注意。これは景太郎×素子小説です。やっとと言うかなんというか。

*この小説は『目覚めよと呼ぶ声に応え 少女は優しい夢を観る』の続きです。
*『○○がおかしくないか』的な意見は、今更です。
*拙作『鬼と邪眼と青春と』を読んでいないとわからない部分があります。
*某キャラは思いっきり主役を食いそうだったので出番がありません、あしからず。

 

 




 初夏の日差しがカーテンによって弱められながらも部屋を優しく照らし、涼やかな風は窓から吹き込んで部屋の空気を清浄していく。

 眠ってしまいそうなほどに、心地良い日だった。

 この畳敷きの部屋で、何も考えられずに昼寝をできたら、どれだけ幸せなことだろう。

 穏やかな沈黙が、ずっと部屋を占めていた中

 

「――――素子、ちゃん」

 部屋に敷かれた布団で横になり、意識を失っていた彼が目覚めながら呟いたのは、そんな一言だった。

 青山素子という人のことだった。

――――傍らで、ずっとその目覚めを待っていた、私のことではなく。

「……景太郎」
「あ……成瀬川」

 浦島景太郎という、彼。

 成瀬川なるという、私。

 今この管理人室にいるのは、この二人だけだ。

 名を呼び、呼ばれた、私達二人、だけだ。

「成瀬川、素子ちゃんは……?」
「……素子ちゃんは」

 青山素子という、人。

 彼女はこの部屋にはいない。けれどこの二人の胸の中にはいる。特に彼の胸の中には、その真ん中にいつだって、揺ぎ無いほどしっかりと、青山素子という少女がいる。

 その事実はわかる、その気持ちはわかる。痛いほどに、痛いほどに。だってそれは私だってそう、だから。

 だから私は、じくじくとした痛みを抱いたままで、彼の質問に答える。

「素子ちゃんは……出て行ったよ」
「っ!」
「待って!」

 起きあがりかけた彼の腕を反射的に掴んでしまう。両手で、しがみつくように。その制動よりも行為そのものに驚いて、景太郎が私を見る。

 どうして止めるのか、今すぐに追いかけないといけないのに、どうして

 非難、非難非難非難非難非難。口に出されない視線だけの、私にとっては刺すようなそれ、刺されるような痛み。私はカナちゃんじゃない。その痛みすら歓喜に変換できるような精神構造は持ち合わせていない。

 だから痛い。それに怖い。今から口にすることが、臆病な私には怖くてたまらない。嫌われるかもしれないという恐怖が抑えきれない。

 けれど、それでも

「素子ちゃんは……自分から、行ったんだよ」
「…………っ!」

 景太郎の表情が泣き出しそうに引きつる。ああ、彼は傷ついている。ああ、彼は気付いていた。さっき、この部屋で目覚めた瞬間から。この部屋に私と景太郎の二人しかいないとわかった瞬間から、ずっと。それを、繋いだ手から伝わってくる震えで感じ取って、私は声にならない息をついた。

 傷つけたくない、傷つきたくない、幸せになってほしい、幸せになりたい。本当は誰もがそれだけを望んでいるはずなのに、何故こんなにもこの世界には擦れ違いが多いのだろう。何故、こんなにも胸が痛いのに……彼を、傷つけねばならないのだろう。

「素子ちゃんは……みんなにさよならを言って……行ったんだよ」
「でも……!」
「自分の足で、自分の意志で……ひなた荘を、出ていったんだよ……」

 私がこの人を想うように

 彼があの娘を想うように

 全く等価を以て、自分で道を選んだことは

 誰にも、覆せないことだ。どんなに力があっても、例え私でも、例え景太郎でも、覆してはいけないことなのだ。

 それが、彼女の意志なら。彼女を信頼するのなら

「でも! だけど……一言もないままに、お別れなんて……」
「……納得、できない、よね……」

 いつしか彼は半泣きで

 いつしか私も半泣きで

 痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。彼の苦しみが余すことなく伝播するように錯覚してしまって。彼の苦しみと悲痛に、私の心が裂けるように痛んで

 大切な人を傷つけたくない、大切な人に幸せになってほしい。

 にじんだ涙が、眼鏡を外した彼の表情を歪めている。にじんだ涙が、眼鏡を外した私の視界を歪めている。

 もしも、心の底から想う人が一言も残さずに自分の前から消えてしまったら、納得できるわけがない。その気持ちは痛いほどに分かる。私自身が幾度も想像し、怯えた未来。だって彼は、彼女のためなら全てを投げ打って、行ってしまえる人だから。

 だけど…………両手は離さない。

 だから…………両手は離せない。

「……素子ちゃんは、景太郎に……」

 そうして私は、彼の腕に縋り付いたまま、彼女の最後の言伝を

「……絶対に、追ってくるな、って……」

 景太郎が、ぎしりと硬直した。


 それらの言葉は全て…………事実だ。

 こんなことに嘘をつけるような度胸も、したたかも、私にはない。いや――――私は良くも悪くも人並の人生を送ってきて、偽りの自分を演じることに慣れて、たくさんの人に嘘をついてきて。けれど、このことにだけは、嘘をつけないから。

 どんなに苦しくても、どんなに痛くても

 想う人を傷つけることになっても、幸せになれなくても

 このことだけは、嘘をつけない。

 素子ちゃんは、このひなた荘から出ていった。

 自分の足で、自分の意志で

 素子ちゃんは、景太郎にただ一言だけ、言伝を残していった。

 絶対に追って来るな、自分のことはもう忘れろ……と

「自分のことは、忘れろって…………言ってたんだよ」
「……そ、んな……の……」

 目の前の彼が、泣き出すのを必死でこらえている。奥歯を食いしばって、顔を歪めて、目を真っ赤にさせて、喉を詰まらせて。みっともない表情だなって思う。本当はすごく傷つきやすくて、すごく正直な人間で。知り合ったのは二年と半年前。長いと見るか短いと見るかは人それぞれだ。

 けれど、ひどく判り易い人間だから。そして、いつしか彼のことをずっと意識するようになっていた私だから。この推測は間違っていないと……信じよう。

「信じ……られない、よね……」
「…………」

 信じたくはないはずだ、それは絶対に。心の底から

 けれど、頭から疑うには符号が過ぎる。意識を失う前の出来事、この部屋に素子ちゃんがいないこと。景太郎には絶対に嘘をつきたくない、私の言葉。

 信じたくはないだろう。少しでも他の可能性があるのなら、そちらを取りたくもなるだろう。

「でも……」

 でも、最後の証明を私は持っている。持ってしまっている。

 逡巡。果たしてこれを、見せてしまっていいのだろうか。景太郎のためにも、見せた方がいいという自分がいる。景太郎のためにも、黙っていた方がいいと言う自分がいる。全く正反対なその自答は、けれど同じだけの説得力を持っていた。逡巡、葛藤。この人を傷つけたくはない。この人は、ひどくひどく傷つくだろう。

「……う、ぐ……」
「な、るせがわ……?」
「ご、めん……」

 逡巡、葛藤、押し潰されそうな悲しみに、私はとうとう泣き出した。

 なんてこと、なんてみっともないんだろう。なんて無様なんだろう。私の方が泣き出して、彼の方が私を気遣うようにおろおろしているなんて、まるきり立場が逆ではないか。この場に誰かがいたのなら、媚びた女と断じるだろう。断じてほしい。

 けれどこの部屋には私達二人しかいなくて、だから私は

 私は事実の刃で、今からこの人をずたぼろに切り裂く。

 

「こ……れ……」

 ボロボロと、みっともなく泣きじゃくったまま

 片手を離して、ポケットからもたもたとそれを取り出して

 景太郎の前に、差し出した。

「……あ……」

 彼が、呆然と呟きを漏らす。

 だって、そこにあったのは

 真っ二つになった、簡素な指輪だったのだから


 その銀製の指輪が、景太郎から素子ちゃんに贈られたものだと、私は知っていた。知らないはずがなかった。

 それは、証だった。

 浦島景太郎が、青山素子を想うという、誓いの具現。それは有形であって無限ではないけれど、だからこそ無形の想いでは絶対に砕けない、確たるもの。それを贈るということ、それを受け取るということの、意味。

 その指輪が素子ちゃんの薬指に収まるのを見たとき、私は死ぬかと思った。

 積み重なり、降り積もった想いの上、更に現実が圧し掛かってきて、胸が潰れて死ぬかと思った。

 苦しくて、苦しくて苦しくて苦しくて、呼吸はできるはずなのに息ができなくて、死ぬかと思った。

 本当に辛いとき、人は泣くことすらできないんだと知った。

 それは証だったから。

 私の横恋慕など入る余地がないと、そもそも抱くことさえ赦されるものではないという、証明にして断罪だったから。

 素子ちゃんがその銀製の証を受け取ってからずっと、胸が潰れたように苦しくて

――――けれどその証は、真っ二つになって壊れていた。


「も……とこ、ちゃん……」

 それを身に着けていたのは一人しかいない。

 それを為したのが誰なのか、可能性はたった一つしかなく

 それがどういう意味なのか、残酷なまでに答えは一つしかなくて

「素子……ちゃん……」

 素子ちゃん、あなたは

 正しいのかもしれない、気高いのかもしれない、潔いのかもしれない、強いのかもしれない。だけど、だけどあなたは残酷すぎる。

 人間の強さというものを、あなたは信用しすぎている。曖昧な優しさというものを、あなたはまるで信じていない。理想の具現なんて不可能と知っていながら、あなたは理想を求めている。だけどやはり、普通の人はそこまで強くない。いつでも無敵というわけには、いかない。そう在るべくして生きてきた、あなたと違って

 素子ちゃん。やっぱりあなたと私達は、住む世界が違ったよ。

「う……っ……」

 景太郎が、けして強くはない人間の一人が。右手の中に指輪の断片を握り締め、嗚咽の衝動をこらえている。いや、衝動が大きすぎて吐き出せないんだ。胸に当てられ、心臓を掴むように固められている左手からそうとわかる。

 それでも視線は指輪から離れない。壊れてしまった指輪から外せない。二年と半年。それは彼にとって長かったのだろうか、短かったのだろうか。過ぎ去った年月が、まさにそこに残されているように、景太郎は嗚咽を堪えながら指輪を見つめている。

「……もとこ……ちゃんは……」
「……うん……」

 それは、証拠だ。

 壊れてしまった、誓いの証拠。

 終わってしまった、絆の証拠。

 青山素子が、浦島景太郎を…………捨てたという、証拠の残骸。

 受け止めなければならない、事実。

 無理に受け止めようとすれば、死んでしまうかもしれない事実。

 ……だから、私は

 …………だから、私は

 顔を俯かせて嗚咽を堪える彼の背中に、そっと体を寄せた。

「……ぐ……う……」
「……ねえ、景太郎」

 ごめんなさい。

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

 心の中で繰り返し、繰り返すそれは、ほとんどあらゆる全てに対する、これからのすることへの謝罪だった。

 ごめんなさい、素子ちゃん。ごめんなさい、カナちゃん。ごめんなさい、しのぶちゃん。ごめんなさい、むつみさん。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……

 そして最後、今まで生きてきた自分自身にも謝罪する。

 人並みに生きてきて、人並みの幸せを望む、自分自身に謝って……私は、全てを裏切った。

 

「……私は…………ずっと、此処にいる……」
「……え……」

 囁きは、裏切り。

 囁きは、堕落。

「私は、景太郎の傍に、ずっと居たいから……」

 囁きは、虚偽。

 囁きは、本音。

「なる……せ、がわ……?」
「……景太郎が望むのなら、恋人でも、愛人でも、友達でも、奴隷でも、なんにでもなる。なんだってするよ……」

 囁きは、媚態。

 囁きは、願望。

「景太郎が、居てくれるなら……私は、他には何も……望まない……」

 その背中を、胸に回した腕を、ぎゅうと抱きしめる。互いの体が密着して、景太郎がびくんと体を震わせた。距離はない。今、二人は一つだ。心臓の鼓動すら同期している。この部屋には、此処には、彼と私しかいない。

 そうであればいい。

 これからも、そうであればいい。

「……私は、何処にも……行かないよ……」
「――――――」

 そっと、彼の後頭部に額を当てる。表情は見えない、怖くて見れない。だけどきっと驚いている。卑怯なことを言う私に、驚いているんだろう。

 素子ちゃんが理不尽に姿を消して、大きな傷を負った今だからこそ

 何の取り得もない、何も満たしてあげられない、ただ傍にいることしかできない私でも……今なら。

 けれどそれすら、ありのままの成瀬川なるでは、人並みに生きてきて人並みに全てを欲する私では無理だから

 何の過不足もない幸せを求める自分は、切り捨てた。

 恋人でも、愛人でも、友達でも、奴隷でも、彼が望むのなら邪魔な自分は切り捨てられる。培った自分をも裏切れる。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。今まで私を、成瀬川なるを好きだと言ってくれた、全ての人達。

 ……それでも私は、自分が自分でなくなっても、彼の傍にいたいのです。

「どうか……私を受け入れて……」

 私はそのうなじに、そっと唇を押し当てる。

 夢想する。もしも平行した世界があるのだとしても、やはり私はこの人に恋をして、愛を注ぐのだろう。

 どんな出逢いをしても、どんな軌跡を辿っても、やはり私はこの人に恋をして、愛を注ぐのだろう。

 そんな残酷な運命があるのだとしても、そんな呪われた運命があると知ったとしても

 やはり私はこの人に――――こうして、愛を注ぐと、思う。

 

「……好きです、景太郎……」


 告白は――――――泣きそうなほどに甘く、苦い、罪の味がした。







ラブひなEX

その身が重ねた全てを賭けて 彼女は此処に証を立てる

前編



「って、だから何を書いてるのだ私は――――っ!」

 ぱーん、と

 女の手がベルトに伸びた辺りで我に帰った私は、幾枚もの原稿用紙を畳の上に叩きつけた。ぱさぱさと反動で散らばる六百字詰め原稿用紙。ちなみに続きを聞こうものならその輩は血を見ることになるだろう。いや、卑猥な意味ではなく。

 時計を見れば既に時刻は昼過ぎ。机の上を見れば問題集がまっさらな中身を否応無しに主張している。また例によって例のごとく、数時間を浪費したらしい。

 というか、なんだあの展開は。なにか屈折した願望か危機感でも混じっていたとしか思えない。

 まず、何故に文中の絡みが浦島となる先輩だったのか。願望を表すのならストレートに私と浦島を書けばいいのであり、しかしそうでなかったのは危機感の現れなのだろう。浦島を誰かに取られるというのではないかという危機感。その『誰か』に例えられたのがなる先輩だったのは、人聞きは悪いが実際は安全だからだ。あの人ならばまず起こり得ない展開。これが例えば可奈子では洒落にもならない、寝取りどころか無理心中にすら躊躇しない輩だ。仮に私が浦島の元から去るにしても、奴だけは道連れにしておくべきと決めておく。

「はあ……」

 本当に……危機感なのだろう。

 文中、私が浦島の元から去っていったのは、そうなる可能性が実際にあるからだ。私は自分がとても信頼できない。それこそ浦島に『来るな』と言伝して、いつ逃げ出してもおかしくない精神状態なのだ。

 浦島が留学先から帰ってきて二ヶ月が経過している。

 浦島はきっと、半年経った今でも変わらず私を好いてくれているだろう。青山素子のことを好きだと想ってくれるだろう。私は――――だけど私は、失敗したのに。私は東大に合格できなかった。自らの意志で選んだ初めての道で、完膚無きまでに敗北した。

 そんな私に、浦島に好かれる資格などあるのだろうか。

 ……あれほど努力し、留守を守り、勉学を怠らず、皆の和を保ってくれた、なる先輩が報われないというのに。

 あの文章は、そんな罪悪感と危機感が書かせたものだろう。今の私に……他者を差し置き、浦島の好意を受ける資格など、あるのだろうか。無様極まりなく、ただ私個人の問題として、そう考えてしまう。

 なんて……なんて、女だろう。

 今この瞬間に浦島を誰かに奪われたら、私は発狂せんばかりに全てを取り戻そうとするだろうに。

 結局、失うのが怖いだけなのだ。

 そして、己が選んだ道で何も成せなかった自分には、その危機感を打ち消せるだけの確たるものが、何もないのだ。

 けれど、事実から目を逸らして強固な仮面で自分自身をも騙すことも……もう、できない。あの時、あの別館で、否応なく自身の歪みを露呈された、今となっては

――――だから私は消えようと思う。

「はあ……」

 もう一度、溜息。あれから二ヶ月。自覚をする時間だけは充分にあった。反論するための材料は何もない。

 絶対に、絶対に口には出せないけれど

 今の私は、浦島の好意に対して真正面から答えることができない。中身のないカラッポの返事しか、できない。

 ……なる先輩のことを思うのならば、そんな青山素子は絶対に認められない。ましてや、危機感に駆られて綴った文章のように

 分不相応に、指輪など、贈られてしまったら、私は――――





 

 たん、と駅前に降り立つ。その何気ない動作すら流麗にして優美。一本筋の通った姿勢と、相反するように柔らかな歩みが、その生まれ持った美貌を奇跡的なものに高めていた。すれ違った人間が軒並み振り向いていく。

「今度は車が襲ってくるようなことはあらへんな……せやけど、なして皆が向いてくるんかな」

 ……まあ、注目を集めるのは服装がそのまま巫女装束というのもあるのでしょうが。ちなみに前回、車が襲って来たのは東京だからではなく彼の不運に引っ張られただけだと思います。そういう意味ではあのトラック運転手も災難極まりなかったですね、本当。

「ほな……行きましょか」

 素子様と会うのも一年ぶりですか。二年ぶりの時も随分見違えましたけど、はてさて今度はどんな風に変わっていることやら。とうか、名取様のせいであれほど男嫌いだった素子様が、あそこまで誰かにベタ惚れるなんて在り得るものかと驚愕しましたが。もう一線越えましたかねー、どうですかねー。

「どっちにしろ、今度は本気で行かせてもらいます」

 うっわ、それあらゆる意味で素子様死にますよ。悪いこと言いませんから、今度も適当にあしらえば良いじゃないですか。

 つっても、私の提案はいつも気にしていただけないのですよねえ……いえ、別に御主人様に聞き分けがないというわけでもない(ある意味究極的に必要ない)のですが。何しろそれ以前に私

「くえー」

 としか言えませんし。






 さて

 どうも、最近気付いたのだけど

 ウチの妹は、少し病気だ。

「兄さん。なんなんですか、これは」
「……え?」

 ちょっとした用事を終えて大学から帰ってくると、管理人室の真ん中に妹が座って待っていた。正座の前にはキチンとしまって置いたはずの小箱。

 ……って

「か、可奈子! 勝手に人の部屋を荒らしちゃダメじゃないか!」
「兄の部屋をチェックするのは妹の特権です! そんなに駄目ならお仕置きでも受けましょうかはいどうぞ!」

 逆切れされた上、とさとさと横に並べられた鞭やらロープやら蝋燭やらは見なかったことにする。父さん、お元気ですか。我が家の妹は少し病気です、どうしたらいいんでしょう。涙がちょちょぎれそうです。

「こっち向いてください」
「うわ!」

 ぐい、と下から手首を掴まれた瞬間にがくんと膝が抜け、その場に正座してしまう。たぶん柔道か何かの技だけど、何故に妹がそんなものを習得しているのかは謎。間に挟まれた小箱を指して、妹が詰問口調で質問を再開する。

「それで、まず。これは一体何時の間に買ったんですか」
「何時の間にって……この前、大学から帰るついで、成瀬川に付き合ってもらったんだけど」
「は? なるさんに、ですか?」
「うん。俺、指輪とかアクセサリーとか全然わからないからさ。見て貰って本当に助かったよ。結局は自分で選ばされちゃったけどな」

 成瀬川には、本当にいつも世話になっていて感謝が絶えない。ちなみに数日前からむつみさんと一緒に旅行に出ている。去年と同じくゼミ関係らしいけど、今頃楽しんでいるだろうか。

「……いきなり旅に出たと思ったら、さてはそれが原因ですか。つくづく不憫な人ですね……にしても、面の皮が厚いんだか打たれ弱いんだか」
「ん? なんだ、可奈子?」
「ああいえ、なんでもないです。とりあえず友情とやらのために一回叩かせて下さい」
「あいた」

 ぽかりと、上体を乗り出した妹に軽く頭を叩かれる。別に痛くはなかったけれど、何故だか胸に通るものがあった。

「ま、それはどうでもいいとしてですね。次の質問ですが、この指輪は何時どうするつもりなんですか?」
「え。そりゃ、まあ。折を見て素子ちゃんに、その、贈るつもりだけど……」
「……ぐは」

 照れ照れと頭をかきながら未来の予定を希望すると、何故か目前の妹が正座のままぶっ倒れた。腕を使わない土下座というのだろうか。前のめりに額を畳にぶつけたまま、ぴくぴく痙攣していたりする。

「か、可奈子!? 何か凄いショックを受けてるような反応なんだけど!?」
「……一瞬気絶しました。ええ、とてつもない精神攻撃でした。覚悟しててこれです、心底なるさんには同情しますよ」
「え……っと。俺が指輪贈るのって、そんなに似合わないかな?」
「いえ、他意です。まあ此処にいない人を弄るのはこの程度にしておきましょう。とりあえず聞きたいことはわかったので、これは没収させていただきます」
「!」

 ひょい、と起きあがって何気なく小箱を掴んだ手を、咄嗟掴むことに成功した。妹が無感動な目で、繋がれた手を見やる。対してこっちは急激な展開の連続で頭が落ち着かない。

「ぼ、没収ってなんだ没収って。結構高かったんだからな、これ」
「金銭の問題でしたら、同額を後で補償しますけど」
「いや、そういう問題じゃなくてだな……えーと、どこから諭せばいいんだか。とにかく、ダメだろ!」
「ヤです」

 ぐい、と可奈子が抗うように、小箱を掴む手を右方向に引っ張った。離さないよう、体勢を崩しながらもこちらも上体を右方向に伸ばす。

「嫌ですし、意味無いです。なんであんな奴に、お兄ちゃんが指輪なんて贈らないといけないんですか」
「か、可奈子? なんでそんなこと言うんだよ。最近は素子ちゃんと仲良くしてたじゃないか」
「だからこそ。あれを同類と認めるからこそ異様に腹が立つんです。ぶっちゃけると、なんで私じゃないんですか」
「お前、自分で何言ってるのかわかってないだろ!? 可奈子は妹じゃないか!」

 ぐい、と可奈子が抗うように、小箱を掴む手を上方向に引っ張った。離さないよう、更に体勢を崩しながらこちらも上方に体を伸ばす。張力の働いた互いの体が接近する。目の前にある顔に向かって、俺達兄妹は不毛な口論を繰り返した。

「妹だから指輪を贈ってはいけないと言うんなら、何なら良いと言うんですかっ」
「何なら、って……そりゃ」
「二年と半年同じところに住んでいれば良かったのですか? もっと年が近ければ良かったのですか? 他人なら良かったのですか? 剣を振っていれば良かったのですか? 背が高ければ良かったのですか? 汚れてなければ良かったのですか? どうなんですかお兄ちゃん!」
「か……可奈子?」
「今の浦島可奈子ではどうしてもダメだというのなら、私は世界を変革してでもその条件を満たします! それだけの覚悟はあります、それだけの我侭もあります。でも私は待ちすぎた。もっと手早く得られるものがあるのなら、きっと私は犬みたいに食いついてしまう!」

 ぐい、と可奈子が抗うように、小箱を掴む手を後方に引っ張り

 反射的に、繋いだ手で動きに追従しようとした俺は、とうとうバランスを崩して前のめりに倒れ込んだ。それは可奈子も同様で

 とさ、と軽い音がした。

「…………」
「…………」

 妹を押し倒した感触は

 軽い、羽の様に頼りないものだった。

「…………」
「…………」

 あまりの事態に思考すら硬直した。

 小箱は未だ、互いに握り締めたままで。そこを基点にしてぴったりと重なり合った半身。俺の左手は体重を支えるために咄嗟可奈子の左脇下に置かれていて、まるで腕の中にその小さな体を閉じ込めているような体勢だった。いや、抱き合うぐらい兄妹なら普通だ。やましいことを考えてしまいそうになる頭を必死で逸らす。でも

 すぐ近くから、じっと見上げる眼差し。至近距離のそれから、視線を外せない。体を、動かせない。

 可奈子の顔は、いつのまにか真っ赤に上気していた。

「……ずっと」
「……可奈子?」
「…………っ」

 妹が思い詰めた様子で何かを言いかけて、だけど途中で口をつぐんだ。それは、吐き出そうとしたものがあまりに大きすぎて、胸につかえた。そんな、言葉にすらできない苦しみを思わせる仕草だった。

 それで否応無しに――――気付かされた。きっと妹は、可奈子は、けして幸福な半生を送ってきたのではない、という、ことに

 でなければ、こんな表情をするはずがない。

 俺の知らない間に、どれだけの、どんな痛苦を溜め込んできたというのだろう。溜め込んで……それでも、生きていてくれたのだろう。

 願わくば、その苦しみを取り除いてやりたいと心から思う。無条件に思う。兄として、家族として

「可奈子……その、俺、ずっとお前を放っておいて……兄らしいことなんて、今更資格なんてないのかもしれないけど……」
「…………」
「けど、それでも……できることなら、なんでもするから……言って、くれないか……?」

 可奈子が見上げている。可奈子は見上げている。可奈子はただ、俺を見上げている。

 自分にできる、精一杯の保証。それはやはり、自分のできるちっぽけな範囲のことでしかない。それで僅かでもに可奈子が報われてくれればいいと、あるいは今、この提案で可奈子が少しでも安心してくれればと、そう思う。けれど期待とは反対に、妹は覚悟するように唇を引き結んだ。

「お兄ちゃんが、素子さんに指輪を渡すのは……嫌です。物体じゃなくて、その行為が、原理が……すごく、嫌なんです……」
「……ごめん」
「でも! 私に……くれるのなら、許して……あげます、今回は」
「可奈子にも……指輪?」

 その案は正直予想外だったし、経済的にも厳しいものがあった。同じものをもう一度買うような手持ちはない。だけどたった一人の妹が、全てを賭けて心からそれを望むのであれば、否と答えられるわけがない。

 けれど可奈子は、俺の呟きにいやいやと首を振った。溜まりかけていた涙が、すう、と目じりを零れる。

「……違います。もっと、もっともっと、大事なこと、です」
「もっと、大事……」

 それは一体、なんなのだろう。

 兄として指輪をプレゼントをする。それ以上、俺にあげられるものとは、果たしてなんなのだろう。

 予想がつかなかった。だからもちろん、可奈子が何を要求しても予想の外になったわけだけど――――それでも、次に可奈子が覚悟と共に吐いた言葉は、限度を越えた常識外だった。

「……貴方の……はじめてを、ください。私の、はじめてを貰ってください……」
「――――」
「キスもまだだと、素子さんから聞きました……私は、一番最初に、貴方に触れた人間に……なりたい」

 言い終えて、妹がそっと、目を閉じる。俺に組み敷かれた体勢のまま、揺るぎもせず迷いもせず

――――俺は

 それがどういう意味なのか、混乱しきってしまって、体をどかすことすら思いつかなかった。

 だって、俺と可奈子は正真正銘の兄妹で。それに、俺は素子ちゃんのことが好きで

 けれど、そもそもそういう思考は全部俺の邪推で、ただ親愛の情として抱きしめてあげれば可奈子はそれで満足するのかもしれない。いや、そうであればすごく助かる。

 だけど、可奈子は真剣だった。

 体をこんなにも硬直させて、顔を真っ赤に上気させて。他のどんな解釈も許されないほどに……真剣だったのだ。

 俺、は――――


「可奈子、こっちにいるのか? 少々英語で聞きたい点が……ある……」

 …………

 繰り返すけど今の姿勢は、半身をぴったりとつけ、俺が妹を押し倒している状態。

 扉を開く音、途切れた声、ばさりと参考書が床に落ちたような音。背後だったので詳細はわからない。

 だけれども、一瞬で張り詰めた殺気が何もかもを物語っていた。

 ……可奈子はといえば、薄く目を開いて静かに溜息をついた。俺はといえば、違う種類の硬直で半分以上思考停止していた。

「何を……して、いる?」
「見ての通りの行為です」
「――――っ」
「ひいっ!?」

 地獄から這い出すような声、俺の顔から視線を外さないまま答える可奈子、膨れ上がり臨界を突破する殺気に悲鳴を上げる俺。

 今、此処に奥義開眼

「――――っ!」
「お兄ちゃ……!?」
「(ぶち)」

 ヤバいと判断し、咄嗟に可奈子を庇う。組み敷いた姿勢から、更に体を押し付けるように。けれど逆に、その行動が破局の引き金になった。

 神鳴流、奥義

 真・雷光剣!!!

 キュドッ!




「素子ちゃん」
「……浦島か」

 三十分後。

 物干し台で一人、木刀を振るっていた私のところに浦島がやってきた。手を休めないまま、振り向かないまま、私は独り言のように呟いた。

「可奈子が来るかと……思ったのだがな」
「なんか、部屋を直してくれるって準備始めてね。追い出されちゃったよ」
「……奴なら可能だな」

 可奈子が行おうとしているのは、二ヶ月前に新館と別館を修復した術、それを浦島の部屋に限定したものだろう……また、借りが増えた。別館を破壊した件も、含めて

 だが逆に言えば、あいつに対しては貸しと借りで済むのだ。負い目すら感じない。私はいずれ、同等の対価を支払うという覚悟を決めていればそれで済むのだから。そもそも可奈子は私に対して負い目など求めていない。もしも私が逆の立場にいたのならまず間違いなくそう考えただろう。それが同類ということだ。

 だが、浦島に対しては――――それでは済まないし、済ませたくない。

 誠意とは、そういうものではないのか?

 だけど……結局、私にはたった一つしか、できることはなくて

「――――すまない」
「いいよ、俺は気にしてないから」
「……本当に、すまない」

 私は幾度、浦島に謝罪しただろう。

 私は幾度、浦島に謝罪しなければいけないことをしたのだろう。

 であるのなら、やはり、私に資格はない。想う、相手に、害為すことしかできない人間に――――恋する資格など、無いのは自明だ。

――――だから私は消えようと思う。

 黙れ。

「……なあ、浦島」
「うん」

 木刀の素振りを再開する。

 剣閃、剣閃剣閃剣閃剣閃剣閃剣閃剣閃。無尽に、無心に、空間に軌跡を刻むことだけに専念する。

 二ヶ月前のことを思い出す。消えろという声に耐え切れず、全てを否定したあの時。

 あの時、私は神鳴流極意止水に到達した。神鳴に於ける最強の矛にして盾、奥義秘剣を多重に振るう攻防一体の無敵に、私は、ただ我を忘れて凶刃を振るうだけだった私は、確かに足を踏み入れたのだ。

――――であるのならば、今まで積み重ねてきた正道は、果たして何の意味があったのか。

 そんな疑問も、木刀をひたすら振るう内に消えていく。剣閃、剣閃、剣閃。風切りすらも凌駕して、まさしく閃光のように。刃圏に舞い込んだ木の葉一枚を縦四つ横七つに分断する、果たしてそれが傍らの浦島に見えたかどうか。全身にして全霊、剣速は既に雷光。五感と六感と流気を駆使し、私はただひたすらに剣を振るい

 ぴたりと、木刀を横に払って動きを止めた。切り裂かれた大気が風を巻き起こし、ざあ、と物干し台の上を吹いていった。

 胸裏は無心のまま

「浦島、私は……お前の傍に、いても……いいのか」
「え……」

 それは資格という甘え。

 それは赦しという堕落。

 以前の私ならば、開き直って自ら浦島に依存すると――――そう、あの人に宣言した私ならば、けしてこんな考え方はしなかった。自らの意志で自ら望む場所を勝ち取れば良いだけの話だと、そう思った。ただ、そう信じることができた。

 だけど私は幼稚だった、現実を知らないだけの小娘だった。現実が自分の思う通りに進まないことを、自分の力がどんなにちっぽけなものかを、そして自らの意思がどれだけ脆弱なものなのか、知らなかった。覚悟しているつもりでも、私は何も知らない小娘だったのだ。

 私は、東大に落第した。

 証明されたのは、ただ現実。思い知らされたのは、自らの意志が無力。力無き理想に意味は無い、だから私は無意味な存在に成り下がった。自分の居場所を勝ち取る傲慢をも失って、だけどそれでもこの居場所を失いたくはないから

 資格という考え方。

 お前は、無条件で此処に居ていいのだという、堕落に満ちた考え方。

「うん……素子ちゃんが良いなら。俺は素子ちゃんに、側に居てほしい」

 ……私は、最低の人間だ。

 だって、だって私は……

 

 ざあ、と風が吹いた。

 

「よろしゅうやっておるようやなあ、素子」

 殺気

 を感じるよりも疾く後方に全力で木刀を薙ぎ払った。ほぼ背後からの白刃と衝突。異音、衝撃、浮遊。

「――――っ」
「素子ちゃん!?」

 剣圧に負け横方向水平に吹き飛ばされた、私に追撃する人影。迎撃。中空で横倒しとなった私と追撃者との間で瞬時七合の剣閃が交差した。その全てが必殺にして全力、だが双方の剣によって斬撃は阻まれ意義を果たせず。行き場を失った剣圧の余波が、代わり床を七方向に引き裂いた。そして八合目、ほぼ同時に

 神鳴流奥義 雷鳴剣
 ギシィッ!

 一点に集中した雷撃は衝撃波を引き起こし、私の体は更に吹き飛んだ。雷気が物干し台の一部を粉砕し、粉塵で双方の影が隠れる。私は衝撃波に耐えながら滞空時間を割り、足の裏と左掌を滑らせながら床に接地――――した瞬間、風のような疾さで襲撃者が側面に回り込んでいた。反応

 剣閃、剣閃。

 斬!

 技量と材質、双方の理由で三合目にして木刀が半ばより粉砕される。併せて十一合、よくぞ保ったと言うべきか。稽古で世話になった得物に感謝をしながらわざと体勢を崩して頭部狙いの四合目を躱わし勝負を賭ける。髪を何本か散らしながら、木刀の柄を手放し剣の間合いから一歩踏み込んだ。崩れた体勢から抉るように放つ掌はしかし見切られ、切り返す刃の軌道が交差する。よかろう、右腕一本くれてやる!

「雄々っ!」
「――――!」 

 見切られ、崩れた体勢からはけして届かない右掌―――――と相手の間を、雷光が埋めた。

 神鳴流奥義 真・雷光剣!
――――キュドッ! 

 体内に練り上げた気のありったけを爆発的な雷気に転換させる、時に決戦奥義とも呼ばれる半ば禁じ手。何故ならばそれは、本来自爆技だからだ。爆発させるのは加減も何もなく己の持つ全ての練気であり、しかも難度を上げる雷気転換まで行う。それを尚、弐之太刀にて自己を透過させなければ文字通りの自殺行為。神鳴流最大の威力を持つ技であり、同時に最高難度の奥義でもある。其れを私は、使いこなせるほどに高まっていたのだ。

 周囲全てを雷光が埋め尽くす。

 だが、それすら――――咄嗟剣を引き、瞬時に後退することで躱わされていた。

 私もまた、反動により広域に渡って火傷を負った右腕を庇いながら数歩後退した。もうもうと立ちこめる埃を介して、人影と対峙する。数瞬、その場を静寂が支配した。

「素子ちゃん!」

 静寂を破ったのは浦島の声。半壊した物干し台の上を駆けてくるのを視界以外の感覚で感じ取る。馬鹿、馬鹿め。私にもう余力はない。全力は今し方使い果たした。後に残るは抜け殻、形骸。自分はおろかお前を守る力すらないというのに

 それでも来るのか。来てくれるのか、馬鹿め。

 ならば勝とう。勝機が皆無だろうと関係あるか。死力を越えたその先に至りて鬼道に堕ちようとお前を守ろう。そんな死に方も悪くない。ああ、そんな死に方も悪くはあるまい。だから居てくれ、浦島。

――――そう決めた時、ざあ、と風が吹き

「……腕を上げましたなあ」

 埃が吹き散らされた物干し台の、その上に

 黒髪を風にたなびかせ、白と緋の巫女装束に身を纏い、ぱたぱたと舞い降りた式神を肩に留め、刀を納めて悠然と微笑む

 あの人が、そこにいた。

「――――姉、上」
「お姉さん!?」
「お久しゅう、素子、浦島はん」

 一年ぶりの、再会に

 一年ぶりの、何より敬愛し尊敬する、ただ一人の姉との再会に

 けれど私は、先刻の戦闘よりも遙かに硬直し、絶望に囚われるだけだった。

 ……ああ

 とうとう、来たのだ。

 私にとって――――逃げも隠れも、誤魔化しも拒否も許されない……その、時が。

 




「連絡の不行き届き……申し訳ありませんでした、姉上」
「ほな、素子は東大に合格しとるわけと違うたんか?」
「つーか姐さん。便りがないだけでそう思うんはちと早計とちゃいますか?」
「いや、ほらそこは素子ちゃんを信じてたってことで……」
「でも直前の模試も、モトコD判定やったでー」
「まあ、そういうチャレンジは前例幾らでもあるからなー、ココは」
「…………」

 その日、学校から帰ってきたら、ロビーで素子さんが土下座してました。

 周りには、はやし立てるスゥちゃんサラちゃんと、それをなだめる浦島先輩の姿。何故という疑問は会話の内容と、キツネさんにもてなされる絶世美人さんを確認してほとんど氷解しました。 

 素子さんの、お姉さん。

 以前に会ったのは一年も前のことだけど、忘れてはいない、忘れられるわけがない。あんな綺麗な人、忘れろという方が難しいと思う。素子さんも私にとっては手の届かない美人さんなのだけど、お姉さんは雲の上の人、のような感じ。素子さんにはない柔らかな笑みは本当に完璧。久方ぶりに目の当たりにしたその美貌にぼうっとしていると、少し離れたところにいる可奈子さんに声をかけられた。

「しのぶさん、あの人とは知り合い……なのですか?」
「あ、そういえば可奈子さんは去年いませんでしたよね。素子さんのお姉さんですよ」

 初めて目にするのなら驚くのも無理はない。素子さんと似てないとは言わないけれど、雰囲気はまるで超越している人だから。何よりこんな綺麗な人が在り得るのかという驚きが先に立つような人だし。

「あれが噂の」
「え? なんですか?」
「独り言です。意味もありませんし知らない方が身のためでしょう」
「はあ」

 可奈子さんがほんの少しだけ、眉を潜めて騒ぎの中心を眺めていた。なにか『大嫌いなものに対する感情を無理矢理に抑えつけている』ような気がするけれど、初対面のはずだからそんなはずもない。あ、今ああやって土下座している素子さんが苛つくとかそういう理由かもしれないけど。

「姉上……沙汰を」
「ほな……」
「ギロチンと電気椅子の準備はできとるでー」
「どっちかっつーと介錯の方が要りそーやけどな」
「てゆーか、どいつもこいつも死刑確定かよ、おい」
「お姉さん! 素子ちゃんが落ちたのは俺が側にいてあげられたなかったせいも……」
「黙れ浦島! これ以上私を惨めにするな……っ!」

 床に膝をつき、拳を握りしめて、素子さんが浦島先輩を叱咤する。今にも泣き出してしまいそうな、張りつめた叫び。誰もが動きを止めて素子さんを見た。一触即発。何より、素子さんの声は普段の凛とした調子が見る影もなく、ひどく心細いものだったから。

 その空気を破らないように、できる限り小さな声で、袖に両手を引き込んだ可奈子さんにそっと確認してみる。

「あの……浪人するって、そんな生死に関わる問題でしたっけ?」
「兄の場合も判明した瞬間、母の手で半殺しにされたらしいですが」
「ひぃっ」

 世の中は私の思ってたよりもバイオレンスなのかもしれない。

 けれどやはり、それも愛情があってこそなのだろう。素子さんのお姉さんも、家族が当たり前に大事だからこそ、こうしてこんなところまで来ている。愛情の反対とは憎悪ではなく無関心であると、家族にずっと邪魔者扱いされてきた私は思い知っていたから。

「……素子」
「……はい」
「全力を……尽くしはったか」
「……はい」
「敗れたか」 
「……はい」
「ほな……ウチから言うことは、何もあらへん」

 それは、素子さんが一人で決断し、努力し、そして行ったことなのだから

 他でもない青山素子なのだから

 全力を尽くしたに違いない。

 悔いを残したはずもない。

 そう、信じるからこそ――――今更、言うべきことも存在しない。

 それは、そんな

 形にして取ってしまいたいほどに、綺麗で強固な、姉妹としての信頼でした。

「……ありがとうございます、姉上……」

 素子さんが再度、深々と頭を下げる。隣の浦島先輩もまた、添うように御礼をしました。その様はまるで長年連れ添った夫婦のように自然で、病めるときも健やかなるときも、という一説が浮かんだ。同時、隣の可奈子さんが無表情になって袖から何か取り出そうとするのを取り縋って止める。勘弁してください。

 そんな騒ぎを、きっと知らずに――――お姉さんが、言葉を続ける。

「せやけど素子。これからどうするか……それは聞かせてもらいます」
「……姉上。それは」
「神前仕合が、近いさかいな」

 びしりと、素子さんとお姉さんの間に、目に見えそうなほどの緊張が走った。けれど他の全員、その緊張の意味がわからずに首を傾げた。それは浦島先輩ですらも同様で。いや、私がしがみついている可奈子さんの体が僅か硬直したような――――

「……私は」
「素子……ちゃん?」
「ま、せやけどいまだ決めかねてるようどすからな。どちらを選ぶか答えが出るまで、しばらく逗留させてもろうてよろしおすか、浦島はん」
「あ、はい。それは構わないんですけど……」

 それから

 お姉さんが「まあまあ皆さん、寿司でもどうぞ」と取り出したことで大騒ぎになり、その場はお開きになった。

 ……だけど一つだけ、気になることは

 どうして素子さんが、じっと俯いて、ひどく小さく見えるのだろう。

 何故、その表情は、まるで追い詰められた小動物のような雰囲気を漂わせていたのだろう。






 風が吹いている。

 半壊した物干し台の上で、女が一人、吹く風に髪をたなびかせている。

 天を見上げ、しかし何を見るでもない、何もしてはいない。ただ在るのみ。ただ一体となっている。血肉を持ったまま天地と一体化することが、瞑想の極みだと聞いたことがあるが……なるほど。

 ……化物とは、まさしく

「可奈子はん……でしたな」
「はい」

 背後からの接近は、案の定気付かれていた。現時点で敵対する理由はないので、隠行も使わず階段から歩いてきただけなので当然だが。たとえ全力で忍んでいたところで容易に悟られただろうと直感が告げている。私の知っている最悪の使い手、それと同じだけの格というものを、その後姿から感じ取っていた。気配ではない、動作ではない、ただの勘、臭いのようなものだ。アレには勝てない、コレに関われば死ぬ。絶対という言葉は好きではない、だけども確かに、それに近い力量差というものは存在するのだろう。

「こちらは、噂はかねがねといったところでしたよ……『天鈴』」
「懐かしい名や。実家でもそう軽々とは呼ばれへんかったけど。剛い子やなあ、可奈子はんは……さすが浦島の人間や」
「……『邪眼』から聞き出したのですね」
「おや、静馬はんとも御知り合いでしたか?」
「いえ、私が本格的に活動を開始したのはちょうど入れ替わりです。面識はありませんよ」

 かつて、青山素子の口にした『二度、浦島と戦った』という言葉。「ああ、そういえば一度ボコしたわ」と母から恐るべき裏は取った。ならばもう一度は、神鳴に関わり浦島を抜けたという男の存在しか考えられない。青山素子との間柄は義兄。頭の痛くなる話だ。

 とはいえ別に興味もない。腕前は並だったと聞いているし、何より私もまた今は浦島から抜けた身だ。『魔弾』や『御楯』や祖母が時折言葉の端に漏らす男の、素性など知ったことではない。だがこちらは、青山素子の姉であるこの女は、関知せずにすむ問題ではない。

「何時から?」
「浦島はんのこと、素子からの手紙で目にしたときは思わず吹きかけました。数奇なこともあるものどすなあ」
「私は、貴女が素子さんをひなた荘に送り込んだのかと思っていましたが」
「そこまで仕組んではおりません。此処は御婆様が譲歩した結果どすから、関わっとるとしたらむしろそちらの師範かと」
「ああもう、つくづく祖母はロクなことをしない」

 ひなた荘は一種の聖域だ。修行をするとしたらこれ以上の環境はないだろう。だがそんな善意だけで祖母が協力するはずもなく、もしかしたら私に対抗する戦力として青山素子を配したのかもしれない。何しろ現状、私と彼女はつくづく相殺するべき間柄になっているのだから。その采配の結果として兄と青山素子があんなことになったのなら、私は全てを返上して復讐鬼にでもなるのだが。

「せやかて、どう見ても浦島はんがその手の人間には思えんかった。可奈子はんに会えて疑問が解けました」
「ええ。兄は浦島流と関わりはないし、関わらせはしない。私の辿って来た全てを賭して」
「そか。浦島はんを守ってきたんは……可奈子はん、あんたか」
「はい」

 あの人には、こんな異常な世界になど関わってほしくない。あの人には、日の当たる場所で生きていてほしい。

 同じ場所に堕ちてほしいという衝動が、ないと言えば嘘になる。だけどそんな下卑た欲望よりも、ずっと強固で尊い存在として私の中に貴方はいる。堕ちてもらう必要などない。世界が続いているのなら、私が終わっていないのなら、私の方が兄のいる場所まで登っていけばいい、だけの話だ。

 だからこそ私にとって、青山素子の存在は冗談ごとではなかった。

「神鳴、退魔神鳴流……確かに最早形骸なのかもしれません。確かにまだ綺麗な方なのかもしれません」
「…………」
「けどやはり、あれも歴とした異常異質の側だ。そんなものに関わってほしくなかった。あの人に、そんな外道の領域を知ってほしくなかった。どうして青山素子をこんなところに差し向けた!」

 やはり、あれと私は同類なのだ。細かな違いは数あれど、根本的な方向がまるきり同じ。同族と言うほど一致しているわけではない。いや、だからこそ

 泥と血に染まったこの身と同じ側に立ちながら、剣を振るうのみの真っ白な在り方。

 反吐が出る、血反吐を吐きそうになる。高まるだけならいくらでも尽くそう。だけど、どうしても取り戻せないものがあるのではないのかと考えてしまう。純粋なものはすでに消費し尽くした。だからこれはただの八つ当たりだ、行ってきた事実は消せない、今更どうにもなりはしない。あの人が、ただ罪を厭んだだけで、私は終わる。

 だけど、それでも。今言わなければ、何時吐き出すというのだろう。

「そない言われても素子と浦島はんが出逢うたんは、ほんの偶然や。少なくともウチは、素子がああなるとも予想できませんでした」
「噂の最強を以ってしてもですか?」
「ウチかて神や仏と違いますからね。それに、全て素子自身が足掻き、選んだ道や。ウチに止める資格はあらへん」
「……ええ、わかってます。責があるのだとしたら、むしろ半分方はこちらでしょう、ね」

 兄が二度目の受験に失敗して実家を追い出されたその時に、ひなた荘に住めるよう根回ししたのは私だ。いや、そういう祖母の取引に応じたというだけなので、やはり手の平なのかもしれないが。あの時条件を飲まなければ、もう少し違った展開もあったのかもしれない。女子寮を追い出され、友人の部屋を転々とした末にボロアパートで一人暮らしを始めた浪人生のところにやってくる、見違えるほどに成長した妹。貧しいながらも助け合う兄妹、そして芽生える何か、とか。なんだかむしろそっちの方が楽だったのかもしれない。あの時はもう、屋根もないなんて不憫はさせたくないとブラコン全開で取引に応じてしまったけど。

 嘆息。つくづく今更、今更だ。責は追求されなければならない、でなければ犠牲になった全てがあまりに哀れだ。だけどそれも半分は自爆で、不毛極まりない理不尽を格納して私は次の問いを女に求めた。今度の用件は今更ではない。

「それで一体、『天鈴』ともあろうものが、何のために来たのですか」
「姉として、妹の顔を拝みに来るんが、そないおかしな事どすか?」
「生憎、その無難を真に受けるほど暢気な人生を送ってきたものではないので」
「難儀な方どすなあ、可奈子はんも」
「神前仕合、と言いましたね」
「…………」

 女がふと、黙る。ざあと風が吹き、だけどそれは物干し台の上にいる二人を僅かにも揺らさない。その程度で揺るぐような生半可ではない、互いに。

 祖母から話だけは聞いていた。京都の山奥で繰り広げられた、血で血を洗う化物騒ぎ。千年も続き今や形骸となった組織の、最強を以って長を決定するというだけの儀式。そして目の前で背を向けているこの女が、まさにその儀式を勝ち残った最強、なのだという。

 この瞬間に襲い掛かって仕留められるのか、否。私の為し得るあらゆる術理を以ってして返り討ちになるだけだと、戦士としての本能が絶叫している。今も、必死で距離を取ろうとする足を無理に押さえつけている体たらくだ。相手が強ければ強いほどに勝機の皆無を思い知らせ、剣を振るう必要さえない最強――――つまり、そういうことだ。

 神鳴流の神前仕合とは、そういう化物を精錬する為の儀式なのだろう。

「今回ウチは、素子の適性を見に来ました。果たして今の素子に、参加する資格があるのか、否か」
「意志ではなく資格、ですか。それで優勝者の目から見て、どうでしたか貴女の妹は」
「腕は随分上げとるようやな。アレなら成長も見越して、神前仕合にはギリギリ及第言うところですわ」

 アレでか。

 私は青山素子を過小評価してはいない。幾度も刃を交えた実感として、かなりの強さと評価している。例えば浦島流の誰と渡り合ったところで一方的とはならないだろう。奇襲必殺が浦島のスタイルだが、それを支えるのは個々人の奇抜極まりない戦闘能力だ。私とて同僚に全ての手札を見せたわけでも把握しているわけでもないが、それでも青山素子ならばそう易々と殺られはしないだろうと直感する。だがそれで及第とは。参加者は一体どんな化物揃いなんだ、その儀式は。

 女の肩に留まった鳥が「くえー」と甲高い鳴き声を響かせた。なにやらツッコミの臭いが感じられたが、私には鳥類の言葉なんて翻訳できない。

「せやけど素子も、心の方は随分溜め込んでおるようどすな……」
「ああ、それは同感です。つくづくあれは厄介な性格をしている。どうせならあのまま潰れてくれれば手間も省けるのですが、やたら頑丈な分性質が悪い。放置しておけば周囲丸ごと巻き込んで自滅するでしょうね」
「くえー」
「……何か今、そこの鳥から馬鹿にされたような」
「疾風といいます」

 さておき

 確認するべきことは済んだ。今回この女が出向いたのは私とは関係のない事柄であり、であるならば無理を押してこの最強に突っかかる必要性もない。ああ、いや、一つだけ。たった一つだけ、私が関わるべき要素はあったか。

「約束してください。兄に危害は加えないと」
「少なくともウチにそのつもりはありません。ただ、素子がどないするのか、見届けに来ただけや」
「善意悪意など知ったことではありません。結果としてそうなるようなら、私は構わず手を出しますよ」
「ホホホ、可奈子はん」

 ざあ、と風が吹いた。

「あんたと素子でウチに勝てると、本気で思うとりますか?」


 …………

 …………

 それから一言二言残して、青山素子の姉は物干し台から去っていった。私はその場を修復する準備を始めながら、しみじみ思う。

 ああ、私はあの女がどうにも好きになれない。あんな存在を姉に持った青山素子に同情すら覚える。もっともその環境はそのまま、私にとって母と祖母の存在に当てはまるので溜息は戻ってきてしまうのだが。自己憐憫は趣味ではないしキリがない、つくづく同類なのだと思い知らされるだけだ。

 しかしもちろん、私と青山素子は別人だ。例えば異なる点としては、青山素子の怯え様。確かにあれだけ並外れた強大を前にして、胸を張って接しろと言う方が難しい。私も母には気を許せない、それは戦士としての本能みたいなものだ。だが青山素子の怯え方は尋常ではない。暴虐な皇帝に対するよう、全面降伏を常に示す必要などないはずなのに。曲がりなりにも、物心つく前から共にいた家族ならば。

 きっとあれは、恐れているのだろう。
 
 何もかもを――――――畏れて、いるのだ。






 次の日。

 私は結局その日一日を、部屋に閉じこもり勉学に励むことで過ごすと決めた。

 姉上が来たことで浪人生としての立場、大学に落ちた身であることを再認識したせいもある。けれど本当は、単純作業を繰り返すことで目の前の選択肢から目を逸らしたかっただけなのだろう。この一年、私が事あるごとに物干し台に赴いていたのと同じ理由。けれど今、剣を振るって気を紛らわすことはできない。何より誇るべき神鳴としての道が、現実逃避の道具になっていると姉上に見破られたら、それこそただではすまない。

 だから勉学、か。己の浅薄に自嘲する。

 午前中、しのぶが来た。



「あの……お邪魔します」
「しのぶか……」
「麦茶とお茶菓子です、どうぞ。暑いですからね」
「ああ、すまない。恩に着る」
「勉強……頑張ってるんですね」
「立場を考えれば当然だろう」
「…………」
「…………」

 束の間、部屋を支配するのはカリカリという筆記の音だけになる。鳴き続ける蝉は背景として染みついた。強い日差しと、高い空と、ミンミンという雑音に追い立てられるようにして私はシャーペンを動かす。その沈黙を破ったのはしのぶの方からだった。

「お姉さんと、お話ししないんですか?」
「今私から話すべき事はない」
「浦島先輩に勉強、見てもらわないんですか?」
「あいつはあいつで忙しそうだからな。管理人と東大生という二足の草鞋だ、そうそう手を煩わせるわけにも行かないだろう」
「…………」
「…………」
「素子さん」
「なんだ」
「私じゃ、何の役にも立てないのは知っています。私は素子さんの事情を何も知りません」
「…………」
「だけど、素子さんがすごく悩んでいることはわかるんです。そんなの、一目瞭然に。みんなわかってると思います、みんな心配してると思います」

 筆を止める、止めざるを得ない。だが横からの視線に顔を向けることはできない。そのまっすぐな視線に捕らわれたが最後、私の矮小な精神が引き裂かれてしまいそうで

 しのぶは私よりも年下で、私よりも確実に無力な少女だ。実行力という点に於いては私や可奈子とは雲泥の差があるし、キツネさんのように弁舌に長けているわけでもない。唯一持ち合わせているのはなる先輩に寄せられるのとは違う種類の信頼だし、カオラのように無鉄砲で無邪気な行動が出来るわけでもない。本来が気弱な少女だ。

 だが代わり、しのぶは自分のことを理解している、自分の出来る範囲と出来ない範囲を十分に把握し、故に迷うことも自らに振り回されることもない。その理解を裏打ちにして、自分を当たり前に信頼している。その強さが、力ではない強さが、私には眩しくて、焼かれるほどに眩しくて

「でも、みんな同時に信じているんです。素子さんならきっと、何とかできるって。だからみんな、何も言わないんです。私に言えることも、多分一つしかありません」
「…………」
「頑張って……ください」
「何を、だ」

 しのぶが来た理由であろう最後の言葉に、私は噛み付いた。

 陰惨な炎が燃え上がるのに任せて、初めてしのぶに顔を向ける。背後寄りで律儀に正座をしていた少女が、え、と目を丸くした。暗い熱量が私の瞳には宿っていただろう。そして当然、不意を突かれたはずだ。当たり前の言葉にどうしてこんな反応をされるのか、しのぶにはわからないだろう。だが

 頑張ってくれ、とは――――何をだ?

「お前は立派な人間だ。ランクの高い高校に合格するという真っ当な目標を持ち、それに向かって日々努力し、そして見事に果たした。それは凄い事だ、誇るべき事なんだぞ、しのぶ」
「え、あ……その、ありがとうございます」
「だから」

 場違い極まるしのぶの感謝を遮り、私は口の端を引き攣らせる。今の私はきっと、歪んだ鏡に写したような醜い表情をしていただろう。しのぶがびくりと怯えたのが証拠だ。胸の中で燠火のようにくすぶり続けた、陰惨な炎に突き動かされ、続ける。

「だから――――失敗した私は誇るべき人間ではなくなったんだ」
「……え」
「成功した人間が讃えられるべきならば、それと全く同じ次元で、失敗した者は責められるべきだ。でなければ努力の意味と達成の価値が地に落ちる。周囲がどう言おうと、少なくとも自戒はしなければいけない。なあ、それは当たり前のはずだ。だから私はあの時から……惨めな人間に成り下がったんだ。私はお前が羨まし――――」
「……なんですか、それは」

 不意に。

 ぱん、と少女が両手で机を叩いて身を乗り出した。しのぶらしかぬ行動は激昂のあまりだろう。しかしその程度の示威行為に私は怯まない。厚顔無恥にその少女を見返す。小狡く反応を予想していたこともあるが、何より非常手段に対応するのが私の専門だ。であるならやはり、常人に混じって当たり前を行っていくことなど無理だったのだろうか。フリだけはできても、結局私の本性は。

 けれど流石に、次にしのぶが口にした言葉は予想の外だった。

「ふざけないでください! あなたには――――浦島先輩がいるのに!」
「――――――」

 それは

――――それはきっと禁句、だった。

 しのぶが怒りに瞳を燃やして、遣る瀬無さに歯を食いしばって、こちらを睨む。私は一瞬前とは逆に、無様に怯んだ。その迫力にではない。前原しのぶは、どう足掻いても私の脅威には成り得ない。だから怯んだのは、触れてはいけない部分を呼んでしまったという一種の後ろめたさだった。

「私がどんなに頑張ってもあの人は振り向いてくれない! 私がどんなに勉強しても、あの人は褒めてくれるだけで私を選んではくれない! 誰より大切な存在にはなれないのに……!」

 それは、ずっと抑えつけられてきた禁句であり、血を吐くような本音だった。

 ひなた荘という自分の居場所で心穏やかに暮らすため、平穏な気性を持つが故に、決して露わにしてはいけなかった禁句と本音。好きな人間がいるということ、好きな人間に好きになってもらいたいということ。当たり前に望む、当たり前の欲求が、けれど前原しのぶにとっては許されないことだった。何より、その少女の性根に於いて。

「私のことが羨ましい? ふざけないでください! ならいくらでも代わってあげます! あなたの居場所に私が立てるのなら、何だって捧げますよ!」
「…………」

 そんな想いを公言していれば、忌避と反感と哀れを呼び込むだけだから。この場所の居心地が悪くなるだけだから。私も、浦島も、同じ場所に住んでいるのだから。故に少女はその想いが存在しないがごとく振る舞うしかなかった。前原しのぶは浦島可奈子のような強固は持ち合わせておらず、そういった悪意と環境の悪化には耐えられない。己の脆弱と無力を知るが故に、その胸に抱いた羨望と嫉妬を隠すしかなかった。

 けれど私は不用意に藪をつついた。この少女にひどく残酷な言葉を吐かせることになってしまった。

「だけど……そんなのは無理だから」
「しのぶ……」
「私は私のままだし、どう足掻いても素子さんにはなれない。それは知っているんです……だから」

 前原しのぶは浦島可奈子のような強固は持ち合わせていない、それはあらゆる意味で。

 無理を承知で押し通るような性根も、障害を徹底的に排除して挑むような好戦も、嫌悪と悪意を微風程度にしか感じない無神経も、手遅れを認識しない思考停止も、想い人さえ傷つけることを厭わない倒錯も、持ち合わせてはいない。そんな非常識と狂気に何一つ染まっていない、普通の少女だから。無力で、そして幸福であるべき少女だから。

「だから……せめて、あなたは幸せでいてください。私や、成瀬川先輩や、可奈子さんより、浦島先輩を好きな他の誰より……満たされて、下さい」
「…………」
「素子さんには、その義務があるんです……恋をしたことが間違っていなかったって……諦めたことが間違っていなかったって……あれで良いんだって、思わせてくださいよ……」
「――――」

 ……何も、言えなかった。

 ……何が、言えたのだろう。

 半泣きになって、激怒と憤懣と羨望と哀愁の混在した瞳で睨みつけてくる少女に、何が言えたのだろう。何を口にしたところで、そんな資格はないと悟ってしまって。結局、私は

「……一人にしてくれ」
「…………」
「頼む」
「……は、い」

 すまない、とは口が裂けても言えず、だが少女の言葉をそのまま受け入れることもできず

 しのぶが立ち去るまでずっと、私は俯いていた。

 青山素子は選ばれた人間なのだと、少女は言った。

 青山素子は、一部の人間からすれば途方もなく恵まれた存在なのだと、少女は言った。

 そうでなければいけないと

 そうして、焦がれるほどに望み血を流すほどに努力を重ねてもその場所に立てない人間のことを考えるのなら、私に自己嫌悪は許されないのだと、少女は言った。

 だが、だが。私は現実として、ただ惨めな女でしかないのだ。言葉は想いを上乗せても、現実の前にはほとんどが無力でしかない。理屈はわかる、痛いほどにわかる。例えば、なる先輩が浦島と付き合っていたのなら、やはり私もあの人には十全の幸せにあって欲しいと望むのだろう。だけど私はもう、何を頼りにすればいいのかわからない。私は現実に対する、己の無力を思い知りすぎた。怖いのだ、恐ろしいのだ。もう何もかもが駄目なのだろうと思えてしまって。浦島ですら、求めた瞬間に居なくなってしまったらと思えてしまって。そうだ、私は何もかもが恐ろしい。

 現状の私にしのぶの言葉は受け入れられない。だけどそれでも、そのまま切捨てて藻屑とするのは、あまりに不義理にして恥知らずと知っていたから、私は彼女の言葉を理解しないまま胸のうちにそっと仕舞い込んだ。いつか、その言葉を素直に受け取れる日が来れば良いと

 昼過ぎ、スゥが来た。

「オーッス、モトコー。調子どやー」
「……それなりだ」
「ウチはさっきまでツルコに遊んでもろとったでー。ごっついなーツルコは。光学系兵器生身で防ぐなんてびっくりや」
「それが何かはよくわからぬが、流気にて先読みし弐之太刀にて切り払うのなら理屈上間に合わぬ攻撃はない、元よりそういう流派だ」
「おー、モトコも出来るんか?」
「いや。私はどう、なのだろうな……」

 銃弾を、光線を、防ぐ。神鳴独自の練気法に防壁結界の類はない。金剛流の方術を修めていないのなら、防御は躱わすか切り払うかに集約される。意思と気の流れを知覚する神鳴独自の感知法である流気と、鞘に収めたまま斬撃も可能とする弐之太刀。それらを極限まで高めたとき足を踏み入れる領域こそ極意流水、そして極意止水。今代では姉上のみが修めたとされる、神鳴流に於ける最強の境地。

 私は果たして、あの人のような強さを得ることができるのだろうか。『いつか、きっと』などという気休めを一切抜いて考えた時……こんな、女が。こんな、弱い女が。自他共に認める最強であるあの人の、後を継ぐなどと

「おーいモトコ、どないしたん?」
「ん、いや……なんだ?」
「なんかモトコ、ぎゅーってなってブツブツ何か言うとったでー」
「いや、なんでも……ない」
「ツルコのことかー?」

 指先で額に皺を集めて妙な表情をしていたスゥが、何のてらいもなく聞いてきたことに一瞬虚を突かれる。反射的にしのぶの言葉を思い出した。『みんな、素子さんのことを心配してるんですよ』

 内心を気取られないように、わざと軽く笑った。たったそれだけの行為に予想外の努力が必要だったが、しのぶに続いて妹分とも言える少女にまで心配をかけたくはない。その一心で、何でもないことのように流す。

「いや、少々難しい問題があってな、それを解くために考え込んでいただけだ」
「そっかー」
「ああ、それだけだ。心配をかけてすまんな」
「なーなー、モトコ」
「なんだ?」
「ここ、出て行くん?」
「――――っ」

 咄嗟スゥに振り返る、その表情は笑顔のまま、誰かのような仮面ではない。隠し事を見事に言い当てた子供のような、意味も価値も知らない能天気。私はといえば、きっとひどく無表情になっていた。噴き出しかけた感情を押し込めるあまりの無表情。それでもスゥは真偽を容易に見破っただろう。感情の機微については私よりもずっと聡い少女だから。

「ナハハー、当たりか?」
「……まだ決まってはいない、決めねばならないというだけのことだ……どうして、そう思った?」

 もう一度、スゥに背中を向ける。私の質問に初めて、スゥはわずかに言葉を詰まらせた。「んー」と表現方法を模索する少女は、もしかしたら困った顔をしていたのかもしれない。ほんの少し眉を下げて、人差し指を口に当てて

「ウチは王女やからなー。いつかひなた荘を出なあかん」
「は?」
「せやから、モトコの『いつか』が今来たかもしれん、思うただけや。ナハハ」
「…………」

 終わりは必ず訪れる、万物はその理から逃れることはできない。幸福に満ちた現状も、いつかは終焉を告げる。時間は進むのだし、昨日はもう戻ってこないのだから。それは真理だ。どんなに居心地の良い関係も、いつか必ず終わる。人は変わる、命は尽きる。

 驚いたのは、この少女がそんなことを考えていたという事実、そのもの。王女云々という初耳はさておくとして、常に能天気で天真爛漫で、プラスの思考しか知らないのではないかと思ってしまいそうな少女が、そんなことを口にしたという事実、そのもの。

「せやけどモトコ、まだ行かへんのやろ? まだひなた荘に居るんやろ?」
「…………」

 だが、それでもスゥはスゥだった。根本的にはどうあれ、態度は徹底的にプラスの方向。何事にも終わりはあると知っていて尚、翳りを見せないその考え方は、確かに強さと呼ぶべき要素なのだろう。

「何故、そう思う?」
「だってモトコ、帰りとうなさそうやん。せやからツルコにも会わへんのやろ?」
「…………」

 私は……『帰りたくない』のだろうか。

 為すべきことは決まっている、それは考えるまでもなく確かだ。この身は神鳴の一員であり、この居場所は仮初に過ぎず、そして私は引退した姉上に恥じぬよう青山家の継承者候補として剣の道を。それは決まっていたことだ。私が神鳴に生まれた時から、姉上が引退を決意した時から、あの山奥で余人の入り込む隙などなく、ずっと、ずっと。

 だけど、私は。ああ、かつて私は

『姉上、ウチには無理や!』
『ウチは……ウチは姉上のように強くもなければ、かすみ先輩のように純粋でもないもの!』

「なあ、スゥ、お前は」
「んー?」
「いずれ郷里に帰らねばならないことを、どう思う?」
「そらウチは王女やし、国のみんなも好きやからなー」
「そう……か、そう……だな」

 私よりもずっと未熟だと思っていたスゥですら、己の背負った使命と責務、それを果たすために必要な滅私を持ち合わせている。幻想の容易と無力を、何かを守るためには何かを切り捨てねばならないという現実を、人はいずれ死ぬという事実を……妹分であるこの少女は、しっかりと理解していたのだ。それも気負いなく口に出せるほど、骨身に染みて。私こそ、つくづく未熟だったわけだ。

「ところでモトコ、下でツルコのくれたお菓子開けとるんやけど、食うかー?」
「いや、いい。私の分はお前が食べてくれて構わない」
「おお、アリガトなー! ほなモトコ、頑張りや!」
「…………」

 最後はバタバタと騒がしく、スゥは去っていった。常の通り天真爛漫で騒がしかったが、別の一面を私は初めて垣間見た。こちらの目こそ節穴だったのかもしれない。

「……頑張れ、か」

 私にとって、神鳴とはなんなのだろうか。

 即答はできる。行く道。私が歩む剣の道。姉上がかつて極めた道であり、それを過不足なく継ぐことこそが青山素子に課せられた使命の全て。偉大な先人が道を引いてから、既に三年が経っていた。私は、まだ生きている。そして姉上はとうとう、あの時に出すべきだった返答を確かめに来た。だからこそ、もう逃げることはできない。二度も無様をさらすわけには行かない。

『姉上、ウチには無理や!』

『ウチは……ウチは姉上のように強くもなければ、かすみ先輩のように純粋でもないもの!』

 あの最強を前にして、二度も無様を晒すということがどういうことなのか。あの時から今までの三年間こそが、あの人の温情だった。選ばなければならない、今度こそ、今度こそ。

 この場所を捨て、神鳴に戻るのか。あの場所を捨て、ひなた荘に残るのか。

 剣士としての自分を捨てるのか、女としての自分を捨てるのか。

 目の前にある選択肢は、突き詰めればそういう意味に収束する。私がこれまでずっと積み重ねてきた過去と、私が此処で手に入れた現在。剣士として生きてきて、女として救われた。それはどちらも私にとっては掛け替えのない要素。選ぶことなどできるはずもない、確かに私を血肉として形作る、過去と現在。だけれども私は学んだ、骨の髄まで思い知らされた。何かを守るためには、何かを捨てねばならないということを。この世界は、けして夢想が通じるような場所ではない、ということを。

 私は選ばなければならない。

 けれど――――けれど、為すべきことは決まっている。私は神鳴として生まれ、神鳴として育ち、神鳴として責務を果たすために生きてきた。迷う余地など微塵もない。それが私に課せられた使命であり、進むべき道だ。

 それでも私は迷っている。迷うはずのない場所で迷っている。理屈の上で義務として、為すべきこと為さねばならないことが自明であるのに、こうして未だに決められないのであれば――――それは未練とか、そういう問題ではなく

『だってモトコ、帰りとうなさそうやん。せやからツルコにも会わへんのやろ?』

 スゥの言う通り、私の心情と本音は、帰りたくないという一念に支配されているのだろう。

 それが神鳴に対する裏切りと判っていて、尚。それが途轍もない不義理であることを知っていて、尚。

 だけれども、だけれども、それでも私は―――――選べない。

 夕方、可奈子が来た。

「二十時間ぶりですね。加減の方は如何ですか」
「今度は……お前か」
「今日は入れ替わり立ち代り御苦労だったようで。一応、朝食の席では放置しておくと決めてあったのですけど。気にかけられているというのは恵まれた環境ですよ、素子さん」
「……知っている」

 足音と気配を消して部屋の前まで忍び歩いてから、乱暴に襖を開けるという嫌がらせをしながら可奈子が訪れた。開口一番が私にとって最も耳に痛い事柄だったのは、当たり前のように嫌味だろう。向き直る。浦島可奈子に背後を見せるなど正気の沙汰ではない。何時、人の肝臓を一突きにしてくるかわからない女だ。それでも今の私では、力無い声で誰何するのが精一杯だった。

「何用だ」
「御挨拶ですね。管理人室と物干し台の修復が完了したので、伝達に来ただけです。ずいぶん派手に破壊してくれたものですね」
「……憶えておく」
「ええ、感謝など要りません。そのうち貸しは返してもらいますからね。しかしこれ以上は自重して下さい、やらされる方はつくづく迷惑です」
「…………」

 下唇を噛む。反論しようもない事実だ。嫌味そのものであるほどに正論だ。まず間違いなく言っている本人とて、目的のために周囲を破壊することを躊躇いはしないだろうに。可奈子の正論極まりない嫌味はその後しばらく続いた。そうして

「それではこの愚痴にて物干し台の件は水に流します。貴女相手に貸しばかり溜まっても使い道に困る」
「……わかった。すまんな」
「さて」

 可奈子が口をつぐみ、軽く息をついた。去る気配はない。入り口に立ち、向き直った私を見下ろしたまま。未だ用があるのだろう、だが何故即座に切り出さない。普段の可奈子ならまず間違いなくそうするはずだ。

 まさか迷っているのではないかという推測も、この少女相手では戯れ言に過ぎない。

「どうした、可奈子」
「私は……いえ」

 ひどく珍しいことに、紡ぎかけた言葉を少女が自分で中断する。まるで逡巡するような素振り。迷いなんて要素が浦島可奈子に存在するはずがないのに。そして結局口にしたことは予想してしかるべき、しかしある意味で予想外の質問だった。

「それでこの件、貴女はどうするのですか」
「……驚いたな、お前がそれを聞くか?」
「私は他の住人とは動機が違います。貴女とは不倶戴天の敵同士なのだから、動向を探るのは当然でしょう」
「ならば私にも答える必要はあるまい」

 そうして、双方の間柄を考えるのなら当然とも言える拒絶を、可奈子は

「ならば別館補修の貸しを行使します。今、この場で、正直に吐きやがってください」
「っ!」

 力押しで突破してきた。

 二ヶ月前、追い詰められた私が修羅に身を任せて破壊し尽くした、開かずの別館。如何に犠牲者が出なかろうと、如何に異界の一部だろうと、あれがひなた荘の一部であったことは間違いなく。それを一晩で修復した可奈子に、私は多大な貸しを作った。忘れたことはない。私とこいつの間柄だ、いつか無理難題を吹っかけられる覚悟もしていた。けれど、よりにもよってそれを今、使うのか!

「何故……そこまで私のことを執拗に知りたがる。敵を知るにもいささかやり過ぎだぞ」
「何、大した理由でもありません。ただの占いです」
「……なんだと」

 可奈子が瞼を半開きにして、私ではないどこか遠くを見やる。いずれ必ず訪れる未来を、眺めるような遣る瀬無さ。

「貴女は……私とは立場も境遇も、ちょうど線対称にある。決して同一ではない、けれど結局、対称ほど在り方として似通ったものはないのでしょうね」
「何を……言っている」
「ですから、占いです。素子さん、今貴女が直面している事態は、私にいずれ訪れる選択と同種のものなのです。であるならば、同じ轍を踏まないため参考にするのは別段おかしなことではないでしょう。至った心情も含めて」

 最後は一気に並べ立て、告げるその目に同情はない。他の住人のような感情はない。徹底して余分なものを削ぎ落とした無感情。為すべきことを為すだけの、どこか姉上にも通じる視線。それに怯えたわけでもないが、私は

「私は……結局、怖いのだと思う」
「怖い、とは?」
「為すべきことは理解している。そこにある個など関係ない、それが義務というものだ。けれども、押し潰すべき個はしぶとく生き延びて、浦島の傍にいたいと叫んでいる……!」

 為すべきことは決まっている。

 為したいことも決まっている。

 ただ、その二つが完全に相反しているのだ……!

 私はそのことを正直に、初めて誰かに口にした。脅されただけではなく、それを吐露したいという欲求があったからだろう。しのぶにも、スゥにも、こんな身勝手は吐けない。だが可奈子なら、この強靭極まる女なら、きっと

「なるほど、理解しました。度し難いバカです、貴女は」

 きっと、こうして私を嘲笑するだろうとわかっていたから

「そんな今更を、まだ乗り越えていなかったとは。つくづく剣術一筋に生きてきたのですね」

 そもそもからして、考える必要もないことだった。こんな選択が訪れるとは思いも寄らなかった。私には剣しかなく、私という器にはそれで充分だった。私には、生まれた時から姉上という揺ぎない理想があった。

 だけど、それは考えすらしなかっただけなのだ。私は、限りなく純粋な存在ではないのだから。姉上のような完璧ではない、ただの人間なのだから。そんなことは、色恋に堕ちた時点で気付くべきだったのだ。堕ちたなら堕ちたで逃避せず、突き詰めて結論を出しておく必要があったのだ。

「自分が厭になりますよ、こんな相手に二度も土をつけられたとは。潜った地獄が貶された気分です。つくづくこの世は信念の足しが少なすぎる」

 しょせん力が全てかと、可奈子が嘆息と共に吐き捨てる。そんなことは骨の髄まで思い知っているはずなのに、その職業暗殺者は演技をする。本当に憤っているような錯覚すら憶えた。ふと気になる。可奈子は私と自身が似ていると言った。であるならば、可奈子は私の立場に置かれたならば果たして何を想い、選ぶのだろうか。

 ……いや、それもまた判っている。けれど私にはその選択ができない。私の力は可奈子のように、個に宿ったものではない。私の刃は即ち神鳴。私が此処に残るというのは、剣を捨てるということに他ならない。それは、つまり

「可奈子……お前なら、どうする……」
「口にするのは尊過ぎることもあります。ましてや素子さん、貴女に漏らしていいことではない。少なくとも、兄本人に先駆けては」

 一切迷いなく、少女が言い切る、それが当然の帰結とばかりに。浦島可奈子は迷わない、それはきっと天性のものではなく、とうの昔に迷い切り突き詰めたが故の、鋼のような強靭。私には決して、得ること叶わぬもの。いや、私がずっと、得ることを怠ってきた強さ。

 青山素子と浦島可奈子の違いは

「だけど、私は怖いんだ……浦島の傍にいることを選んでしまったら、私は神鳴を捨てることになる……」
「…………」
「そうなれば、私は、剣しか持たない私には……もう、何も残らない……」
「――――」

 それが真理、それが真実。私はただ神鳴であり、であるならば後には価値など何もない。人間としても、女としても、未熟極まりない残骸が残るだけだ。そんな無価値で何ができるものか、何が守れるものか。

「そんな私で、浦島を繋ぎ止められるわけがない……」
「――――」

 なる先輩から、しのぶから、そして何より目前の、この脅威から。

 たとえ剣という要素で片付くような問題でないにしても、私が事に臨むにあたって絶対の頼りとしてきたのは紛れもなく、この力だった。実力行使という最終手段を、何時からか私は露骨に意識するようになっていた。それが何故なのか、考えるまでもない。私には女としての魅力など皆無だから。浦島のことを好きな他の誰かに、どうして対抗できるというのか。

 怖いのだ、本当に。恐ろしくてたまらない。

「それが……本音、ですか」
「……ああ」
「仁義も良心も誇りも友情も、全てかなぐり捨てた末の本音が……自分の恋を守るためならば同居人を斬り捨てることも厭わない、という結論なのですか」
「……ああ」

 可奈子がくしゃりと、前髪を右手で押さえて目元を隠す。その動作が示すのは極限までの呆れか、失望か。会ってから今まで、私がずっと可奈子に示してきた仁義と礼節。いや、生まれてから今まで培ってきた全てを、根こそぎ踏みにじるに等しい言葉は、しかし本音だ。私は、浦島を奪おうとするもの全てを、尊敬する人も可愛がる人も分け隔てなく全て斬り捨てる鬼畜生に等しい。

「そんなことを懺悔したところで私は告解も何も与えられませんよ。ただ、ああ同類かと思うだけです」
「別に……お前にどうこうしてもらおうとは思っていない」
「賢明です。その傾向を加速させるのならまだしも、一線を越えるのに躊躇っているようでは」

 髪と手で隠れた顔の、口元を歪ませる可奈子。その印象は抜き身、前髪を押さえた右手すら無手にして凶刃。私欲のためならば手段を選ばないという、その在り方の極地。私は、こんな存在になろうとしていたのかと怖気が走る。

「しかし俄然興味が沸いてきました、貴女の選択は参考にさせていただきます。適当に努力してください。結果次第では、まあ……ようこそ、程度は言いましょう」

 するりとその身で空気を割り、凶刃たる少女は立ち去った。

 私はといえば、最初から最後まで……その場で俯き、動けなかった。

 ああ

 ああ、私は……とうとう、認めた。口に出して、認めた。浦島可奈子という異常を相手とはいえ、認めた。

 自分がどれだけ卑しい人間なのか、どれだけ身勝手な本性を隠し持っていたのか、を。今やそれは内部だけの問題ではなくなった。言霊として存在し、安易に取り消せるような妄想ではなくなったのだ。

 相手が浦島可奈子だからこそ、一切の咎めはなかった。そういう反応を期待していなかったと言えば嘘になる。本来ならばなじられ、軽蔑されるべき暴言だった。当たり前だ。同じ寮に住み、日々助け合い笑い合い、良いところも悪いところも十分に理解し、尚且つ大事に思っている。そんな彼女等を――――斬り捨てる、ことすら厭わない、などと。外道畜生以外の何者でもない。

 以前の私自身ならば、間違いなく悪と断じた存在に、今の私は堕ちたのだ。

 ならば、やめてしまえばいいのか。

 私は私の育んだ正義の通り、こんな自身こそを断罪すればいいのか。そうすれば恐怖を無くして、浦島に対して過剰なまでの独占欲を抱くこともなくなり、大事な人達に対して畜生のように振舞う存在に堕ちることもなく

 そして、浦島を他の誰かに奪われる。

 …………

 ……嫌、だ。嫌だ。それだけは何があろうと、絶対に。

 今は、今は、浦島は私のことが好きだといってくれるだろう。今まではそれでよかった、それだけで安心できた。きっと永遠はあると、人の想いは折れることなどないと、信じていたから。けれど今の私は知ってしまった。人意の無力を、現実の残酷を。そして浦島可奈子。なる先輩も、しのぶも退いた倫理という一線を、容易く踏破してくるあの同類。

 そうだ、私もかつて同じことを言った。なる先輩に拒絶されて傷心した浦島に。それでも俺は成瀬川が好きだと、血を吐くように叫んだ浦島に、私は

『知っている』

『なる先輩の代わりでも、構わない』

 私は知っているはずだった。

 あの時、浦島となる先輩が疎遠になっていたのは単なる誤解だと、知っているはずだったのに。いいや、知っていたからこそ。

 人の想いは絶対ではない。そもそも私はその事実に付け込んで、自らの恋を為したのだから。この恋を続ける限り、その事実から逃れることはできないのだ。

 だから私は、なる先輩やしのぶに対して予防線を張り続けた。二年と半年、恋人としては何の進展もなかったのに、彼女然として振舞った。いいや、浦島が自分の所有物のように振舞ったのだ。手に入れた立場を能天気に喜ぶよりも先に、私には警戒すべき脅威があった。常に、常に、常に、それは私の中に。

 そうして疲れ果てた私は最後に、彼女等が抵抗しようがない武力を最終手段に用意した。剣士としては考えてもならないことを、私は胸の奥に伏せて皆と接するようになったのだ。だから浦島可奈子、あいつの登場は危ういバランスを一気に破壊した。可奈子は他の人間に遠慮しない、当然だ。あいつにとって私達は会ったばかりの他人であり、浦島の方に無条件で天秤が傾くのだから。人並の倫理も、私のような葛藤もない。加えて、私を三度打ち倒した実行力。

 勝てない、私はあれには勝てない。私は自分の限界、自分の力がどれだけちっぽけなものなのかを知ってしまったから。人の意志が絶対ではないことを知ってしまったから。この半年で思い知ってしまったから。私は弱い、相手は強い。ならば、いずれどうなるかは自明だ。

 怖い、私は恐ろしくてたまらない。いずれ必ず訪れる破局、それを象徴するように訪れた姉上。

 ああ、私は

 今は、浦島は私を好きだと言ってくれる。だけれども、どう足掻いてもいずれ失ってしまうのなら、私は

 …………

 そして夜、浦島が訪れた。









 その日の朝、素子ちゃんに「一人にしてくれ」と言われてショックを受け。その日の夜、もういいかなと彼女の部屋を訪れるまで。俺は素子ちゃんのお姉さんと話をしていた。

「お久しぶりです。その……以前は、どうもお世話になりました」「いえいえ、こっちこそ」という挨拶から始まった会話は、集まってきた他の住人も交えての雑談会になっていた。もちろん、俺も本当に一日中話していたわけじゃない。部屋に戻ったり管理人としての仕事をしたりもしていた。けれどお姉さんは、本当に一日中話していたんじゃないだろうか。訪れるみんなを相手にして、入れ替わり立ち代り。

 ひなた荘での日常的な笑い話、お姉さんの惚気話。それから一番多く話題になったのが、共通の家族である素子ちゃんのこと。京都の山奥で育った素子ちゃんの話を聞く。二年と半年で知った素子ちゃんの姿を話す。此処での姿を話したのは俺だけじゃない。しのぶちゃんも、スゥちゃんも、可奈子でさえ、俺の知らない素子ちゃんの姿を知っていた。

 それは当たり前のことだ。半年間の別離は置いたとしても。

 この半年間遠い海の向こうで、素子ちゃんは大丈夫だろうかと毎日のように心配していた。自分も東大に入ると言っていた少女。別れ際に髪を切って、餞別だと渡してくれた彼女。心配でないわけがない。素子ちゃんの成績は、けして優秀なものではないのだから。いや、それを割り引いたとしても、心配でないわけがない。

 だけど素子ちゃんならきっと大丈夫だと、俺はその不安を打ち消していた。真っ直ぐでひたむきで、退かず媚びずを貫く彼女ならきっと大丈夫だと。俺の留学先での生活が、大なり小なりのトラブルはあっても全体的には順風満帆なものだったから、受験がどんなに苦しく難しいものかという当たり前の事実を忘れていたのかもしれない。

 いや、いや。大事なのは結果そのものじゃない。勝負に絶対はないということ、元より分の悪い勝負であったこと。それは素子ちゃん自身が誰より承知していたはずだ。元より剣に生きてきた彼女なのだから。

 けれど俺は知っているはずだった。半年以上を賭けた勝負に敗れた時。どれだけの虚脱に襲われるのか、骨身に染みているはずだった。厳然たる事実に打ちのめされ、今まで積み上げてきた全ての努力が無駄だったと証明されたような錯覚を憶えて。

 だけど、それは違うと言っていけなければならない。成瀬川もむつみさんも居ない今、それを言ってあげられるのは俺しかいない。


 夜。

 完全に日が暮れ、夕食の時間帯を過ぎた頃、盆に食事を載せて浦島が私の部屋を訪れた。

「素子ちゃん、食事持ってきたんだけど……入って、いいかな?」

 夕食に出なかったのは姉上や皆と顔を合わせたくなかったからだ。その行動によって、また誰かが部屋に来ることは覚悟していた。今日だけでもしのぶ、スゥ、可奈子が訪れたのだ。だが、そうして来るのが浦島だとは、姉上に次ぐ最悪だった。私はまだ結論を出せていない。私はまだ、何も決めれていない。そんな無様で、一体どんな顔を浦島に見せろというのか。それこそがわからないというのに。

 けれど私は本当に、浦島に来て欲しくはなかったのだろうか。期待していたからこそ、夕食に加わらなかったのではないのだろうか。そして今、心底から顔を合わせたくないのなら、食事をその場に置いて立ち去ってもらうべきだったろうに。

「すまんな、入ってくれ」
「うん。じゃあ、お邪魔します」

 行儀良く一度廊下に盆を置いてから、浦島が障子を開ける。私は背中を見せたまま、机に向かってシャーペンを走らせている。顔は見せない、見せられない。どんな顔をすればいいのか、私はまだ決められていない。

「…………」
「…………」

 ことんと、盆を床に置く音。それを境にして、双方を沈黙が支配した。配膳だけが目的ならば、浦島とてそれで立ち去っているはずだ。ならば食事を持ってくるのは、部屋に入るだけの口実ということになる。何しろ私は、今日一日一人にしてくれと浦島に告げていたのだから。裏切られたとは思わない。私も初めからそれを見越して浦島を招き入れたのだから。

「……素子ちゃん」
「なんだ、浦島」
「素子ちゃんの実家の事情……お姉さんに、少し聞いたよ」

 口火を切ったのはやはり浦島だった。覚悟を決めて言いつけを破って、私の部屋に乗り込んできたのだから先手を取るのは当然だろう。だが、切り出したその言葉は少しだけ予想外で、私の動きを止めた。

「……どこまで聞いた?」
「少しだけ。実家の道場で儀式みたいなものがあって、それに参加しなきゃいけないこと。結果次第では、道場を継がなきゃいけないこと」
「そうか……そうだな。間違ってはいない」

 神鳴という退魔のこと、神前で為される仕合のこと、全て伏せて伝えるのならそんな言い方にもなるのだろう。姉上の心遣いに感謝する。希望を破壊するのならせめて、自分から話したかった。そんな思い切りが果たして可能なのかは置くとしても。

 浦島が、続ける。

「でも、あのさ、素子ちゃん。東大のことだって、そんな簡単に諦めなくてもいいんだよ」
「……なに?」
「俺もさ、何度も受験に失敗してきて。特に二回目の時は母さんに責められたこともあって本気で、実家の家業を継ぐことも考えたんだ。何より、二度も失敗したんだから、合格できっこない……って」

 浦島が、真摯な声音で語るそれは、一日前まで私が思い悩んでいた事柄、そのもの。そして経験者だけが口に出来る、ありきたりで実感に溢れた助言だった。

「だけど、俺は結局諦めなかった。そうして此処に来て、みんなと出逢えて。助けられながら……合格できたから」
「そうだな……一年前のことなのに随分、懐かしく感じるものだ」
「俺は全部、昨日のことみたいに思い出せるよ」

 浦島がひなた荘に来てから一年と半年間、毎日のように繰り返したドタバタ騒ぎ。あの頃は楽しかった、あの頃は何の悩みもなかった、と感じるのは懐古趣味に過ぎるのだろうが。それでも、現在を忘れて過去を振り返るのは心が安らぐ行為だった。現実逃避に、過ぎないとしても。

「思い返してみれば、よくもあのような勉学に向かない環境で東大になど合格できたものだな。なる先輩やむつみさんはともかくとして、特にお前が」
「ま、まあそれがひなた荘だし……それに俺は東大合格よりも、もっとずっと大切なものをみんなに分けてもらったと思うんだ」
「それは、なんだ?」
「この日々の思い出を」

 言って、浦島は私に対して微笑んだ。背中を向けていて目視は出来なかったが間違いない、賭けてもいい。浦島は今、満ち足りた笑顔を私に向けている。

「俺は三回も東大を受けて落第したけれど、それが無駄だったとは絶対に思わないと誓えるよ。未来永劫、このひなた荘での思い出がある限り」
「――――――」

 浦島とて、順風満帆な人生を送ってきたわけではないはずだ。その片鱗は私とて充分に知っている。家族という生まれつき変え難い要素でさえ、あの母親と妹の存在を考慮すれば、尋常な半生ではなかったはずだ。このような温厚に生まれ育ったのは奇跡か必然だろう。その上で、なる先輩と幼い頃に交わした約束を愚直に守り続けるという歪みを抱えて十数年を越え、三年間を浪人として過ごした。それは傍目から見ても愚かな生き方だ。それを傍目から見たのなら、無駄と断ずる人間もいるはずだ。いや、一般的に見てさえ無意味だろう。

 だが他でもない浦島景太郎が、それはけして無駄ではなかったと、言ったのだ。

 浦島は常識人だ。異常に囲まれた環境で育とうとも、当たり前の常識と幸福観を備えている。だからこそ、その生き方は苦痛だっただろう。一般的に見て無意味でしかない人生を進んでいくのは、ひどい空虚に脅かされたはずだ。浦島が如何なる理由でその道を選んだのかは定かではないが、それだけは間違いない。一度でも後悔、しなかったはずはないのだ。浦島は、ただの人間なのだから。

 けれど、それでも、浦島はその全てが無駄ではなかったと、言ったのだ。ただの人間の浦島が、異常に染まるのではなく現実に屈するのでもなく。ただの人間のままで後悔と諦念を乗り越え、ただの人間の強さを以って、それらの苦難を忘れないと、無駄ではなかったと、認めたのだ。

「だから……素子ちゃんがどんな道を選ぶにしても、素子ちゃんが越えてきた日々は絶対に無駄じゃない。それだけは……信じてほしい」
「浦島……」

 その、言葉は

 この期に及んでも顔すら向けない、愚かで頑なな女の背中を貫いて胸裏に達し

 その、暖かく力強い、愛する男の励ましは

――――――私の心を、ずたぼろに打ちのめした。

 もしもその言葉が一日早かったのならば、私は全ての苦悩を救済されていただろう。

 大学受験に失敗したという事実。浦島が不在の間、自分が半年以上を費やしてきた努力が実を結ばなかったという事実。その事実を起点として、私は己に対する無力感に支配されていた。自分には何もできないのだという錯覚に支配されていた。だけど浦島は自分の業績を証拠として、その失敗は無駄ではないと言ってくれた。私が此処で為してきたこと、全てに無駄など有りはしないと、保証してくれた。過去に繋がる現在にだけ思い悩む私だったのならば、一日前までの私だったのならば、その言葉で救われていただろう。浦島に対する想いを、また一際強くして。

 浦島。だけど、姉上が来たんだ。

 執行猶予は終わりを告げた。私は選ばなければいけなくなった。彼処に戻るか、此処に残るか。過去に繋がる現在を肯定して救われる段階は既に過ぎ去っているのだ。今は、未来を決めるために現在を捨てなければならない。浦島、もしもその言葉が一日早かったのなら、私はせめて覚悟を纏ってその選択に挑めただろうに。

 為すべき事は決まっている、為したいことも決まっている。私は神鳴に戻るべきであり、私は浦島の傍に残っていたい。だけれども結果はいずれも同じ、私は浦島を失って終わる。この場所の思い出を胸に抱いて神前仕合に臨んだのならば、私はどう足掻いたところで死ぬか当主になるかしか、なくなる。神鳴である自分を捨ててひなた荘に残ったとしても、技と誇りを失った青山素子では浦島可奈子に絶対に叶わず、唯一残された浦島ですら奪われる。どう足掻いたところで結果は同じ。この選択を過ぎたのならば、私は一番大切なものを失う。それが早いか、遅いか、だけの話だ。

 ……こんな選択など、選びたくない。

 そんな未来など、選びたくはないんだ……!



「う……あ……」
「素子ちゃん!?」

 ずたぼろに打ちのめされた私が、結局浦島に向けたのは、無様極まる泣き顔だった。振り向いて浦島を正視した目から、ぼろぼろと涙がこぼれている。一日部屋に閉じこもって悩みに悩んで、けれど結局浦島に向けたのは、毅然とした真顔でもなく、全てを悟った微笑みでもなく、無様極まる泣き顔だった。

 その場に四つん這いになって、直視を避ける。それでも浦島は私の泣き顔を見たのだろう。床に両肘をついた私の肩を、支えようとして戸惑っている。何故だかわからなくて。今の励ましの何処に、私の泣き出す要素があったのかわからなくて。

「ど、どうしたの!? どこか痛いの?」
「うら、しま……私を……」
「う、うん」

 助けを求めてはいけないと、知っていた。

 あの日から、半年前に空港で浦島と別れを告げたあの日から、私達は自立すると決めたのだ。それは他でもない、私達自身のために。私達自身の過去が決して間違ったものではなく、私たちの紡ぐ未来が必ず訪れると信じるからこそ。独り立つのではない、二人共に自ら立つと決めたのだ。それは尊いことだ。誇りに満ちた、尊い道だ。

 だけど、選択と未来に打ちのめされた私は

 誇りと、誓いを、打ち棄てて、ついに

 浦島に、無理を求めて、しまった。

「私と一緒に……何処かに、逃げてくれ……」
「――――っ」

 行くのか、残るのか。どちらを選択しても、私は結局浦島を失うことになる。

 ならば、選択などしたくはない。今この瞬間の、浦島と、浦島を守る力を持ち合わせた自分がずっと続いてくれれば。それで他に望むものなどない。誇るべき神鳴の資格を打ち捨てて、愛すべき同居人達を裏切って、ただ好きな男を失いたくないだけの、それは最悪極まる本音だった。

 それが、ただ逃げているだけだとしても、ただ逃げているに過ぎないとしても、私は

「…………」
「…………」

 私は、とても浦島の顔を直視できず、ひたすらに床を見つめて

 浦島は、同様の気配を必死で押さえながら、どうするべきかを考えて

 結局、その沈黙を破ったのは

 その日の末に訪れた、息すら固まるその泥沼に、終止符を打ったのは

「――――――あかんな」

 横に、立った、姉上、だった。

 何をどう、足掻いても

 何を、どう、足掻いても

 私という存在は、逃れることは出来ない。

 だけど、それでも

 だけど、それでも――――――



「お、おおおおおお姉さんっ!?」

 浦島が驚愕の余りずざざと後ずさる。驚くのも当然だろう。姉上が何時の間に部屋に入ってきたのか、二人共に全く気付かなかった。それだけ姉上の身ごなしは極められており、それ以上に私と浦島は互いに没頭していた。浦島が驚くのは当たり前だ。

 だけど私はじっとその場に肘を突いて、顔すら上げようとすらしなかった。頭の何処かで予想していたこと。私は姉上から、逃れることなど出来ない、と。

「素子、ウチは言うたはずやな。選びなはれ、と」
「…………」

 姉上が無様にうずくまった私を、数歩と離れていない距離から見下ろしている。直視は出来ない。だけどわかる。その視線はきっと氷のように凍てついているだろう。肉親としてではなく先人としての姉上。一片の躊躇も容赦もない、神鳴流最強の剣士。

「あんたが残る言うならそれでもええ。人並に暮らし。ただしその場合、神鳴の技だけは奪わせてもらうわ。人並に生きるのなら無用の長物やからな」
「――――――」

 姉上の、感情の一片たりとも込められていない言葉は、しかしこれ以上無いほどの正論だ。神鳴の意義は徹頭徹尾退魔にあり、それ以上でもそれ以下でもあってはならない。私欲でその技を必要としている、私が邪道に過ぎるだけだ。無辜の民に、ただ恋敵であるだけの無辜の民に私怨で以って力を振るう、そんな人間に神鳴の技を持つ資格などない。それは正論だ。非の打ち所のない正論だ。

 だけれども、正論に従えば私は敗北する。平穏の中では私に魅力など皆無で、なる先輩にすら容易に敗れ去る。そもそもからして、私はなる先輩から浦島を、邪道にて略奪し全てを始めたのだから。

「素子ちゃん……そう、だったの……?」

 この期に及んで、ようやく事態を半ばだけ把握し始めた浦島が誰何を私に投げかける。だけど私は答えられない。教えることなど出来ない。私は神鳴かひなた荘のどちらかを捨てねばならない。それも今直ぐに。浦島は事態がそこまでのものとは思いも寄らなかったのだろう。当然だ。私から話していなかったのだから。

「ま、待ってくださいお姉さん! 素子ちゃんはきっと今年は合格できますから! それまで……」
「浦島はん、神前仕合の方はもう一年も待ってはくれまへん。仕上げも考えておくのなら、決めるのは今なんや」

 姉上、言わないで、言わないで、言わないで。浦島にそんな破局を伝えないでくださいと、心の中で懇願する。膝と肘でひざまずいた土下座にも似た姿勢で、何より何もかもに屈服して。そんな懇願に気付いているだろうに、姉上は一片の情も見せないままに真実を告げた。

「素子が青山の候補として神前仕合に臨むのなら、ウチと今すぐ京都に帰ってもらいます」
「……っ!?」

 ……ついに

 ついに、ついに、とうとう

 私の破滅が、浦島に知らされた。この関係の終局が提示された。

 いや、ずっと以前から提示されていたことだ。少なくとも私には。浦島の言ってくれた、二人の未来。そんなものが存在しないということは、初めからわかっていた。それが私の義務、私の現実。だけど言えなかった。私から浦島に言い出すことが結局どうしても出来なかった。

 だって、浦島と過ごすのは幸せだったから。

 何時まで経っても真に強くなれず、事あるごとに落ち込む私を、浦島は放っておけずに励まし慰めてくれる。時折、好きだと言ってくれる。私は何よりその行為に救われて、その現状に幸福を覚える。姉上さえ来なければ、先刻もそうだった。私はただ幸せでいられた昨日が続いてくれれば、それで他には何も要らなかった。

 わたしはしあわせだったから

 どうして時は止まらないのか。どうして日々は繰り返さないのか。

「せやけど素子。それすら選択できへんのなら、どちらにしろ浦島はんを娶る資格があんたにあるとは、思えんけどな」

 そして

 姉上が、無様に蹲る私に、当然を述べるがごとく淡々と告げた言葉で


 私の中で、不意に、何もかもが引き千切れた。


 ………………ああ






 ……俺は

 今まで何も知らなかった、知ろうともしなかった。思いを馳せることさえ、しなかった。素子ちゃんにどんな事情があるのか。剣のこと、実家の道場のこと、その片鱗は知っていたはずだったのに。

 だから、こうして今、お姉さんから聞かされた言葉にただ驚愕することしか出来ない。

 夜中のひなた荘、素子ちゃんの部屋で

 まるで幽霊のように現れて、素子ちゃんに選択を迫りに来たと、此処に来た理由を語ったお姉さん。この中で一人立ち、素子ちゃんを見下ろしている。

 俺が励ましに訪れて、突如泣き出してしまった素子ちゃん。彼女は床に膝と肘を突いて、まるで懺悔するように俯いている。

 そして俺はといえば……情けないことに完全に気圧されて、お姉さんが現れた瞬間にみっともなく尻餅をついたままで。

 素子ちゃんがひなた荘に残るのなら、剣の道を捨てなければいけないこと。素子ちゃんが実家に帰るのなら、それは今直ぐでなければならないということ。お互いの真剣と深刻を考えれば、その帰郷はそう簡単に戻ってこれるようなものではないと、容易に想像できた。いや、もしかしたらもう二度と……!

 そう、考えたのなら。素子ちゃんの懊悩と苦しみは想像を絶して余りある。たった一人そんな選択肢を突きつけられ、一日中部屋に閉じこもって考え抜いて。俺はその期に及んで、素子ちゃんが突然泣き出してあんなことを言い出した理由を理解していた。一緒に逃げてくれと、よりにもよって素子ちゃんが言い出すだなんて。どれだけ追い詰められていたというのだろう。

 俺は、何をしているんだ。

 驚くよりも事態を見守るよりも、もっともっとこの場ですべきことがあるじゃないか。自分を責めるよりも、すべきことが今この瞬間にあるじゃないか。情けなくへたり込んでいる場合じゃない。

 まるで肉親に対しているとは思えない視線で、素子ちゃんを見下ろすお姉さんは確かに怖い、恐ろしい。以前に片鱗を垣間見たその強さと冷酷を思うのなら、俺など一瞬で斬り捨てられてもおかしくはない。

 けど、だけど。だからといって今此処で立ち上がらなかったのなら、俺は何のためにこの場にいるというのか。俺は何のために帰ってきたというのか。

 そうして、何が出来るともわからないまま、何を言うとも決められないまま、それでも立ち上がるまで、多分五秒と迷ってはいなかっただろう。だけど、その場を支配した五秒の逡巡が、俺より先に素子ちゃんが動く隙とした。

 そして

 


「……私は、幸せでした」

 

 

 その、言葉が、部屋の空気を、止めた。

「あまりに幸せすぎて……幸せである自分に気付かないぐらい、満ち足りていました……」

 素子ちゃんが、膝と肘を着き、顔を俯かせたままで、語るその言葉は。まるで辞世するような、内容で

「なにより、浦島がいてくれた……こんな私のことを好きだといってくれる、浦島がいてくれたんです……」

 俺は、立ち上がれない。今すぐ立ち上がるべきだと頭ではわかっていたのに、何故だかどうしても立ち上がれない。

「この日々が、ずっと続いてくれたのなら……他には、何も、要らない。本当に……そう、願います」

 お姉さんが、僅かに表情を動かした。それは哀れみだったのか、呆れだったのか、怒りだったのか。僅か過ぎて読み取れなかったけれど

「せやかてあんたも、何時かは選ばなあかん。それは重々承知のはずや。今更夢物語ばかり口にしてたかて」
「……姉上」

 素子ちゃんが、その時初めて、お姉さんの言葉を遮った。膝と膝を床について、土下座するように俯いた姿勢のまま


「邪魔、です」





 神鳴流極意止水の名が元に奥義斬空掌斬空掌斬空掌斬空掌斬空掌斬空掌斬空掌斬空掌斬空掌斬空掌

 轟



 私にはずっと判っていた。姉上が来るまでが、この幸せの限界だと。姉上が来たら、私は。

 だけれども、私は幸せだった。昨日がずっと続けばいいと、心底願う程に

 でも、考えてみれば簡単なことだったのだ。

 姉上さえ来なければ、この幸せはずっと続いていくのだから

「――――――え?」

 その瞬間、何が起こったのか、俺は理解できなかった。

 だから俺が認識したのは、結果のみ。

 一瞬前まで、確かにそこに立っていたお姉さんが、今は居なくて

 お姉さんが立っていた向こうの壁に、人間一人が簡単に潜れるほどの大穴が開いていて

 空き部屋だったその隣室が、滅茶苦茶になっているのが穴から覗けた。

 そして、素子ちゃんが蹲った姿勢から、ゆっくりと立ち上がる。

 俺は、立ち上がれない。どうしても、立ち上がれない。

「ああ……はじめから、こうしていれば、良かった……」
「……っ!」

 瞬間、その声音を耳にして、怖気が走った。

 その言葉の意味を理解するよりも早く、声音が俺の神経を冷凍した。先刻までのお姉さんが発していた、肉親に向けられるものとは思えない冷たさすらも飛び越えて。まるで機械が、無機物が言葉を発するような不自然に、怖気が走った。感情が薄いのでも、抑えられているのでもなく、無い。平板で、平坦で、言葉の内容と全くそぐわない無感情。

 そんな声音が、同じ人間から発せられたという事実こそに、同じ人間が発することができるという事実こそに、怖気が走る。

 そして、素子ちゃんは

 立ち上がり、ゆっくりと、立ち上がれない俺の方を、向いた。

「浦島、私は、幸せだ」

 その表情は、完全なまでの虚ろ、無感情。俺が今まで見てきた、凛とした真顔でも歪んだ泣き顔でもなく、零。感情を抑えた結果の無表情ですらない。表すべき感情を、何も持たないが故の無表情。

「浦島、私は、これで幸せだ」

 尻餅をついたままの俺はその期に及んで、自分が立ち上がれなかった理由に気付いた。

 がくがくと、足が震えている。

 目の前の、異常に対する、恐怖で。

「…………」
「う……」

 その恐怖をキッカケにして、今、何が起きたのかをようやく理解した。いや、想像できた。

 素子ちゃんが、お姉さんを攻撃したんだ。

 床に膝と肘をついて、土下座のような姿勢の素子ちゃんが、目の前に立つお姉さんに、何らかの方法で不意を打った。

 過程は俺の目には見えない。だけど結果としてお姉さんは途轍もない衝撃によって吹き飛ばされ、壁に大穴を穿つような速度で激突した。無事かどうかは、わからない。だけど普通の人間は、目にも留まらないような勢いで壁に叩きつけられたら無事ではすまない。

 でも、そんな馬鹿なことが有り得るのか。

 素子ちゃんが自分のお姉さんをどれだけ尊敬しているのか、どれだけ敬愛しているのか、俺は良く知っている、知っているはずだった。劣等感さえ混じった感情は、それだけ強固に素子ちゃんの中に根を下ろし礎となっているはずだ。加えて、剣士としての自分に誇りを持っている素子ちゃんが、不意打ちなんて真似をするはずが無い。

 はずが、無い。

 はずが無い、のなら。目の前に存在する青山素子の姿をした少女は、一体ナニモノだというのか。

 『彼女』は、じっと俺を見下ろしている。何をしようともせず、何を言おうともせず。

「…………」
「っ!」

 けれど不意に、『彼女』が右手を伸ばしてこちらに向けた。指先をだらりと脱力させて、死者のように幽鬼のように、まったく感情を表さないまま俺に手を、伸ばした。俺は咄嗟喉の奥で悲鳴を押し殺す。生まれてこの方感じたことのない危機感に体が勝手に凍りつき、本能が絶叫していた。逃げろ、逃げねば殺されると。それには理由も理屈も関係しない、ただ目の前にあるものをことごとく打ち倒すだけの存在なのだと、本能が絶叫している。

 普段の素子ちゃんにそんな危機を憶えたことなどない。人間一人を容易に打ち倒せる技を素子ちゃんが有していることは、骨の髄まで知っている。だけどその認識以上に、俺は素子ちゃんが人間一人を躊躇なく打ち倒せるような娘ではないと知っていたから。だから俺は、素子ちゃんを恐れたことはない。

 けど、目の前の『彼女』に、俺は恐怖を抱いている。人間一人を打ち倒せる技を持った人間が、今まさに人間一人を無造作に斬り捨てた。そんな認識を。凶器を手にした殺人鬼が、次の獲物を求めてこちらを見た。そんな錯覚を憶えてしまった、俺に

 『彼女』は

「来い」

「……堕ちたか、素子」

 女が、体に引きつけるよう両手で構えた長刀を、とんと浅く柱に突き立てた。その口調に残されるのは僅かな哀切。

「弐之太刀」

 来い、と

 『彼女』が初めて明瞭に発した、その言葉の意味を、俺が理解するよりも、早く

 部屋を真一文字に両断するような斬撃が発生した。

 斬

「――――!」

 直前までの恐怖によって高められた集中力で、今度こそ俺は何が起きたのかを目撃した。

 壁を、箪笥を、柱を。この部屋のあらゆる物体を透過して、俺の頭すれすれを掠めながら、気の刃による薙ぎ払いが『彼女』を襲う。

『彼女』は

 手首以外は表情すらも微動だにせず、横合いから独りでに飛び込んできた妖刀ひなを右手に執って、斬撃と自分の間に割り込ませた。それはまるで、何回も練習を繰り返したような自動的で滑らかな動作。

 衝撃

 音が響くというより空気が炸裂した。錯覚なのだろうが火花が散る。気の刃を無造作に刀で受けた『彼女』は、しかし受け止めきれずに後方に吹き飛ばされた。羽毛のように『彼女』の体がふわりと浮き、背後の壁に叩きつけられる

 そう思った瞬間、衝突しかけていた壁が積み木で構成されていたかのようにばらりと崩れた。ほとんど勢いを減じないまま、バラバラになった壁の残骸を押しのけて、中空に放り出される『彼女』。そうして、部屋の中には俺だけが取り残され

 そこで、世界に音が戻った。極限の集中が解け、押し寄せたのは大量の疑問だった。

 今、何が

 何故、でもない。どうして、でもない。一体何が起こっているのか、そもそもそれがわからない。素子ちゃんがお姉さんを攻撃した、お姉さんが一切の躊躇無く反撃した。それはわかる、否応なくわかる。だけど一体、何が素子ちゃんの身に降りかかってあんな――――――姉妹で、殺し合いを。

 ゴッ!
「!?」

 直後、ひなた荘を激震が襲った。その後も中庭で響く、連続した破壊音。『彼女』とお姉さんが戦っている。周囲に破壊を撒き散らしながら、周囲を気にする余裕すら無くしながら。

 俺は、どうするべきなのか、瞬時に考える。逃げるべきなのだろう。管理人としての責任を負うのなら、みんなを連れて逃げるべきなのだろう。二人の戦いを止められもしない、非力なこの身を鑑みるのならば、それが最善。選択の余地など無い。

 だけれども、俺は

 それでも、俺は――――――







――――――私は、幸せでした。

 

 三階の自室から弾き出され中庭に墜落する青山素子を、追撃すべく窓から飛び出した女はその時点で罠に気付いていた。

 視

 重力に捕らわれ落下する青山素子は、しかし空中で横倒しになりながらも女にぴたりと視線を合わせていた。加えてその手に持つ妖刀の先端は、銃口のように追撃する相手に向けられている。

 神鳴流奥義竜破斬
 神鳴流奥義斬空閃
 ギッ! ゴバッ!

 落下しながら青山素子の放った特大の気刃を、女は自らも中空に飛び出しながら全力で上空に叩き上げた。躱わすか斬り捨てるかしたのならば背後の建物自体吹き飛ばしかねない一撃、女に他の選択肢は存在しなかった。だがそれでも、逸らす角度が足らず屋根を掠める。ひとたまりもなく屋根の一部が爆砕し、ひなた荘が大揺れに揺れる。

「くっ」

 そして、気刃を空中で弾いた反動で女は地面に急角度で落下。曲芸じみた体捌きで体勢を立て直し、脚から接地するも衝撃を殺し切れず膝と片腕を突いた。

 瞬間、中庭に立つ松の木を蹴って反転した青山素子が、体ごと飛び込みながら刃を

 一閃

 敢えて練気を行わず、一瞬地面を向いた女の頭部を狙った一撃は、咄嗟更に体を沈めることで回避されていた。全力で振り抜かれた黒刀は、女の見事な黒髪を三本断ち切るに留まる。斬撃の直後で青山素子の動きが止まる。だが極意止水の名が元に、奥義斬魔剣が七つの軌跡を辿って女に殺到した。

 神鳴流奥義雷光剣弐之太刀
 キュドッ!

 中庭の夜闇を雷球の閃光と轟音が引き裂いた。青山素子は瞬時にして太刀筋を変更し、自らの存在する領域を侵す高熱を斬り開く。そして自身を中心として雷球を発生させた女は、その高熱から自らを透過させて反対側へ離脱した。彼我の距離七mで、足を踏みかえたのは同時。

 ぬるりと、女が死角を縫う。

 ぬるりと、青山素子が死角を縫う。

 大気を揺らすのなら不可視を躱わし、意思さえ伴うならば光速を見切る。それが人の身にて人外を滅するがために、星霜と血の上に打ち立てられた神鳴の技。

 ほぼ同時に大地を蹴った青山素子と女の姿が、あらゆる認識から掻き消えた。断続的に視界を掠める影が、幽霊のごとき唐突を伴う。

 神鳴の達人が、時に認識すら困難な神速を発揮する『ように見える』のは、その技法を用いて観測者の死角を渡り駆けるが故である。死角に攻撃は届かず、死角からの攻撃は防げず。およそ意思、方向性を持つ存在ならば不可避の理屈。故に神鳴同士の戦いでは、流気の技量差こそが主導権を握る鍵となる。

 斬ッ!

 中庭に植えられていた立派な松の木が、根元から切り飛ばされその場で半回転した。松の手前に姿を現した青山素子の一閃は、しかし木の向こう側にいる女には僅かに数歩届かない。その数歩こそが互いの技量差を明確に示していた。届かぬ攻撃に意味はなく、隙を生み出す窮地となる。だがその瞬間、両者の間で回転する幹に八つの穴が穿たれた。

 神鳴流極意止水の名が元に、奥義斬空閃
 斬斬斬斬斬斬斬斬っ!

 生じた隙と届かぬ数歩を、青山素子の周囲八箇所から展開された気刃が強引に埋めた。進路上に存在した障害物を木っ端微塵にしながら獲物に喰らいつかんとした斬撃を、女が無二のタイミングで跳躍することで躱わす。目標を失った気刃が中庭のあちこちに着弾するのを下に、女は長刀の鈴を鳴らした。

「奥義、斬魔剣弐之太刀」
りん

 神鳴流最強とされる使い手の、正真正銘最高の斬撃。剣先より迸る練気は死角を抜け障壁を透過し無形すら斬り崩す。同門ですらほとんどが認識できない鈴の音に、八度もの攻撃を繰り出した直後の青山素子は反応した。バネ仕掛けのように首が跳ね上がり、視、と瞳孔の開いた目を向けると同時

 神鳴流極意止水の名が元に、奥義斬魔剣
 斬斬、斬ッ!

 ほぼ同時に展開した三つの気刃が内、一太刀目が斬撃の勢いを減じ、二太刀目が加わることで完全に受け止め、三太刀目がそれら全てを女に跳ね返した。否、強引に押し切った。

「っ!」

 炸裂。

 女は神懸った反応速度で、自らに返った気刃を編み直して中空で破裂させた。相手の三刃を逸らすと同時に、敢えて衝撃を透過せずその身に受けることで自ら吹き飛び、ダメージと引き換えに距離を稼ぐ女。

 青山素子はそれを無感情に目で追った。瞬時にして追撃はせず、妖刀を無造作に地面に突き立て、両手でざらりと中庭の玉砂利を掬う。

 

――――――私は幸せでした。繰り返す日々、穏やかな場所、そして何より、大切な人が居てくれたから。

 

 掬った砂利の半分以上を無造作に放り、青山素子は残りに練気を通した。後方十m程で転がりながら接地した女に振り向き、砂利で埋まった両手を流れるように構える。

 神鳴流秘剣風塵乱舞
 神鳴流極意止水の名が元に秘剣風塵乱舞
 暴

 両手の砂利を秘技で以って散弾のように放つと同時。一瞬前に放り上げた砂利が青山素子の周囲十二ヶ所に発生した気刃にて、倍する勢いで打ち出された。それは正に嵐。肉を穿ち、骨を砕き、跡形すら無くす、十三層に及ぶ破壊の弾幕。瞬時にして全ての逃げ場を潰された女は、膝を突いたまま左手指で長刀の峰を挟み込んだ。「斬鉄閃」と、刀身を柄に見立てて傘のごとく気刃を展開する。直後

 豪雨

 範囲内の構造物が一瞬にして機関銃で掃射されたがごとく穴を穿たれ、次の瞬間には岩だろうが木だろうが構わず木っ端微塵と化した。砕くものに突き当たらなかった礫は地面に突き刺さり、粉塵に削られながら深く抉る。女の『傘』はその弾幕に辛うじて耐える。練気を帯びたもの同士が火花を散らして削り合い、支える腕を暴風以上の圧力が襲った。一瞬で吹き飛ばされるか刀を折る、ところを女は絶妙極まる力加減で二秒を耐え切る。そして僅か二秒の弾幕で、女の後方以外の地面は放射状に堀のごとく深く抉れていた。

 盛大に巻き起こった土埃の中、女が機動を開始する。その直前

 青山素子が極意止水の十三刃目にて放った、極限まで絞り込まれた斬空閃が女の『傘』を撃ち抜いた。

 血飛沫


――――――私は幸せでした。繰り返す日々、穏やかな場所、そして何より、大切な人がいてくれたから。他には何も要りはしない、他には何も要りはしない。姉上、私は幸せでした。

――――――邪魔です。





 素子ちゃんの部屋を飛び出して、中庭に向かって建物を駆け下りる。

 まだ深夜というほどの時間帯ではないので、住人は全員が起きていた。それは危険から逃げ遅れることはないという幸運ではあった。けど物見高いみんなの性格を考えるのなら、自分から危険な場所に集まりかねない不運でもあった。こんな時にみんなを纏めてくれる成瀬川もいない。俺はどれだけ他人に頼っていたのかを痛感する。

 逸る気を削りながら、途中で会ったしのぶちゃんとキツネさんに簡単に事態を話して避難するよう言い残し、変な機械を持って飛び出そうとするスゥちゃんとサラちゃんの首根っこを捕まえて誠心誠意説得した。多分五分は守ってくれるだろう。その間も中庭から響く轟音、爆音。一つ鳴るごとにびくりと震えた。今ので、今ので『取り返しのつかないこと』になってしまったかもしれない、と。

 以前のことを思い出す。お姉さんと初めて会い、素子ちゃんが倒れ、自ら愛刀を叩き折ったあの姿を。あの時俺は間に合わなかった。爆音を耳にして浴場に駆けつけたとき、そこには独り倒れる素子ちゃんだけがいた。俺は、大切な人が一番必要するその時に、傍にいることすらできなかった。

 俺は、もう二度と、あんな。

 俺は、今度こそ、間に合うために。

 内心でそう絶叫しながら、俺は一階の縁側に到達した。瞬間

 

 前方から吹き飛んできた人影が、中庭に面した部屋の一つに障子を破り突っ込んだ。俺の出てきた位置から、部屋一つを挟んだ距離。

 

「素子ちゃん……!?」

 咄嗟に駆け寄ろうとして体が硬直した。理由は明白。つい先程、素子ちゃんの部屋で感じた恐怖。『彼女』に殺されるという、明確で切実な恐怖が、一瞬俺の動きを止めた。

 そして、その硬直を解除するよりも早く、障子の残骸を押し退けて人影が起き上がる。そして、それは『彼女』ではなかった。

「やれやれ、生身で止水の相手はキツイわ。ほんまに憂巳朗はんは偉い御方でしたなあ」
「……え」

 緋袴、浄衣、黒髪、長身。一瞬、素子ちゃんと見間違えた。だけど今の素子ちゃんの服装は違うはずだし、髪も短く切り揃えられている。それは間違いなく、お姉さんだった。身に着けた巫女装束がボロボロで、肩口に大きな血の染みをつけた、お姉さんだった。別の意味で硬直する。今度の理由は、驚愕。

 信じ、られない。

 俺にとって素子ちゃんのお姉さんという人は、完全無欠に限りなく近い人だった。もちろんそんな概念が実在する訳がないと頭では理解している。素子ちゃんが普段から語る尊敬にも大分影響されているだろう。だけど何より本能で、あの人ほど完璧に近い人間はいないだろうと、俺は心のどこかで知っていた。行くも、戦うも、何一つとして無様はなく、誰一人として太刀打ちできない。文字通り桁の違う存在。京都で妖刀に乗っ取られた素子ちゃんを前にしてさえ、結局手傷の一つも負うことはなかったお姉さん。素子ちゃんほどではないけれど、その認識は揺るぎないものだった。

 だけど

 肩に血の染みをつくり、巫女装束もずたぼろにした、全身埃まみれのお姉さん。目の前の光景が紛れもない現実だ。幻想がガラガラと崩れていく。けれどその幻想を崩したのは。一体、何が。

 とん、と。部屋一つ分の距離を隔てた縁側に立つお姉さんに反射的に駆け寄ろうとした俺を、上から唐突に飛び降りて来た妹が背中で制した。

「駄目です。兄さんは下がっていてください」
「か、可奈子!? お前こんな時に何処から出て来てるんだよ!」
「屋根から様子を伺っていただけです。正直何度も狙撃を試みましたが、微塵も隙が見当たらない。今の青山素子は危険過ぎます」
「! そ、そうだ、素子ちゃんは!?」

 この場に居合わせたのはお姉さん、可奈子、そして俺。ならばもう一人は。俺が恐怖を抱いてしまった、あの娘は。周囲を見回す俺を尻目に、可奈子とお姉さんが場違いなに言葉を交わす。

「おや浦島はんに可奈子はん。こないところにおると危ないですよ」
「貴女がさっさと済ませていれば来てはいません。最悪もいいところですよ。噂の最強、買い被りでしたか」
「ウチかて、なんだかんだで引退して三年は経っておりますから。せやかてそれ以上に素子の上達が目覚ましかったわ。独力で止水に到達しとるとは」
「あんな代物とマトモに打ち合う神経が知れない。それで件の青山素子は?」
「おりますよ、ほれ」
「――――――!」

 中庭は、見るも無惨に荒れ果てていた。

 つい数分前まで整った景観で、夏の夜を演出してくれていた場所。だった、場所。植えられていた木はほとんどが斬り倒されるか引き千切られ、小池と縁石は地面を穿つ大穴に飲まれて跡形すらなくなっていた。その他にも大小様々なクレーター。爆撃されたと言われた方がまだ信じられただろう。この惨状をたった数分で、たった二人で為しただなんて。それも、一人が素子ちゃんだなんて。

 視

「っ!」
「……観ていますね」

 いた。

 跡地と化した中庭の、夜闇に溶け込むように

 ハーフパンツに薄手のシャツという、ありふれた服装のまま黒刀をぶら下げて

 棒立ちのまま、何の表情も浮かべないまま

 こちらを、俺を、見ている『彼女』が

 ぬるりと、消えた。

「お兄ちゃんっ!」

 瞬間、可奈子が俺の前に立ち塞がった。その際に触れた体は信じられないほど固く、肌はべったりと冷たい汗で濡れていた。可奈子が、恐怖している。可奈子も、襲い来る逃れ得ない死の予感に、恐怖している。

「可奈子っ!」
「譲るかああ――――!!」

 俺には知覚すら許されはしない。風のように影が吹き抜け、直後十を越える経路で殺到する死の予感。死ぬ、死んだ。だけど妹は諦めなかった。恐怖に体を冷たくしながらも諦めなかった。下手な防御は放棄して背後の俺に絶叫しながらタックルし、その瞬間にお姉さんが横から放った衝撃波で兄妹共々吹き飛んだ。すれ違いざまに、一瞬前まで立っていた縁側が網に掛けたように切り刻まれる。お姉さん。

「止水で同時に十三刃。堕ちたとはいえ、ホンマ腕を上げましたなあ、素子」

 咄嗟可奈子を庇って地面に叩きつけられた俺は、奇跡的にその瞬間を目撃した。場違いなことを淡々と述べるお姉さんの死角から、人知を絶した軌道を描いて『彼女』が迫る。纏うように鎧うように尾を引くように、十を越える気の刃が展開した。

 意識の上で、時間が、圧縮される。

 神鳴流極意止水の名が元に、奥義斬魔剣

 駄目、だ。

 ダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだ。

 お姉さんにそんな風に刃を向けちゃダメだ。何を賭けてもいい、後で絶対に後悔する。君が以前、お姉さんのことをとても誇らしげに語ったあの姿は、決して嘘ではないはずだから。どんなに我を失おうと、素子ちゃんは素子ちゃんのはずだから。

 そうだ。『彼女』だなんて逃避をしていたのは俺だ。馬鹿な、馬鹿な! あれは素子ちゃんだ。素子ちゃん以外の何者でもない。どうしようもなくなった子供が泣きながら暴れているだけだ。そんな素子ちゃんに殺される、だなんて天地がひっくり返っても有り得ない。救いが無くなる。だって素子ちゃんなのだ。本人すらが信じられないのなら、他に誰が信じると言うんだ。そう決めた。ずっと前にそう決めた。

 意識上で、圧縮した時間の中。素子ちゃんが纏った気刃で斬りかかる、瞬間。

 恐怖の一切を跳ね除けて、素子ちゃんと、呼ぶことでその疾駆を止める

 前に。

「残念や」

 刹那のはずの空間で、やけに明瞭に、お姉さんの声が響いた。

 神鳴流極意止水の名が元に――――――――――!

――――――私は、し



 轟音。

 大質量と大質量が衝突したような、交通事故の現場に居合わせたような、破滅的な感覚が肌に伝わった。響いた音量は先程までと比べればむしろ小さい。だけど今ので何かが終わった。そんな漠とした不安を抱かせる轟音が響いた。

 一瞬前と変わらず縁側の端に立ったままのお姉さんが、表情を見せないままなんの気負いもなく語る。命を賭けた戦場とはとても思えないほどの、場違いな口調。

「ホンマ、腕を上げはったなあ、素子。余力一切無しとはいえ、止水で以って十三刃。候補としては申し分ない力量やったのにな……残念や」

 その口調に反して顔に表情はない。全くない。抑えているのでも薄いのではなく、無い。虚無だ。同じ人間とは思えない、今しがた為したことを露とも思わない無感情。先程まで駆け巡っていた暴虐の嵐と、全く同じ、鬼のような無感情。

 そして、ごぼりと

 真上に弾き飛ばされ、天井にその身をめり込ませた素子ちゃんが、血を吐いた。

 神鳴流奥義斬空閃
 神鳴流奥義斬空閃
 斬!

 爆裂。

 縁側にせり出した屋根の部分が木っ端微塵に吹き飛んだ。辺り中に飛び散る木片。可奈子に引っ張られて後方に退避しながら、俺は顔を庇った腕の隙間から必死に視線を動かした。それでも見失う。二人の姿は既に爆心地には存在しない。当たり前のように、二人は俺なんかが及びもつかない達人同士だ。だけどそれでも、見失ってる場合じゃない。

「素子。あんたの責は三つある」

 お姉さんの声が何処からか響いた。背後の可奈子が首を巡らせるのと同時に、斬撃のぶつかり合う衝撃。

 上!?

「一つは我を忘れて剣を振ろうたこと。一つは心得の無い浦島はんにまで牙を向いたこと」

 上空から中庭へ、素子ちゃんが落ちてきた。いや、叩き落されてきた。自由落下以上の速度で、背を下にして。地面に激突する寸前、素子ちゃんが体を反転させ両手両足で着地することで衝撃を吸収した。猫科の猛獣のような動き。手放した刀が地面に突き立つ。

 素子ちゃんは一瞬にして満身創痍と化していた。

 頭部は朱に染まり、剥き出しの四肢はところどころから出血し、そして

「そして……なあ、素子」

 月を背負って、お姉さんが舞い降りる。否、斬りかかる。その様は獲物に襲い掛かる隼というより、月から舞い降りた天女にも似て。

 素子ちゃんが機械のように反応する。全身を走る苦痛を無視して、着地の衝撃で痺れた四肢を見捨てて、がしりと刀の棟に噛みつき執った。仰天。

 神鳴流極意止水の名が元に

 斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬!

 月下の元、荒れ果てた庭園で

 野獣のごとく構えた少女と、天女のように舞い降りたお姉さんが、全く同じ技を以って交差した。

 素子ちゃんは四肢の使えぬ身のままで、お姉さんが神速を以って振るった十四の気刃を、自らもまた展開した十三の気刃と口の一刀で、見事に捌ききり

 斬、斬、斬、斬!

 そして、お姉さんの振るった残る十五刃目から十八刃目の気刃に対して為す術もなく、斬られて舞った。

「斬り合いで、ウチに勝てると思うたか?」

――――――りん





 戦闘は終結した。中庭は静寂を取り戻す。

 否、それは元より戦闘ですらなかったのかもしれない。元より地力が違った。女が決着を即座につけようとしなかったのは、ただ相手の力量を見極めるためだけだった。それさえ済めば、後はただの作業。人格や情緒の全てを、戦技動作の制御に費やしていた青山素子には逃げるという選択肢さえ与えられなかった。

 元より、剣を振るうという領域で、その女に勝る者はいない。それが最強。証明するまでもない最強というもの。

 女が返す手で、宙に舞った妹の襟首をがしりと掴み上げた。そのまま、万力のように締め上げて空中で固定。それは奇しくも一年前と同じような状況だった。

 青山素子が、僅かにむせる。

「ご……ほ……」
「さて素子。今度は何を口走ってくれる?」

『そんな状態で、勝てると思ってるんか?』

『勝ちます。勝って……浦島と一緒に、帰ります』

『しょうぶ……です……』

 女の顔に感情はない。一年前と同じく、つまらなそうな無表情。違うのは、青山の道場ではなく女子寮の中庭であること。青山素子が戦意と緊張を完全に手放していること。そして、傍観者の存在。

「や、やめてくださいお姉さん! もう勝負はついたじゃないですか!」
「お兄ちゃん!? 駄目です、死にますっ!」

 青年が叫びながら二人の下に飛び出そうとして、傍らの妹に背後から羽交い絞めにされた。兄妹の表情は、共に必死の恐怖に支配されている。何より大切な人間を、失うかもしれないという瀬戸際に。

 鬼が嗤う。そんな感情の一切と無縁が故に、その存在を以って恐怖と焦りを愚弄する。

「せやな、勝負はついとりますな。ほな、後は……落とし前をつけな、あかんやろ?」
「え……」

 神鳴流奥義雷鳴剣弐之太刀
 轟

 女の練気によって迸った高圧電流が、襟を掴んだ右手から直接、その肉体を透過して、少女の神経上で荒れ狂った。

「ぎ、がああああああああああああああっ!!」



 

 瞬時

 おぼろげだった感覚の全てを、激痛が支配した。痛みというのもおこがましい、許容を遥かに超えた衝撃が意識を塗りつぶす。激痛激痛激痛激痛激痛!!

 視界に火花が散った。正気を守るために体が意識を閉鎖し、更なる激痛によって叩き起こされるというサイクルを瞬時にして十度以上も繰り返した。意識の明滅。

「手を離せ可奈子!!」
「っ!」

 じば、と。その激痛が唐突に止んだ。衝撃と空白の落差は今度こそ私の自我を虚空に持ち去ろうとしたが、背筋を氷のように貫く危機感が、意識を取り戻した。

 ばたばたという音がゆっくりと止まっていく。それは、私の手足が電撃によってでたらめに動いた結果の音だと後で知る。皮膚感覚は、私の体が汗や涙その他の排泄物でびしょぬれになっていると教え、鼻をつく異臭は衝撃のあまり失禁したという事実を示していた。苦でも恥もない、そんな余裕はなく。そして視界が写したのは

「――――――!」

 声にならない絶叫を上げながら、可奈子の制止を振り切って、こちらに突進する浦島の姿。

――――ひ

 姉上が、私を掴むのとは逆の腕を、肩に傷を負って自由には動かせない左腕を、地面に突き立てた長刀の上にゆらりと載せた。それを以って斬撃を為す準備は充分。姉上にとっては居合いに構えたに等しい。刃圏に入ったことごとくに存在を許さない斬殺の結界。

 浦島が、駆けながら、地面に投げ出されていた妖刀ひなを拾い上げた。雄叫び。

 だめ、だ。

 やめろ、しぬ、くるな、なんで、やめて、そんな、どうか

 うあああああああああああああああああ!!

 浦島が、こちらに駆ける。見るに耐えない足運びで、斬ってくれと言わんばかりに刀を振り上げて、走る。来るな、来るな来るな来るな来るな来るなああああ!!

 神鳴流奥義、真雷光――――

「あかん。仕置きやと、言うたろ?」

 再度、私の全身を雷撃が貫いた。編みかけていた自爆技の構成が意識から消し飛び、瞬時にして五感が喪失。激痛激痛激痛激痛激痛激痛激痛。一秒を越えるのに十度の失神と覚醒を繰り返した。何も見えない、何も聞こえない。絶叫絶叫絶叫絶叫。

 今、この瞬間に浦島が死んだら。浦島が死んだら。浦島が死んだら。雷撃による激痛とは全く別に、気が狂いかける。

 激痛に満ちた一秒が永遠にも、絶望に満ちたに二秒が無限にも感じられ。感覚の喪失はあろうことが三秒目に入り

 激痛、絶叫、絶望。

 私の精神そのものが焼き切れる寸前

「おや」

 雷鳴が、止んだ。

「――――――」

 涙にぼやける視界を酷使して、苦痛の代わり倍した絶望と恐怖に侵されながら、浦島の、死体を捜す。

 浦島、浦島。浦島浦島浦島浦島浦島浦島。もしもお前が死んでいたら、死んでしまったら、死んでしまっていたら、死んだら、死んだら、死んだら、死んだら

「――――――ぁ」

 襟元を締め上げられ空中に固定された私の、鼻水と唾液で汚れた口から、形にならない言の葉が漏れる。

 浦島は、そこにいた。

 刃圏に踏み入る、一歩手前。ほんの一歩手前で、黒刀を手放さないまま、ぐったりと意識を失った浦島がそこにいた。

 それを為したのは、浦島を真正面から肩で担ぐように支えた黒衣の少女。駆ける浦島の後ろから、文字通りの神速を以って追い抜き、振り返りざま水月に拳を打ち込んで気絶させた、浦島可奈子という少女。

 ぐったりと前のめりになった浦島の、前髪がはらりと、風に散った。

「貴様等……よくも」

 可奈子が、凄まじい視線で私と姉上を射抜いた。本気で剣を交えた私でさえ見たことのない、憤怒と殺意に燃え上がる瞳。激情のあまり全身がぶるぶると震えていた。もしも可奈子の視線に呪いの力があったのなら、今頃私たちは生きてはいないだろう。

「よくも、私に、この人を傷つけさせましたね……!」

 言って

 可奈子は崩れ落ちる浦島の体を肩で担ぎ上げ、方向転換して全力で駆け出した。脱兎のごとく――――逃げた。

 あっという間に建物の角を曲がり、二人の姿が視界から消える。

「ほほ。わかっておりますなあ、可奈子はん。どれだけ怒りを憶えようと、行うべきことを見失いはせんか」

 姉上が、その夜初めて、おかしそうに笑った。荷物を担ぎ背を向けて走り去る可奈子は容易に斬り捨てられる獲物だった。それを姉上はわかっていたし、何より可奈子自身がわかっていた。その行為が自殺行為であると知って尚、可奈子は一切の迷いなく浦島を逃がすため己の身を捨てた。例え今、背後から斬っていたとて、浦島可奈子は死したその身で駆け続けて兄を逃がし、一切の悔いなく果てたことだろう。

 姉上が、私の体を無造作に放り出した。どさりという音が響いたが、麻痺した五感はその衝撃を伝えようとはしなかった。

「ほな素子。あんたは?」
「わ……たし……は」

 死をも受け入れて浦島を逃がした可奈子に対して、私は一体何をしたのか。

 修羅と化していた間の、記憶はある。実感は抜け落ちていたが、そもそもあれは暴走などではない。ただ、本心の発露だった。立場や人情等の、何もかもを無視して本心を発露したとき、私の願望は、姉上を斬り伏せることを選んでいた。

 勝てるはずがなかったのに。

 そして、必然として私は敗れた。私は捕らえられ、打ち据えられ、それを目の当たりにした浦島が、私を助けるために飛び出すのも、また必然だった。たとえ明白な死が其処にあろうとも、勝敗など関係なく飛び出す。浦島は、そういう奴だ。それがわかる程度には、私達は同じ時を重ねてきた。

 後、一歩。もう、ほんの一歩踏み込んでいたら、浦島は死んでいただろう。姉上の刃圏に触れた瞬間、五体を微塵に斬り裂かれて。

 それを招いたのは、私だ。私のこの姿を見たとき、浦島が飛び出すのが必然だとわかっていたのなら、私が浦島を殺しかけたのだ。

 どうすれば良かったのだろうかと、遡って考えてみても。改善すべき転機は何も思い当たらなかった。

 いずれ必ず、姉上が来ること。私がそれを、認められないこと。そして浦島が、それを黙って見ていられるような人間ではないこと。全て変えようのないことにしか思えず。だからきっと、私と浦島が付き合う以上、こうなることは必然だった。

 そうして浦島を、死の淵に晒した。今浦島が生きていることは、結果論に過ぎない。可奈子がいなければ確実に、浦島は死んでいたはずだ。

 この結末が必然だったとして、間違いを一つ挙げるならば。

 そもそも一年と半年前、私が浦島に想いの丈を告げたことが……いけなかったのだろう。

 最初から、間違っていた。互いの世界が、違い過ぎた。

 平穏無事に生きるべき、浦島景太郎という人間に。異質異常な私のような人間が寄り添ったところで……ただ、こうして死を導く以外に、与えられるものなどありはしない。

 そのことに、私は気付いていたはずだった。知っていたはずだった。途中から、あるいは最初から。

 ……でも、認めることができなかった。

 こうして、神鳴の一員たる資格さえ失うまで、明白な事実を認めることができなかった。それが私の……罪だろう。



「……はい」


「私は……わたしは」


「尼となり……」


「神鳴と縁を切り……」


「ひなた荘を……去ります」


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