が浦島を守ることができるのなら、きっとその運命をも覆せると」
「……素子ちゃん……」
「だけど私の意志などというものは無力だった。何も知らない小娘だった。私は東大に落第した。お前を守るのと同じだけの意気で、挑んだ結果がこのざまだ」
「…………」
「それこそ、私がお前の前から去った、根本の理由だ。私は怖かった。何時か必ず終わりが訪れることが、それを絶対に覆せないことが、お前を殺してしまうことが、それら全てが恐ろしかった。元より世界が違うのだ。私には、お前と共にいる資格はない」

 ……そこまで一息で語り終えてから、素子ちゃんは小さく息をついた。それは深い深い、胸の内に溜め込んだもの全て吐き出すような嘆息だった。

 彼女の命は、生を謳歌するのではなく、死を進むためにあり

 その在り方と環境に、俺という常人を巻き込むことを避けるため

 俺の前から一言も残さずに去ったのだと、素子ちゃんは言った。

 …………

「素子ちゃん。俺は……覚悟してきたんだ」
「……覚悟?」
「俺は、今まで得た全てを捨てることになったとしても、たとえ死ぬことになったとしても――――素子ちゃんとなら、きっと後悔はしない」

 真っ直ぐに、彼女の目を見て俺がそう言ったとき、自然と心は穏やかだった。

 素子ちゃんの瞳が、信じられないとばかり、大きく見開かれる。

 死ぬのは怖い、やはり怖い。けれどきっと、死よりも大切なことはある。それは――――生きること。

 自分の思うように生きられたのなら、どんな死に方をしたとしても後悔はしない。後悔はしないと、誓おう。青山素子という少女に救われた、この己に賭けて。

 素子ちゃんは

 しばらく目を見開いていたけれど。不意にぎゅっと目を瞑った。

「私は……お前がそう言ってくれるのを、心のどこかで望んでいたのかもしれない……」
「うん」
「それでも、それでも……私は、お前に死んでほしくはないんだ……!」
「素子ちゃん……」
「お前の不死身が真実なら良いと……願わずにはいられない。お前が死ぬと考えただけで、死にたくなる。私はどんな世界であろうと、お前の死ぬところなど見たくはないんだ……!」
「それが……素子ちゃんの傲慢なんだね」
「ああ」

 俺が素子ちゃんの意志を無視し、こうして追い縋って止めたように

 素子ちゃんは俺がどんな覚悟を決めてこようと関係なく、俺の死ぬ姿を見たくないと言う。

 彼女は目をぎゅっと瞑って、怒られるのを待つ子供のように、ぶるぶると震えてさえいた。

 くすりと、笑う。ひどく場違いなことだけど、自然に笑いが漏れた。

「そうだね。それは少し……困ったな」
「……!」

 びくりと、素子ちゃんが震える。俺は神妙な口調で、そのまま続けた。

「死ぬ時は老衰で、素子ちゃんに看取ってもらうつもりなんだけどなあ。少し困る」
「…………」
「…………」
「…………なんだと?」

 意味が掴めないという表情で、素子ちゃんが口と目を開けて俺を見た。それで気付いただろう俺の顔が真っ赤になっていることに。

 顔が、熱い。

 それは恥ずかしさのせいだった。聞き返してしまった素子ちゃんに、もう少し回りくどく伝える。

「俺は、昨日までの日々がずっと続くと思っていた。素子ちゃんの事情を知ろうともしなかった。俺は努力を怠った。だから素子ちゃんの一番大事な瞬間に、手を貸すことすらできなかった。認めよう、俺は愚かだった。だけどそんな愚かはもう二度と繰り返さない。何より俺は、幸福な日々の素晴らしさと儚さを思い知った。それは全てを賭けるに値すると、今の俺は知っている。君が終わったと言うのなら、此処から新たに始めよう。そこが何処だろうが構わない。日向だろうが闇夜だろうが知ったことか。俺は君となら、何処でだって幸せになってやるぞ」

―――――――

 不思議と心は穏やかで、だけど体はひどく熱かった。奇妙な興奮状態。口をぱくぱくとさせる素子ちゃんが、ひどく可愛かった。

 もう一度、今度はわかりやすく伝えるために。俺は小箱をポケットから取り出して、中の指輪を差し出す。

「俺は君とずっと一緒にいたい。結婚しよう、素子ちゃん」

 その日、浦島景太郎は、青山素子に、プロポーズした。





「あ……」

 その日、青山素子が、浦島景太郎に、プロポーズされて

「アホーーーーーーーー!」

 発した、第一声がそれだった。

「あ、阿呆って、ひどいよそれは」
「アホだアホだでなければ馬鹿だ。貴様は一体何を言い出すんだ! 何を聞いていたんだ!」
「聞いてたよ。その上で、こうするのが良いと思ったし、こうしたいと思った」
「何が『良い』だ! どういう意味だ。大体、貴様と私とでは世界が違う!」
「それは、言ったよ」

――――――そこが何処だろうが構わない。日向だろうが闇夜だろうが知ったことか。

「そもそも私たちはもう終わったんだ!」
「それも、言った」

――――――君が終わったと言うのなら、此処から新たに始めよう。

「私には……もう何もないんだ! 剣も受験も失った! 私はもう、お前の求める青山素子じゃないんだぞ!」
「……それは」

――――――俺が好きなのは、素子ちゃんの形じゃない。俺を変えてくれた、素子ちゃんだ。

「それは、素子ちゃんが諦めたからだ」
「な、に……」
「素子ちゃんは諦めすぎる。どうしてすぐ、他のものを捨てようとか、二つに一つとか言い出すんだ。他の人ならともかく、素子ちゃんはもっと欲張っても良いと思うよ」
「そ……」

――――――選び、素子

「そんな馬鹿な……!」
「素子ちゃん。ひなた荘に戻りたい?」
「っ!」
「みんなと、まだ一緒にいたい?」
「………………あ、あ」
「お姉さんに怒られて、道場を継げなくなったこと、後悔してる?」
「ああ……」
「東大にもう一度チャレンジして、合格したい?」
「浦島! どうしてそんな意地悪ばかり……っ!」
「すれば、いいじゃないか」
「な……」
「素子ちゃんには、もっと色々な可能性が埋まっているはずだ。それを埋めたままにしておくなんて、勿体ない。もっと頑張っていこうよ、素子ちゃん」
「――――――」

 そうして、ぎゅっと

 青山素子が呆然とした隙に、浦島景太郎は指輪を彼女の手に押しつけた。

 分不相応に指輪など贈られてしまえば……私はきっと、崩壊すると思っていた。

 現状だけでも私は自責に押し潰されそうなのに、証などを受け取ってしまったら、その時こそ私の全ては崩壊するだろう、と。

 私にそんな資格はない。

 浦島に死を運ぶだけの存在であり、その運命を打破するための意志ですら、現実に敗北した。無力は罪だ。そんな私に資格はない。

 ……そう、思っていた。

「う……ぐ……」

 そもそも最初から、このような人間が恋情を抱いたのが間違いだった。浦島に想いの丈を伝えたその時から、全ての間違いが始まった。後はもう、全力で足掻けば足掻くほど、全てが運命のように破滅へとひた走るだけだった。

 ……そう、思っていた。

「ぐ、う……あ……」

 神鳴の理を忘れ、姉上にさえ刃を向けた。私は全てを失って、今度こそ何の価値も持たない存在へ堕ち果てた。

 ……そう、思っていた。

「ひっ……ぐ……」

 全て終わったと、そう思った。

 だけど、だけどそれでも、浦島は私の所に来てくれた。

「うああああああああん……!!」

 感情の堰が決壊して

 私は、泣き叫んだ。その場にへたり込んで、心の底から泣き叫んだ。

――――素子

――――素子さん

――――素子ちゃん

――――モトコー!

――――素子さん

――――素子ちゃん

 ……ああ、私は

 そうだ、私は……幸せだった。

 体面を為すための諦念全て取り払い、魂からの望みを語るのならば、定めるのならば

 何も失いたくはない。

 そのためなら何でもできる。

 全て失って、喪失の恐怖から解き放たれて。それでも尚。

 あの日々を失いたくはないと言える。

 そのためなら絶望さえも越えられる。

 明日、世界が滅びるからどうする、と言われたら

 その破滅を止める。

 

 …………どれだけ、経っただろう。

 潮騒と蝉の声が、どれだけ繰り返しただろう。

 気が済むまで、私は泣いた。気の済むまで、浦島は傍にいてくれた。

 そうして

 鈴の音が、潮騒に紛れて鳴った。

「気は済んだか、素子」

 ぱたぱたと羽ばたく式神を肩に載せながら

 柱の影から、姉上が姿を現した。

「お姉さん……」
「くえー」

 浦島が、どこか悟ったように呟く。式神が合いの手を入れるように鳴いた。

 姉上は、果たして何時からそこにいたのだろう。どうしてこの場所を突き止めることが出来たのだろう。推測することは多分無意味だ。そういう人なのだと納得するしかない。

 それより

「姉上……」

 立ち、上がる。

 その人は東屋の四方を支える柱の一つの前に、まるで彫像のように立ち、私を見ている。

 場所と日の高さこそ違えど、状況は昨日と近似していた。私と浦島と姉上。場に居合わせるのは、この三者。再現されたのは奇跡に近い。

 姉上は既に私には用など無いはずだった。それでもこの場に姿を現してくれたのは、もう一度だけ機会をくれるということだろう。思えば私は姉上に、ずっとずっと気遣われてきた。感謝は山のように。だけど今言うべきは別のことだ。

「……姉上。昨日は申し訳ありませんでした」
「ほ」
「素子ちゃん……」

 姉上が、いささか意外そうな顔をした。そんなことを今更この場で言い出すとは予想外だったのだろう。姉上にとっては既に終わった出来事。刃を向けられることも、ある程度手傷を負うことも、姉上は予想していた。私の未熟から推測していた。だから私には謝られることなど在りはしない。姉上からしてみればそうだろう。

 だけど、私はそれでも謝った。あの無様は、私さえ覚悟を確かにしていれば、防げたものだったからだ。

 そうして本当に、謝るべきことに気付いたのだ。

「姉上の、せっかくの厚意を……無碍に扱ってしまいました」
「……なんの話をしとる」
「一つ、気付きました……姉上は、私の剣の道を封じました。しかしあなたは、浦島と添う道だけは残してくれていた、ということに……」

 その一言で。ほんの少しだけ、姉上の眉が動いたような気がした。

 泣いて、叫んで、気付いたのだ。

 姉上は、私の剣士としての資格を奪おうと。決してひなた荘を去ることを強要したわけではないと。

 それどころか、私の行動は姉上にとって誤算だったのではないのだろうか。私が剣を捨てて、浦島と共にただの女として生きる選択をすると、考えていたのではないだろうか。私が此処まで愚かで、歪みを抱え込んでいるとは思わなかった、姉上の誤算。

 そう思ってみれば、人間のそういった諸々の感情とは無縁に生きてきた姉上が、陥りそうな穴ではあった。姉上ほどの完璧でも、予想外は存在する。神ならぬ身では全てを知ることは不可能であると、そんな理不尽がこの世界では当たり前だ。なればこそ、その一人とでも理解しあえることのなんと素晴らしきことか。

 姉上。私の理想であり、たった一人の肉親。私はずっと姉上に守られてきた。その影に守られてきた。

 この身はただ姉上の模造品に過ぎず、姉上のやり残したことを果たすだけの出来損ないだと、自分を卑下したこともあった。けれどそんなものはただの自傷だった。

 他でもない姉上が、私のことをずっと気遣ってくれていた。それはあの時、姉上と口論の末にひなた荘へ来た後も。

 心を静めて、世界を見回して、あなたの行動を考えれば、声ならぬ声が、ほら。

―――――素子が……妹が、どれか一つでも手にしてくれれば、それで良かったのに

 ……姉上。

 あなたは神ではない。あなたは完璧ではない。そんなことすら、今までの私はわからなかった。あなたとて苦悩する。私はあなたに、全ての苦悩を押し付けてしまっていた。そのことに気付きもせず、気楽にあなたを恨んでいた。そうしてくれたのは姉上だ。そうせざるを得なかったのは私の未熟だ。

 感謝しよう、謝罪しよう。今までの全てに。今までの全てに。

 そうして、誓おう。私は前に進みます。同じ謝罪は繰り返さない。歩みは遅いかもしれないけれど、より良き未来を目指して進んで生きます。今までの全てを受け入れて、今までの全てを託すに足る生き様を。

 其れを以って、私は今まで受けた恩に



「姉上、私は」

 

 あねうえ、わたしは

 

「私は……ひなた荘に残ります。

 勉学を重ね、東大に合格します。

 修行を続けて、神鳴を継ぎます。

 自分の好きな、小説を書きます。

 浦島と共に、己が道を歩みます」



「――――――何を」

 瞬時

 真正面に立つ姉上から、恐ろしいまでのプレッシャーが放たれた。膨大な水圧に押し潰されるような錯覚。草木がざわめいた。蝉の声が止んだ。空気が凍り付いた。潮騒さえも遠のいた。

 その殺気は既に凶器だった。気の弱いものなら気絶しただろう。常人ならば凍りつき、鍛えていても膝を折ったはずだ。現に私はその場で膝を折りかけた。だが

「…………!」

 浦島が、私の前に立った。

 私を庇うように、右腕を横に広げて浦島が、前に立った。

『認めよう、俺は愚かだった。だけどそんな愚かは二度と繰り返さない』

 ただの人間であるはずの浦島が

 ただの人間の浦島が、ただの人間の強さをもって、私を庇って死地に立った。立つことができた。

 浦島は、幾度も幾度も、そうして立ってくれた。

 かつての私はその強さを羨んだし、憧れた。けれどそれだけだった。その強さを目指そうとはしなかった。太陽の輝きに対して夜の住人がごちるように、世界が違うのだと諦めるだけだった。

 どうして!

 日向も夜闇も世界の境界も知ったことか。私たちの居る場所が、私たちの居るべき場所だ。それが無理だと誰かが言うのなら、この信念と全力を以て押し通る。

 

「何一つとして……諦めるつもりはありません」

 

 私も、前に進んだ。浦島の庇った腕を掴んで下げて、男の横に立つ。姉上の威圧は変わらない。凶器に等しい殺気に耐えながら、しかし誓いは淀みなく紡ぐことができた。

「私は、もう、何一つとして諦めるつもりはありません!

 できるはず

 できるはず
 可能性です!」

 

 

―――――素子ちゃんには、もっと色々な可能性が埋まっているはずだ。それを埋めたままにしておくなんて、勿体ない。もっと頑張っていこうよ、素子ちゃん

 

 

「姉上。今一度……勝負!」

 

 その、女は

 二十年ほど前は、古い流派に生まれた、ただの少女だった。

 だがある日ある時より、親代わりの老婆によって、流派を継ぐための修行を課せられた。

 それからの日々は、ただひたすらに剣を振るものだった。少女には他一切が許されなかった。何もかもを斬り伏せるために、感情と意志さえも無くし。そうして長じた女は、流派最強の剣士と呼ばれた。

 女には最強というその一点以外は、何もなかった。自分さえ持ち合わせていなかった。

 その最強で親友が死んだ。その最強で後輩が死んだ。その最強で友人が去った。その最強で妹さえも死にかけた。

 それでも女が持ち合わせたのは、その最強のみだった。

 故に。人間一人の人生に於いて、許されるものは、たった一つ。それが、その女の信じるところとなった。

 でなければ、何のために、彼等は

「素子……二つだけ、聞く」

 女が、『らしくもなく』凍りついた声音で問うた。その場に満ちた殺気は更に圧力を増し、青年は歯を食いしばってそれに耐える。だがそもそも、女にとっては無常不変こそが自然体であり、その知覚と客観故に問うべきことも特にないのが常であった。故に、女のそんな声音を受けるのは、その二人が初めてだったことだろう。

「それで、ウチに敗れたら。あんたはどないする?」

 潰指、損肢、失明、斬首。あらゆる地獄を言の裏に覗かせた問いかけ。やるとなればその女は、何の躊躇いもなくやる。元よりそういう育てられ方をした人間である。数年間のブランクがあろうとも、そうそう性根は変わりもしない。

 対して青山素子は。ゆっくりと、傍らの愛刀二振を拾い上げ、作務衣の腰帯に差した。

「勝ちます。その勝利を――――この誓いが証と、あなたから受けた恩への報いとします」

 殺気が増した。

 浦島景太郎が、殺気に圧された限界近い精神状態で、少しだけ笑った。敗けたらどうすると脅迫されて、勝つと答えた少女の在り方に、少しだけ笑った。よりにもよってこの相手に、そんな返答をした少女の姿を目の当たりにして。ただの人間である浦島景太郎は、真正面からの烈風じみた殺気にとうとう耐え切った。

「ほなどうして、斬り合いでウチに勝てると思う?」

 それは僅か、十二時間前に証明された事実だった。今の青山素子では、たとえ全てを捨てて修羅に堕ちようと、姉には勝てない。時の運など問題ではない。青山素子が理想とする完成形こそが、その相手なのだから。戦闘力で見たのならば、勝る要素が一つとして存在しない。故に女は問うのだ。どうしてよりにもよって斬り合いで、自分に勝とうとするのか、と。

 だが、青山素子はその事実を少しだけ笑って

 とん、と男の肩を労うように叩いてから、姉の前へと進み出た。

 再び対峙した姉と妹の距離、五m。そして青山素子の背後には、浦島景太郎の姿。

 すらりと、少女が黒刀を抜いた。昨夜行われた度重なる雷撃の、恐怖によって封じられたはずの動作に一切の淀みはない。肉体に刻み込まれた反射を、精神が完全に凌駕している証だった。

 だがそれでも、何をどうすれば、最強と呼ばれたその女に、青山素子が勝てるというのか。

 その答えは



「浦島、そこにいるか」

「ああ。何があったって離れるもんか」

「よし。―――――――――――――――ならば私は、最強だ





 そして

 女の殺気を押し退けて、轟、と風が吹いた。








 あの人が去って、しばらくしてから

 のろのろと管理人室へ入ると、前原しのぶが包丁を片手に、部屋の真ん中で突っ伏していた。

「……やあ、しのぶさん」
「可奈子さん……」
「はい」
「人を刺すコツって……何かあるんでしょうか」
「刃を上に、肋骨を避けて。内臓に達するまで押し込んだ後、致命を期すなら刃を捻って空気を送り込むこと、ですかね」
「……それ以前の問題です」
「でしょうね。ですから私にも教えられません、無理です」
「可奈子さんでも……そうなんですね」
「例え刺しても、あの人の意志は止められない。ならば……ほとんど意味がありません」
「……はあ」

 布団に突っ伏した前原しのぶが、突っ伏したまま嘆息した。

「刺してやろうかって、本気で思いました。浦島先輩が背中を見せた、その時に」
「……そのようですね。実際にそんなものまで握り締めている以上は」
「怒らないんですか?」
「もしも本当に、しのぶさんが兄を刺していたのなら。はっきり言って末路は八つ裂き以外にありません。ですが同時に……同情するでしょうね」

 私とて、そんな行動を取らないという保証はない。こんな運命を与えた世界に、陰惨な復讐を行うのかもしれない。それはこの存在の敗北だ。運命に屈したというだけの、末路。

「……わかっちゃったんです」
「何がですか」
「浦島先輩は、私が何をしても……たとえ全裸で抱きついたとしても、きっと慰めとしか思わない」
「…………」
「あの人の中で、私は後輩で、妹のような女の子で、時々背を押してくれる……そんな存在で固定してしまったって、わかっちゃったんです」
「確定ですか?」
「十年経っても二十年経っても、多分」
「完全に家族扱いですね。それはそれで大したものですが」
「そう、ですね……知り合ってから何年も経ってないのに、そんな大事に思ってくれるのは……嬉しくないと言えば嘘になりますけれど」
「だから、諦めるのですか?」
「…………」

 布団に突っ伏していた前原しのぶが、包丁を放り出して顔を上げた。私をじっと見る表情は恨めしげなもの。

「私も……そう思ってしまえば、幸せなんでしょうね」
「…………」
「あの人を、本当の兄みたいに思って。甘えて、頼りにして。十年経っても二十年経っても変わらずに、浦島先輩と呼ぶことができたのなら……幸せでしょうね」
「……かもしれません」

 ただの兄妹の関係になれたのなら

 その恋心を、無かったことにできたのなら

「可奈子さんは、どうしてそうしなかったんですか? 正真正銘、先輩の妹だって自覚した瞬間に。どうして諦めなかったんですか?」
「さあ……どうして、でしょうね。冷静に考えればデメリットの方が多いのですが」

 口ではそう言いながら、私の中では既に確固たる結論が出ていた。おそらく私は生涯、この在り方を変えることはできないだろう。私はきっと呪われている。こんな強固な観念が、呪いでなくてなんだというのか。

「それに、他者など問題ではないでしょう。要は自分がどうするか、です」
「浦島先輩が……好きなんです」
「…………」
「でも、私は、最後のチャンスに勝負を賭けて……負けたんです。もう二度と、あんなチャンスは回ってこないと……思います」

 その時の、前原しのぶの目は、一種形容しがたいものだった。怒りも悲しみも燃え尽きて灰となり、諦念という帳が全てを覆って。だけどその奥には熾火のように、陰惨な熱が残っているような気がした。復讐者の瞳。

「だから刺してやろうかって、思いました。そうすればせめて、自分勝手に逃げ出した素子さんには渡さずに済むと思いました」
「一つ、忠告なのですがね」
「……はい」
「貴女はやはり、刺すべきではなかったと思いますよ。しのぶさんが兄を刺せなかったのは必然です」
「どうして……ですか」
「貴女は兄と同じ、陽の当たる場所で生まれて、幸せになるべく生きてきた人間だから」
「……どういう意味ですか」
「貴女はまだ多くのものを持ち合わせている。多くの望みを抱いている。だから貴女は破滅を選ばなかった。しのぶさん。貴女は兄がいなくても、ちゃんと生きていけますよ」

 瞬間、前原しのぶがバネ仕掛けのように跳ね起きた。私を睨みつける瞳は、瞬間的に沸騰した怒りに燃えている。

「馬鹿にしてるんですかっ!」
「いいえ。羨んでいるのです」
「私が! どう足掻いても浦島先輩の恋人にはなれないことをですか!」
「……ねえ、しのぶさん。私は、それすら選べない。私は兄を諦められない。諦めた瞬間に、今の私は破滅する。だから私には、諦めるという選択肢が存在しない。刺すなり何なり、最悪でしかない方法も、取るしかないのだから取れるのです」
「…………」
「それは、喜ぶべきことなのでしょうかね。この想いが届かないのなら、いずれあの人に危害を加えることが決まっているのに」
「……どうして」
「少々、生き辛い半生でしたので。他に頼りにすべきものが、ありませんでした」

 とはいえ、それも理由としては微妙なところであった。そもそも私は妹という立場からあの人を得るために、祖母の要求に乗ったのだから。自業自得と言えばそうなのだろう。どちらにしろ、今の私はこういう人間であり、それを覆すことはできない。血泥に汚れたこの身は、どう足掻いても浄化することができない。

「まあ、しのぶさんにとっては私の事情なんてどうでもいいでしょう」
「……いえ」

 前原しのぶの瞳は既に怒りを失っていた。どうせ瞬間的なものだ。お門違いを延々と続けるには、この少女はマトモに過ぎる。ふと、なるさんのことを思い出した。あの人ならばどうしたことだろう。成瀬川なるが、今の前原しのぶの立場だったなら

「なるさんだったら、諦めたでしょうかね」
「成瀬川先輩、ですか……?」

 管理人室で二人、黙り込む。その結論が出る前に、褐色の少女が威勢良く飛び込んできた。

「ウラー! 二人とも何しとるんやー!」
「いえ。しのぶさんから少々失恋相談を」
「わー! わー! ナ、ナニを言ってらっしゃるんですか可奈子さんは」
「おー。なんかオモロそうなこと話しとるやんか」
「だ、だからー。それはなしの方向でお願いします! ていうか何しに来たのカオラ!」
「そやそや。シノムひどいやんかー! ウチの決め台詞台無しやん!」
「な、何の話!?」
「ホンマはウチがケータロに夢を語って約束するシーンがショートカットされたわ。どないしてくれるねん」
「やれやれ、そういうことですか。張り切りすぎてフラグを浪費したというわけですね」
「な、なんですかその話。大体、私がずっと浦島先輩の看病してたんですから、最初に話すぐらいいいじゃないですか」
「それはむしろ役得です。私とてあの女とやり合う予定がなければ、そちらに回っていましたよ……しかしスゥさんはムードメーカーですね」
「んー? カナやんもなんかあったんかー?」
「いえ……私も少々、素子さんのダメダメに毒されていたようです。やれやれ」

 そうして、そんな三人で。しばらく意味もない会話をしていただろうか。

 ふと、私は顔を上げる。

「――――――」

 風が、吹いたような気がした。

 だが管理人室の窓にかかったカーテンは、ぴくりとも動いていない。ならば錯覚だったのだろう。今日は風が弱い。暑い日になるはずだ。

 けれど、また

「あれ?」
「んー?」
「…………」

 話し込んでいた二人も気付いた。風が吹いている。肌に当たる微風。普段ならばなんとも思わない程度の風圧を、私達は確かに感じていた。

 だけど、カーテンは動いていない。換気扇もクーラーも扇風機も作動してはいない。部屋の空気は緩やかに動いているが、素人二人に感じ取れるほどではない。更に全力で気配も探ってみたが、不可視の存在が潜んでいるわけでもなさそうだった。

 ならばこの風は錯覚だ。無生物が感じ得ない、私達だけが感じる風だ。

 風は西から東に吹いている。

 それは、兄が青山素子を追って行った方角だった。






 轟々と風が吹いている。

 今日は風が弱い日だった。海辺の東屋も例外ではなく、海も空も凪いでいる。

 砂埃が立つわけでも、木々がざわめくわけでもなく、その強風を感じているのは、その場にいる人間だけだった。

 女と、男と、少女。

 その三人にとっては、その強風は確かに存在するものだった。体勢を崩さないための努力が必要であり、聞こえるのは大気が渦巻く轟音。頭では錯覚と理解していても、体と魂は、この脅威が存在するものだと教えていた。

 女が、腰の長刀に手を添えたまま、何かを叫ぶ。それは制止の言葉であり、最後の警告であり、もしかしたら哀願であるのかもしれなかった。その言葉はその場の誰もに届いていたが、誰も動こうとはしなかった。

 男は、少女のすぐ後ろで、ただ風に耐えていた。両腕で顔を庇い、しかし視線はまっすぐに前を向いて。常人ならば転倒し逃走するべき錯覚の風に、常人でしかない男はじっと耐えて立っている。それが己の使命とばかりに。

 そして、少女は

 その、錯覚の風と、嵐の中心に位置する、少女は

 ゆっくりと、黒刀の切っ先を、天に向けて構えた。

 風が、凪ぐ。

 しんと、静まり返った空間と世界を、音なき声が支配する。



――――頑張り、素子

――――頑張ってください、素子さん

――――素子ちゃん、頑張って

――――ナハハ、モトコー!

――――後は、貴女次第ですよ、素子さん

――――頑張ろう、素子ちゃん

 応



定めに逆らうこの身でも
対意志用

頑張れと呼ぶ声がある
正道極意

姉上、私は幸せです
天衣



 そうして

 百と七の斬撃が、津波のごとく押し寄せた。





「なっ……」
「神鳴流極意流水。同極意止水。闘法修羅。そして対意志用正道極意天衣、ね」
「……はあ?」
「なにその小馬鹿にしたリアクション!? せっかく人が解説してあげようと思ったのに!」
「いや、いきなり逆切れされても。一つ一つはともかくとして、その呪文めいた繋ぎ方はなんだい」
「そういうコンボなんだから仕方ないでしょ」
「いきなり投槍にならなくても、刀のくせに。ほら、一つずつ順番に行こう」
「だからなんで生徒役に諭されるのっ!? じゃあまずは極意流水、ってわかるでしょ?」
「ああ、神鳴流極意が片翼。天地万物に流れる気を、完璧に把握する攻防一体の境地だ」
「要は命中と回避が上昇するスキルね。意識方向と大気流動を同時に感知できるのが厄介極まるわ。どうせ範囲に限界はあるし、流気自体も流気や隠行で相殺できるけどね。で、次」
「これは僕の専門だ。神鳴流極意止水。神鳴の剣技を気刃にて多重に振るう、これまた攻防一体の境地。元々は間合即斬の技術だったんだけどね」
「闘法修羅を組み合わせて、青山が極意に昇華させたのよ。だから実質は分家青山専門の技なわけ。剣のみを振るう青山家が神鳴最強と呼ばれる由縁だわ」
「消耗がそのまま倍増するって弱点もあるけどね。戦闘時間自体がそれ以上に短縮されるからあまり関係ないか」
「で、闘法修羅。あるいは修羅法。これは本編でも言ってたように、複数の気刃を同時に振るうために人格を分裂させて複列制御。発狂当然のイカレた暗示だわ」
「というか、普通別れたら弱くなるものじゃないかな、集中力とか意思力とか」
「弱くなってるのよ。そこをひたすら斬ることに純化した状態で補ってるの。雑念捨ててノイズを無くし、剣鬼となりて止水を振るう。青山素子が何度も暴走したのも当然だわ」
「で、最後の正道極意とやらは?」
「エネルギーの供給」
「……それだけ? 此処まで引っ張っておいてそれだけなのか?」
「そーよ。ただそれだけが桁違い。言っておくけど火事場の馬鹿力とか能力倍増とかいう次元じゃないわよ。敢えて言うなら憑依に近い。他者の力をそのまま借りる、それも一人や二人じゃ済んでない」
「なんだって?」
「ああそうだ、もっと判りやすい言い方もあったわね。絆を介して希望を担う、人類代行の修正存在。ただのヒトが世界を護る、それは即ち勇者の領域、よ」

 






 それを対意志用正道極意天衣、という。

 その名が神鳴の歴史に初めて姿を現したのは六百年前であると女は聞いている。それを初めて纏ったのは神鳴本家の女であり、その結果として京の街は火の海と貸し、流派は本山を失い、多くの人間が死んだと聞いている。

 無理もない、と女はその御伽噺を実感する。

 そもそもからして、単体個人が我欲にて振るうには過ぎた力。文字通りの天意に等しい。それを人の技にて強引にくくり、水晶細工のような精密と強度で擬似再現する。全てに渡って糸を辿るがごとき綱渡り。暴走しない方が奇跡とさえ言える。その実感は、この術式を用意した老婆でさえもわかるまい。今生ただ一人、この女にしか実感できない隔絶だ。

 そんな業を妹に背負わせたくはなかった。

 そんな業を妹が背負うのは無理と思った。

 故に女は此処に来た。自分の撒いた種であろうと、本人にどれだけ恨まれようと、その半身に等しい剣を奪うことになろうと、姉妹の間柄を絶することになろうとも。妹が死ぬよりはマシと思った。妹が狂い果てた挙句に、神鳴の歴史が示す通りに己が手で全てを破壊し尽くすよりは、マシと思った。

 だが、その覚悟は全て無為と化した。

 結局妹は天衣を纏い、扱いきれずに自滅する。

 …………

 ……最早、女にさえその運命を覆すことはできない。最強と呼ばれたその女にさえ、天衣を纏った存在は、容易に取り押さえられるような脅威ではない。

 ならばせめて

 途方も無い罪を、負わせる前に、せめて



 百と七に及ぶ斬撃が、百と七の経路を以って女に到達するまでの一秒足らず。

 何者も抗し得ない確殺に、人知を圧する暴虐に、その女はただ

 応えた。

 

   その意気や良し
 対意志用正道極意――――――――!

 百と七つの斬撃と、百と七つの斬撃で、何もかもが吹き飛んだ。





「ってこっちも出したーっ!?」
「うわあ……そういえば前マスターも思いっきり使い手じゃん。そりゃこうなるよなあ」
「え、いやだってもう青山素子が纏ってんのよ? あ、いや、どうせ容量は溢れてるんだからルートが違うだけで問題ないの?」
「なんだ、溢れてるんだ」
「だから百や二百も出しっぱなしにしてんのよ。じゃないとあっという間にパンクしちゃうもの。本来ここまで纏うのは伝説クラスだけど、そもそも不正アクセスだからリミッター切れてるしね」
「しっかしすごい光景だねえ、これ。何かの種類の地獄だよ」
「火力を追求した結果の、人剣としては究極の一つだもの。二度と見られないでしょうねえ、こんな馬