いらっしゃいませ、旅館ひなた荘にようこそ。御予約ですか?
…話を聞きに来た?はあ、民俗学者さんですか。この辺りのことを調べてらっしゃる?
それでは、私の伝え聞いている、この旅館の成り立ちでも、お教えしましょうか
昔々、あるところに一人の少女がいました
少女はとある神社の跡取りで、今で言うところの巫女でした。
彼女自体はなんの変哲もない、ごく純粋で少々内気な少女でしたが
実は、魔法少女だったのです。
あの、母に聞いた話をそのまま言ってるんですが…そんなにおかしいですか?
彼女は神様から力を授かり、神様の敵を滅ぼす役目を持った少女でした。聖なるお役目ですね。
昔々ですから、魑魅魍魎妖怪変化が今よりずっと多かったのです。
それはもう、昔々ですから人権も何もなしに毎日酷使されていました。
上司は神様ですから、本質的に人間の都合など知りませんしね。
…ええっと、どこまで話しましたっけ?
そうそう。それでその少女は、毎日神様の敵を斬り払っていたわけです。
それはもう、世の中への貢献度といったらかなりのものでしょう。
人々の幸せを守っているわけですからね。
けれどある日、少女はふと思ったのです。
私はいったいなにを守っているのだろう、と
少女は生まれてからずっと、毎日があまりに忙しすぎて、戦いの連続で、人並みの幸せというものを知らなかったのですね。
幸せを知らないのに、人々の幸せを守るように命令され、戦う少女。
なんて矛盾でしょう。
何事もなく終われば、それでも済んだのでしょうが…
一人の少年が、いました。
その少年は少女に近づき、悪魔のように言葉巧みに少女を惑わしました。
実のところ、その少年には悪意はなく、ただちょっと少女を好きになってしまっただけですけど
まあとにかく(神様にとって)悪魔のような少年は少女を惑わしてしまいました。
少女にとってそれは、初めての『幸せ』であり…同時に、破滅への第一歩でした。
だってそうでしょう?
それまでずっと神様の言いなりで、自由が存在することを許されなかったのですから
元々純粋過ぎた故に、反動による憎悪も並大抵ではありませんでした。
少女は神様を裏切り――――街一つと山一つを、火の海にしてしまいました。
それまでずっと打ち倒してきた『世界の敵』に、少女自身が堕ちたのです。
…ああ、まだ続きはありますよ
少女を止めたのは、意外にもその少年でした。
いえ、意外でもなんでもありませんか。
放っておいたら少女は、その世界そのものを完全に破壊しかねない勢いでしたから
如何に不条理な運命を与えられたとしても、其処は彼ら彼女らの居るべき世界であり
そして少年も、少女を好きだったと、ただそれだけのことなのでしょう。
けれどそれだけ大暴れしたんですから、元の生活に戻るわけにはいきません。
それ以前に少女は―――心を、喪ってしまっていましたし
はい、後はもう長い話ではありません
心を喪った少女は、その少年に連れられ、焼け野原となった故郷を捨てて…平たく言って駆け落ちしました。逃げ出したとも言いますね。
あてのない二人は流浪の末、この地に辿り着きました。
それから少年は、心を喪ってしまった少女の世話をするために建物を建て、温泉を掘り当て――それが、この旅館の元となったと言われております。
…はい、よくわからない昔話ですね、教訓なども特にありませんし
そういえば、言い伝えがもう一つありましたね。
少女は心を喪ってしまったけど、その心は肉体が滅んだ後この地に戻ってきて
私たちをずっと見守ってくれているという、言い伝えです。
今はもう入れませんが、以前は『縁結びの宿』と呼ばれる場所がありまして―――ああ、ご存知でしたか。さすがは民俗学者さんですね。
あの場所のどこかに、少女は居ると言われております。
でも、今は閉鎖されてますよ。そのあたりは、母に頼まないとどうにも…
その少女の名ですか?
それはこの旅館、そしてこのあたりの地名にも使われてますよ。
私たちにとっては慣れ親しんだ名前です。
ええ、彼女の名前は――――――
ラブひなEX
目覚めよと呼ぶ声に応え 少女は優しい夢を見る
後編
――――ねえ、知ってる?
?
――――お婆ちゃんが、この旅館を僕達にくれるって言ってたよー
……りょかん?
――――可奈子、旅館好きだよな。大きくなったら二人で一緒に旅館やろっか
……うん
――――よし、じゃあ約束だ
やくそく……
「やくそくだよ……お兄ちゃん」
なんて、他愛のない夢
なんて、たあいのないゆめだろう
そして―――――――――――――――――――――――覚醒
―――妹が、一人いる。
もう、随分と会っていなかった。最後に会ったのが高校に入るときだから…だいたい、七年ぶりくらいか。
引っ込み思案で、いつも俺の後ろにいるような子だったと記憶している。
ああ、でも最後に別れた時はそうでもなかったかな。
それから毎月、手紙を送っていた。
書く内容は…まあ、日々の出来事。本当に些細な事柄だ。
返事はなぜか不定期だけど、内容はやはり些細な出来事が訥々と綴られていて
ああ、妹の手紙だなあ、と何気なく思っていた。
――――――――――それが、こんな所で再会するなんて
俺は目の前で、布団に包まって寝息を立てている妹を見やって、そっと溜息をついた。
別にそれが不満だとか、妹のことを疎ましく思ってるのではなく
…ただ、色々驚くべきことが起こっていて疲れてしまっただけだ。
布団の端から腕がはみ出ている。
その右手は(無意識にだろう)しっかりと、俺のズボンの端を握り締めている。
可奈子が管理人代理としてやってきたこと
ひなた荘が、旅館になったこと
そして、可奈子が無茶苦茶(ここらへん人によって表現に差が在る)やらかしたこと
住人のみんなに変装して騙したり、素子ちゃんを殴って気絶させたり、成瀬川を殺そうとしたり
…信じられない、信じられるわけがない。
だって、可奈子だよ?
「……いちゃん」
「―――可奈子?」
目が覚めたんだ。
うっすらと、瞼が開いていく。瞳に、弱々しいながらも光が宿る。
そして、こちらの姿を認めると同時に
ぎゅ、とズボンの端を掴んだ手に力が篭って
心底安心したように、彼女の目端が緩み瞳が潤んだ。
それは
―――――まるで、俺の知らない女の子のようで
不覚にも、なんだかドキドキしてしまった。
…なに考えてんだ、俺は。相手は妹だぞ?
「えーと…おはよう、可奈子」
「…おはようございます」
お兄ちゃん
お兄ちゃん
お兄ちゃん
私をみつめてくれている
目が覚めたとき、一緒にいてくれる
手が届く所に座ってくれている
ああ、夢なんだ
でもいい、久しぶりに、本当に久しぶりに良い夢だ
目が覚めたときに、どん底に惨めな気分になるとわかっていても
それでも―――いい
今は、他の事なんかどうでもいい
だって、お兄ちゃんがそこに居てくれるんだもの
お兄ちゃん
「ええと…七年ぶり、かな。背、伸びたね可奈子」
「はい、七年ぶりですから。背ぐらい伸びますよ」
「あ、それと…体、大丈夫?」
「心配してくれてありがとうございます、お兄ちゃん。可奈子は大丈夫です」
丁寧語
そういえば、別れてからずっと(少なくとも手紙では)言葉遣いは丁寧なものだった。
七年間、可奈子の丁寧な言葉遣いには手紙で付き合ってきて慣れている…といいたいところだけど
やっぱり、目の前の見慣れない少女の口から親しげ(というか甘えめ)な声が漏れてくると、なんというかまあ
違和感
そもそも俺は、こういう年頃(!)の女の子の相手は、苦手なんだ…ひなた荘のみんなのおかげで大分慣れたとはいえ、やっぱり
何気なく会話しようにも、気が引けて
ついギクシャクしてしまい、なにを言ったら良いのかわからなく………あれ?
ほめて
なんか今、じっと見詰めてくる視線に明確な意志が感じ取れたような…
ほめてほめてほめてほめてほめてくださいおにいちゃん
……ああ
「偉いな、可奈子は」
なでなで
「……はい。お兄ちゃんがいるから、がんばれるんです。お兄ちゃんがいてくれるなら、可奈子はもっともっとがんばれます」
ちょっと硬い髪を撫でながら
ああ、やっぱりこの少女は妹なんだと、納得した。
誉めてもらったときの、この表情は
昔と、何も変わっていないから
…ほら、やっぱり
可奈子が無茶苦茶をやるなんて、とてもじゃないけど無理な話だ。
少し思い込みが激しい所はあるかもしれないけど、基本的に人見知りが激しい引っ込み思案な妹なんだから
「それじゃ…もう夜も遅いから、そろそろ寝るよ」
「もう…ですか?もっとお話していたいですけど…明日もお兄ちゃんとお話できますか?」
「ああ、もちろん」
私は、彼が部屋を出て行くのを、ずっととろんとした眼差しで見送っていた
あの人を視界に収める、ただそれだけのことで、幸せを感じる脳内麻薬が無制限に分泌されて
お兄ちゃんと話した、明日もまた話せる、そのことで頭がいっぱいで
交わした言葉の一つ一つを思い起こし、かみ締め、甘ったるい妄想のデコレーションをしていて
ようやく目が覚めたのは、それから30分も経過してからだった。
そして
死にたくなった。
状況説明をしておこう。
まず俺、浦島景太郎は昨夜(朝方)半年ぶりにひなた荘に帰ってきた。
ひなた荘のみんなと半年振りに、そして妹浦島可奈子と七年ぶりに再会
なぜか、可奈子は素子ちゃんに斬られていた。
それから、とにかく気絶した可奈子を俺の部屋(というか可奈子の部屋)に寝かせて、瀬田さんに借りた車を元に戻して、みんなの話(というか抗議、愚痴)を聞いて
とにかくとにかくびっくりして
それからどっと疲れて、時差ボケというのもあるだろうか、半日ほど寝てしまった。
夕方頃に目覚めて、それからみんなに帰還祝いの宴会を開いてもらって
気がつくと深夜。
それで、やっぱり飲み会と化してしまったその場を抜け出し、可奈子の様子を見にいって
なんとなく寝ている横に座り、感慨にふけっていた。
ああ、大きくなったんだなあ…と父親のような感慨を抱いて
そうしたら、唐突にズボンの端を掴まれた。
…無意識か、それとも夢現だったのか、どちらにしろその腕を振り払うなんてことは出来なかった。
「…景太郎、カナちゃんの調子はどう?」
「あ……成瀬川」
襖を閉じてすぐに、声
部屋の前で、ずっと待ちあぐねていたのだろうか。
そういえば、特に成瀬川とは危険な状態だって…キツネさんが言ってたような。そんな馬鹿な。
あ、いや成瀬川って結構短気というか直情なところがあるからなあ…でも基本的には『みんな仲良く』っていう感じだろう。
だから心配して、様子見に来たんだろうし
「目は覚めたみたいだから…少し寝ぼけてたけど、もう大丈夫じゃないかな」
「…よかった、本当に」
成瀬川が、心底安堵したかのように息を吐いて
…ふと、言葉が途切れた。
そういえば、宴会の間、みんなに色々とアメリカの話をしたり、みんなのこちらでの話を聞いたりしたけど
―――成瀬川とは、ほとんど何も話していなかった。
素子ちゃんともやっぱりほとんど話してないけど、それはそっちのほうが自然だと感じたからで
成瀬川は、なんと言うか
『言いたいことがあって、でもそれは凄く気恥ずかしいことで、なかなか言い出せるものじゃない』
…自分でもよくわからない表現だけど、そんな感じだったような気がする
今も
「あー、えー」
「…成瀬川?」
「うーんと……あのさ、景太郎、ちょっと、手を出してくれない?」
「?」
言われるままに、握手でもするように右手を差し出す。
成瀬川は「違う違う」と、牧師が神に宣誓するときのように手を顔の横にかざした。
つられてかざした右手に、成瀬川の左手がぺたんと、押し付けられた。
囁くように
怯えるように
俯いて
「…なんとか、かんとか、もしかしたら手遅れ。ほとんど形骸で、もう女子寮ですらなくなっちゃったけど…」
「成瀬川?」
「私は、景太郎がいない間のひなた荘を、守れたのかな―――――」
震えが手を伝わって
「…半年ぶりに帰ってきて」
「きて?」
「ああ、やっぱりひなた荘は変わってないなあって、みんなもびっくりするほど変わってないなあって、ちゃんと感じたよ。だから大丈夫」
「…なんか、皮肉に聞こえるんだけど」
「とにかく、こっちに戻ってくる時に不安なんて全然なかったよ…なにしろほら、みんながちゃんと送り出してくれたわけだから」
「…空港のあれ?そんなに大事なことだったの」
「大事っていうか…ありがたかった。それは帰ってきてもいいよってことで、だからちゃんと帰ってきたんだよ、俺は」
それから俺は
かなり照れくさかったけど、勇気を出して
合わせたままの手から、感謝の気持ちが直に伝わるよう祈って
「ひなた荘を守っててくれてありがとう、成瀬川。管理人代行、お疲れ様」
………
………
手が、一度離れて、パァン!といい音が鳴るほどに右手がひっぱたかれた。
…痛い
成瀬川が顔を上げ、にんまりと笑う。
「はい、バトンタッチはこれでよし。あ〜あ、肩の荷が下りたわ、本当に」
「そんなに大変だったの?」
「そりゃもう。素子ちゃんは随分近寄りがたい雰囲気になっちゃうし、むつみさんは危ない発言繰り返す火付け役だし、カナちゃんは…」
「…そういえば、可奈子の心配してくれてありがとう」
「え?」
兄として、成瀬川に礼をする。
可奈子は本当に引っ込み思案で、自分から友達を作るようなことはできないだろう。
だから成瀬川の行動は、純粋に可奈子の身を案じてのことになる。
「可奈子と成瀬川か…予想もしてない組み合わせだけど、意外といい友達なのかもしれないなあ」
「いや……あのね、景太郎。アメリカ行ってボケがパワーアップしてるみたいだけど、多分考えてることと違うわよ」
「え、なにが?」
「お見舞いに来たのは、私のせいだから気になったせいで…ああもう、なんて言えばいいのよこんなのっ!」
苛立ったように、成瀬川が頭をぐじぐじとかいた。
?
よくわからないけど、なんか複雑な事情があるらしい。
でも、きっと大丈夫だろう。
可奈子も成瀬川も、根本的に悪い人間じゃないんだから、きっと仲良くなれるはずだ。
同じ、ひなた荘の住人なのだから
「…あのさ。私、やっぱりカナちゃんの様子見てくる」
「わかった。俺もいっしょに行くよ」
「ううん、私一人でいい…どうせなら、素子ちゃんと話でもしたら?さっき宴会でも、全然話してなかったでしょ」
「……うん」
…くそ
くそくそくそくそ、くそったれ
私はいったいなにをやっているのだ
七年ぶりに『本物』の兄と再会したというのに、私はいったいなにをした?
なんてこと
死にたくなる
兄にとって、今の私はただの妹だ
共に過ごしていた間ずっと兄妹として過ごしてきたのだから、それは当たり前だ
だから、七年ぶりに再会した今日から
兄に、女として愛してもらえるように、行動していく
はずだった
だというのに私は、七年ぶりに再会した瞬間、よりによって寝ぼけたまま、妹として兄に甘えて
甘えるだけだった
…なんてこと、本当になんてことだ
とんでもない失態を演じた自分を殺したい
せっかく、七年間離れている間に私は成長して、兄に愛してもらえる体になったのに
せっかく、七年間離れている間に私は成長して、『ただの妹』という認識から外れることができたはずのに
せっかく、七年間離れている間に私は成長して、『約束の女』と張り合えるようになれたはずなのに―――――
がらりと、襖が開いた
完全にワンテンポ遅れた動きでそちらを見やると、件の『約束の女』が愛想笑いを浮かべながら部屋に入ってくる所だった。
――――――――――硬直
「えーと……カナちゃん、大丈夫?」
何を考えているのだ、こいつは
そう理性が囁く。
私が、『約束の女』を殺したいほどに憎悪していることは、充分に思い知っているはずなのに
わざわざ、自分から殺されに来るなんて
確かに私は今武器を何一つ所持していない(浴衣に着替えさせられている)が、素手で人間を殺害する技術などいくらでも心得ている。
見た所、成瀬川なるもなにも装備していない。私にとどめを刺しに来たわけでもなさそうだ。
ならば返り討てる
「落ち着いてる?っていうかまず落ち着いてね。カナちゃんって、落ち着いてるように見えて実はかなり危なかったりするから」
戯言を無視して布団の下で膝を立て、立ち上がりざまに布団を跳ね除けて相手の視界をふさぎ、布団越しに相手の頚椎をハイキックで叩き折る――――
そういう戦術を行使しようとする。
できなかった。
――――――な、に
体が思考の通りに動かない?
肉体が戦闘を拒否している?
宿敵たる『約束の女』を前にして?
そんな馬鹿な
「あのさ、昨夜からずっと思ってたんだけど、カナちゃんなんか勘違いしてるでしょ?私、景太郎の恋人なんかじゃないわよ」
…なに?
ふざけ、るな
ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな
ふ・ざ・け・る・な!!
激情のあまり、指先が動いた。
そこを支点に、今度こそ起き上がりざまに貫手で成瀬川なるの首を貫くべく突進する。
完全に不意を突かれて、成瀬川なるの体は硬直―――いける
だが
「はい、すとっぷです」
声と共に、成瀬川なるの背後から手がにゅっとこちらに向かって伸びた。
激情に支配されている私に避けられるわけがなく
がし、と見事なまでに頭部を捕まれ、アイアンクローの要領で軽々と掴み上げられた。
――――なんて、握力。
とどか、ない――――
「む、むつみさん!?」
「危なかったですねえ、なるさん。危ないですよ、カナさん」
「なにやってるんですか、むつみさん!」
「なにって、とりあえず話を聞いてくれる態勢じゃないと、話にもなりませんよ」
この状況から反撃する術は、それこそ無数に知っている。
だが―――どうしても、実行できない。
戦意が、沸かない。
私が戦うための方法、鋼鉄の心は、どこかに消えてしまっていた。
宿敵たる『約束の女』を、視界に捕らえていて、さえ
――――――なぜか?
――――――まけた、から
不意に、何もかもが馬鹿らしく思え
抵抗する気すら、失せた。
「…わかりました、乙姫さん。話を聞きますから―――まず、手を離してくれませんか?」
「はい、わかってくれればいいんです」
「……私のときは全然聞いてくれなかったのに」
降り立ち、二人に背中を向けて、部屋の中を見回す。
管理人の間
兄の部屋
―――同じ旅館の部屋に住んでいけるだろうかと思ったけど
―――兄にだけは、今の、こんな姿を見られたくない
溜息
私は倦怠感の残る体で手近の家具に近づいた。数枚の衣服と、書物と、写真立て。それくらいしか荷物はないので、部屋を移るにしても大して手間はかからないのが救いか。
「それで話とはなんですか、私は用事ができましたので手短にどうぞ」
「―――素子さんと浦島君のこと、聞きたくありませんか」
「―――――――――――――!?」
「むつみさん!?そんなことカナちゃんに話したら…!」
「だって、なるさんのことを話しておいて素子さんのことは黙っておくなんて不公平ですよ」
「…って、それじゃ私がカナちゃんに襲われたのって、むつみさんのせいじゃないですか!」
「『雨降って地固まる』ですよ、なるさん。それに、知る権利はあるんです」
兄と……あの女?
いったい何の関係があるというのだろう。
浦島景太郎と、青山素子の間に
一見して、関連性が何もなさそうなタイプの二人なのに
そういえば、あの女自身も何か言ってたような―――
元恋人というのも伊達ではないということか
は?
―――あの時は全くの戦闘態勢で、致命傷になりかねない発言など無意識のうちにガードしていた
―――けれど今、敗北感と諦念に塗れた今となっては
拒否すらできない
なん、だって?
ふざけ――――――!
「カナさんだって、浦島君のことが好きなんですもの。彼の好きな人を、知るべきですよ」
「え?カナちゃんって…景太郎の妹でしょ?」
「そんなの、東京―沖縄間&身元不明の約束に比べたらたいした障害じゃありません」
「そ…そういう比較の仕方はどうかと思いますけど」
「……話してくれませんか?」
「「はい?」」
「兄の……ことを」
……この二人はいったいどういう神経をしているのだろう。
人が、死にそうなほどのダメージを今まさに喰らったというのに、目の前で掛け合い漫才を継続するなんて
衝撃、そう衝撃だ
致命傷になりかねないほどの衝撃に、皮一枚のところで耐えながら
…これ以上聞くのは、まさしく命取りになるとわかっていながら
それでも私は
兄のことを――――――――――――識りたい
「まずは…なるさんが、私たちの言う『約束の女の子』であること。そして浦島君は『約束』よりも素子さんを選んだこと。このことを知っておいてください」
乙姫むつみの話は、そんなふうにして始まった。
物干し台で星空を見上げる
思えば、何度も何度もこの行為は繰り返してきたような気がする。
思い悩んだときに
行き詰まったときに
そして――待つときに
私はここで、空を見上げてきた。
思う
私はこの半年で、どれだけ進んでこれたのだろうか
というか…前を向いて歩いていたのだろうか
自分なりに勉強して、卒業して、東大を受けて、それはもう見事に落第した。
今の私は、宙ぶらりんな、誰でもない何かに過ぎない
挫折
……浦島と、別れ際に交わした言葉
『だからお前がどこかに行っている間、私も自分の道を進もうと思う』
『……うん。お互いに、頑張ろう』
けれど私は結局、目指していたものを形に為す事ができなかった。
会わせる顔などない
再会する資格などない
――――少し前までそう思い、私は浦島が帰って来るのを怖がってさえいた。
「…あ、やっぱりここにいたんだ」
呼ぶ声
とりわけ透きとおってるわけでもなく、濁声のわけでもなく、何の変哲もない、すこし深くなったかもしれない、それでもごく普通の
浦島景太郎の、声
半年の間、幾度も幾度も幾度も、夢の中、あるいは幻聴として聞いた、声
私を呼ぶ浦島の声
「隣、いいかな」
こくりと、後ろを振り向かずそのまま頷く
背後のそれが近づいてきて、傍らで止まった。
私はそちらを見ようともせずに、ただ無心に星空を見上げ
それからしばらく無言の時間が流れた後
声
「ああ、やっぱり……星が、向こうとは違うよ」
星空は
私には、いつも同じに見える
春も
夏も
秋も
冬も
月を中心に、ただ凍てついているように見える
変わらないもの
手の届かないもの
私が存在する前から在り、私が消えた後も在る領域
そういうものは、全て同じに見える
空も、海も、山も、街も、月も、星も、太陽も
関係のない、手の届かない、遠い存在として、私には同じに見える
だが
「……時々」
相当に迷ってから、私はそういう心情を話すことに決めた。
それでも頑なに、ただ星空だけを見上げ
顔だけは合わせない。
顔を会わせる覚悟は、まだ固まっていない。
けれど、喉から出た声は自分でも驚くほどしっかりしていた。
「そういう『手の届かない存在』を、ふと身近に感じることがある」
「…ふうん」
「呑気だな。お前のことでもあるのだぞ、浦島」
「え?」
特に受験勉強をしている時期
時折(いや、常にかもしれないが)浦島を、手の届かない存在として感じる時があった
奴は、夢を叶えるため飛ぶように我が道を進んでいるというのに
私はいったい、何をやっているのだろう、と
地を這いずる亀が、空の月を見上げるように
…けれど今は、浦島景太郎を、実際の彼我の距離と同じように、ごく身近に感じる
手の届く範囲の存在として
「俺、そんな大層な人間だったかなあ…でもまあ、身近に感じてくれるんなら…」
「手…というか私の体の延長である刃が届く範囲、ということだが。わかりやすく言うと私に破壊できる範囲だな」
「いい!?」
おや、つい物騒なことまで口走ってしまった。
なんだか、この場所ではつい口が軽くなる
隠し立てができない、というのか
不思議だな、この場所は
それとも浦島の影響(性質)だろうか
とりあえず
「とりあえずだ、一切の陳腐な挨拶など抜きにしたところの…浦島」
「…うん?」
「うまく口で言えん」
「ん、いや、いいよ、ゆっくり考えてくれれば」
「強いて言うならば……」
「いや、だからさ。別に無理矢理言葉にしなくてもいいよ」
「………ん、そうか?」
…そうかもしれないな
いや、そういえば、そうか
そもそもそのために、私たちは別れ、別の道を歩んでいたのだからな。
既存の言葉ではまだ変換不可の、二人だけの関係があるはずだと信じて
なによりも互いを信じて
ならば、この再会の想いも、言葉にすることはできない、べきだ
ああ、だが…くそっ!
ふと
胸の内を抑えきれなくなって私は衝動的に
傍らの気配に手を伸ばし、その体を抱きしめていた
顔を合わせず、星空を見上げたまま
「うえええっ!?も、素子ちゃん?」
「馬鹿者、なんて声を出しているのだ、お前は」
「だ、だって…いきなり」
「知るか。私がしたいと思ったから、するんだ。文句あるか」
「…あの、ちょっと苦しいんだけど」
「お前相手に遠慮しても仕方がないとわかったからな。お前にだけは遠慮しないと、そう決めた」
「素子ちゃん…なんか、傍若無人さに磨きがかかってない?」
この世界には我慢しなければならないことが多数ある。
人間として社会の中で生きていくために、遠慮しなければならないことがたくさんある。
それは当たり前だ
だが、関わるもの全てに遠慮しているうちに、だんだん自分が切り取られ、小さくなっていくような
ふと、そんなふうに感じることがある
我が身を削られていくような、明確な痛みを伴わない圧迫感
行き場がないという
閉塞感
―――だが、浦島になら遠慮する必要などない。
それで相手が傷つこうが、相手に傷つけられようが…構うものか
どうせ相手は浦島だ。
きっと許してくれるだろうし、私も受け入れるだろう、と
信じるからこそ私は強くなれる、紛れもない私でいられる
それから浦島を解放して、半年の間にどんなことがあったのか訥々と語り合った
浪人したことを堂々と告げると、それはもう驚きまくっていた。こちらの方が笑ってしまうほどに
心配してくれる人間を笑うなど、いけないことだとわかっているのだが
自分のときは随分とあっけらかんとしていたくせに、他人事となると心配するのだな…と思うと
いかにも浦島らしいな、と
その感慨と共に、ようやく顔を合わせることができた
――――まったく、現金なものだ、と苦笑する
本当に、我ながら
それこそ自らの命よりも遥かに大切な存在と再会できたというのに、この態度はどうなのだろう。
でもまあ、いいか
いつか必ず再会できると無条件に信じ(そして信じるべく日々努力し)そして必然として再会できたのだから
一昨日まで、追い詰められ、内心半泣きで、人生の負け犬を体験していたというのに
心の持ち方一つでこうも違うのかと、感心するほどに、私は立ち直っていた。
信じるからこそ、信じる相手がそこにいるからこそ、私は強くなる。
限りなく、限りなく、限りなく
そういう関係の二人がいたっていいだろう、別に
「そういう関係の二人なんですよ」
「………」
そんな締めくくりで、乙姫むつみの話は終わり
私は即座に、その場に居合わせている成瀬川なるに今の話の真偽を確かめた。
「え、あ、うーんと…まあ、少し美化というか誇張されてる所はあるけど、嘘はない、かな」
成瀬川なるはどこか、乙姫むつみに対して引いているように見えた。
まあ、どうでもいい
「それで、話はそれだけですか?」
「はい」
負傷の度合いを確認する。
あの時、確かに左脇腹から右肩までばっさりと斬られたような衝撃を受けたが―――いかなる技を用いたものか、傷跡は残っていない。
動くのに支障はない、それだけわかれば充分。
「では、私はこれから部屋を移るので」
「はい。それじゃなるさん、行きましょうか」
「…カナちゃん、元気出してね。それじゃあ、おやすみ」
乙姫むつみと成瀬川なるが去った。
私は一人部屋の中を歩き回り、テキパキと荷物をまとめた。
それは慣れている
撤収準備など、もう何度も何度も何度も何度も経験し、ほぼ自動的にできるようになっている。
荷物も少ない。
準備は、ものの10分で済んだ。
それから障子に向かって三歩進んだ所で
…………が、くん――――と
膝が折れた
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛………!」
なんだこれは
なんだこれは
意味がわからない
なぜ、こんなにも、惨めな声を絞り出さねばならないほどに、胸が痛むのか
「う、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛…!」
畳に頭を押し付けるような姿勢で
嗚咽だけが、後から後から、心の奥から零れ落ちていく
切り裂かれるよりも、胸が痛い
「あ゛・あ゛・あ゛・あ゛……!」
なんだこれは
この、頭を床に押し付けて身動きも取れないまま嗚咽している、この哀れで惨めな物体はなんだ?
いみ、確かな意味が、あったはずなのに、もう、わからない、なにもかもが分からない
失ってしまった
「く、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ……」
――――――ふと
私のどこか、根底部分、むしろ本能に近い部分で、囁くものがあった
こんなところを、兄に見られてはいけないと
上っ面の思考より、自らでも計り知れないほどの嗚咽に震える心より、魂に近い部分で囁くものがあった
こんな、何の意味もない浦島可奈子(のカタチをしたなにか)を、あの人に見せてはいけないと
「ぐ、あっ!!」
ドン、と思い切り胸元をぶん殴り、それをきっかけにして無理矢理に嗚咽を飲み込む。
それで行動できるようになった。
消えよう、と思う
兄の側にいたいのは山々だが、それでは私は何の結論も出ないままにずるずると流されるだけだろう、ひたすらひたすら弱体化して
しばらく(それが一日か一ヶ月かは知らないが)一人で考えよう
結論が出るまで
そうしないと、私は、私でなくなってしまう
それから私は、旅館ひなた荘から消えた
私の本気で全力の潜伏を見破れるほどの手練れは、ここにはいなかったようだ
それがどこか虚しく、悲しかった
……可奈子さんがいなくなってから、三日が経ちました。
ひなた荘はもう、旅館から女子寮に戻っています。
みんなで話し合った結果、可奈子さん抜きで旅館を経営していくのは、まず不可能ということが分かったので…
もちろん、いつでも旅館業務はできるように―――可奈子さんが帰ってきてもいいように、しています。
それでも…
浦島先輩が帰ってきて、ひなた荘では半年前と同じような日常が、再び流れはじめました。
それはとてもとても心地よく安心できる日々で…ともすれば、可奈子さんのことを忘れてしまいそうになります。
嵐のように現れて、ひなた荘を旅館にし、みんなとぶつかり合い、静かに姿を消して
あの人が、あの人と過ごした一週間が、まるで夢の中の出来事のように感じられる時があって
過去形
一昨日はもちろん、昨日も今日も可奈子さんのことは話題に出たけど、それがふと過去形になってしまいそうで
浦島先輩はやっぱり、家族のことは大事にしているみたいで、毎日心配しています。
でも、手がかりも何もありませんし…そういえば、はるかさんに聞いたら「…嫌な予感がするな、奴の性格からして、かなり激烈に」
それから「心配しなくても戻ってくるだろうさ…どういう形かは、想像したくないが」と付け加えてました。
…どういう意味なんでしょう?
――――自己考察、その1
私を構成している一要素
『神速』あるいは『正統後継者』の二つ名
世界の危機を排除する使命を帯びた、浦島流での名
いかなる任務にも対応し、いかなる任務でも可及的速やかに、最短最速の手段をもって解決するがゆえの『神速』
戦闘、戦術、戦略、管理、隠密、諜報、全てに秀で、血の繋がりなど関わりなく、純粋に実力のみで、浦島ひなたを継ぐ者『正統後継者』
そう呼ばれる私がいる
―――そう呼ばれる私は強い。限りなく限りなく、強靭な物質でできている
そうでなければ、100に渡る任務など達成できない、100に渡る罪を背負えはしない。
いかなる大義名分があろうと、殺人は罪だ。結局罪を背負うのは、犯した本人しか存在しない。
強くなければ、やっていけないから
私は強く、限りなく強くなった。
わたしはかんぺきなにんげんになりたい
…いや、そうではなかったはずだ。私は強さを得るために、浦島流の『神速』になったのではなかったのか
約束の女に勝てるだけの、強さを得るために
私は強く強くならなければ、いけなかったから
ふと―――『シュダン』と『モクテキ』が入れ替わっていることに気付いた。
…100の罪を重ねるうちに、歪んでしまったのか、私は
…そういうこともあるだろう
…そういうことも、覚悟している
もう、正気(マトモ)でいられることなど期待してはいない
それでも、あの人だけを心の支えに生きてきた
あの人のいない場所で、あの人の声が聞こえない長い長い時間を、そうやって生きてきた。
歪みきってしまったとはいえ、やはり私は
私は――――――――
ある、昼下がり
私はすこし相談したいことがあって、和風茶房『日向』を訪れた。
とりあえずコーヒーを頼み
コーヒーを運んできたむつみさんに対して、ふとごちる。
「…ねえ、むつみさん。ずっとずっと長い間、たった一つのことを心の支えに生きていくっていうのは…どうなのかな」
ずっとずっと、考えていた。
彼女の行動原理を
あの夜、私の所に訪ねてきたときの、『約束の女』に対する鮮烈なまでに発揮された憎しみ
計らずとも立ち聞きしてしまった、景太郎との(聞く所によると七年ぶりの)会話から漏れ出す思慕
愛情と憎悪の両輪
ほとんど感情を表さず理性のみで動いているようにも見えた彼女だけど…その実、人間が発揮する一番強い感情を、常に抱いていたのだ。
だから、彼女はあれほどまでに強かった。
最初、私達全員を相手にして、一歩も引かず、それどころか圧倒していた。
その全ては結局のところ、あいつへの想いに由来していたのだろう。
ずっとずっと長い間、たった一人を心の支えにして、強く在ったのだろう。
―――けど
人間の心とは、そもそも不安定なものだと思う。
彼女は強固であるために硬直し、故に一度崩れ始めたらそれは―――
「たった一つ、ですか?」
「…いえ、二つでもいいですけど」
「一つと二つじゃ随分違いますよ。一輪車と二輪車ぐらいに」
「そういうものなんですか?」
「一輪車は、不安定ながら前にも後ろにも行くことができますし、何よりその場に留まりつづけることができますよね。二輪車は、そこに留まっていたら倒れてしまいますから、ずっと進み続けていないといけませんよ」
「…いや、実際の一輪車や自転車の話じゃなくて」
「どうせ人の心だって、似たようなものですよ」
…そういうものだろうか。
かなり乱暴な気もするけど
「ちなみに三輪車だと、三つの車輪が互いに干渉しあって、堅実ですがろくに進めません。四輪車は…」
「とりあえず、それはいいですから…で、どうなんでしょう、二つの場合」
「そうですねえ…ずっとずっと、長い間、ですから…」
聞いてから、ふと思った。
それは、むつみさん自身のことも指しているのではないかと
気まずさと共に、思い当たる。
――私と交わした『らしい』私の覚えていない約束のせいで
彼女はずっとずっと、長い間、縛られ―――いや、そんな次元ではすまない、取り返しのつかない事態に陥ってしまったのではないだろうか
それでも私は、どうしても思い出せない。
自分は誠実ではないと、むつみさんに対してはいつもどこかで思ってしまう。
罪悪感を伴って
「極地、でしょうね」
「え?」
「良くも悪くも、その二つは増幅=フィードバックしあいますから。いつかは究極的なところに辿り着くと思いますよ」
「いつかは、夢を達成できるってことですか」
「いえ、そうとは限りません…どんどん加速していって、方向性がどうあれ、結局は壊れてしまいます」
「…壊れる」
「ブレーキがないんですよ、二つしかないってことは。一輪車なら車輪そのものを逆回転できますが、二輪車はとにかく前にしか進めないんです」
「ブレーキが…ない」
「普通は、あるんですけどね。カナさんは多分、意識的に取り外してしまってます」
「ってむつみさん!カナちゃんの事だって、知って…」
「以前此処で、話したことがあるんです。その時少々、事情の方は伺ってます」
「そうだったんですか…」
「なるさんが心配しなくても、カナさんはきっと戻ってきますよ。なんと言っても、彼女は強い人ですから」
強い?
素子ちゃんにボロボロにやられて、景太郎にべったり甘えていて、そして姿を消してしまった彼女が『強い』?
…私には、とてもそうは思えない。
両輪を失ってしまっただろう今、むしろ誰よりも弱い存在なんじゃないかと
だから心配で仕方がない。
誰がなんと言おうと、彼女だって、ひなた荘の仲間なのだから―――――
「ちなみに、なるさんは六輪車ぐらいですね」
「六輪車って…私はダンプかなにかですか!?」
「安定してますし、ブレーキもしっかりしてますし、至極真っ当な人間ってことですよ」
「はあ…それじゃ、むつみさんはどうなんです?」
「私…ですか。私は………そうですねえ、ラジコン飛行機でしょうか」
「…なんか、どこにでも行けそうですね、それ」
――――自己考察、その2
私は歪んでしまった。
純粋なものは、とうの昔に消費し尽くしてしまった。
そうして私は強さを手に入れたのだから、後悔する余地など微塵もない。
私が望んで今の自分になったにしろ、使命を果たすうちに非日常に適応できる形として今の自分のなったにせよ
どちらにしろ、既に手遅れなのだから
もう、正気(マトモ)な人生を送れることなど期待していない。
100の罪は、どう足掻いても私の背から離れようとはしない。
それは使命とはいえ、明白に私が犯したものなのだから、逃げ場などない。
そもそも、歪みきってしまった私に、日常など送れるはずが―――
――――――――けれど私は
――――――――あの人と、日常の約束をしていた
――――――――たあいのない、ゆめを
…結局、どれが発端だったのだろう。
約束の女に勝つために、浦島流の『神速』として正気(マトモ)な人生を捨てたのか
兄との約束を果たすために、祖母の思惑に乗り浦島流の『正統後継者』になったのか
ただ単に、100の罪に耐えられなくて『神速』であり『正統後継者』である私が形成されたのか
…もう意味がないこととはいえ、ふと気になった。
100の使命を果たすことが、ひなた荘譲渡の条件だった。
だが、私は本当に―――100の罪を背負ったまま、兄と幸せになれると信じていたのか
信じて……いたのだろう。少なくとも『神速』でも『正統後継者』でもなかった頃の、純粋な私は
けれどもう、私は純粋ではない、歪んでしまっている。
兄に会って、ようやくわかった。
もう、致命的なまでに、住む世界が違うのだと――――――
「浦島」
電話を置いて、溜息一つついて振り向くと、素子ちゃんがソファーに座っていた。
「―――なに、素子ちゃん」
ここはロビー
俺はついさっきまで、妹の行方を探るべく実家に電話をしていた。
だけど、出て来たのが母さん
これじゃあ、何もわかるわけがない。
…というか、帰国の挨拶を忘れてたのが気に食わなかったらしく、何を聞いても静かな喧嘩腰だったし
可奈子が向こうにいないことだけは分かったけど、その十倍ぐらいの説教を聞かされてしまった。
ついでに、一段落ついたら挨拶に行くという約束も
二重の意味での、溜息
そういうところにかかった彼女の声だから、返事も少し暗かったかもしれない。
「浦島可奈子のことか?」
「うん。実家の方にも、戻ってないみたいで…」
「そうか、まあ…少し話がある、こっちに来てくれ」
手招きに応じて、素子ちゃんの向かいに座る。
なんだか真面目な話のような気がして、隣に座るのははばかれた。
…まあ、それがなくても俺と素子ちゃんの間柄じゃ必要以上に引っ付くなんてことはまずありえないけど
仲が悪いとか、互いに遠慮してるからじゃなく、純粋にそんな必要はないから
そしていつもの通り(というと少し悲しいものがあるけど)素子ちゃんの話は突拍子もないものだった。
「浦島。お前は『浦島可奈子が私と同等以上の戦闘能力を持っている』と言ったら、信じるか?」
「へ?」
可奈子が素子ちゃん以上に強い?
…聞き間違えたかな
「…やはりか。私のことも知らなかったようだし、どういう猫を被ってたのだ、お前ら兄妹は」
「え、だって…可奈子だよ?」
「私は、姉上への手紙ではお前のこともちゃんと書いたぞ…そのせいで酷いことになったが」
「いや、なんか照れくさくてさ…」
「まあ、とりあえずそれはいい。とにかく『浦島可奈子がお前に、お前と同様に隠し事をしていた』…こう言えば、少しは信用するか?」
「…可奈子が?」
「ああ」
「…素子ちゃん並に強い?」
「その通りだ」
…そんなの、信じられるわけがない。
素子ちゃんは嘘なんか言わない人間だけど、それは何かの間違いだろう。
だって可奈子だよ?
とっても甘えん坊で、俺にとっての可愛い妹
それが素子ちゃん並に強い(素子ちゃんの強さは骨身に染みて知っている)だなんて、想像できるわけもない。
「…信じてないな、その目は」
「いや、だって」
「大体、何年間も離れてただろうに、どうしてそう肉親を信頼できるのだ、お前は」
「…家族って、普通信頼するものじゃ?」
「うっ…それは、まあ、そうかもしれんが…」
「大丈夫?素子ちゃん」
唐突に胸を抑えて俯いてしまった素子ちゃんの背中をさする。
やっぱり、半年経ってもお姉さんのことは禁句なんだなあ…
「くそ、世間一般の常識など『どうでもいい』んだ。とりあえず」
「とりあえず?」
「背中をさするのはやめろっ、私は幼児ではない!」
「ああ、はいはい」
個人的には、こういうスキンシップとか、どうでもいい話とかはけっこう好きなんだけどなあ…
素子ちゃんは、嫌がることが多いけど…常に、しっかりしてるというか合理的でありたがるから
ぐらぐらゆれてる素子ちゃんもいいと思うんだけど
「それで、なんだっけ?」
「…いや、もういい。なにを言っても信じないということがよーく分かった」
素子ちゃんが、凄まじく呆れたというか諦めた目つきでこっちを見てくるけど…こればっかりは
可奈子のことだしなあ…
「なあ、浦島」
「うん?」
「お前は……あいつのことをどう思ってるのだ?」
「んー、そりゃ、可愛い妹だけど…」
ふと、昔のことを思い出した。
俺が浪人していて、可奈子が婆ちゃんにくっついて旅していたときの出来事
「毎月、手紙をやり取りしててね、なんでか、可奈子の手紙は何ヶ月かまとめてになる場合もあったけど」
「…それで?」
「二回目の浪人のとき、つい弱気なこと書いちゃったんだ」
それまでずっと、手紙には当り障りのないこと、日常の些細なことばかりを書いていて
弱い面など、カケラも見せないように努力していた。
なにしろ相手は、妹だから
…でもそのときは、色々(物理的圧迫含む)あって
はじめて、自分の本音を書いてしまったような気がする。
「で、返事はどうだったのだ?」
「…別に、いつもの通り、時節の挨拶から始まって、普通の内容だった」
「なんだ、それだけか」
「でも」
寂しい、と
何気なく、文章の中でその言葉が使われていた。
思い出す限り、それまで何十通と交わした手紙のなかで一度も使われてなかった言葉
…その時、思った。
今までずっと、俺が妹に対して強く見せていたように
可奈子も、俺に対して強く見せたいと思っていたのではないかと
本当は、とてもとても弱い娘なのに
一言だけ記されていた、その『寂しい』は
俺の本音に対する、精一杯の返事だったのだろう。
「なんだ、互いに隠し事をしてるということは、分かってたのか」
「…そりゃ、遠慮しあってるかもしれないけど。それでも…素子ちゃんみたいに生きるなんて、可奈子には無理だよ」
だって、あんなに弱い妹なのだから
「どういう言い草だ、それは。私は象に踏まれても平気なほどに頑丈だと言いたげだな」
「い、いやそういう意味じゃなくてっ……く、首は締めないでっ……!」
――――自己考察、その3
約束の女
私の憎悪が向く対象
けれど……なぜ、私は約束の女を恨んでいたのだろう。
それは実体が存在しないと、わかっていたはずなのに
鍛えるべきは自分であって、その偶像を憎むのはお門違いだというのに
…そう、気付いたのだ
私は、約束の女を恨みたかったわけでは、ないということに
事実、最初こそ憎しみに引きずられてしまったものの、今となっては『成瀬川なる』個人に対する憎悪など、ほとんどない。
私は何故、約束の女を恨んでいたのか
それは
最初に憎悪があったから
私は、憎んでも良い対象に、それを振り分けたに過ぎない。
――――兄に対する憎悪を
そう、私は憎んでいた。
あの人に対する愛情は私の全てだった故に、歪んでしまった私からは同等の憎悪が溢れ出た。
内臓を傷つけて血反吐の中でのた打ち回っている時に、一週間も飲まず食わずで荒野を彷徨い飢えと渇きに苦しんでいる時に、雪山に放り出され吹雪の中で凍えている時に、何十人もの敵に追われている最悪の時に
そして、ひとをころすときに
掻きたてた憎悪は私を、この上ないほど強固に、剛(つよ)くし、私はそうして生き残ってきた。
それをあの人に向けるわけには行かなかったから、私はその感情を約束の女に逸らしていた。
無意識に
私の源たる、愛憎の出所―――結局のところ、私の全てはあの人にあるのだ。
良くも、悪くも
――――それでは、私はあの人になにを求めているのだろう
あににおいつけるように、そのとなりにならべるように
幼い日のその望みは、歪んでしまった私にとって、もはや蜃気楼のごとき幻想に過ぎない。
歪んでしまった私は
幼き日に交わした、兄の姿を、兄と交わした約束だけを支えに生きてきた。
歪んでしまった私は
七年ぶりに会った兄が、報われない幻想を信じるのではなく、大切な存在を得ていることに、酷い衝撃を受けていた。
歪んでしまった私は
あの人の幻想を抱いて、生きてきた私は
ああ、そうだ、私は――――
あにに、これいじょうかわってほしくないと、のぞんでいる
ふと
目が
覚めて
横を見た
……のは、後になって思えば『あいつ』が気配を残していったからかもしれない。
そうでなければ、寝床が変わってなかなか寝付けなかったから、とか…いや、それはないか。ひなた荘の管理人室の方が、よほど住み慣れてるし。
とにかく
枕元には、一枚のメモが無造作に置いてあった。
メモというのは文章を書いておくのが目的で、そのメモ帳の切れ端は目的を持って置かれたのを示すように、しっかりと文章が書かれてあり
灯りをつけてその内容を確認するなり、それまでのゆめうつつ状態を完全に吹き飛ばされた。
『開かずの別館に、誰も連れず誰にも教えず、一人で来てください』
可奈子の字だ。
ずっと前から、妹とは手紙のやりとりを続けていた。一月に一度は手紙を出していたから、書いた文も返事ももう何十通にもなっているはずだ。正直、可奈子の外見より字の方が見慣れている、だから間違いない。
飛び起きて…それから、ふと不安になった。
これは現実なのだろうか
この三日間、妹のことが心配で心配で、自分なりに八方手を尽くして探していた。
だから―――これは自分にとって慣れ親しんだカタチで出てきた、願望なんじゃないかと
ガン、と自分の頭を思い切り殴った。
痛い
―――何を考えてるんだ、俺は
これが夢か現実かなんて、どちらでもいい。
今はただ、妹が、助けを求めている(確信に近い推測)という事実が目の前にある
だから俺は、助けに行かないといけない。
別館に
あそこは色々と曰くつき(昔婆ちゃんに御伽噺を聞いた覚えがある)で今は封印されているという場所。可奈子がどうやってそこで待つのかは分からないけど
確かここに…ああ、あった。
戸棚の引出しから一つの大きな鍵を探し出す。俺がひなた荘の管理人になった次の日に送られてきた、開かずの別館の鍵
それを掴んで、俺は自分の部屋を飛び出した。
ガッ
「あいたっ…」
急ぐあまり、途中で何度も転んだりもしながら
「…ん?」
それは本当に、偶然だったんだろう
真夜中、急に催し…トイレに行きたくなって、ぼんやりとした状態のまま廊下に出て
当初の予定通りトイレを済ませて、扉を開こうとしたところで
バタバタと、扉の前を駆ける足音
脳味噌が完全に起きていたのなら、幽霊かなんかを連想してへたりこんでしまったかもしれない(トイレだし)
けれど、ゆめうつつ状態だったので特に恐怖感など覚えず、こんな真夜中にいったい誰だろうと無造作にドアを開け
こちらに気付かずに走り去っていく、景太郎の後姿を見つけれたのは、偶然だったのだろう。
あれ、と不思議に思う
なんで、こんな夜中に、あんな方向に―――誰もいないはずの渡り廊下の方に、走っているのだろう。
不思議に思う
何気なしに、後を追ってみようと思ったのは、まだ寝ぼけていたからだろうか
数々の偶然に導かれ、私はその騒ぎに巻き込まれていった…当事者でもないのに
後で思えば、運命だったのかもしれない。
その、災害とでも言うべき規模の騒動に
…はた迷惑な運命もあったものだ。
その影を見つけたのは――――
偶然などでは、なかった。
私は、浦島可奈子がこのひなた荘を出ていったとは―――思っていない。
奴が逃げ出したなどと、とても思えなかったことと…後は、勘だ。
奴は、ひなた荘のどこかに必ず潜んでいる。
それは推測であり、確信だった。
そして私は、密かに(どうせ、その気になれば一日中自由な身だ)このひなた荘のいたる場所を調べていた。
本館、新館は言うに及ばず、スゥから聞き出した隠し通路の数々、広い裏庭、そして放棄されている離れ
足が届く範囲の全てを見回った。
ただ一つ、完全に封鎖されている別館を除いて
消去法、浦島可奈子が潜むとしたらそこしかない。
だから私は、毎晩のようにそこを見張っていた。
近いうちに必ずそこから出てきて行動を起こすと、推測し
そして徹夜三日目、いいかげん出て来いと(昨晩のように)無性に腹が立ちはじめてきた頃
それが(昨晩のごとく)諦めに変化する前に
黒い影を見つけた
浦島景太郎だった
くそ、と歯噛みする。
見つけられなかった
浦島がそこに向かっているのは、奴からなんらかの手段で呼び出されたからだろう。
昼間、ではない。浦島とそれに関しての会話をしたが、不審な点は一切なかった、断言する。
つまり、奴は私の目の前でなんらかの手段(矢文か電波か知らないが、直接置き手紙というのが一番屈辱的だ)で連絡し、私はそれを見抜けなかった、防げなかった。
「くそ……幽霊か、奴は」
気を取り直して目算する。
この距離から全速力で駆けたとして、浦島が別館に辿り着く前に追いつけるかどうか
…無理だな、それは。なにしろここは物干し台、気付かれるのを危惧したのが裏目に出たか。
―――放っておいてもいいのかもしれない、と
ただ、純粋に妹が兄に会いたいだけだと―――そう解釈する奴もいるかもしれない、当の浦島本人とか。
だが、違う。奴はそんな『タマ』ではない。
私と同種の、私以上に危険な匂いがぷんぷんする。
追い詰められたら、なにをしでかすかわからない匂い。
奴は、いつか必ず浦島を傷つける、ともすれば殺しかねないほどに
私のように
だから、浦島は私が護る
―――嗚呼、ようやくわかった。今まで、幾度も幾度も幾度も浦島を傷つけてきた、故に私は、私以外の全てから浦島を護る義務と―――権利が、ある。それこそが私が命を賭けてすべきことだ。
だから容赦などしない。
誰の妹だろうが、誰の孫だろうが、関係ない
殴って殴って殴り倒して、相手が泣いて許しを請うまで叩きのめす。
私は、ひらりと―――物干し台から飛び降り、二階の屋根に着地、続けてもう一段飛び降りる。夜の静寂にガンガンと響く足音
そこからでは数分の間ができるだろうが……せめてそれまで
死ぬなよ、浦島
暗闇の
一筋の光すら差し込まない暗黒の中
外もまた、丑三つ時と呼ばれる宵闇
この閉鎖された場所を抜けても、そこもまた暗闇
目覚めよ―――――――と呼ぶ声が聞こえ
正直、悪い気分ではなかった。
結局、周囲を闇に包まれてはいるが
私自身も闇と同じなのだ。
畏れる必要も、拒む意味も見当たらない。
とても―――心地よい闇
目覚めよ―――――――と呼ぶ声が聞こえ
大切な人を待つ時間というものが
こんなにも、こんなにも、心地よいものだったなんて
はじめて、気付いた。
今まで、ずっとずっと前に進んでばかりいたのが、少しもったいなかったな、と思う。
悪い気分ではない
目覚めよ―――――――と呼ぶ声が聞こえ
愛しい愛しい愛しい愛しいあの人を
憎い憎い憎い憎い憎い憎いあの人を
愛しい愛しい愛しい愛しい、あの人の形骸を抱えて
憎い憎い憎い憎い憎い憎い、あの人の残骸を抱いて
私は暗闇の中、ただ一人待つ
待ち続ける
目覚めよ―――――――と呼ぶ声が聞こえ
愛憎紙一重という言葉を聞いたことがあるが、私の場合はそうではなく……愛憎一体。
世界の全てを敵に回しても、彼の味方をできるほどに―――愛している
世界の全てを犠牲にしても、彼へ復讐をしたいほどに―――憎んでいる
それらは、矛盾することなく私の中で共存している。
私の全てはあの人から始まり、あの人で終わる
その自負は、とてもとても心地よかった。
目覚めよ―――――――と呼ぶ声が聞こえ
私はその声を、無視する
来た
がちゃん、と表門の鍵が開かれる音
ぎぎぃ、と歴史を感じさせる音を立てながら開かれる扉
開いた入り口から内部の暗闇に染み込んでくる、淡い淡い光
―――そうか、月が出ているのか、と今更ながらに気付く
そして、その光にぽっかりと浮かび上がった、人影
探るような、闇に怯えて不安そうな、僅かに震えた声
わたしのすべて
「可奈子…いるのか?」
その平穏な声の全てが愛しい
その平穏な声の全てが憎らしい
私には無い平和の欠片、私が失ってしまったものを持つ貴方
私が血反吐を吐いている時も、平和な日々を送っていた貴方
愛情と憎悪の両輪
「ずいぶん早く来てくれたんですね…嬉しいです、お兄ちゃん」
私の置いてきた手紙に、すぐ気付いてくれた。
そして夜中にも関わらず、約束どおり誰にも伝えず誰も連れず一人で来てくれた。
おにいちゃん
私を見つめてくれている、私を信じてくれている
少なくとも今だけは、私を第一に思ってくれている
それが、ただ純粋に嬉しい
「お前、三日もどこに行って…大丈夫、なのか?」
「はい、私は、やっとわかったんです」
一歩二歩三歩と影のように踏み出し(暗歩)兄の前に姿をさらす
不意を突かれた兄が反応する前に
両手を広げて
抱きつく
「かなっ…!?」
「ずっと―――こうしたかった、私の本当の、夢がかないました」
両手を貴方の背中に回し
右手は、もう離さないとばかりに思い切り兄の体を抱きしめて
左手は、ぎりと握りしめたナイフの刃を兄の心臓めがけて翻す
―――――――――――――――――――私は
ひなた荘に帰ってくるまで、あの人が変わっていたことに気付かなかった。
いや、今も
私の中のあの人は、報われない約束に苦しんでいる少年だ。
それでも決して諦めず、自分が嫌いなのに世界を裏切れない、健気で律儀で愚かな兄だ。
けれど現実の、あの人は
七年ぶりに会ったあの人は、とてもとても幸せそうだった。
そんなことは、あってはいけないというのに
私の全ては、『苦しんでいる貴方』を存在意義にして組み上げられているのに
わたしは、むくわれないあなたがいい
私の中の貴方と、現実の貴方とのギャップ
それが私を苦しめる
貴方は、どんどん私からかけ離れていく、私のいる場所から離れていく
それが私を狂わせる
私が識っているのは、もはや貴方の形骸であり、貴方の残骸に過ぎない
貴方を引き留めたい
貴方に止まってほしい
永遠に、私と同じ場所にいてほしい
ほ
――――私は、貴方が恋しい
生きている限り、人は変わり続ける
貴方は生きている限り、私の中の貴方とかけ離れていく
だから――――
止まって、ください
「――――――――――――――――――――――!」
ぐじゅりと、慣れ親しんだ、肉を斬り裂く感触
無限に思えた
兄の体が硬直し
そして、声が届くまでの数瞬
「カナ――――――――――――――ちゃん」
成瀬川なるの、声
私のナイフは、兄の背中の皮一枚を破るに留まっていた
その直前に、刃を握られ、その手を斬り裂くのに勢いを使い果たしてしまったから
いつのまにかそこにいた、成瀬川なるに
もぎとられる
「なんてことを……するの、あなたは……痛ぅっ…!」
「な、成瀬川!?ど、どうしたんだよ、その腕…!」
ぼたぼたと、月明かりにどす黒い液体が滴り落ちて
木の床に染み込んでいく
成瀬川なるの右手から、溢れるように滴る鮮血
ヂャリンと、床に転がる血まみれのナイフ
痛みに慣れていない彼女の、押し殺された悲鳴
私は小首を傾げた
「お兄ちゃん……約束、破ったんですか?その人を連れてきたんですか?」
「え、いや、そんなわけじゃないけど…」
「う、ぐっ……景太郎、あんたね…」
「よかった…やっぱり、お兄ちゃんは、約束破ったりしませんよね、当たり前ですよね」
一瞬でも疑った私が馬鹿だった
お兄ちゃんは、そういうところは昔と何も変わっていない
私と交わした約束を、何一つ破ったことなど無い
嬉しい
この女が、勝手についてきただけなんだ
なら
邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔
「邪魔をしないでください」
浦島流、空塵影舞
とんとんとんとん、と繰り出した千本はこの至近距離で外すわけもなく目標箇所に命中し、両手両足の神経を遮断した。
「え……」と呆然とした呟き声を漏らして成瀬川なるが前のめりにばたんと倒れる。
痛覚も遮断しているから、右手の傷も痛まないはず
必死に床の上でもがいているが、立ち上がるなんて夢のまた夢だ。
「な、に、こ、れ…」
「な、成瀬川!?」
「くっ…ぼさっとしてないで、逃げ、なさいよ景太郎…!」
「……さあ、お兄ちゃん、今度こそ」
「………!」
取り出したナイフを、わざと見えるように構えると、お兄ちゃんの視線が一気にこちらに集中した
そう
今の、この状況で
私だけを見つめてくれるその瞬間で
駆ける
止まって
「―――――――――――」
ください
願いと共に繰り出された刃は、音もなく疾り
――――――――
やはり音もなく、兄の脇の下をくぐって飛び出してきた刃に受け止められた
………また
「何故、邪魔ばかり」
「浦島可奈子ォ!!」
そのまま、兄の体を滑るようにして繰り出されてきた一撃を、後退して凌ぐ
あの人との距離が、また広がり
そしてその間に、底冷えのする瞳をした青山素子が立ち塞がった
……邪魔
「浦島の懇願もあって見逃したが…やはり貴様は、三日前に斬り捨てておくべきだった」
この構図
この構図
この構図
「一度ならず二度までもなる先輩に手を出し、今度は浦島の命まで狙うか…貴様、今度こそ」
私がいて兄がいる
それだけでいいのに、この世界には邪魔が多すぎる
邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔
「許さん」
「…邪魔」
飛び出したのは全く同時
ほとんど同時に、吐息がかかるまでの距離に接近し
互いに防御など考えずに、必殺の刃を
互いを排除するために繰り出して
互いの急所に鋼が潜り込む
一瞬で
夢を観なさい―――――――と囁く声が聞こえ
全てが空白に飲み込まれた
目が、覚めたのは
ズドドドドドドドドドドォ!と凄まじい地震が部屋を揺らしているからでした。
思わず硬直したところで、花瓶が床に落ちてパリんと割れて床に水を撒き散らし
本棚がぐらぐらと揺れ始めたのを見るに至って私は『ここは危ない!』と思い至って、勉強机の下に潜り込みました。
頭を抱え、目を思い切りつぶり
浦島先輩、なる先輩、素子さん、むつみさん……と、頼りになりそうな人の名前を心中で繰り返し呟いて心を落ち着けようと努力努力
ドドドドドドドドドドド……
地震が止まらない。
最初のときよりは弱まっているけど、一向に止まる気配がありません。
ふと思いついたその可能性は、あっという間に私を恐怖のどん底に突き落としました。
もしかしたら――――ひなた荘自体が崩れようとしてるんじゃないかと
パニックに陥った私は、机の下を飛び出しました。
崩れるものはもうあらかた崩れていたので落下物で怪我することもなく、揺れる床のせいで転んで花瓶の欠片で怪我することも奇跡的になくて
私は部屋を出ることができました。
それから、数分ほどして地震は収まりました。
私は心細くなってみんなの部屋を巡り
やっぱり飛び起きてきたサラちゃんと合流し
まだ寝ていたカオラを起こして
部屋の中で酒ビンに埋もれていたキツネさん(幸いにも怪我はありませんでした)を救助して
駆けつけてきたむつみさん、はるかさんを加えて点呼を取り
浦島先輩、素子さん、なる先輩がどこにもいない、ことに気付きました。
手分けして、みんなで敷地中を探し回ることになりました。
まだ、どこが崩れてくるかも分からないから二人一組で
私はむつみさんと一緒に温泉の方を探して、それから裏庭の方に行って
そこには何もありませんでした
別館が、消えていました
追記:私は、ショックのあまり気絶してしまったみたいです。
むつみさんの「あら…まあ」というこの期に及んで呑気そうな呟きだけが意識に焼きついています。
ねんねんころりやおころりや
わがみのすえたるいとしごよ
ねんねんころりやおころりや
かけらをせいしたつよきこよ
ねんねんころりやおころりや
ごうりきもちたるよわきこよ
ねんねんころりやおころりや
うつしみわすれてゆめをみよ
ひとときわがみをうつしみよ
浦島可奈子の場合
目が覚めたそこには、日の光が差し込んでいた
「!?」
我知らず、倒れている状態から虫のように這いつくばって部屋の隅を背にする。
その動きといい、格好といい、光を避ける行動といい、その時の私はゴキブリのようだったろう。
どうでもいい
あの人(と邪魔な二人)が来たのが、午前の二時頃だったから、失神して四時間は経過したことになる。
生きているのは奇跡だ。
あの時、一瞬にして意識が白く塗りつぶされて―――なにがあった?
あの場で、青山素子か成瀬川なるの攻撃によって失神したとは考えにくい。
あそこまでやって、拘束もされずに放っておかれているというのは――それは以前も感じたことだが今度こそ――極めて考えにくい
どう考えても、こんな状況はありえない
そこに、兄がいる
倒れているなんて
――――――――――そんな馬鹿な
一瞬にして、様々な逡巡が胸の内をよぎった。
その無防備な姿
他の誰も姿が見えないという状況
意識がない
ただ……先刻まで抱いていた強烈な感情はどこかに消え去っていて
それが余計に
本当に、十数分も私は硬直してから
私は兄を介抱することに、決め
それから、三日が経過した
状況を整理しよう。
まず―――この場所は、何処なのか
そう、私と兄が気絶していたのは見知らぬ小さな小屋(物置付属)で、そこにはひなた荘がなかったのだ。
どころか、見渡す限り道路も、建造物の一つも見当たらない
鳥の声が聞こえるばかりだ。
移動させられた―――ということになる、常識的に考えれば
だが、私は小屋の周囲の地形に見覚えがあった。
滝がある、山がある、盆地になっている、奥の方には小さな祠もある。
なにより雰囲気が同じなのだ。
いくらひなびた温泉街といえど、目の前に路面電車まで通っていながらやたら空気の清浄だったあの場所と
そこは確かに、ひなた荘がある『べき』場所だった。
しかし『ない』
総合して一番高そうな可能性は、ここが『異世界』の類であるということ
ひなた荘の特性から考えるに――――聖域に取り込まれたのか、私たちは
それならば、ここに私と兄しか居なかった説明もつく
きっかけはわからない
同様に、帰る手段の見当もつかない
さて
ここがいくら聖域とわかったところで――時間が経てば腹も減る
餓死しないためには、生き抜く努力をしなければならない。
幸いにも、周囲の生態系は現実とほぼ同じだった。律儀な聖域もあったものだ。
「お兄ちゃん、ご飯ですよ」
私はごく普通に、彼に食事の時間を告げた。
無論、返事はない
串に刺して焼いた魚と火から下ろしたスープ入りの鍋を盆に乗せて小屋に持ち込む。鍋も盆も小屋の裏手の物置から持ち出したものだ。やけに形状が古びているが使用に問題はない。
「今日は、川の上流に仕掛けておいた網に魚がかかってたので、それを半分こしましょう」
無論、返事はない
盆を床において薄っぺらい布団(これも物置にあった)に横になっている兄の背中側に手を差し込んで、半身を起こさせる。
いまだ意識のない兄
サバイバルの経験など山のようにある。とある砂漠では草の根をほじくり返したり虫を捕まえて食べたりもした。ろくな装備もなしに雪山に放り出され何日も絶食して下山したこともある。違う意味でのサバイバル(殺し合い)の経験ならもっとだ。
だが―――自分以外の人間の面倒まで見るのが、こんなにも大変だとは
いつも一人だった。
ただ、任務を遂行し生き残れば良いだけの日々だった。
孤独に適応し、慣れていた。
けれど
守るべき人間が居るだけで―――いや、兄がそこに居るだけで行動の全てが慣れないものとなってしまう。
だから、この三日間、生きる環境を整えるためだけに時間のほとんどを費やすことになってしまった。
事態の打開を試みる暇など、ない
あるいは、それは―――――
「それじゃ、食べましょう」
無論、返事はない
木製の箸で小魚の身をほぐし骨を取り除く(喉に刺さると困るので)
それから兄の頬に手を当てて口を開かせ、白身を運ぶ。
意識がないとはいえ、口の中に入れるとなんであれ咀嚼し飲み込んでくれるので助かる。
でなければ点滴もないこの状況、私にはどうにもならなかっただろう。
「おいしいですか?」
無論、返事はない
今度はスープを木製スプーン(のようなもの)ですくい、ふーふーと息をふきかけて冷まし
それをゆっくり兄の口に添え、傾ける。
兄はそれを、喉を鳴らして飲んでいき
むせた
ごほごほ、と咳き込んでいるその背中をゆっくりとさすって「大丈夫ですか?」と呼びかける。
無論、返事はない
兄がまたぼうっとした生気のない表情に戻るのを確認してから、私はゆっくりと、手から滴るスープをぬぐった。
今日二度目の食事が済んだ。
しばらく時間を潰してから、兄の排泄補助―――要するにシモの世話をしなければならない。
初日に初めてやったとき、もう恐れるものなど何もない、と思った。
悲しいわけでもなく悔しいわけでもなく、ただ涙が出た。
シモの世話だ、シモの世話
兄を敬愛している(完全な存在だと思っていた)私にとってはそれ以上の仕打ちはあるまい。
あぁ神様、と普段なら絶対に信じないようなものにまで祈ってしまったほどだ。
まあ、だが、三日目ともなるとさすがに慣れる。それがまた泣ける。
というか
もう、恐れるものなど何もない
そういえば、もう三日も着の身着のままだ。
私はそれでもいいのだけど、兄の方は(いくら寝たきりとはいえ)問題が出てくるだろう。
寝心地が悪いだろうし
替えの服があればいいのだが、この人っ子一人いない状況ではとても望めない。
となれば定期的に体を洗うのが最善か
兄は意識がないので水に浸らせても溺れるのが関の山
服を脱がして、濡らした布で体を拭く方法をとろう。
服を脱がす―――
二日前の私なら、躊躇(あるいは狂喜)したのかもしれないが、こちとらシモの世話までした身だ、恐れるものなど何もない。
布は私の服の裾でも千切って使うとして、さしあたり水を汲んでおこう。
「お兄ちゃん、ちょっと川まで行ってきますね」
無論、返事はない
私は桶を持って小屋を出た。
歩きながら
夢のような話だと、思う
そこに兄がいて
私がいて
他には誰一人、私たちを助ける人も、邪魔する人も存在せず
あまつさえ、兄は意識を失い、変化のしようもなく止まったままだ
これ以上ないほどに、私の願望を具現化したこの世界
夢のような話だと、思う
けれど私は、なぜかそれほど幸福を感じていない自分に気付いていた。
川に着く。
桶に水を汲む。
目の端に反射光。
人工物かと思い、近づく。
そこにあったのは
そこで陽光を反射して鈍く輝いていたのは
あの時なくしたと思っていた
あの時、兄に向けた
一振りのナイフ、だった。
青山素子の場合
呼びかける、声が
ひたすらに、聞こえ―――――――
そこは、ひなた荘と呼ばれる場所だった。
そこは、物干し台と呼ばれている場所だった。
無人の
誰もいない
私の知っている、私の知らない、ひなた荘
どこか灰色に見える景色
そこに私は立ち尽くしていた。
気がつくとそこにいた。
以前にも同じような経験をしたような気がして記憶を漁る――――そうだ、妖刀ひな
皮膚感覚が薄皮一枚だけ『ズレている』ようなこの空気
腰を見やると、やはりそこに最近扱い慣れてきた黒い妖刀は(ついでに小太刀代わりの折れた刀も)存在しなかった。丸腰だ。
だが、以前のような記憶の欠落は――――ない。
浦島可奈子を叩きのめして改心させるために別館に飛び込み
なる先輩を踏み越え(謝罪)てギリギリで奴の奴の繰り出す刃を弾き返した。
浦島を狙っていた。
その事実が私を完全にキレさせた。
浦島を傷つけようとしていたことがどうしても許せず
我を忘れて全力で思いきり、殺すつもりで斬りかかった。
ここに至るまでの経緯は明瞭に思い出せる。
それから
まさに接触の瞬間に、その記憶は途切れている。
――――だが、おかしい
あの瞬間に私が妖刀に乗っ取られたのなら、その瞬間だけは無防備、命があるとは思えない。
死んでいるのならここに私がいる(意識がある)というのは、尚おかしい。
死すれば意識は闇に消ゆると――――少なくとも私はそう教わった。
ここが私の内面世界だとしたら、少なくとも今この瞬間に、私の脳髄は生きていないとおかしいのだ。
おかしなこと――――腑に落ちないことはもう一つある。
私は妖刀ひなを、姉上との勝負で勝った(勝たせてもらった)時から完全に掌握していた。
術や技を用いた封印ではなく、ただ純粋な精神力の押し合いで
純粋だからこそ(少なくとも私に関しては)再び肉体を乗っ取られることも、精神を取り込まれることもない――――はずだった。
…本当に、あの瞬間、なにが起こったのだ。
意識を失った後に、なにか唄のようなものが聞こえた気もするのだが――――
「私は」
不意に
唐突に
まるでなにもない空間からにじみ出たかのように
背後に、声と気配が発生した。
私は即座に振り向こうとして――――愕然とした。
身体が動かない。
伸ばした両足も、だらんと下げた腕も、引いた顎も、僅かに開いた指も、なにもかも
文字通り、指先すら動かないことに、今更になって気付いた。
「ずっとずっと、周囲の定めた道だけを歩いて生きてきた」
背後の気配と声は構わず続ける。
聞き覚えのない、しかしどこかで聞いたことがある声
誰の、声だ。
いや、もしもこの相手が、妖刀ひなか、それに類似する相手なら―――
「それは当たり前のことで、だからこそ達成感も挫折もなく、結局私だけの『道』とは成り得なかった」
背後の声と気配が途絶えた
現れたときと同様に、全く唐突に消失したのだ。
同時に、今度は右側の方に声と気配が発生した。
「ある時、私は彼の影響で、初めて自分の意志で『道』を選び、立ちふさがる障害に自分の意志で挑戦した」
かつ、かつ、と足音を立てながら声と気配が向こうの方に移動していく。
――――こいつは、声と気配だけの存在ではない
少なくとも今この場では、身動きのとれない無防備な私を前にして実体を持っている!
「そして失敗した」
また、気配の消失
「それ自体は、二つに一つで当然あり得る結果だと、何度も何度も自分を納得させようとしたけど、どうしてもできなかった」
今度は正面
物干し台に繋がる階段を、コツ、コツと一段ずつ上がってくる影と気配
どこかで聞いたことがあるような聞き覚えのない声
姿が、見える――――
「なぜなら、それは自分の意志で選んだ道だから。失敗は他の誰でもない、自分の責任でしかないから」
姿―――
それは―――
予想通り―――
「言いなりではない、自分自身での決断の結果に、私は耐えられなかった。ずっとずっと立ち直れなかった、そしてそれは今も」
それが誰かと問われたら
一般的に、私が知る人皆が同じ答えを返すであろう
青山素子という人間が、そこにいた。
赤い袴
白い胴衣
短く揃えられた髪
全てが同じ
ただ違うのは腰に下げられた黒い刀
表情は―――暗く沈んで
―――――表情、だと?
妖刀ひなは表情を持たない、そもそもそんな感情は『ない』模擬すらしない、そんな必要はないから
いや、そもそもここが妖刀ひなの創りだした内面世界ならば『妖刀ひながそこにある』のは、おかしい。
何者だ
何者だ、この、私の前に立ち、私の姿をした誰かは
「私は自分一人では何一つできないくせに、自分のものですらない力を得意げに振りかざしていい気になっていた、どうしようもない愚か者だった」
幻影だ――――――と念じようとした。
できない
その表情、暗く沈んだその顔は、以前の(あるいは今の)私そのものだったから
ましてや、その口から語られていく言葉は紛れもなく
「その事実ですら、私は認めることができなかった」
紛れもなく私の本心
「私は、とても彼とは釣り合わない、と」
いまや私の正面に立ち
こちらをじっと見詰めてくる、昏い目をした陰気な女
―――私は
私は、ただ心の中で、強く強く強く強く強く強く強く強く強く……念じた
黙れ―――――――と
黙らなかった。
成瀬川なるの場合
「…る先輩、…る先輩」
呼ぶ声が聞こえ―――――
うっすらと目を開くと、そこには
「あれ、しのぶちゃん…?」
「あれ、じゃないですよなる先輩。ぼーとしちゃって」
「…背ぇ、伸びた?」
「もう。式の前だっていうのに寝ぼけないでくださいよ。ほら、ドレスの着付け終わりましたよ」
…ドレス?
見やる、と、そこには白い薄布を幾重にも重ねたようなドレスを纏う、私の姿があった。
うぇでぃんぐどれす?
「うわあー、本当に綺麗ですよ、なる先輩」
一歩離れたしのぶちゃんが感嘆の声を上げる。
「いいなあ…」
「…大丈夫、しのぶちゃんもいつか必ず、私以上に綺麗なウェディングドレスが着れるから」
微笑みながら、姿身の前に立つ
そこには、とてもとても幸せそうな表情で佇む、一人の花嫁の姿があった。
―――ああ、そうだ
―――今日は、結婚式があるんだ
―――私と、景太郎の、一生で一番大切な日
「そういえば、新郎はなにやってるの?」
「…あの、それが―――昨日から姿が見えないんです」
「また?こんな大事なときに、まさか土掘ってるんじゃないでしょうね」
「あはは…それも、あながち否定できませんけど」
「ま、いつものことか。なんだかんだ言って律儀な奴だし、信じて待ちましょう」
信じて待とう
そんな言葉がさらっと出てきた自分にこそ、驚く
ああ、私は
だから景太郎と結婚式を挙げるんだ。
心のそこから信じれる人
大切な人
愛する人
両親のことで色々あって、夫婦というものに対して不信気味だった私が、こんなふうに思えるようになるなんて
祈らずにはいられなかった。
つぅ―――――
「あ…」
「…大丈夫、しのぶちゃん。悲しいわけじゃないから、きっと嬉し涙よ」
涙が、零れた
悲しいことなど何一つない、悲しむことなどないはずなのに
――祈らずにはいられない
あぁ、神様
どうか
どうか
「んで、お前ら」
と、はるかさんは不機嫌そうにコーヒーを啜りました。
「こんな夜中に集団で押しかけてきて、いったい私に何を求めてるんだ」
そんなことをブツブツ呟きながら、私たちの集まった机の上座に座ってくれます。
同時に、そこにいる皆から矢継ぎ早に質問
「あ、あの、浦島先輩となる先輩と素子さんがどこかに…!」
「別館が消えとったでー」
「さっきの地震、ひなた荘でしかおこっとらんみたいやけど」
「はるかが起きてないのに、むつみが起きてきたのは何でだ?」
「店長、相変わらずカッコいいパジャマですね」
「ええい、質問は一人ずつにしろ、というか最後の方は関係ないだろうが」
やっぱりみんな不安らしく、はるかさんにあれこれ聞いて怒られてしまいました。
それから彼女は「さっき婆さんから連絡があった」とため息をつきました。
「説明は、するさ。どうやら今回の私の役目は『それ』らしいからな。
だからお前ら、黙って私の話を聞け
信じられないような話かもしれないが、とりあえず聞け
私だって信じたくはないんだからな…」
今、別館は文字通り『別世界』と化している。
御伽噺で言うところの竜宮城、あれみたいなもんだ。
理由なんて知るか
ああ、そうだな。何でも、あの別館には先祖代々の守り神みたいな存在がいて、それが目覚めて別館を――そして『そこにいた人間』を取り込んだらしい。
そうだ。
そこに取り込まれた人間がいる。
とりあえず、景太郎と可奈子は確実だ。そもそもあの二人があの場所で居合わせたから、こんな事態になったんだしな…くそ、表門と裏門、それぞれの鍵、それぞれの後継者、そんな条件がまさか偶然に揃うとはな…
なるは、おそらく巻き込まれただけだろう…根拠は薄いが、ひなた荘を探していなかったんだな?こんな夜中に出かけていた―――という仮定より、巻き込まれたと考えた方が自然だ。それにしてもとことん運のない奴だな…
素子は―――
立場も、持っているものも、性格的にも、魅入られたのかもしれない。
だが、実際のところなんて知るか
600年も前の亡霊だ
600年も前の亡霊だぞ?
どうしろっていうんだ、そんなもの――――
「聖域と化したあの場所には、基本的に手出しはできん。中で何が起きているかは知る由もないが…」
そこまで一気に話して
はるかさんは、唖然としている私たちを前にして、もう一度ため息をつきました。
―――そういえば、彼女のため息なんて、はじめて見る。
「信じるも信じないも自由だ。私は事態を打開できそうな人間に応援を頼んでくる。無駄かもしれんがな―――三重の意味で」
はるかさんが店の奥に引っ込んで
私たちは今の話を、自分なりに解釈しようと必死だった。
聖域?亡霊?別世界?
私には全くわからない単語の数々
こんなときに、素子さんがいてくれたら――と思わずにはいられない。
でも、きっと、今一番大変な人の一人が、その素子さんなんだ。
そして、浦島先輩も、なる先輩も
「で、スゥ。ウチには、はるかさんの話はようわからへんかったけど、なんか役に立ちそうな道具あるか?」
「ふっふっふ、こんなこともあろうかと」
「あ、あるんか?」
「次元破砕爆雷ヴィジュラ君はどや?メカタマ5の最終兵器に使う予定やったけど、これなら設定次第で多次元の存在も爆砕できるで」
「爆破してどーすんだよ!素子ねーちゃんや可奈子たちが中にいるんだぞ!」
「ナハハ、そやったな。せやけど次元潜行装置はまだ研究段階やし、二ヶ月ぐらいで目処はつくと思うんやけど」
「んなに待てるかい!」
「そーいえばさ、さっきはるかの話に出てきた竜宮城ってなんのことだ?」
「ウチ、知っとる。前にケータロの看病で読んだで。えーと…『アイしあう二人がトーダイに行くと…」
「…なんか違うだろ、それ」
…竜宮城?
彼女の名前を連想して、反射的にむつみさんを見やる視線は空を切った。
―――いない!?
慌てて周囲を見回す。三人で固まって何か相談(ボケ突っ込み)しているキツネさんとカオラとサラちゃん、そして今まさに戸口から消えた後ろ髪
迷う
自分自身がどうするべきか
むつみさんは誰にも何も言わずに席を立った。はるかさんの話を聞いて自分なりにできそうなことを見つけ、そしてそれは私たちには何一つ手伝えないことなのだろう。
それでも
それでも、せめて―――
「打つ手なしかよ……んじゃ、アタシははるかの呼んだ『援軍』が来るまで…寝直そっかな」
「こんな時に寝てえーんか?」
「こんな時だからさ、どーせ後で動かなきゃならねーんだから、やることがないときぐらい寝とかないと」
「歳の割にはえらい剛毅な考え方やな……ま、一理あるか。そんなら酒かっくらって…」
「キツネねーちゃん、酔い潰れてどーすんだよ」
「寝酒ぐらい普通やろ?」
「キツネ」
「なんや?」
「…しのむとむつみがおらへんけど、どこ行ったんや?」
「「なぬ?」」
「むつみさん!」
「あら、しのぶちゃん」
追いつくこと自体は、石段を登りきってすぐでした。
けれど、呼びかけてもむつみさんは、こちらを振り返って返事をするだけで
歩みを止めることすらなくて
「むつみさん、どこに行くんですか?」
「いえ、ちょっと皆さんを連れ戻してこようかと思いまして」
やや後ろに並んで歩きながらの私の問いに
今度は振り向きもせずにごくあっさりと(けれど、その内容は!)答えました。
絶句
――――して、思わずその場で立ち止まってしまい
慌てて、数歩分開いた間を再び詰める。
「つ、連れ戻すって、そんなことできるんですか!?」
「まあ、とりあえずなるさんに呼びかけて中の様子を教えてもらおうと思うんですけど」
「よびかけ……そっ!そんなの、どうやるんですか!?」
別館(のあった場所)に着く。
黒々とした影が存在するはずのそこには、やはり反響する虚ろしか存在しなくて
…呼びかける?
―――そんなの無意味だと、理性ではなく本能で感じる。
だって、そこにはなにも『無い』
今も私の呼び声、目の前の更地を全く素通りして
消えた。
「――――しのぶちゃん」
手ごたえの無い夜の闇に、恐慌にすら陥りそうな私を
ふと、むつみさんがじっと見詰めてきていて
「私が、なるさんと親友だって言ったら、信じますか?」
―――え?
質問の意味がわからない
だって、二人は、あんなに息が合っていて、対照的だからこそ、かえってうまくいってる二人だと―――
ぽかん、と口を開けてしまった私を尻目に
むつみさんは「さて」とあらぬ方向に向き直りました。
「一心同体というわけではありませんけど、繋がっているから居場所ぐらいはわかります。それではしのぶちゃん」
「は、はい?」
「体の方をよろしくお願いします」
「――――え」
と反応する暇も有らばこそ
ごん
唐突に、むつみさんの体がその場で崩れ落ちました。
鈍い音がしたのは地面に頭をぶつけたせいだ、と後で知りました。
――また、現実逃避として気絶しそうになる自分を、叱咤し
「む、むつみさん!?」
こけつまろびつつ駆け寄り、地面に転がっているむつみさんの体を探し当てる。
闇の中
彼女の体(私より大きい!)を抱えるようにし
そこで気付く
息をしていない
い、き、を、し、て、い、な、い?
と、じ、ら、れ、た、め
閉じられた目?
し?
死
ん
で
いる?
「む、むつみさん!むつみさぁ―――――――ん!!」
それから私は
事態が変化するまで必死で名を呼び、体を揺すり、頬を叩き、何度も何度も、一切反応しない彼女に、我を忘れて呼びかけ続けました。
―――ああ
やっぱり呼びかけるって大変です。
むつみさんも(どういう方法かは見当もつきませんけど)苦労しているんでしょうか
未来U
――――カーン
――――カーン
ひなた荘の裏庭
そこには桜に囲まれた結婚式場が設けられている。
天気は快晴
席は満席
ヴァージンロードは白く輝き
祝福の鐘は鳴り響く
「絶好の結婚式日和だ」と誰かが呟いていた。
本当にそう思う、思いたい
それは、天の祝福だと
―――――――――――呼ぶ声が聞こえ
「それじゃ、行こうか」
「ええ」
隣にいる、大切な人と頷きあい腕を組む
共に一歩を踏み出す
その、瞬間
幸せへのきざはし
『道』
―――――あぁ、かみさま
『道』を一歩進むごとに、私たちの知り合いとすれ違っていく
私が生きてきて培ってきた、様々な人との繋がり
まさしく、今までの人生を振り返っていくがごとく
青空と、笑顔と、鐘の音と、ほんの少しの涙に見送られて
『道』を、行く
父さん―――あ、目が真っ赤だ
昨夜は、一晩中泣いてたとか
たとえそうでも、この場では涙の一粒も見せないのはいかにも『らしい』
――もう、今更改めて言うこともない
父さん、今までありがとう
義母さん―――涙ぐみながら笑ってる
今まで色々ごめんなさい
今ならあなたの気持ちは、痛いほどにわかります
父さんと結婚した理由
だから重ねて、心の中で嫌悪していたことをごめんなさい
義母さん
メイ―――あ、なんか悔しそうな笑顔
可愛い義妹
よく慕ってくれていて、景太郎をはじめて紹介したときは悪口を言われて喧嘩になったりもしたけど
それも仲のよさの証
前夜にはわかってくれた
ありがとう
キツネ―――いつものように、飄々とした笑顔
色々(特に中学時代、私が家族と不仲のとき)助けてくれて感謝している
今や進む道は違うけど、時折相談に乗ってもらってる
これまでありがとう
これからもよろしく
はるかさん―――お久しぶりです
私がひなた荘に来たときはお世話になりました
モルモルでの生活は幸せですか?
遺跡での結婚式は、まだこの目に焼きついています
本当に綺麗でした
私も、綺麗でいられてるでしょうか
瀬田さん―――今日は仲人ありがとうございます
中学のとき、誰がなんと言おうと、私の転機はあなたでした。
とてもとても感謝しています
今一度、こう呼ばせてください
先生、と
今や私もその端くれです、おかしいですか?
むつみさん―――満面の笑み
私の無二の親友
もう一人の私
約束どおり、幸せになるよ、私
見ててね
『道』はもうすぐ終わる。
ヴァージンロードの先には、幸せが待っている。
ちら、と横目で、横を共に歩く人を見上げた。
見慣れた横顔―――だけど、今日は一際頼もしく見える。
景太郎
景太郎
景太郎
何故だか、何故だか、とても愛おしい
私の隣りにいる、あなた
もしも
もしも、景太郎が私ではない他の女の子を選んでいたなら、私はいったいどうしていただろうと
こんなときに(こんなときだからかもしれないけど)ふと思った。
実際、そういう危機は幾度も『あった』のだ。
それは多くの場合、景太郎側の問題ではなく
私の優柔不断さに起因するものだった。
その度に私は、私たちは、彼の一途さに救われてきている。
もしも景太郎に捨てられていたら、私はきっと、ただ不幸にしか生きられない存在になっていただろう
本当に
だから私も、これからは、ただ迷うことなくあなただけを愛そうと思う。
喜びも、悲しみも、辛さも、幸せも、あなたと分かち合う
そう、誓おうと思います。
ヴァージンロードはもう終わる
『道』の先には最高の幸せがある
そう
あと
一歩、で―――――――
「その『道』を往くのですか、なるさん」
世界が、凍った
周囲、全てから一瞬にして色彩が失われていた。
木々も、大地も、人も、空気でさえ、灰色となり、止まっていた。
隣の景太郎でさえ
灰色の世界
けれど、声に振り向いたそこでは
色を失っていないむつみさんが
あの、満面の笑みのまま、席を立つところだった。
「先程から見させてもらってました。ここが、なるさんの望んだ世界ですか―――とても綺麗で幸せな場所ですね…この、姿も」
そこで彼女は軽く腕を開いて自分の体をまじまじと観察した
薄く笑う
「『なるさんの中の私』はこんなカタチをしているんですね。現実よりもよほど…と、こういうのも自画自賛というのでしょうか?」
そして私は
夢から醒めるように
全てを思い出していた
「むつみさん…」
ウェディングドレス
そんな幻想を身に纏い、夢に溺れていた自分が
哀れなほどに哀しくて
おかしなほどに滑稽で
意味もなく絞り出された声は震えていた
自分でもワケのわからない感情に支配されて
「……私は」
「別にいいんですよ。幸福を幻想に求めても、それで満足ならば、白雉ならば、何の問題も無いと、本心から思います」
――だと、思っていた
彼女はきっとそう言うだろうと思った。
彼女なら、そういう『道』も許容してしまうだろうと思っていた。
――ふと、私も許容したくなる
何もかも忘れて幻想に溺れたいという気持ちが頭をもたげてくる。
――それほどまでに幸せだった、この世界は
現実と違って
「それが…貴女の見出した『道』ならば」
「…でも、私は」
「ああ、もちろん貴女は、倫理だか常識だかという理由で、幻想に生きることを必ずしも良しとはしないでしょうね」
戻らないと
帰らないと
いくら現実に似ていたとしても、ここには本物なんてない、全てが偽者でしかない
私の大切な人が、確かに存在するあの世界に
幻想に溺れるなんて、いけない
―――そう叫ぶ、私の良識と呼ばれる部分
けれどもそれは、ずいぶんと弱い声だった
私の確固たる基礎部分
それは、確かに在るのだけど、今にも弱い自分に押し流されそうで
「それでもいいんです。この世界ではなく、現実の世界で苦しむのも、もちろん貴女の自由です」
「………」
「正直、どちらでもいいと思います。どちらの貴女も、私は見てみたい…どちらにしても、お供ぐらいはしますよ」
………………
しあわせな、ゆめと
つらい、げんじつと
いったいどちらを、私は選べばいいのか
本気で、わからない
「決めれませんか?やっぱり優柔不断ですねえ、なるさんは」
言葉もなく立ち尽くしたままの私に対して
むつみさんは、芝居がかった仕草と共にため息をついた。
それからふと、笑みを消して
真一文字に結ばれた口、細められた目
私も数度しか見たことのない、乙姫むつみの冷酷な面の発露
私にとっては不吉な宣言の予兆
彼女は「そこが貴女の一番良い部分なのかもしれませんけど」と前置きしてから
「それでは、手っ取り早くジャンケンで決めましょう」
簡素に告げた
「―――――――――――!?」
「私に勝ったら向こうに戻る、私に負けたらこちらに残る、これでどうです?条件を逆にしても構いませんよ」
「そ、ん」
「どうせ、どちらとも決められないならどちらになっても構わないということでしょう?ジャンケンの勝敗なんて偶然のようなものです。どちらの『道』を進むのか、偶然で決めたっていいでしょう」
「な……」
意味が
わからない
私を置いてむつみさんは笑顔に戻り指のストレッチを始めている
いったい
なんで
混乱する私を尻目に、むつみさんは笑顔のまま腕を構え
そんな
結論に
覚悟する暇もなく、審判の掛け声は上げられ
神様
「じゃーんけーん…ぽい!」
反射的に突き出した手の形は――――ちょき
むつみさんの手の形は―――――――ちょき
五秒の猶予
焼き切れそうな思考の中で
「昔もこんなことがありましたっけね」と彼女の囁く声が
聞こえたような、気が――――
昔?
わから、ない
考える余裕もない
「あーいこーで…しょっ!」
――――――――ちょきと、ちょき
また、あいこ
再び、僅かに執行が延びた。
気がつけば私は肩で息をし
今にも倒れそうなほどに呼吸を乱していた
このまま、永遠にあいこが続けばいいのに、と
追い詰められた思考が走った瞬間
「次は勝ちますよ」とむつみさんの無慈悲な宣言
でも、いい。
とにかく、この綱渡りのような耐えがたい時間も次で終わるんだ。
あと、五秒の我慢で全部終わるんだ。
彼女は『次は勝ちます』って言ったんだっけ
それじゃあ、私は、負けるんだ
それでも、いい
もう、どうでもいい
――――でも
負けるって、いったいどういう意味だったんだろ――――――――
「あ―――い、こ――――で……」
思考が白熱した
「あははー、また負けたー」
「ジャンケン弱いなー、なっちゃんは」
「?」
「だってなっちゃん、いつもちょきなんだもーん」
「!?」
「(イッショニ、トーダイ)…?」
「ねー、なっちゃん。なっちゃんもけーくんのこと好きなの?」
「…(こく)」
「じゃーさ、どっちがけーくんのお嫁さんになるのか、ジャンケンで決めようよ」
「(ふえ…)……や、やだ……」
「じゃーいくよー、じゃーんけーん!」
「(はわわっ)…!?……!?」
「ぽん!」
――――――――――――――――――――
「あれー、えへへ、まけちゃった」
「あ……」
でも
「次は、勝ちますよ」
―――――――――――――――急激な覚醒
思い出した
負けるということは
私の全てが、ここで終わるということだ
この世界はとてもとても幸せだ
私の想像する限り、最大の幸せがそこに具現している
なら
誓いを交わしたら、この世界はどうなってしまうのだろう
幸せの絶頂
そこは絶頂だからこそ、それ以上は登れない
だからきっと、この世界はそこで停まる。
停まったまま、永遠に、私はそこで誓い続けるのだろう
虚ろな愛を
そんなことは、最初からわかっていた。
それでも私の中には、そんな幻想を望む私が確かに存在していた
だから
だから
「しょっ!」
彼女は―――――――――――――ぐー
私は――――――――――――――ぱー
かっ……………………
「…貴女は本当に、有り得ないほどに、在り得てはいけないほどに、優しい人」
むつみさんの、それこそシャボン玉のように儚く優しい囁き声
「自分の中の、都合の悪い自分を殺す。私が、私たちが日常茶飯事に行っている、そんな当たり前の作業ですら、そこまで躊躇わなければいけないなんて」
天秤に―――
掛けた。
私の中に確かに存在していた『幻想による幸せを望む私』と『帰りたいと願う私』の重さを比べて
軽かった方を切り捨てた。
ごめんなさい
あなたはそこに在る幸せを望んでいただけなのに
本当に、ごめんなさい
そして
「むつみさん――――また…わざと、負けて……」
「いえ、私は決断を促しただけです。本当に、どちらでもいいと思っていました―――決めたのはなるさん、貴女です」
ずっとずっと、笑顔のままのむつみさん
突然明滅した記憶
あの中でも、むつみさんはずっと笑顔だった。
どこか泣きそうな笑顔に、物心つくかつかないかの私は、自分の勝ちばかりに夢中で、何も気付いてあげれなかった。
私は、彼女を踏み台にして、生きてきていた
「それに…それはなるさんが思い出した記憶ではなく、私の記憶です。今の私となるさんは一際強く繋がってますから、流れ込んでしまったんでしょうね…貴女は『なっちゃん』ではないのですから、何も気に病む必要はありませんよ」
「…むつみさん」
彼女は
笑顔のまま、彼方を眺め、僅かに眉を下げて
私は、今度こそ言葉もなく
ただ、哀しい目をして立ち尽くす彼女を見ているしかなかった。
「………結局、もう無理だったのかもしれませんね………」
私に、掛けるべき言葉はない
私に、掛けていい言葉はない
過去のことを思い出していない私は、どんなに身近でもしょせん部外者に過ぎないのだから
結局裏切り者なのだから
私は、ただ、彼女が感情から立ち直るのをじっと待ち
それから、そんな彼女の姿を、絶対に忘れないように心に刻んだ
私だって、馬鹿ではない。
こんな姿を、もう彼女が(もしかしたらもう二度と)見せないだろうということは容易に想像できる。
私は確かに、彼女を踏み台にして生きている。
だからこそ、私は、彼女の親友でいるために、彼女の弱い姿を忘れないようにしよう――――と、心に決めた。
「…それでは、いきましょうか、なるさん」
「―――はい」
目覚めましょう―――――――と呼ぶ声に応え
私は、夢から覚める
―――――名も知らない、もしかしたら神様かもしれない誰か
―――――幸せな夢を、ありがとう
それから、どれくらい経ったのでしょう
何度目か、むつみさんの体を揺すった頃だったと思います。
背後で―――――べち、と異音
「――――――!」
べち!?
べち、って・………なに!?
それも、なにか重量感のある『べち』だった。
なんというか…ヒレを持った巨大な生物が陸上で無理矢理足を踏み出したかのような『べち』
巨大カエル!?
つい私は、その具体的なディテールを思い浮かべるという、致命的なことをしてしまいました。
………………
「あたた――――あ、しの…」
「いやあああああああああ!!こないでぇぇぇぇぇぇ!!」
ダダダダダダダダダッ!
「あの……ちょっと」
し〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん
「…なにがどうなってるの?」
「…………………うーん」
「あ、むつみさん?なんで、そんなところで寝てるんですか?」
「…目覚めましたか?」
「あ、はい。手間かけさせてしまって、ごめんなさい」
「いえ―――ところで、体の方はしのぶちゃんに任せてあったんですけど、彼女は?」
「あの…それが、私を見るなり逃げ出しちゃったんですけど」
「あらまあ、なるさん。体中泥だらけですよ、なにがあったんですか?」
「って、それは私の方が聞きたいんですけど…気付いたらいきなり落下して、べち、でしたし」
「今は床どころか建物自体がなくなってますからね…」
現在U
「私は――――――消えようと思った」
それは今や、完全に私そのものと化していた。
そして、一人ですらなくなっていた。
「挫折し、達成することができなかった私は、いつか必ず帰ってくる彼には…とてもとても釣り合わないと痛感してしまったから―――けれど」
私の右前方の手すりに寄りかかっている、セーラー服を着た中学生の青山素子が言う
「けれど私は、それすらできなかった。彼と二度と会えないなんて―――弱い自分にはとてもとても、実行できなかった」
私の左側で空を見上げている、高校生の青山素子が言う
「だから私は考えるのを止めた。あの人と会うと同時に出てきた『強い青山素子』に全てを任せて思考を停止して、そこに厳然と存在する事実から目を逸らし続けた」
私の後方で木刀を振るっている、羽織袴を纏った浦島と会う前の私が言う
「ウチは、姉上みたいな『本当に強い剣士』にならんとあかんのに」
私の足元でうずくまっている、10歳ぐらいの私が言う
「だから」
そして、この場にいる私以外の全ての私が唱和する
いつしか紅い夕日が差していた、ひなた荘の物干し台で
「だから私はここで終わろうと思う。嘘をついたこと、欲に溺れたこと、永久に恥じていかなければならない。全ての人の記憶から消えて、この世界でずっと」
「………だ、ま、れ、と――――言った」
認めない
そんなことは認めない
―――――――すべてをひていせよ、と呼ぶ声が私の中から聞こえ
断じて
断じて認めることはできない
―――――――すべてをひていせよ
たとえ私の中に贖罪を望む自分がいたとしても、それは切り捨てるべき存在だ
否定すべき私だ
―――――――すべてをひていせよ
故に、私は認めない
斬り、捨てる
―――――――すべてを―――――――
認めない、認めない、認めない
ただひたすらに、想う
「お・お・お・おおおおおおおお………こ、い!」
我が身を万力のように縛りつける世界に全力で抗して、なんとか言葉を搾り出した
呼び掛け
それに確実に応じて(当然だ、私は持ち主なのだから)私の右手の中に刃の欠けた刀が出現
その、半ばから刀身が砕けたそれの、名は――――
しすい
否定
みとめ、ない
ひてい
私は、全てを止水する
神鳴流、極意、止水之名之元似、奥義、斬魔剣――――――――――!
――――――――斬!
斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬、斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬、斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬、斬――――――――――――――――――――――――――――
ふっと、上空からなにか圧迫感を感じて
見上げたそこには、唐突に壁があった。
衝突
バキャッ!!
「ひぎゅっ!!」
何もないはずのところから落ちてきた、一抱えほどもありそうな建材に私はものの見事に押しつぶされた。
い、息が……
まるで車に轢かれたカエルのように地面に押し付けられ(ただし内臓ははみ出していたりしない)更に体中泥まみれになっただろうが、それどころではない。顔まで地面に押し付けられて呼吸ができない。
思いきり体を起こすと「…ぷはっ!」と上に圧し掛かっていた障害物を跳ね除けることができた。
建材が直撃した頭と背中が痛ひ…
「あらあら、運が悪いですね、なるさん」
「うう、なんでこんな目にばっかり……じゃなくて、なにが落ちてきたんですか!?」
「…あら、これ屋根の一部ですね。切り取られてますけど」
「屋根の一部!?」
「ほら、だって瓦がついてるじゃないですか。それにしても、やけに鋭利な断面ですねえ、これ」
「感心してる場合じゃないですよ…それ、別館が分解されてるってことじゃ…」
「あら、また」
ドスン!ベキャ!バキッ!!!
「ひええええええええ!?」
虚空から突然落ちてくる建材や瓦礫や柱を必死に走って避ける。
もちろんほとんど予測不可能なのだが、何故か暗闇が簡単に見通せるおかげでなんとか『転んで直撃』だけは避けることができている。走っていればそうそう当たるものではない。
それに!しても…!
「な、なんで私のとこばっかりで、むつみさんのところには降ってこないのぉぉぉ!!」
「なんででしょうねえ……あ、なるほど」
「ひぇっ!きゃあああ!!」
「なるさん、そこは別館のあった場所、ですよ。ですから別館が分解されてるなら、なるさんは押し潰されてしまうんじゃないでしょうか…こっちに来たらどうです?」
「そ、そ、そーいうことは早く言ってください!」
ダダダダダダダッ!
「はあ、はあ、はあ………」
「はい、お疲れ様です、なるさん」
この人は……
ちょっと殴ってしまいそうになった。
わかってはいるんだけど、とことん他人事なところがちょっと腹が立って…悪気はないんだろうけど
まあ、それはともかくとして
私が、別館の存在していた場所から離脱しても、相変わらずドスンバカンとバラバラになった建材は落下し続けている。
…これは、まずいんじゃないんだろうか。
(むつみさんの話によると)現在異世界にある別館が崩れてしまったら、中にいる人はどうなってしまうのだろう。
素子ちゃん、カナちゃん、そして景太郎
―――――――――――
「……みんな!」
「なるさん?」
「むつみさん!私にやったみたいに、他の人たちも連れ戻すことってできないんですか!?」
「…それは、難しいですね。幽体離脱のコツは掴んだんですけど、他の人の位置がわからないことには…探してるうちに私の精神の方が分解してしまいそうですね」
「分解!?むつみさん、そんな危ない橋渡って私を助けてくれたんですか!?」
「いえ、なるさんの場合はかなり歩の良い賭けだったので」
「そんな…」
――――――その時
一際大きな建材が落下する、ドスンという轟音
それに隠れてタン、という軽い音
反射的にそちらを見ると、そこには
立ち上がる、影
その後ろ姿は紛れもなく
青山素子という少女だった
「素子ちゃん!!」
やっぱり反射的に、無事を確認しようと私は駆け寄った。
建材の落下が収まっていることに気付きもせず
別館のあった場所に足を踏み入れ
―――ぞわりと、背中に氷柱を突っ込まれたかのような悪寒
違う世界に足を突っ込んでしまったかのような、空気までもが変わってしまったかのような、違和感
「なるさん、危ない――――――――!!」
私がはじめて聞く、むつみさんの切羽詰った叫び声
ああ、彼女でもこんな声を出すことがあるんだ……と頭のどこかで的外れに感心した。
そして
「…みとめない」
キン、と空気が悲鳴をあげた
キンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンと幾重にも幾重にも幾重にも刻まれる剣閃
その中で、素子ちゃんの雪のように儚い呟きだけが、やけに心に響き
――――衝撃は、むしろ後から来た。
斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬、斬――――――――!
一瞬で、私は意識を失った。
後でむつみさんに聞いたところによると、私は一瞬で十数回も(それはもう見事に)滅多斬りにされたらしい。
私は走っていた勢いのままにガクンと前のめりに倒れ、さらに泥だらけになった…とか。
…なんだかな、今回は、つくづく
でも、それより
私は、素子ちゃんのことのほうがとても気になった。
なんというか、近づく存在全てを斬らずにはいられないほどに錯乱した彼女。
素子ちゃんがあんなになってしまうなんて、いったいどれだけ辛い目にあったのだろう。
どうか、誰でもいいから、彼女を救ってほしいと
祈らずにはいられない。
…ああ、やっぱりそれは景太郎の役なんだろう。
うん、当然だし当たり前だし仕方ない。
他に、素子ちゃんを止めれるような人間はいないだろうし、何より彼女には景太郎が必要なのだから
ダメなのかなあ、私は…
幸せな夢は諦めることができたけど、辛い現実はやっぱり辛い現実なんだなあ…
はあ
過去U
『それ』は
私の殺意の象徴だった。
研ぎ澄まされた、刃
あの人を狙ったナイフ
愛情と、憎悪の、結果の殺意
それでもこの三日間、私は彼を、殺すことなく生かしていた
『それ』は
私がわざと忘れていたことだった。
念頭においていては生きていられない想い
死に至る病
そう、私の傾向は間違いなく絶望に向いていた
なにをしようと、なにを想おうと、それは絶望に向かって突き進んでいく道だった
いつしか私は、兄のいる小屋に戻ってきていた
扉を開ける
あの人は、まだ半身を起こしたままの姿勢で虚空を眺めていた。
当たり前、当たり前、当たり前だ。
意識がないのだから
抗いようのないのだから
己をも見ていないのだから
兄の前に、立つ
はあ、はあ、はあ、はあ、といつしか私は呼吸を乱していた。
思考もが、乱れる
はあ、はあ、はあ、はあ、と荒い息をつきながら
私は手が真っ白になるほど、その殺意の結晶を握り締めていた。
強く、強く、強く
がたん、と膝が折れ、私は発作的に
刃を、あの人の首に突きつけていた
どくんどくんどくんどくんどくんどくん
数ミリ先に、あの人の命がある
どくんどくんどくんどくんどくんどくん
あの人の虚ろな眼差しは、偶然にも私の瞳と正面から向き合っていた
どくんどくんどくんどくんどくんどくん
殺して、そして死のう
私は、刃を握る手に力を込め
どくん
どくん
どくん
ど
くん
はじめて、人を殺したときのことを思い出した
それは、小さな小さな、私の半分(当時)もなさそうな少女だった。
その少女は、そこにいるだけで周囲に取り返しのつかない影響を及ぼす、明らかに世界の害となる存在だった。
故に、殺した。
…けれど、それは、私であったのかもしれない
身寄りのない子供、頼るべき人のいない身
私は偶然、祖母に引き取られて、兄に逢うことができ
そしてその少女は、そうではなく『世界の敵』となってしまった
それだけの違いかもしれない
なぜか、そんなことを思い出した
――――――――――――そして、私は
ナイフを下げて
ふう、とため息をついていた。
「わかっていました……わかっていたんです」
古びた木材で組まれた小さな小屋
そこに存在しないひなた荘
邪魔者の存在しない世界
それは、すべて幻影に過ぎず
そして、ここでの生活に適応して兄と暮らしていた私も、儚い幻想に過ぎないと
認めてしまおう
私は、現実に、多くの罪を背負って生きてきた。
それは、けして否定してはいけない。なぜなら、そうやって形成されていった私自身なのだから
私が私として生きていくのは、今まで倒してきた敵に対する義務だ。
だが―――――だからといって、それは、幸せを望んでいけないことにはならない。
私の奪ってきた多くの人生よりも
それよりも価値のある幸福を築き上げることのできるのなら、それは彼らに対する供養にならないだろうか。
彼らは、世界に価値がないと断じて、世界を捨てたのだから
私は、この世界で足掻き、この世界で価値のあるものを見出してやる。
いや、既に見出している。
私が世界に居る理由、そのもの
浦島景太郎という、貴方
誰がなんと言おうと
誰がなんと言おうと、だ
誰(例え本人)がなんと言おう(恋人がいる?それがどうした)とだ
だから
だから、帰ろう
この、私と兄だけの世界など意味はない
私は、私が罪を背負いつづけた世界へと、帰らないといけない
「――――――――さあ、出てきなさい、この聖域の神」
呼び掛け
言葉には力がある。全身全霊を込めて呼べば、必ず応える。
それが、概念存在というものだ。
振り返る
そこには、予想通り人影が―――――
着物姿でなおかつ血まみれの美女がそこに正座してニコニコしていた
「――――――!?」
さすがに、ビビった。
というか、なぜに血塗れ?
手首やら胸元やら首やらが輪切りにされたかのような線が走っていて、そこから血がだらだらと垂れているし、指なんぞは何本か足りてない状態だ。顔も血で汚れていて、その状態でニコニコされているというのは下手なホラーよりも不気味に過ぎる。
何者だ?
いや、呼びかけて応えたのだから…こいつが、間違いなく
「呼びましたか?」
この聖域の神(あるいは精霊)
……マジ?
「聞きたいことはいろいろとあるのですが…とりあえず、何故血塗れなのですか?」
「あら、いやですわ。これはまた随分とはしたない姿をお見せしてしまいましたね」
「…それと、仮にも神ならそれなりの威厳というものを纏った方が良いかと思いますが」
「おほほ。いえ、今はちょっと、力も足りない上にバラバラにされかかって余裕がありませんので」
何故にオバサン口調…?
烏の濡れ羽色の黒髪、神秘的な黒瞳を併せ持つ、外見的には完璧な美女(なんか顔立ちが見たことあるような…)なのだが、その口調の上に血塗れでは威厳が台無しだ。
こいつが…あの伝承の片割れ…
ガラガラと、また幻想が崩れていく
真実とは辛く苦しいもの、か……
「それで可奈子さん。今回はどのようなご用件ですか?」
「…私と兄を、元の世界に帰してください。私達には、貴女の世界は必要ありませんので」
「ええっ!?困りましたわねえ、あなた達が出ていってしまうと、私は今度こそ養分がなくなって、青山さんに建物ごと粉砕されてしまいますわよ」
「兄の意識がないのは貴女のせいだったのですね……で、なんで青山素子が暴れているんですか?」
「いえ、ずいぶん強い方かと思ったので少々キツめの夢を見てもらったら、こちらの予想以上にあっさりと逆切れなさってしまい、あまつさえ結界を斬り開かれてこの有様」
「…ところで貴女、本当に浦島家の先祖ですか?」
「そういうことになっておりますようですねえ、浦島さんとの契りは…きゃっ♪これ以上は秘密ですの♪」
「…ぐは」
ダメだ、この女は
話していると、こっちに一方的にダメージが蓄積し続ける相手なんて初めてだ。
浦島家先祖、恐るべし…
とにかく、もうさっさと向こうの希望を叶えてでもなんでもして、会話を打ち切ろう。
「ああ、それでは私が彼女を排除しますから、さっさと出してください」
「…あら、頼めるんですか?それではお礼として、問答無用縁結びでも」
「いりません」
「え、そうなんですか?可奈子さん、そこの方と結ばれたいのでは?」
「例え縁結びがあろうと、私の相手はそれをも叩ッ斬る畏れ知らずです。意味がありません」
「まあ、それはそれは…あちらの跡取も、随分無理をするんですねえ、ほほ」
「『も』とはなんです?『も』とは…」
ああ、もう
とにかく私は約束を取り付け、意識のない兄の体を抱えて
ふと
「先祖」
「陽です。気軽にひなさんと呼んでください」
「…少し、二人だけにしてくれませんか?一分でいいです」
「ひなさんと……」
「いいからさっさと消えてください、覗いたら殺しますよ」
「ここ、私の世界…」
ブツブツと言いながら、先祖は姿を消した。
それから私は
唐突に、糸が切れたかのように、彼の胸元に顔を埋めて
「うっ、ああああああああああああああ!!!」
嗚咽が体を震わせた
後から後から溢れ出る涙は、全て彼の胸に染み込んでいく
口を突いて、出る言葉
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
貴方を、殺そうと思って
貴方の大切な人を殺そうとして
ずっと嘘をついていて
人を殺してしまって
「ごめん、なさい…………」
生まれてはじめて、兄の胸に体を預け
懺悔の言葉を吐き続けた。
―――私は、完璧な人間になりたい
こんな弱音を吐くこともなく、ただ己の為した全ての責を背負い、平気な顔をして自らの道を歩むことができる人間に、なりたい
そのために私が得ようとしたのが閉じた精神、鋼鉄の心だった。
…けれど、もう一つ
完璧な人間になる方法に、気付いた
こうやって、兄の胸で泣くことだ
私は、どうやっても一人では完璧な人間にはなれない
ならば、兄と二人で、完璧な人間になろう
私の足りない部分を兄に補ってもらい、兄に足りない部分を私で補おう。
そうすれば私達は、顔を上げて生きていけるはずだ。
兄妹なのだから
きっかり55秒だけ泣いた後、私は顔を上げて涙を拭った。
兄がここにいるならば、胸を貸してくれるなら
今度こそ
畏れるものなど、何もない
目覚めよ――――――と呼ぶ声に応えるまでもなく
私は、自らの意志で、己の道を見出した。
去り際『彼女』の真面目な声が聞こえたような気がする
ひなた
―――――――私は、陽
しんめい ひなた
―――――――神鳴 陽
―――――――それでは、我が身の末たる愛し子を、よろしくお願いします
覚醒
ズドドドドドドドドドドドドドドドッ!!!!!!!!
戻ってみると、そこは地獄だった。
夜目が効く私でも、うっすらと状況が認識できる程度の闇夜
地面を抉りながら交錯する気の刃
そして、今まさに倒れ伏した成瀬川なる
…おや?
「遂に死人が出ましたか…」
「いえ、死んではいませんよ。なるさんも大概丈夫ですから…これで全員帰ってきましたね、カナさん」
「どうせ、貴方にとっては兄の方が大事なんでしょうが、自分より…ま、私もそうですが」
「それで、どうしましょう?素子さんを止めないと…」
「止めないと?」
「最後にはあの人、自分自身を斬り刻み始めますよ」
「とことん難儀な人ですねえ…ま、どうせ私も、変な女と約束してしまいましたし、止めますか」
「あら、随分余裕なんですね」
「…そうそう、乙姫さん。少々、取って来てほしいものがあるんですけど、頼めますか?」
「はい、いいですよ。なんですか?」
――――さて
乙姫むつみが去った後、とりあえず私は抱えていた兄の体を地面に下ろした。
これで両手がフリーになる。
相手はまだこちらに背後を向けたまま、なにかをブツブツ呟いている。
例の黒刀すら携えていない、右手に下げているのは半ばから刀身が折れた刀
舐められたものだ。
…先ずは、小手調べ
私は両袖に仕込んだ千本を、一振りで八指の間に挟みこんで装備し、後に
浦島流、空塵影舞
両手両足と首筋の神経を狙って六本続けて投擲
――――――キンキンキンキンキンキン
空中に気の刃が発生し、青山素子に届く前に鉄針は全て弾かれた
―――あの時、青山素子が『弐之太刀』と呼んだ技
私が見事に喰らった技
それが、ほとんどタイムラグもなしに三刃同時
「…ならば、これならどうですか」
腰の後ろから獲物を取り出す
マガジンをポケットから取り出して差込み、スライドを引いて初弾を装填、ストックを伸ばして肩に当て、照準を合わせる、安全装置を解除。二呼吸で準備完了、躊躇なく引き金を引いた。
フルファイア
タラララララララララララララララララララッ!!
ジジジジジジジジジジジジジジジジジジンッ!!
短機関銃の弾二十発は一秒で撃ち尽くし、そして全ては虚空で火花となり散った。
私は役立たずサブマシンガンを脇の地面に放り捨てる。
…全て反応した、となれば相手の反応速度は人知を超えている。
威力、速度共に重機関銃並、といったところか。それでいて精度は通常の剣捌きを維持しているのだから性質が悪い。さすが神鳴流、人外を相手するだけあって戦車をも破壊できそうだ。
しかし、十以上もの刃を全く同時に操るとは、一体どういう精神構造をしているのだろう。人間は普通、意識を一点にしか集中できない。現状は、十数人もの青山素子を同時に相手にするようなものだ。
射程範囲が、どうやら青山素子の周囲10mに留まっているのがせめてもの救いか
マトモに突っ込んだのなら、回避できるわけもなく(相手の手数は圧倒的だ!)斬り刻まれて終わりだろう。
―――そこで、ようやく青山素子がこちらを振り返った。
呟きが、夜風を渡ってこちらに届く
「――――――――うらしま」
…そうか
そうかそうかそうか
なるほど、手前――――
「やっぱり私、貴女のこと嫌いです」
一言告げて
私は、傍らで意識を失っている兄の体を持ち上げた。
両手で、担ぐように抱えて
一気に
「―――――――つりゃあ!!」
思いきり投げつける
確信があった
そして、青山素子はその通りに行動した
投げつけられた兄の体が、青山素子の制空圏に触れた瞬間、八つの気刃がそこに殺到し
―――全て、すり抜ける
そう、青山素子は『寄らば斬る』の極限状態においても、兄だけは例外的に傷つけない
傷つけられていない
なんて、なんて呆れた信念の持ち方だろう
そして、それを全面的に信じた私の方も、どうかしている。
僅かな滞空時間がきれた兄の体は地面に向かってかなりの勢いで落下し
回り込んだ青山素子の両手によって、見事に受け止められる
「―――――――――そう来るだろうと、思いましたよ」
そして私は、青山素子に背後から飛びかかった
グキドゴッ!
首に手を引っ掛け腕を掴み足を払い、腕を思い切り(極めながら)引っ張り相手の体を横に回転させて空中に横倒しになったところで肝臓を狙って前蹴り!
ここまで全て一挙動
青山素子は兄の体を抱えたまま派手に吹き飛び、ひなた荘別館があった場所をごろんごろんと転がり別館の破片に衝突し停まった。
―――これぞ浦島流、風車崩し
「…まったく、誰が言ったんでしょうね。私と貴女が似ているなどと」
斬心で、呟く
そこに
―――――――――――斬斬斬斬!
唐突に四つの剣撃(だけ)が襲い掛かってきたのを飛び退って避ける。ギリギリ、相手の射程外に逃れた。
つまり、彼我の距離10m
「う、うう………」
青山素子が、ふらつきながらも立ち上がる。
アレを喰らってまだ立ち上がってくるとは、かなりの根性と打たれ強さだ。普段なら確実に気絶していただろう。
さて、今度はどんな手で―――と思考しかけて、その試みは中断された。
こいつ―――
こいつ、気絶寸前のグロッキー状態でなお、兄を手放そうとしていない。
こうなったら後はもう、殴り倒してわからせる他に手段はなさそうだ、というか絶対に殴り倒す
「カナさーん、注文の物、持ってきましたけど」
「グッドタイミングですよ、乙姫さん…おっと、そこから先には踏み込まないほうがいいですよ、死にますから。向こう側をグルッと回って、荷物をこちらに放り投げてください」
「はい、どうぞ」
受け取る
それを、ばさりと開いて体に重ねる。
何度も何度も鍛錬を重ね、技と呼べるまでに昇華させた変装術
要する時間は一瞬
一瞬で私は
白い胴衣と紅い袴を身に纏った、青山素子と呼ばれる女になって、いた
「う、う……」
本物が、明らかに怯んで、一歩引いた。
私は、一歩を踏み出す
「貴女は――――――――」
一言、一言を刻むように
まるで、自らにあつらえたかのような言葉を
「貴女は、プライドが高すぎる
貴女は、自分に強すぎる
貴女は、容赦がなさ過ぎる
貴女は―――――――!」
本当に……誰が言ったのだろう
「お、お、おおおおおお!!!」
追い詰められた青山素子が
自分から、こちらに突っ込んできた。
―――兄の体を抱えたまま
だ・か・ら…!
「貴女は一度、自分自身に徹底的に負けておいた方がいいんですよ!!」
ぞわり、と背筋に走る悪寒
一瞬で、こちらの体が相手の制空圏に飲み込まれ、五つの気刃が五つの経路で殺到した。
だが、相手が突っ込むと同時に、こちらも飛び出している。
精神の乱れのせいか乱雑な第一波を、隙間に飛び込むようにギリギリですり抜けることができた。
永遠とも思える一瞬を駆け抜けて
5mを稼ぐ
残り5m、全速で一秒
だが真正面から、棒立ちのままの青山素子を護るように八つの気刃が出現し0.1秒で殺到してきた。
背後からの斬り返しも合わせてその数13刃、挟み撃ちであることも合わせ、抜け出ることなど絶対に不可能だ。
まさに、届く範囲のもの全てを斬り捨てる剣の結界、化生を滅する神鳴流の極意
ならば、こちらも使うまで
とくと、見よ
浦島流、極意―――――――――――――散水
――――――――――――斬!
斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬――――――――――――――――!
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「散水とは」
母から私の指南役を引き継いだその黒衣の男は言う
「全てを認め、全てを受け入れ、この世ならざる存在に至る境地」
雪が、ひらひらと舞い降りる日だった
「散る水は、何者にも捕らえることはできぬ」
男は足元の雪をすくい、息を吹きかけ中空に散らした
「だが、心せよ」
吹かれた雪は目に見えないほどに細かく散り、虚空に消えた
「この世の理から外れるが故に、この世に戻ることもまた困難」
私はその言葉を、ただ他人事のように聞いていた
「戻って来れぬなら、この世から消えるまで、これ以上なきほどの諸刃の剣」
そして男はまるで影のように、その場から雪に足音も残さずに『消失』してみせた
「それが浦島流極意、散水」
次いで、また私の横から気配と共に声
「至るとなれば、心して、己がこの世にいる理由を心に刻むのだ」
―――――――応
―――――――信ずるものは、ここにある
―――――――畏れるものなど、何もない
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ズタズタに斬り裂かれた胴衣の破片が、宙を舞う
袈裟懸け、逆袈裟、胴抜き、逆胴、左袈裟、左逆袈裟、両小手、両足、そして首、延髄、唐竹
マトモな生物では絶対に即死は免れないだろう威力と急所
認めよう、見事な技だ
前後左右上下、全ての角度から入った気刃が、私の五体に滑り込み、反対側に突き抜けた
斬り裂かれた白と紅の破片が、血に染まった雪のように舞い散る
服、だけ
肉体には、一筋の傷もない
己ヲ消シ 影トナレ サスレバ 如何ナル世界モ 我傷付ケル事不可 即チ 浦島流極意 散水
感覚の遊離は一瞬、そして剣嵐をやり過ごすのはその一瞬だけで充分
拳が届く範囲まで間合いを詰め、私はふ、と笑った。
丁度、三日前の戦闘と逆の態勢
本当に、誰が言ったのだろう、浦島可奈子と青山素子が似ているなどと
これじゃあまるで、それを認めているみたいじゃないか
誰が言ったのかは知らないが、後で絶対抗議してやる。
とりあえず、今は拳を固めて
兄を力いっぱい抱きしめている、未だに棒立ちで何が起こったのか理解していない様子の青山素子に照準を合わせて
心の叫び
お兄ちゃんが、お前だけのものだなんて思ってるんじゃない―――――――!!
「邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔ぁ!!」
ズドドドドドドドドドドドドドドドドッ!!
首筋、顎、頭部、胴、それぞれを数発ずつ(怨念込みで)殴り倒す
今度こそ―――ひとたまりもなく、青山素子は仰向けに吹き飛んで
気絶、した
「浦島流、乱撃手です……っと」
ドスン
青山素子が吹き飛ばされると同時に、だるま落としの要領で落ちてきた兄の体を受け止める。
これぐらい、当然の役得だ。なにしろ彼女を殴り倒したのだから、誰からも文句は出ない。
斬り裂かれた、半端な青山素子の格好のままではいまいち決まらないが
…と、周囲がぼんやりと霞に覆われてきた。ひなた荘別館が実体化しようとしているのだろう。
建物に押しつぶされるのは御免こうむるので、さっさと敷地外へ脱出した。乙姫むつみも心得たもので、ずりずりと(これ以上ないほど泥まみれの)成瀬川なるを更に泥まみれなしながら引きずりだしている。
ちなみに、青山素子は二度目に吹き飛ばされた時点で敷地外へ飛び出していた。別に狙ったわけではないが、後で感謝だけはされておいてやろう。
「それにしても、カナさんはやっぱり強いですねえ…」
「当たり前です。神鳴流が人外を倒す剣なら、浦島流は人狩りの刃。最初から得意分野が違うんですよ」
「はあ…」
「それに、人間の中で特に危険な力を持った神鳴流破りの技なんて、600年前から存在してるんです、ぺぺぺのぺです」
「でも、ちょっと前に素子さんに…」
「アレは、少々油断してました。青山素子の技量がこれほどまでとは、予想外だったもので…いや、本当に」
「カナさん…?」
「…すみません、乙姫さん。重ねてのお願いで申し訳ないのですが、兄と、なるさんと…そこで転がってる青山素子、ついでに私のこともお願いします」
「はい?」
「完全に透過するというわけには、いかなかったようです…」
そこで限界を迎えて
私は前のめりに、兄を下敷きにしてぶっ倒れた。
筋肉や内臓へのダメージは深刻、致命的でないにせよ暫くは休養が必要
くそ、本当に見事な技だ。
ただ、この期に及んでも兄を離そうとしない自分には、喝采を送っておいた。
さて
そろそろ意識を保っていられるのも限度のようだ。
後は、乙姫むつみに任せて―――――――――――――あ
朝日、だ………
どんなに昏い夜も、朝日と共に必ず明ける
どんなに辛い夢も、朝日と共に必ず消える
そんな言葉を、思い出した
そんな唄を、思い出した
―――――――――――――――――――――――
「あらら…結局、全員気絶してしまったんですか…困りましたね」
「むーつーみーさーん!!」
「おーい、どないしたんやー…って、おわっ!別館が戻っとるやんか」
「あ、しのぶちゃん、皆さん」
「おー、モトコー、ケータロ、なるやん、カナコ…全員いるやん」
「カメねーちゃん…いきなりいなくなったと思ったらなにやってたんだよ」
「あの…それに、なんか別館が前にも増してボロボロになっているような…」
「気のせいですよ、気のせい。それでは、倒れてる人たちを運びましょうか。私はなるさんを」
「じゃ、うちはカナコを運ばせてもらおっか、軽そうやし…って、重っ!なに持ってるんや、こいつ!」
「うちらは素子運ぶで。サラ、そっち持ち」
「OK…って、おい。尻こすってる、こすってるぞ」
「そ、それじゃ私は浦島先輩を…うーんしょ、よーいしょ」
「おーい、そっち誰か手伝いな」
「みゅみゅ」
「み」
「おお!?むつみがなるやんに押し潰されてるで!」
「体力ないのに無理するから…てか、なんでこいつら揃いも揃って気絶してんだよ」
「でも本当に、無事でよかったです…」
エピローグ
夢を見た
紅い世界
血塗れの私
触るもの全て、我が身を縛るもの全てを斬り捨てる存在
修羅と呼ばれる私
……嫌だ、と後悔しても元には戻れない
なんでこんなことになったのだろう
と
そこで、目が覚めた。
目を開けてもそこは、紅い世界だった。
夕日の差し込む部屋
…夕方?
私は、掛け布団をどかして半身を起こした。
いったい、何がどうなったのだろう
…そこでふと、背後に気配
振り向くと、そこには私の大切な人が座っていて
微笑んだ。
ああ、浦島
「泣いてるの?」
泣いて?
頬に手をやると、そこには確かに濡れた感触
泣いてたのか、私は
何故だろう。
そして、泣いてることを自覚した瞬間
胸の奥から、途方もなく圧倒的なものがこみ上げてきた
「う、え、えああああああああああ―――――」
すぐそこにいる浦島の体に、縋りつく
すまない
すまない
すまない
すまない
「わた、私は、東大に、ご、合格できなかったんだ…うぐ…おまえ、お前に釣り合うような女じゃ、ないんだ、お前の、かの、彼女に、なれないんだ、あ…」
すまない
お前の期待に応えることができなかった
私は、お前のように立派な人間にはなれなかった
私は、お前に相応しい存在にはなれなかった
浦島
「すまない、すまない、すまない浦島……わた、私に言ってくれ、なにか、言ってくれ」
すまない
私は、お前の一言を期待している
そんな素子ちゃんでいいという、一言を
半年間蓄積していた、弱い私は
その言葉で救われるのを、待ち望んでいる
その言葉で堕落するのを、祈り願っている
浦島
浦島、好きだ
私を楽にしてくれ
「――――――――二度も三度も同じ手に引っかかるのは、無能の証明に他ならないと言ったはずですが」
!?
「き、きさま、貴様は………!」
「そう慌てないで欲しいものですね。そんな相手に一敗一分けもしたと思うと、哀しくなります」
「か、可奈子!」
私は弾かれたように、浦島の姿をしたそいつから飛び退き
浦島可奈子は何事もなかったかのようにカツラとマスクを剥がして変装をといた。
そして、じろりとこちらを睨む
「それにしても…兄と貴女が恋人同士などと、絶対にありえないと思ってましたが―――案の定、そういうことでしたか」
「な、なんのことだ!」
「なにが『彼女になれない』ですか。どうせ、兄の甘さに付け込んで言質でも取ろうと思ってたんでしょうが…そうは問屋が下ろしませんよ、この卑怯者」
「く……そう言う貴様こそ、なる先輩と浦島を何度も殺そうとしただろうが!」
「そ、それは…確かに悪かったですけど…もう、兄に謝りましたし…」
「謝って済む問題か!」
「そういう貴女だって、なるさんを親の仇のごとく滅多斬りにしたでしょうが!」
「な、なに!?」
「覚えてないとは、彼女もとことん不憫ですね…ま、とりあえずこの件は御互い様ということで…」
「わ、私はなんということをしてしまったのだ…あ、あの人に会わせる顔が…」
「じゃあ、謝りに行きますか」
「なに?」
「正直、私は兄を掻っ攫ってここを出ていこうかと思ってたんですが、素子さんと兄が恋人でもなんでもないならそんな必要はありませんし。ここで暮らしていくなら、人間関係は大事ですので、謝りに行きましょう」
「…貴様、本当に浦島可奈子か?」
「なら、私が貴女に変装してついでに謝ってあげましょうか?」
「いらん!私も武士の端くれ、腹掻っ捌いてでもお詫びせねば」
「封権制度の時代から来たのですか、貴女は…まあ、いいです。ここは貴女の部屋、となればなるさんはおそらく自室に居るでしょう」
「うむ、行くか」
がら
すたすたすたすた
「…くそ、それにしても可奈子なんぞに泣きついてしまうなど、一生の不覚だ」
「忘れてあげてもいいですよ、兄を諦めてくれるなら」
「誰が!」
「やれやれ、素子さんは頑固な人ですね」
「貴様にだけは言われたくないな…ん?そういえばお前、いつから私を『素子さん』なんて呼ぶようになったんだ?」
「…そういう貴女こそ、私のことを『可奈子』と呼び捨てにしているではないですか」
「………」
「………」
「………」
「………」
すたすた
無言のまま廊下を歩いていくと、なる先輩の部屋の前に着く
――と、そこにはむつみさんが立っていた。
「あら、お二人とも、もう目が覚めたんですか?」
「といっても、半日は経っているようですが…」
「乙姫さん、私達を運んでくれてどうもありがとうございます」
「はい。お二人とも、すっかり仲良くなったみたいですね」
「誰が!」
「何故!」
「「こんな女と!」」
「ほらやっぱり、息がぴったりです。雨降って地固まるというのは本当ですね」
「「………」」
「でも、少し静かにしてくださいね。中には、まだ寝てる方がいるので」
「…なる先輩は、まだ意識が戻らないのですか?」
「私見を言わせてもらえば、あれで死んでないことほうが驚きなのですが」
「可奈子、貴様…」
「鍛えている私が、大部分透過して、半日気絶ですよ?貴女の剣は人間用ではないのですから、軽々しく扱わないことです。世界の敵に指定されますよ」
「まあまあ、二人とも…今はちょっと、邪魔しないであげてください。今回は酷い目にばっかり遭ってましたから、最後ぐらいは」
「「は?」」
さわさわと、春の風が吹き込む部屋
カーテンが淡い残像を残して揺れる
成瀬川なるは部屋の真ん中で、とてもとても幸せそうな寝顔で熟睡し
それを膝枕(乙姫むつみの懇願の結果)している浦島景太郎は、時々彼女の髪を撫でてあげながら
優しい目で、見守っている
暖かい日差しの中
停まってしまいそうなほどに、穏やかな二人の姿
少女は、優しい夢を見ている
fin