注意!これは景太郎×素子小説…です、信じてください
*これは『名もなき貴方の娘から 精一杯の感謝を込めて』の続きです。
*『この○○○ダーク過ぎ…』的な意見は…重々承知です。
――――――目は、覚めたかい
意識が戻ると同時に、掛けられた声
思い出す
ようやく、ようやく祖母を(アルジェリアのホテルで)補足し、約束通りにひなた荘の権利を譲ってもらうべく全力での戦闘を開始したのだ。
なぜなら、約束の内容については互いの認識に違いがあったらしいので
というか、年寄りのなのをいいことにとぼけてきやがった。普段は世界で屈指に入るほど元気な婆さんのくせに、都合のいい時だけ年相応のアルツハイマーを発揮することがある。
故に、戦闘
正面から当たれば私は絶対に勝てない…それは単純な力量差だ。
しかし、祖母を僅かなりとも傷つけることができれば浦島流全体に支障が出る。浦島流の要たる『当主』なのだから
そのあたりを持って、譲歩を引き出すことが目的の戦闘だった。
最後に、相討ち覚悟、防御を一切捨てた大技をカウンターで叩き込んでなんとか勝ちを拾ったが、そのせいで三日ほど意識不明だったらしい。
勝利とは程遠い、いわゆる判定勝ち。
だが、いい。勝ちは勝ちだ
とにかくこれで最大の障害はクリアできたわけだ。
ワイヤー爆発物指向性地雷等のトラップを仕掛けまくったせいでそのアルジェリアのホテルは半壊していたが、後はもう知ったことではない。
日本に(そういえば二ヶ月ぶりに)帰って、ひなた荘にこちらは七年ぶりに戻る。
約束を果たすために
その前に、実家に寄ってここ二ヶ月分の兄からの手紙を回収しておこう。
兄のことだから、留学しててもちゃんと書いくれているはずだから。
あちらでは…そろそろ春か。
兄も、日本に帰ってくるはずの季節だ。
七年ぶりに逢える。
ようやく、ようやく、ようやくここまで来たのだ。
だが、敢えてこれまでの道のりを振り返るようなことはしない。
わざわざ気分が悪くなるようなことをしても仕方がない。
とにかく、速攻で日本に戻ろう。
兄に逢える。私はそれよりも価値のある事柄を知らない。
「ひなた荘には六人ほど住人がおるんじゃがね……」
祖母がポツリと呟く。
別に問題はない。
ひなた荘を旅館に戻した後住み込みで雇えばいいのだし…それでも納得しないのなら追い出すまで
そんなもの、祖母の居場所を突き止めて譲歩を引き出すという難業に比べたらどうということはない。
兄が来るまでに全て片付けてやる。
「全員妙齢の美少女じゃよ」
パラパラと、先程祖母から譲り受けた(交渉成果の一つ)住人名簿をめくってみる。
成瀬川なる紺野みつね青山素子前原しのぶカオラ=スゥサラ=マクドゥガル……なるほど、外見水準は不自然なほど高くかつバリエーションに富んでいる。
これなら思ったより集客力は上がるかも。
大量の軍資金(これも交渉成果の一つだ)があるとはいえ旅館は流行るにこしたことはない。
「景太郎も、そこの住人と二年ほど付き合ってたわけじゃ」
知っている。
なぜなら『そのこと』には私も関わっているのだから。
…兄が二回目の東大受験(忌々しい!)に失敗したとき、私は流石に諦めるだろうと思った。
甘かった。
『でも、まだ諦めるつもりはないんだ』とほざく月一手紙の末尾を見たとき、思わず手紙を引き裂いてしまったのを覚えている。
その後セロハンテープで補修したけど。
それから冷静に考えてみて、兄の行く末が不安になった。あの母のことだから、言う事を聞かない兄をぶちのめして追い出すぐらい平気でやりかねない。なにしろ祖母の一親等だ。
実際に追い出されたらしい。
と、それを知ったのは祖母から何気なく聞かされたおかげで
私は即座に、ひなた旅館改めひなた荘に兄が住めるよう、祖母に頼んだ。
…今思えば、祖母が兄のことを私に話したのは明らかに誘導だった。
ひなた荘の所有権を兄に譲渡する。その交換条件として出された使命のことは思い出したくもない。
「さぞかし、仲良くなったじゃろうな」
………?
意味がよくわからない。
祖母はなにを言いたいのだろう。
「可奈子や、人生には三つの坂があるんじゃよ」
その話は、私も知っている…だが脈絡が全くない。
上り坂。今までの私の人生はずっと上り坂だった。それは、兄を追いかけるために、兄の隣にいるために私が選んだ上り坂。辛くて苦しくて急勾配の七年間。
下り坂。緩やかに穏やかに過ぎていく下り坂。そこには必ず終わりがあるけれど、私はそんな日常を兄と過ごしたいとずっと願っていた。行動してきた。
上り坂が下り坂に変わる瞬間は、すぐそこに
旅館をやる旨を兄に手紙で伝えて、そしてひなた荘を改築してひなた旅館に仕上げ、兄と一緒に
きっとそこが、私の人生における頂上だ。
けれど
上り坂、下り坂、そしてもう一つの坂。
「…………は?」
先程から祖母の言いたかったことが理解できて、私は凄まじく間抜けな声を漏らしてしまった。
思いついた瞬間呆然とし、『何をバカなことを』と鼻で笑って即座に一蹴した。
そんなことは有り得ない。
リンゴが地面に落ちるように、豚が空を飛べないように、蛙が蛙しか生まないように
そんなことは有り得ないのだ。
私にとって、確認するまでもなく当たり前の事柄だ。
あの馬鹿で頑固で鈍感極まりない兄を『――――――――』なんて
ちゃんちゃらおかしい。
『六人ほど住人』『全員妙齢の美少女』『二年ほど』『さぞかし、仲良く』
本当に
…本当に?
「…そんな」
声が震えていた。
誰かがリンゴをもいでしまったのか、ハリケーンによって豚が吹き飛ばされたのか、放射能によって遺伝子に損傷を受けて蛙以外のものになってしまったのかもしれない。
かも
かも
かもしれない
可能性に過ぎない
馬鹿げている。
本当に、馬鹿げた妄想だ。
兄を『すきなひとがいる』だなんて
兄に『すきなひとがいる』だなんて
けれど、なによりも一番馬鹿げているのは
その妄想に、実際に脅かされている私自身
夢から醒めた時のように、はっきりと脳裏に響くような気がした。
がらがらガラガラと、私が寄って立っていた大切なものが崩れ去っていく音と
「ま………さ………か…………」
目覚めよ―――――という幻聴が
ラブひなEX
目覚めよと呼ぶ声に応え 少女は優しい夢を観る
前編
さあああああ――――――風が吹く。桜のはなびらが舞う。
多分一年で一番キレイな風景。満開の桜並木に包まれた石段を見下ろす。
四月
出会いと始まりと桜の季節。透き通るような青空とぽかぽかとした陽気とピンクが混じる風を、私は片手に箒を持ちながら見上げて
「本当に――――いい天気」
地面に落ちた桜のはなびらを掃除するのは管理人代行の仕事だから素直に喜べないけど
仕方ない。なにしろ頼まれてしまったんだから。
それなら、天気に感謝するべきだと思う。なにしろ、雨の後は桜のはなびらといえどぐちゃぐちゃの泥にまみれていて手に負えなくなってしまうから
そーゆうのを抜きにしても
雨が降ってしまったら桜が全部散ってしまうから―――もうしばらくは、この一年で一番キレイな風景を見ていたい。
そうだよね?
「なる先輩、ただいまー!」
「おー、帰ったぞー!」
「あ、しのぶちゃんにサラちゃん。お帰りなさい」
「管理人のお仕事、お疲れ様です」
「まあ、今日はいい天気だから散歩がてらよ。しのぶちゃんの方は、もう高校には慣れた?」
「えへへ、やっぱ授業は難しいです。試験は終わりましたけど…もし良かったら、また家庭教師やってくれませんか?」
「うん。わからないところがあったらなんでも聞いてね。これでも一応、先生目指してるんだから…で、サラちゃん小学校は?お友達できた?」
「全然ダメ。同い年の奴なんてガキばっかだよ。はるかが行けっていうから行ったけどさー」
「そんなん言って、サラも立派なガキやんかー」
「なんだとコラ!待てカオラっ!」
パタパタと、スゥちゃんとサラちゃんは追いかけっこをしながらひなた荘の中に入っていった。
スゥちゃんは高校が近いから二人より先に帰ってきてたのだ。さっきまで屋根の上でのんびりしていたはずだけど…飛び降りてきたのだろうか?まさかね。
元気な二人を見送りながら、しのぶちゃんがくすりと笑った。
「サラちゃんあんなこと言ってますけど、クラスじゃ人気者みたいですよ」
「へえ、そうなんだ」
「可愛いし強いし元気ですしね。子供って純粋ですから、髪の色とか国なんて関係ないのかもしれません」
「しのぶちゃん…言うこと大人びてきたね」
「そうですか?」
「向こうで昼寝してる人に見習わせたいぐらいだわ…」
いくらぽかぽかした陽気だからといって水着姿でひなたぼっこというのは、いくらなんでも無用心すぎるんじゃない?
そういう意味の視線を白目ジト目で送っても、相手は寝てるから効きはしない。
今まで何度も思ったことだけど……友人、辞めようかしら。
「変わりませんね、キツネさんは」
「しのぶちゃんしのぶちゃん。それってけなしてるの?それとも誉めてるの?」
「そうですね…感謝、だと思います。私は、ひなた荘がずっとこのままならいいと…思ってますから」
「確かに、キツネは初めて会ったときから何も変わってないわね、本質的に」
「あ、もちろん浦島先輩に帰ってきてもらえば言うことなんてないんですけど」
「…もう、あれから半年経つのよね」
「ひなた荘が変わらないなら、いつ帰ってきても大丈夫ですよ」
「それで…キツネ?」
「変わらないっていうのは、きっと大変なことなんですよ…それじゃ、私は夕食の準備してきますね」
最後に柔らかく微笑んで去っていったしのぶちゃんを見送る。
なんだか、大人びてきたというか…誰かに似てきたような。
誰だっけ。あの包容力というか余裕というか悟った笑顔の持ち主は
すっごく身近にいる人のような気がするんだけど…
「なるさーん。回覧板来てますよー」
「あ、なるほど。むつみさんなんだ」
「はい?私がどうかしたんですか?」
「いえ、ちょっと。意外な事実を発見しちゃっただけですから」
「はあ……それにしても、今日はいい天気ですねえ。絶好の花見日よりですよ」
「お花見ですか?どっちかというとむつみさんは花より…お酒ですよね」
「花見酒です。やっぱり酒の肴は重要なんですよ」
「むつみさん…最近飲酒量増えてませんか?体弱いんですから気をつけてくださいよ」
「ただ単に、最近お酒飲んでるシーンばっかりだからそう見えるだけですよ」
「は?」
「大丈夫です。私、昔からお酒には強いんですから。飲まなきゃやってられないこともたくさんありましたし」
「…むつみさん。やっぱ似てなかったみたいです」
「はい?」
「いえ…それじゃ回覧版受け取っておきますね。食堂にでも置いておきます」
「あ、それとですね。浦島君からエアメールが来てますよ」
「景太郎から!?」
「『From HINATA'S Girls』になってますから、後でみんなで見ましょうね」
景太郎からの手紙、か
にこりと微笑んで(それとも一人で見るなという釘刺しだろうか)むつみさんは桜に包まれた石段をタンタンタンと降りていった。まだ和風茶房『日向』の仕事があるんだろう。
あ、仕事といえば管理人代行の他にもう一つ。
チラリと腕時計を確認する。そろそろ塾講師のバイトに行く時間だ。
エアメールをポケットの中に大事に仕舞って、手に持った箒を片付け身を翻し
「……………………」
「…うっ」
たところで、出てきた彼女と鉢合わせした。
どんよりと暗いオーラを背負って
上下共にジャージでざんばらの髪を更にぼさぼさにして
右手で数学の参考書を開いて、左手で真っ黒な刀を無造作にぶら下げて
見違えるようにやつれてしまった
青山素子という少女
「なる、先輩……」
「な、なに?素子ちゃん」
「三角関数でどうしてもわからない問題があったので教えてほしいのですが…よろしいでしょうか」
「あ、うん。もちろんいいわよ」
断る理由なんかあるわけがない。
まがりなりにも先生を目指しているんだし、景太郎の時に散々教えた分野だし
たとえ、その様子にちょっとビビって一歩引いてしまったとしても。
…だって、恐いものは恐いし、ねえ?
とにかく彼女が引っかかっていた部分の問題を解説すると、納得してお礼を言ってから素子ちゃんは自分の部屋に戻っていった。
合格発表で何があったのか、私は断片的にしか知らない。
ひなた荘前での切腹騒ぎとか、むつみさんと一緒に傷心沖縄旅行に行ったとか色々あったらしいけど
その結果の、暗く沈んだ彼女しか私は知らない。
その結果の、日常的に刀を手放せなくなってしまった彼女しか私は知らない。
刀やそれに類するものがないと不安がるのだ。
…彼女がそうなってしまったことに、多少責任を感じてはいる。
もしも、私がもっと素子ちゃんの勉強を見ていてあげれたなら
素子ちゃん本人の希望で主にしのぶちゃんの面倒を主に見ていたけど、それでももし…と思ってしまう。
あんな彼女を見ていると
それが、とてつもない傲慢であるとわかっていながら
思って……しまうのだ。
四月。
出会いと、始まりと、桜の季節。
けれど、ひなた荘はどこか曇っている。
…私じゃ、代行じゃ、あいつの代わりにすらなれない。
この場所をなんとか守っていくのが精一杯で
早く――――――――はやく、帰ってきてよ、景太郎。
ちら、と腕時計を確認する。
ちょっとだけ弱気になって懐中のエアメールにそっと手を当て、空を見上げながらそんなことに思いを馳せてから
私は着替えて、バイトに出かけた。
「あえいうえおあえ〜。成瀬川なるで〜す」
完・璧。
成瀬川なる、20歳東京大学二年生、私立○×高校を卒業した後一浪し入学、全国模試トップの経験あり、趣味特技は特になし、戦闘能力は未知数だが実戦経験はなし、性格は至って社交的だがキレやすい面もあり、けったいな料理の腕前を持つ…
身長体重スリーサイズ血液型は言うに及ばず、こんなことまで記されている住人名簿など他にはないだろう…ちなみに、兄は管理人なので当たり前のように住人名簿には記述はなかった。くそ。
…まあいい。これだけ情報があれば本人に成り済ますことは容易い。
口調も声質も、先程の会話で大体覚えた(100m離れた山の中から指向性マイクにて盗聴)ので、ボイスチェンジャーを調整してイメージを形作る。
変装で大切なのは相手を理解すること
完全に理解し、なりきってしまえば相違点は見つからない。
そして探り出すのだ。
住人名簿に記されていなかったことを、調べないといけない。
パタンとコンタクトを閉じて
その音を合図に私は『成瀬川なる』に、変わる。
――――――――――とん
いつか戻ってくると誓い続けていたそこに足を踏み入れても、日常的にそこに住んでいる『成瀬川なる』の身では特に感慨も沸かなかった。
すこしもったいなかったかと、思う。
「お、なる。なんやえらい可愛い恰好してどないしたん?」
「別に、ちょっとした気分転換よ」
いきなりエンカウントした相手は紺野みつね21歳フリーター、通称キツネ、フリーター歴三年を数え万年金欠で家賃の滞納もしばしば、趣味は酒、特技は対人交渉、性格は極めて明るくゴシップ好き、要注意。
「それはそーと……なる、今月ちょっと入用なんや。家賃ちょっと待ってくれへんか?」
「ええ、いいわよ」
「……は?えらいあっさりしとるやないか。この前なんかウチの秘蔵酒売っ払ってでも金払えって息巻いて…」
「代わりにちょっと聞きたいことがあるんだけど……キツネの理想のタイプってなんだっけ?」
「は、なんや唐突に…そーやな、背が高くて学歴良くて何より金持ち!やな」
「ふーん」
…どうなのだろう。
紺野みつねの言う『理想のタイプ』は典型的なもので…兄がその条件に当てはまっているとはどうしても思えない。その意味ではこの女はシロ。
だが…どうにも嘘臭い。やはりこの女は注意人物だ。
「なるせんぱーい。今日はマーボー豆腐にしようかと思うんですけど…」
「うん、お願いするわね」
台所から出てきたのは前原しのぶ15歳高校1年生、県下でも有数の進学校である県立M高校に今年入学、趣味特技は料理、臆病で子供っぽく、いまだにクマさんパンツを愛用…なんでこんなことまで住人名簿に記されているのだか。
まあいい。それほどまでに子供っぽいのなら脅威足りえないだろう。
確認は必要だが
「しのぶちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「はい、なんです…」
ばさっ!!
「キャ――――――!な、なにするんですかなる先輩っ!!」
「…クマさんパンツはどうしたの?」
「そっ、そんな子供っぽいの履いてません!」
「しかしイチゴ柄でまだまだ子供、と…」
手帳にさらさらと記していく。後ろで本人が『えーん』と泣いているが知ったことではない。
イチゴ柄…ふっ、勝った。
敵ではないと判断し、重要度を下げておく。
と、背後から声
「あら、どうしたんですか?しのぶちゃん」
「あうう、むつみさーん」
「あ、ちょうど良かった。聞きたいことがあるんですけど…」
先程発見した、住人名簿に記されてない女。
『乙姫むつみ』と呼ばれていたが、いったい何者だろう。
住人名簿に記されていないので、データが全くない。よって対策の立てようがない。
とりあえずは情報収集に徹することにする。
「はい?」
「ってなんで裸なんですか!?」
「いえ、お風呂あがりなもので」
「男がいないからって無防備すぎますよ……まあ、手間は省けましたけど」
スリーサイズは…うっ、これは…完璧に負けた…どちくしょう。
会話をしつつ情報を集め、ぐりぐりぐりぐりと四重丸で手帳に『乙姫むつみ』と記しておく。
どうやら和風茶房『日向』の方で働いているようなので、後で叔母に聞き込んでおこうと心に決める。
見たとこ性格は極めて呑気で温厚、といったところか…
「なるやん、さっきからなに調べとるんやー?」
「お前もタオル一枚かよ…」
横からひょこっと顔を出してきたのはカオラ=スゥ16歳雷華高校二年生とサラ=マクドゥガル11歳ひなた西小学校5年生、性格は脳快晴でイタズラ好き、トラブルメーカーとして目的達成の障害となる可能性あり、注意。
しかし兄に対してはとりあえずシロだろう。
って、よく見たら住人がほとんど全員集まっている…どうやらここの住人はかなり物見高いようだ。
ちょうどいい、牽制しておこう。
「改めて住人の風紀や生活態度を見ているだけよ。あ…本来の管理人がいないんだから、引き締めるべきところは引き締めていかないと。昼間から飲酒して半裸で過ごすなんてもってのほかね」
「なる…それはウチへの当て付けやろ…」
「別に、気に入らないなら出て行ってもらっても構わないのよ」
どよめきが走った。
紺野みつねが、前原しのぶが、カオラ=スゥが、サラ=マクドゥガルが、こちらの方を向いて目を丸くして。
乙姫むつみだけは『あら』と呟きながら微笑んでいる。
まずった。あまりに『成瀬川なる』にそぐわない言葉だったようだ。
ここは退却しうやむやにすることにしよう。
…そういえば一人足りない。
現在ひなた荘に住んでいて、ここにいない人間は――――
「あ、しのぶちゃん」
「は、はい?なんですか、なる先輩」
「素子ちゃんはどこにいるのかわかる?」
「…素子さんなら、自分の部屋で勉強していると思いますけど…」
「301号室ね。わかったわ、それじゃ」
私は
青山素子という人間は、ずっと挫折したままだった。
東京大学の受験に失敗した、あの瞬間から
それはきっと、私が味わう初めての挫折。
剣の勝負に敗れたことは、数えてみると驚くほど多い。
姉上は言うに及ばず、瀬田さんにも文句なしに負けた(思えばあれが全ての始まりだった)
浦島とさえ一勝一敗二分けだし、しばらく前は浦島の母君に一方的にのされた(私は、姉上より強いかもしれない存在を初めて知った)
だがそれでも、私は剣に於いて挫折することはなかった。
今のように、どれだけ考えてどれだけ足掻いても、どこにも出口を見つけることができないような――そんな、絶望的な気分になることはなかった。
何故だろう。
勝負に敗れたという本質には変わりないはずなのに
…思いついたその理由は、あまりに情けなく、不甲斐ないものだった。
だから私はそれを振り払うように、受験に失敗してからも変わらず勉強を続けていた。
それでも
無力感は霞のように纏わりつき、私はずっと挫折から立ち直ることができていない。
「素子ちゃん、ちょっといいかしら」
「…なる先輩?どうぞ」
私が自室で勉強していると、声と共に背後で襖が開いた。
入ってきたのは…なにか、シックな服装に身を包んだなる先輩。
私の部屋に来るとは…何の用だろうか。
部屋は(以前注意されたこともあって)適当に片付けてある。暴飲暴食も無茶な徹夜もしていない。
だいたい、なる先輩は忙しいのだ。
私は、どうしてもわからない問題があったときだけ解説を頼むようにしている。
私の部屋に来るような事など、滅多にない。
だが、いくら珍しいからといっても、日頃からお世話になっているなる先輩を歓迎してはいけない理由など存在しない。
「このような恰好ですみません。今、お茶でも入れますから…」
「別に気を使わなくていいわよ。そのまま勉強してて」
「はあ…どうもすみません」
「ちょっと素子ちゃんに聞きたいことがあるんだけど」
「はい、なんですか?」
なる先輩が私の横に座った。
ふと、違和感。
隣に座って、じっとこちらを見詰めてくる彼女に、なにかが足りないような違和感。
ぼんやりとしたそれが特定される前に
なる先輩が、ずいと身を乗り出した。
「ねえ……」
「は、はい?」
「素子ちゃんって、キレイな髪してるよね…短いのがもったいないくらい」
「な、る、先輩?」
「前は長かったみたいだけど、なんで切っちゃったの?」
「それは…」
浦島に
浦島に、餞別として贈ったから
なにも持っていない私には、他にあげれるものなどなかったから
「私には、なにもないですから…」
「ふうん、どういう意味?」
「浦島に…」
「!?」
なる先輩に話していいものかどうか、迷う。
私と浦島が、もう恋人同士でもなんでもないということを
あの日、私が三行半を突きつけたことを、その意味を
この人に
浦島のことでとてもとても苦しんでいて、だけど最近は少しだけ生き生きとした表情を見せてくれるようになった女性に
これ以上、ひどい仕打ちをしていいのだろうか
半年前、何故髪を切ったのか、なる先輩にだけは聞かれていなかった。
キツネさんには、スゥには、しのぶには、ニャモには、むつみさんには、サラには、何故いきなり髪を切ったのか色々と聞かれた。
私は素直に『浦島への餞別だ』と答え、呆れられたり驚かれたりもったいないと言われたりしたけど
他の人は知らない。
私が浦島に三行半を突きつけたことは、なる先輩しか知らない。
彼女は気付いているのだろうか
私が髪を切った理由(わけ)
…女としての自分を放棄したこと
それはつまり、私たちが男と女の関係などではなくなったということだ。
浦島に誰が言い寄ろうとも(嫌な気分になるのは仕方がないにしろ)私に抗議する資格などない。
浦島が私の所にいてくれるという確かな保証もない。
…なる先輩はその事に気付いているのだろうかと、恐れ、同時に一抹の期待も抱いてしまう。
でも彼女は、何故そんなことを今更になって私に聞くのだろう―――
「あ……いつが関係してるの?素子ちゃん、良かったら聞かせてくれない?」
「なる…先輩?」
のし掛かるように迫ってくる彼女
再び、違和感。
私の肩に乗せられた左手。
すらりとした、なにもつけてない腕。
…何故、腕時計をつけてないのだろう。
彼女は、いつもいつもその腕時計を身につけていたはずだ。
彼女は、とてもとてもその腕時計を大切にしていたはずだ。
もちろん、腕時計を付けない理由など無数にある。その程度なら何ら不自然ではない、はずだ。
それでも
違和感、違和感、違和感
私の中でなにか警鐘が鳴り響いている。
「なる先輩…腕時計はどうしたんですか?」
「………」
彼女の表情がぴくりと動いた。
至近距離からじっと見つめる、と、わずかに、わずかに私の知っているなる先輩とは違う色が――
ちくり
違和感の正体を見極める前に、左腕に小さな痛みが走った。
反射、的に、左腕を、見るより、早く、視界が、歪み
私は、ずるりと床に倒れた。
…不覚だ。
ここ最近ずっと鉛筆など握っていたせいで、剣士としての勘が鈍っていた。
違和感を感じた時点で、密着してる状態から離脱するべきだったのに
意識が闇に飲まれそうになるのを必死でこらえ、なんとか声を絞り出そうと、する。
なる先輩…いや、なる先輩のカタチを模した誰かが立ち上がり、冷徹にこちらを見降ろすのを確認しながら
「…、…、…」
「いかに少量とはいえ、まだ意識があるとは…たいした精神力ですね」
「――――お、ま、え、は、い、った、い…!」
「私の変装を見破りましたか…そう急がなくても、後で教えてあげますよ」
「ぐ、う………」
「とりあえず、現段階ではまだ潜伏しておきたいので…しばらく、目に付かないところで眠ってもらいます」
体がずりずりと引きずられているのを、消えかけた感覚の片隅で感じながら
不覚、ともう一度心の中で呟いて
私は、意識を、失った。
「ただいま〜」
私がバイトを終えてひなた荘に帰ってきたのは、夕方頃だった。
もうおなかがペコペコだ。
今日の夕食当番は誰だったかなー、そうか素子ちゃんか。最近は素子ちゃんも多少は料理をしてくれるようになった――相変わらずの精進料理だけどあれはあれで慣れれば味がある――し、空きっ腹には少々足りないかもしれないけど、まあそのあたりは少々意地汚く間食でも…
と、そこでようやく、ロビーに誰もいないことに…その不自然さに気付く。
「あれ…?」
普段は空腹に耐えられなくなったスゥちゃんやらサラちゃんが暇つぶしをしているか、キツネがだらーっとしてるはずなのに
気配の欠片もない。
それどころか、食堂兼調理場から漂ってくるはずの、食欲を刺激する夕食の香りすら存在しない。
…誰もいない?
たとえば、食堂がなんらかの事情で使用不能になって、みんなで手近の食べ物屋に繰り出したとか
けれどロビーを見回してみても、目に付くところに書き置きらしいものは見当たらない。
たとえばスゥちゃんが怪しい発明品をドカンと爆発させて、その衝撃でみんな伸びてるとか
今の素子ちゃんがそんな騒ぎに加わるとは考えにくいけど、夕食の準備がされてない以上、そういうことなのだろうか。
と、すぐ横から動物の鳴き声
「にゃあ」
「あ、ネコ…どこから来たんだろ」
見慣れない、黒い子猫が私の側まで寄ってきていた(今までソファーの陰に隠れて見えなかったみたいだ)
首に鈴を付けているので飼い猫だろう。そう思って、体を僅かに屈めて手を伸ばしてみる。
幸いなことに噛みつかれたり逃げ出されるようなこともなく「にゃあ」と手の甲に額をすり寄せてくれた。人懐っこい猫だ。
この辺に引っ越してきた家の飼い猫だろうか。時期が時期だから、そういうこともあるかもしれない。
春は、出会いと始まりと桜の季節なのだから
♪GhostBusters!!!
いきなり、凄まじい悪寒が背筋を貫いた。
ぞくりと、それこそ背中に氷でも突っ込まれたかのような絶望的に嫌な予感。
いや、そもそもいきなり流れてきたこの『悪霊退治』っぽい音楽は何!?
このセンスは…
スゥちゃん、と思いつくと同時に、二階へと続く階段の踊り場から、当の本人の声が降ってきた。
「アルファ、ターゲットを発見したで〜」
『猫はおるか?』
「おるで〜」
『ほな、そいつが素子の言ってた『猫又に憑かれたなる』やな』
「略して『なるマタ』やな」
「す、スゥちゃん?それに、その通信機みたいなので話してるのはキツネでしょ?なにやってるの?」
「キツネ、『なるマタ』がなんか言うとるで」
『あかん、迂闊に話したら取り憑かれる…って素子がいうとったな。攻撃や!』
「おっしゃ、霊子レーザー砲照射や〜!」
「え?」
と状況を把握する暇もあらばこそ
バビュウ、という軽い音と共にスゥちゃんの持っている銃(?)から発射された『稲妻を纏った電撃』というワケのわからないものが足元に炸裂
ズガァァァァン!!!
「ぴぎぃ!?」
し、私はものの見事に吹っ飛ばされた。
「おお、逃げおった!」
『追撃や、追撃!旧館の方に追い込むんや!』
「おっしゃ、いくで〜!」
バビュッ、ズシャアアアアアア!!
「ひぇぇぇぇぇ!!」
「うーん、照準システムに問題有りそうやな…まあええ、数うちゃ当たるや〜」
バビュビュビュビュビュビュ
ズガガガガガガガガガガガガッ!
「いやあああ!!」
命の危機を感じました。
だから逃げました。
本当はとどまってスゥちゃんから事情を聞くべきだったのかもしれないけど、私にはとてもとてもそんなことはできそうにありません。
神様、許してください。
そんなことを錯乱した頭で考えつつ、私は中庭に面した渡り廊下を必死で駆けてスゥちゃんから逃げた。
けれどどうやら神様は許してくれなかったみたいで
唐突に中庭の方向から伸びてきた怪光線が、私の体を直撃
ビシャアアアアアア!!
「―――――!!」
「よし、ヒットだ!」
「お〜。やるやないか、サラ」
「これでも狙撃は得意技なんだぜ!」
白い稲妻が私の体を縛り、全身を苦痛と衝撃が襲い続け
勢いのままに転ぶことも悲鳴を上げることも許されず
しこうすらしろくぬりつぶされ
どくんと、しかいがアカくそまり
弾けた。
バチン!
「逃げた!?霊子レーザーの最大出力を、生身で耐え抜いたんか!?」
「…カオラ、その顔怖いぞ」
「相手が霊体なら一撃捕縛、生身だったら電撃で激痛&心臓麻痺の悶絶死やで!」
「っておい、そんな物騒なもんだったのか、これ!」
「まあ、ゴーストバスターズにはこれくらい必要やろ」
「てか、煙噴いてるんだから効かなかった訳じゃないだろうけど…」
「とにかく追撃や!」
「そーだな、キツネの方と合流して追い込むか」
「アルファとチャーリーからオメガへ。なるマタは渡り廊下を北へ逃走中やで〜」
わけがわからなかった。
とにかく、気がついたときには私は再び渡り廊下を走っていた。
本能が『逃げろ逃げろ』と叫んでる。絶叫している。脳内麻薬物質が分泌されている。
是非もない。
いつの間にかスーツがボロボロになっていて、それがあの衝撃をまざまざと物語っているようでぞっとする(後でそれどころではないこと知った)
なんでこんなことにとか、人生における不条理さとか、そういうことを考える余裕もなく
先程の一撃で、頭のどこかがイカれてしまったのか
背後からの声に「なる先輩パンツめくるなんてひどいですー!」とか「今日の食事当番をどこにやったんやー!」とかいう叫びが加わっても渡り廊下を逃げ続ける。
背後からバシュバシュ電撃が飛んでくるけど、双方走ってしている上に光線自体が曲がるんで全く当たらず、ズガガガガッと天井やら柱やら床やらを破壊するだけで
幸いにも足の速いスゥちゃんサラちゃんが重い装備を背負っているせいで、じりじりと後ろの集団との差が開きつつあった。
これで素子ちゃんまで騒ぎに加わっていたら、完璧にアウトだったろう。
余裕が出てきた私は、もう一度追撃集団の様子を見るべく、曲がり角を走り抜けながら首を捻って背後を確認して――
ビタン!!!!
壁のようななにかに思いっきりぶつかり、ずるずると崩れ落ちた。
側頭部がいたひ…
見上げてみると、そこには鉄枠で補強され、注連縄と南京錠で封印された木製の扉があった。
「行き、止まり……」
そこで私は、ようやく自分が冷静さを失っていることに気付いた。
いくらひなた荘が広くても、走り続けていれば必ず逃げ場を失うはずなのに
ここは、開かずの旧館。普段は全く来ることのない、閉鎖された場所
の入口。
閉鎖された場所だから、そこに逃げ込んで膝を抱えることはできない。
そこにはきっと、さらにこわいことがまっている―――
「なんで、なんだって……こんな……」
とうとう泣き言が漏れた。
そうすると、もう駄目だった。
扉に背を預けるようになんとか立ち上がったけど、もう一度ずるずると倒れ込みそうになってしまう。
だいたいさっきまで本能だけで走っていたのだから
一度冷静になってしまうと、もう駄目なのだ。
もう逃げられない。
「追いつめたで、なるマタ!」
「ふふふ、今度は二人同時攻撃、その後すぐにボックスに封じてやるで〜」
「ちょ、カオラ。その前に素子さんを取り戻さないと」
「素子ねーちゃん、さっきから行方不明だもんな…」
四人が私の前に立ち塞がった。
もう、前にも後ろにも逃げられない。
逃げる気力は存在しない
―――なら
なら?
だいたい、私が素子ちゃんに何をしたというのだろう。
本当に、いったい何を
―――ほんとうに?
本当にただの一片も、彼女に対して悪いことはしていないと、私は断言できるのだろうか
だって、素子ちゃんがあんなになってしまったのは、素子ちゃんが受験に失敗したのは、私のせいであるかもしれないのに
もしも断言できるのなら、それはとんでもない偽善だ。
私は、そんな偽善を認めて生きていけるほど強くない。
強くない、から
―――私は、素子ちゃんになにかしてしまったのだろうかと、思ってしまう。
こうやって親しい住人に追い立てられ、銃を向けられるのも仕方のないことなのだろうか
私は素子ちゃんに謝らなければいけないのだろうか
私は死ななければならないのだろうか
「さあ、観念し!」
死にたくない、と思うのは我侭かもしれない
この、目の前の四人を、倒してでも生き延びたいと思うのは弱さかもしれない
せめて、彼と再び会いたいと願うのは傲慢かもしれない
それでも私は、潔く彼女たちに倒されるより、意地汚く生きていたいと思ってしまう、から
殺るか、殺られるか、だ
鈍く光る銃口を突きつけられ、私は一瞬にしてそこまで思い詰めていた。
キツネ、スゥちゃん、しのぶちゃん、サラちゃん
ひなた荘の、大切な仲間達。
私の脆弱な心で、彼女たちを倒せるのだろうか
私の脆弱な心は、彼女たちを倒すということに耐えられるのだろうか
自信がない
自信がなかった、から
わたしはりせいをほうきしました
「で、どーやって聞きだすんや」
「猫又なら、魚を餌にするっていうのはどや?」
「おめーならそれで引っかかるんだろうけどなあ…」
「あ、あの、キツネさん。なんか、なる先輩の様子がおかしくありませんか?」
「ん?」
さっきだったくうき
どくん、どくん、とみゃくうつしんぞう
あらくなるこきゅう
かぎづめのように、いびつにまがるゆび
しかいがアカクそまる
紅く、赤く、朱く、紅く、赤く、朱く、紅く赤く朱く紅く赤く朱く紅く赤く朱く紅赤朱紅赤朱紅赤朱紅赤朱―――
―――
「あの〜、みなさん?ちょっといいですか?」
声と共に、視界を覆っていたアカイ霧が晴れた。
同時にがくんと、体中から力が抜ける――――いや、それどころか関節が固まってしまって動くすら、できない。
何キロも何キロも走った後のような、ひどく疲労した気分。
体が、だるい。
人間としての理性が、事を収めようと努力する気力が、戻る。
そして、私を元に戻した声の主は、のんびりトテトテとやってきた乙姫むつみだった。
「むつ、みさん…?」
「はい。なるさん、ずいぶんぼろぼろですけど苦労したみたいですね」
「近づかんほうがええで、むつみ!今のなるは猫又に憑かれとるんや!」
「そうですか?でも、このなるさん『は』本物ですよ?」
「え…?どういうことですか、むつみさん」
「ですから、さっき皆さんと話してたのは、なるさんの格好をしてたけどなるさんじゃないんです」
「おお、偽者やったんか!」
「―――――そ、そういうことだったの!?」
つまり私は
勘違いで追い掛け回されていたということになる
ねえ、年長者っていうかリーダー
「き・つ・ねぇ〜〜〜〜!!!」
「か、堪忍や堪忍、悪気はなかったんや〜」
「わざとやられてたまるもんですかぁ!今度という今度は!」
「ひえぇぇぇぇぇ!!」
ぐるぐるぐるぐると、その場で鼬のように追いかけっこを演ずる私とキツネ。
そんな私たちを尻目に、サラちゃんは感心したようにむつみさんを見上げた。
「こりゃ確かにいつものねーちゃんだな…それにしてもカメねーちゃん、よく偽者だってわかったなあ」
「だって、いつもなるさんが肌身離さずつけてる腕時計がなかったですし」
「…根拠はそれだけかよ」
「でも『なる先輩が猫又に憑かれてる』って言うたんはモトコやで?」
「それで、むつみさんが仕事に戻った後、素子さんが『なる先輩を捕まえよう』って言い出して…」
「で、手分けして探してる最中に行方不明に…なんか、モトコねーちゃん無茶苦茶怪しくないか?」
「はあはあ…その偽なるはモトコの部屋に行った後消えたんやろ?だったら結論はひとつやな…はあはあ」
「ぜえぜえ…つまり、もう素子ちゃんと摩り替わってるってことね……ぜえぜえ」
「…いや、そんな息を切らしてまで会話に加わらなくてもいいけど」
「なんや、もう追いかけっこ終わりなんか?」
「えーと、つまり私たちが探さないといけないのはなる先輩じゃなくて、素子さんの格好をしている人なんですね」
「今も同じ格好してるとは限らへんけどな」
「…じゃあ、この中にいるかもしれないじゃん」
サラちゃんがぼそりと呟いた瞬間、私たちの間に緊張が走った。
じり、と誰からともなく間合いを開け、互いをじっと観察する(ちなみに、スゥちゃんとむつみさんは事態についていけず取り残されている)
キツネ、しのぶちゃん、サラちゃん、スゥちゃん、むつみさん
この中の誰に――――――――
躊躇は一瞬だけで済んだ
私はびしりと指を突きつけ、高らかに宣言した。
「偽者はあんたね、キツネ!」
「…は?」
「そいつは素子ちゃんや私に化けていたんでしょう?だったら体格の問題でしのぶちゃんやスゥちゃん、もちろんサラちゃんに化けるのは無理!そして私が本物であることはむつみさんが証明してくれた。だから残るはキツネ、あんたよ!」
「ちょ、ちょい待ちい!むつみが偽者かもしれんやろ!?」
「むつみさん、いくつか質問していい?」
「はい」
「むつみさんの生まれ故郷は?」
「沖縄ですけど」
「好きなものは?」
「お酒とか、コタツとか、スイカとか、浦島君とか」
「…コリオリ力の定義は?」
「物体に働く地球の重力やその他物体の運動の原因となる外力の全合力、複合遠心力です。公式はFc=-2m(w×dr'/dt)」
「本物ね」
「むつみさん…凄いです」
「それじゃキツネ。アボガドロ数っていくつ?」
「わかるわけないやろ!?ウチは高卒のフリーターやで!そんな大学の問題…」
「あの…それ、6×10^23…じゃないんですか?」
「しのぶちゃん正解」
「………」
「高校上がりたてのしのぶちゃんにもわかる問題が、高校を卒業した人間にわからないはずないわよね…」
「…き、汚いで、なる!さてはさっきのお返しやな!?」
「なんのこと?私はあくまで管理人代行として、不審人物を割り出そうとしてるだけよ」
「ちょい待ち、なる!この前、ケータロの実家から送られてきた饅頭一人で全部食べてたやろ!?ほら、偽者ならこんなこと知っとるわけあらへん、ウチは無実や!」
「え――!!そーなんか?なるやん」
「……語るに落ちたわね、偽者」
「へ?」
「追い詰められるあまり『存在しない過去を、さも事実のように語って』周りを信用させようとするなんて」
「…!?じ、自分に都合の悪いことを無かったことにしとるのはあんたやろが!」
「もはや偽者であることは確定されたわ。スゥちゃん、管理人代行としてのお願い。この偽者を捕縛して」
「おお、キツネが偽者やったんか。ほな、この霊子レーザー砲で…」
「あ、そうそうキツネ…の偽者さん。『体験談』から言っておくと『死ぬほど痛い』けど死ぬことはないから安心してね」
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」
「なる先輩…これ以上、濡れ衣着せていじめるのはどうかとおもうんですけど…」
「てか、キツネになるねーちゃん…ホントにいいコンビだな」
「相手はキツネなんだから、たまにはいい薬よ」
キツネに銃口を突きつけて駆け回るスゥちゃんと、悲鳴を上げながら逃げ回っているキツネ。
呆れるサラちゃんとしのぶちゃん、そして腕組みをしてその光景を眺めている私。
いや、胸が晴れる。
意趣返しの素晴らしさに乾杯。
…と、そんな混沌とした場で、ずっと会話に参加していなかったむつみさんがポツリと呟いた。
「でも、いいんでしょうか…?」
「なにがです?」
私とサラちゃんは、ぐるぐる回るキツネとスゥちゃん(走りっぱなしのキツネはそろそろ限界)を見物していた。
かろうじてその呟きを拾ったしのぶちゃんだけが律儀に聞き返した。
不幸なことに
「今、ひなた荘が解体されてるんですけど…」
「―――――」
くら、としのぶちゃんの頭がふらついて、そのまま彼女はその場で卒倒した。
ぱたんと廊下に倒れる。
追いかけっこをしていた二人も何事かと目を向け、私とサラちゃんの叫びが重なる。
「「解体!?」」
「ええ。先ほど工作車両がたくさんやって来て、ひなた荘に取り付いて工事を始めたんですが…」
「「「―――――――!?」」」
「おお!ひなた荘を改造するんか?」
絶句(by私&サラちゃん&キツネ)
この開かずの旧館は、本館からだいぶ離れていて…しかもずっと騒いでいたので工事音も感知できなかった。
皆が絶句して騒ぎが収まると、遠くからガガガガガ…という音が確かに聞こえてくる。
つまりは本当に
ひなた荘は解体作業中だということ、か
私は……その事実から逃避しそうになりつつ、なんとか、なんとか、一言だけ搾り出した。
「むつみ、さん……なんで、もっと早く言ってくれなかったんですか…?」
そりゃ、私の身元を保証してくれたことには感謝してるけど
どう考えても、そっちのほうが重要事項だ。
だって私はこの場所を、ひなた荘を
彼に代わって守らないといけないのに―――――――
「いえ、みなさん忙しそうだったので…」
「「「そういう事は早く言え――――!!」」」
いや、ほんとに
素子ちゃんが行方不明の時点であんな漫才をやってた私たちに言える筋合いじゃない、という話は置いといて
「はるかさん、大変です!!ひなた荘に重機がたくさん取り付いて…!」
私はそんなことを叫びながら和風茶房『日向』に駆け込んだ。
ひなた荘のいたるところで作業をしている大工(と思わしき人たち)に文句をいっても埒があかず、あの後私たちは二手に分かれた。
とにかく、ひなた荘の最年長者であり後見人代理でもあるはるかさんに相談する私。
そして、あのひなた荘かにのどこかにいるであろう現場責任者を見つけ出して工事を中止してもらおうとしているキツネたち。
私は、相も変わらずガラガラの店内を横切って
いつもの通り、奥でコーヒーを啜っているはるかさんに詰め寄り
「なんとかしてください!」
「なんともならん、諦めてくれ」
即答された。
は?と呆気にとられた私を尻目に、はるかさんはもう一度コーヒーを啜って
…ふと、気付く
なんで、彼女の持っているコーヒーの表面に幾重にも波紋が広がっているのだろう。
コーヒーカップが、そして(地震でもない限り)カップを持つ腕が震えていることになる。
はるかさんは禁煙か禁酒でも始めたのだろうか。
タバコも酒もやらないはるかさん…?いや、まさか。
と、いうことは
「さっき婆さんから通達があった。『全ての浦島は、この件に手出無用』だ。私はこの件に、一切口出しをできない。これは、あの二人の問題だ」
彼女は、もう一度コーヒーを啜り、抑えきれない恐怖で腕を震わせながらはっきり言った。
「いいか、なる。私だって命は惜しいんだ。あまり頼られてもらっても、困る」
絶句した。
事態の不可解さより、お婆ちゃんが絡んでいることより、なにより
はるかさんが、恐怖に身を震わせ、命が惜しいなどと言ったこと、そのものに
あの、強くて、気丈で、クールで、過激な、浦島はるかという女性が、よりによってそんなことを言うなんて
私はどうしても目の前の光景が信じられず、絶句したまま彼女の呟きを聞いた。
「仮に、私が、おまえ達の側につくとしよう。そうなれば、必ず私を抑止するために浦島の者が出てくる。あいつの立場を考えると…婆さんか、最悪、最悪の場合叔母さんが出てくることになる…あの人と戦うなんて、悪夢以外の何物でもない…!」
叔母、というところで彼女はコーヒーを一気に飲み干した。その熱さで、全身を覆う悪寒と戦うように
叔母って誰だろ…?
景太郎がお婆ちゃんの孫で、あいつは時々はるかさんのことを『叔母さん』って呼んでいた。叔母というのは親の姉妹だから…はるかさんはお婆ちゃんの子供で、彼女にとっての叔母というのは『浦島ひなた姉妹』ということになる。
おばあちゃんの姉か妹だなんて聞いたこともない。
もしいるにしても、相当の高齢のはずなんだけど…
「だから、なる。私も命は惜しいんだ…わかってくれ」
「な、そ…そんなのわかりません!お婆ちゃんの差し金だろうとなんだろうと、私たちの住んでいる場所を、ひなた荘を勝手に壊すなんて!」
「……そうだな。手出し無用とは言っても、それは浦島にまつわるものだけの話…おまえ達には戦う権利がある、か」
「当たり前ですよ!だって私たちは、ひなた荘の住人なんですよ!」
「ああ、戦う気なら今すぐに戻った方がいいぞ」
「え?」
「他の奴等は工事の妨害でもしてるのか?そんなことしてたら、絶対にあいつの迎撃を受けるぞ。別々に行動するのは、あいつにとって絶好の襲撃チャンスでしかない。そういう奴なんだよ」
「!?」
忘れていた。
素子ちゃんが居ない今(それが適役かどうかは置いといて)私がみんなを守らないといけないのに!
私は、はるかさんに礼を言うのももどかしく、和風茶房『日向』を飛び出した。
その『相手』の事をはるかさんに問い質すことも忘れて。
「…だが、戦うつもりなら覚悟だけはしておけよ、なる
あいつはおそらく、おまえたちの誰よりも強い。
特化された純粋な戦闘力、陰謀を巡らせる知能、あえて絡め手を好む狡猾さ、女子供にも容赦なし。
金も、権力も、後ろ盾も申し分なしだ。
だが、なにより恐るべきは、その狂気に裏打ちされた強固極まりない意志。
弱点は――――くそ、今は海の彼方か…」
「我々はぁ〜!断固工事に反対する!」
「ダンゴやダンゴ〜」
「あら、みたらしですか。いいですねえ」
「座り込みは体力や。まずは食いだめ大会やでー!」
「…って、おいキツネねーちゃん。工事の責任者見つけるんじゃなかったのか!?」
「ふ、取り壊しに対抗するんは座り込みと、昔から相場はきまっとるんや。それに、こうやってりゃそのうち責任者の方からやってくるはずやで」
「そーゆーのは入り口とかでやるもんだろ?なんで露天風呂なんだよ」
「なんやサラ、さっきからノリが悪いで〜」
「仕方ねーだろ!しのむもなるねーちゃんもモトコねーちゃんもいないんだぜ!?他に誰がツッコむって言うんだよ!」
「サラちゃんも若い身空で大変ですねえ」
「ま、それは置いといて…露天風呂で座り込む理由?そら、ここがひなた荘で一番重要なところやからな」
「ここが?」
「なにしろ毎回毎回入浴シーンあってこその作品やからな。ここさえ抑えてれば、工事が完成することはあらへん…というわけで食いだめやー!」
「どういう発言よ、それは」
「お、なる。ずいぶん早かったやないか。はるかさんはなんて言うとった?」
「…はるかさんなら、留守だったわ」
「なるやんも、座り込みいっしょにどや〜」
「そやそや、部屋に行って水着取ってきい。さすがにウチやむつみのやと胸のサイズが合わへんからな」
「………」
ぽちゃんぽちゃん
「ん?なるねーちゃん。なに入れたんだ?」
「バスクリンですか?」
「いや、温泉にバスクリンは必要ないやろ」
「…みんな、水中衝撃波って知ってる?」
「へ?」
「なんだそりゃ」
「しっとるで〜」
「私も知ってます。水は空気よりもずっと圧縮されにくいので、魚雷や爆弾などによって水中で衝撃波が発生した場合、その威力は数倍にも…」
…ズズン
「…膨れ上がる。頭まで浸かっていれば確実に鼓膜が破れ、そうでなくても内臓に衝撃が直撃するから気絶は免れない…と、聞こえてないようですね。あなたたちも、しばらくは拘束させてもらいます…邪魔は、させません」
だんだんだん、と一気に階段を駆け上がりながら
私は、ようやくこの『相手』の恐ろしさをひしひしと感じ始めていた。
多分、私たちとはそもそも思考の次元が違うのだ。
たとえば、一度も会ったことのない相手に変装し、本来の私をよく知っているキツネたちの中に紛れ込む
そして、私達の中で一番強い素子ちゃんをさらって、入れ替わり、キツネたちを扇動する
どちらも、私には絶対に出来ない。
技術や経験の問題ではなく、普通だったら怖気づくか、思いつきもしないことを、当たり前のようにやってのけたこの『相手』
普通の考え方、常識から外れた、どこか異質な存在。
そんな相手が、無防備なキツネたちに手出しをしないと思っていたなんて
致命的な認識の遅れ―――――――
たん、と階段を上りきる。
そこには
ビニールシートに覆われたひなた荘と
大きな鉄球をぶら下げたクレーン車と
私に背を向けて、ひなた荘を眺めている、見覚えのないはずなのになぜか既視感を覚える誰か
「―――我、浦島ひなたの名を借りて、陽想を我が留まりし在りし日の姿に戻さんと、祈り願う――――」
ざあ、という音が幾重にも幾重にも幾重にも響き
石段に沿って植えられた桜の木全てが、ひなた荘周囲で咲き誇る数え切れないほどの桜が、前庭に聳え立つひときわ大きな桜の巨木が
花びら全てを散らさんばかりに、薄い桃色でひなた荘を霞ませてしまわんばかりに
風も吹いてないのに、視界が全てが桜吹雪で埋め尽くされた――――
なんて、げんそうてきなふうけい
「あ―――」
呆然としていたのはどれだけの間だったのだろう。
気がつくと桜吹雪は止んでいて、視界には変わらずビニールシートで覆われたひなた荘があった。
いや、それどころかあれだけ大量に舞ったはずのはなびらの痕跡すら、地面に残っていない。
白昼夢、だったのかと
カタチにならない呟きが漏れた。
「………」
それを聞きつけたのか、クレーンの傍らにいた誰かがゆっくりと振り返った。
…後ろ姿に見覚えがない、はずだ。
長い髪とスーツの裾を翻してそこにいたのは、鏡で映したかのように寸分違わない
私、自身だったのだから
「な……!」
反射的に目をこすってみても、彼女は消えない。
こちらは、幻覚や白昼夢ではない。
キツネやむつみさんの話を思い出した。
つまり、ぽかんと口を開けて立ちつくす私に対して、冷たい表情で見下ろしてくる(身長は同じはずなのだが何故かそう感じる)彼女こそが
素子ちゃんをさらい、私を陥れ、私たちの居場所を破壊しようとする
張、本、人
「あ、あなた一体何者よ!素子ちゃんやキツネ達をどこにやったの!?なんでひなた荘を壊そうとするのよ!!」
「…質問が多い人ですね。少しは自分の頭で考えたらどうですか?」
「〜〜〜〜〜!!」
頭に血が昇った。
ぶち切れそうになる自分を必死で押さえる。
ここで自制を失ってしまったら、もう収拾がつかない。
もう、ひなた荘で残っているのは私しかいないのだ。
「まあ、いいでしょう。私は…」
「小御嬢。そろそろドカンとやっちまいたいんですが」
「…どうぞ」
「――――――!」
クレーンの運転席からかかった声に、私の姿をした彼女があっさりと答えた。
ドカンというのは、クレーンがぶら下げているその鉄球でドカンとやるということだろう。
なにを?
ひなた荘を
『それじゃ、忙しいところ悪いけど…俺のいない間の管理人代行、よろしく頼むよ』
『はいはい、他に適任がいないものね。まあ、あんたが帰ってくるまでしっかり守っておいてあげるわよ』
気がつくと私は
石段の出口を飛び出して
私の姿をした彼女の横を駆け抜けて
今はビニールシートで覆われているひなた荘の入口に、立ちはだかっていた。
「――――――約束、したんだから」
気がつくと私は
「ひなた荘は絶対に壊させない!」
自分でも笑ってしまうほど
馬鹿げた、あるいは前時代的な覚悟を決めてしまっていた。
たとえ、この身を盾にしてでも―――
「―――――死にますよ」
冷徹な、事実を告げる声。
確かにこのまま鉄球に轢かれたら、私はよくて大怪我だろう。
そしてこの相手は、それを躊躇なく実行するだろう。
私が大怪我をしようがそれで恨まれようが、それよりも自分よりも、目的の方が大事だから。
そういう意味での、冷徹な―――――意志の強さ
同じような顔をしていても、私にはとても出せない声だと思う
「―――――知ってるわよ」
けれど、私が喉の奥から歯を食いしばるようにして出した声は
似たような、固い声だった。
そんな自分に驚く。いま、私はどんな表情をしているのだろう。
ハッタリでもなんでもなく
私は――――――
「小御嬢、いかが致しましょう」
「…やっちゃってください」
「!」
「へい」
ガコンと重い音がして、実に無造作に鉄球が振り子運動を開始した。
鉄球の体積は、直径が1mとすると0.52立方メートル
鉄の比重は1立方メートルあたり7800kgだから、重量は4084kg、約4t。
鉄球が運動を開始した高さを5mとすると、一番下での速度は(エネルギーの損失がなければ)毎秒約10m。
衝突時のエネルギーは――――――200000ジュール
1tの車が時速114kmで突っ込んでくるのと同じ衝撃。
一瞬でそんな計算を済ませてしまった。
十二分に死ねる数字だ。
だけど私はそれがわかっていても逃げ出さず、それどころか『ああ、こーいう問題、むつみさんや景太郎と一緒に散々やったなあ』と懐かしむ余裕すらあった。
そう、ハッタリでもなんでもなく私は
ひなた荘を守るためなら死んでもいいと思う。
いや、思いつく死に方の中では、五本の指に入るぐらいにマシな方だとすら思う。
少なくとも今この瞬間はそう思えた。
ごう、と重い風切音を伴って鉄球が目の前に迫った。
私は、本能に駆られて逃げ出すかもしれない自分を封じるために、ぎゅっと目をつぶる。
それは紛れもない『弱さ』だと、妹あたりだったら怒り狂うだろう。
いつ如何なる場合でも、たとえ全人類の命と引き替えでも、自ら命を断つのは紛れもない弱さなのだと。
まだ心臓と脳味噌と根性が働いているなら、泥を啜ってでも生き残る方法を思いついてみやがれと
それはそれで否定しない。いや、むしろ正当で立派な考え方だろう。
だけど私は、それほど強くない
鉄球に轢かれたら、それはものすごく痛いどころか、体がバラバラになってしまうのかなあ、と考えただけで怖気が走る。
こうやって立ちはだかっていても、私ごとひなた荘を壊してしまうんじゃないかと思うと、かなり早まったような気もする。
結局は自己満足の自己犠牲じゃないかと、思うと――――
それでもふと、衝動として感じてしまったのだから仕方がない。
なんでもいい、彼のために私ができることがあるならば、と
……生死が絡むと本音が出る。
毎日大学に行って、バイトをして、素子ちゃんやしのぶちゃんに勉強を教えて、管理人代行をしてきたこの半年。
当たり前に、まるで彼のことを忘れたかのようなこの半年。彼のことなど考えずに過ごして来たこの半年。
けれど結局のところ、彼なのだ。
馬鹿げた考えだなあ、と改めて思う。
あんな、馬鹿でドジなエロガッパ(三浪)のために命まで懸けるだなんて
そんなの、映画の中でも見たことがない。もっとはるか昔の、大正あたりの弾き語りに出てきそうな話だ。
それでも、彼の帰ってくる場所を守りたいと、思ってしまったのだ。
私はもう、退くわけにはいかない。
…あとは、心残りというかなんというか
死ぬ前に、せめてもう一度景太郎に会いたかったなあと、陳腐な考えが浮かんだ。
目を硬く閉じているため、真っ暗な視界の中
耳元でふわり、と風が鳴り
一つの呟きとなって、小さいながらも不思議ほどにその場に響いた
――――――――――斬鉄閃
…ずどんずどん、と腹に響く重い音が両脇から二つ。
それは鉄球が壁に衝突した音ではなく
……きっと、鉄球が真正面からその勢いごと分断され地面に転がった音だ。
そんな芸当ができるのは、このひなた荘に一人しかいない。
恐る恐る目を開けると、そこには
黒と、白と、赤のコントラスト
私に背を向け、偽者の私と向かい合うようにして仁王立ちの
青山素子という少女
「……遅れました。すみません、なる先輩」
――――気がつくと私は、へなへなとその場にへたり込んでしまっていた。
「さて」
なる先輩にはこれ以上の危険なし、と判断して、私は一歩踏み出した。
その一歩で、なる先輩のカタチを模した何者かとの距離を計り直す。
直線で約10m。こちらはひなた荘の入口、相手は前庭の真ん中。
「驚きました…あれだけやって、自力で脱出してくるとは。とことんしぶとい人ですね」
「あの程度…と言いたい所だが、さすがに両手両足を縛られ枯れ井戸に放り込まれた状況から自力脱出は不可能だったろうな」
「…他の住人は、成瀬川なる以外全員確保したつもりでしたが」
「ふっ…さすがに亀は見逃していたようだな」
「…タマちゃんに助けてもらったの!?」
「はい。そのせいで少々気絶してしまい、来るのが遅れてしまいましたが」
タマには悪いが、思い出したくもない。
狭くて暗くて身動きできないところに迫ってくるあのぬるっとした感じ…くそ、もう金輪際油断なんてしないぞ。
刀を青眼に構えたまま、気分を切り替えて試考する。
この間合い、10mを一呼吸で詰めて斬りつけることができるか
…否、だな。
姉上ならそれも可能だろうが、私はまだその領域には達していない。
間合いを、征するには
「…別に、現時点で戦り合う必要などないのですけどね」
「ふざけるな、偽者め」
更に一歩踏み出す、これで彼我の距離は9m。
実のところ、もう問答で片付ける気はさらさらない。
ビリビリとした緊張感。戦気とでも言うべき戦いの予兆が大気に満ち満ちていた。
後一歩でも踏み出せばその瞬間に始まる。
「いつまでもなる先輩の顔を借りてないで、正体と目的を表してみろ…!」
「…こういうのは私の流儀ではないのですが、貴女はおそらくこう言って欲しいのでしょうね」
小首を傾げて(そいつの本来の表情であろう)なる先輩にはとても似合わない冷たい微笑み。
「知りたければ、力づくでどうぞ」
それが、戦いの合図だった。
「――――――ひゅっ」
と、一呼吸で思い切り、ほとんど飛び上げるようにして踏み込む。
それで約5mを詰めた。
二呼吸目で、今度は低く低く地面を舐めるようにして飛び込む。
真正面、障害物はなし。先制されることは覚悟の上。
如何なる攻撃方法かは知らないが、正面から捌いて反撃を叩き込むだけの自信はあった。
―――だが、意に反して相手は一呼吸目の踏み込みでは何もせず
二呼吸目の飛び込みと同じタイミング、同じ速度で地面を蹴って下がった。
私はさっきまで相手が居た位置でたたらを踏み
なる先輩の姿をしたそいつは更に後退しながら、服の袖から半動作で取り出した何かをこちらに向かってアンダースローで放り投げた。
丸くて黒い、握り拳ほどのそれは私と相手のちょうど中間ほどの距離で地面に落下し
バシュン!!
「―――煙幕!?」
地面でバウンドすると同時に、爆発的に白い煙を吐き出した。
次の一歩を踏み出すよりも早く、視界がふさがれる。
周囲は、あっという間に白一色になった。
相手の姿を見失ってしまう。
―――ふと思いつき、私はとっさに左袖で口元を覆った。
なにしろ、いきなり毒針(おそらく筋弛緩剤)を突き刺してきた相手だ。毒ガスを撒き散らすぐらい、平気でやりかねない。
呼吸を制限するだけでは不十分なのかもしれないが…くそ、相手がどこから来るかわからない以上、両手を使うわけにもいかない。
前か、後ろか、左か、右か
このままでは視界と片手を封じられたままだ。
隙を承知で一度離脱するか、それとも
…覚悟を決める。
私は呼吸を止め、刀を鞘に収めて両手を添え、自ら目を閉じた。
「―――――」
息を止めていられる時間はせいぜい3分。それ以上は耐えれたとしても戦闘行動が不可能になる。
3分以内に敵の位置を感知し、抜き打ちで斬り倒す。
大事なのは視界ではない。
流れるように今を感じよ、だ。
…この使い手、かなり隠業に長けているようだ。
なかなか気配を感じ取ることができない。
力を抜き、自らの意志を流れに委ねる。
こんな状況は以前にもあった。
あの時の私は、姉上に対して怯えきっていて
彼女の影がちらと見えた瞬間、後先考えず闇雲に攻撃をしていた。
そもそも、自分に負けていたのだ。
…では、今度は?
気配を掴んだ。
左前方、刀五本分の距離。
ほとんど反射的に、私の身体がその方向に跳ねた。
空中で右旋回しつつ、その動きで刀を抜き放ち、そのまま
「斬!鉄!」
閃、と螺旋の気刃でその目標を輪切りにする――
「きゃあ!!」
「――――!?」
寸前で刃を止めることができた。
そこにうずくまっていたのは見覚えのありすぎる少女。
前原しのぶ、だったから。
「し、しのぶ!?どうしてこんなところに!」
「あ、あの…私、さっき目が覚めたら自分の部屋にいて…それで、こっちに来てみたら急に周りがこうなって…あの、素子さん。大丈夫ですか?みんなで探したんですよ」
「ああ、とりあえずはな…とにかくここは危ない。早く逃げ――」
そこまで言いかけたところで、もうほとんど消えかけている周囲の煙に気付く。
つい話してしまっていたが、呼吸が困難になるなどの兆候はない。本当にただの煙幕のようだ。
遅効性だったりしたら性質が悪すぎるが…
辺りに、あの偽なる先輩の姿は見えない。
…逃げたか?
いや、おそらく外縁の木立に潜んでこちらを狙い撃ちにする算段だろう。
なにしろ私の横にはしのぶが居る。下手に避けたら彼女に当たりかねない状況――人質を取られたも同然だ。
「素子さん…?」
「…しのぶ、ゆっくりと立ち上がれ。私の背中に回るんだ」
「は、はい」
「いいか?私が合図したら玄関の方に逃げるんだ。そこにはなる先輩がいるはずだから、保護…いや、一緒に逃げてくれ」
「あの…素子さんは?」
「私か?私は…ここで、あの女とケリをつける」
問題は、どうやってしのぶが逃げ出す瞬間を稼ぐかということだが
煙幕には、煙幕。土埃を大量に巻き上げてやれば、射線はおろかこちらの行動も見失うだろう。
秘剣百花繚乱、適用範囲を自分を中心とした半円に絞り込む。できるか?
できるはずだ。
片手一本で支えていた刀に、地面をこするような軌道を描かせるべく、脇構えでタイミングを計る。
――――それにしても相手は一体、どうやって私に気配を捕らえられることなく離脱したのか
しのぶに背中を向けたまま、簡単な打ち合わせをする。
「三つ数えると同時にだ。いいな?」
「はい。素子さんも」
そして
「気を、つけて」
――――猛烈な悪寒が全身を貫いた
「!?」
身体が勝手に動き、振り向きざまに(相手がしのぶであることを微塵も考慮せず!)首を薙ぐべく斬りつけた。
だが、相手はそれすらも見切っていた。冗談ごとではない速度で沈んだ身体が、苦し紛れの一撃を紙一重で回避して内懐に潜り込み
黒い髪の束―――弾き飛ばされたカツラが宙に舞うのだけが視界に映る。
ず、どん!
「―――――――が、はぁ!」
ねじれるような衝撃が胸に突き刺さった。
私は為す術もなく後方に吹き飛ばされ、ごろごろと地面を二転三転し
ようやく仰向けで止まってから、肺が悲鳴を上げた。
今、のは――――
「……二度も三度も同じ手に引っかかるのは、無能の証明に他なりませんよ」
遠くなりそうな意識に、変わらず冷徹な声が響いた。
渾身の力を振り絞って首を持ち上げ、そちらを視界に納めると
顔にぴったりと張り付いていたマスクを剥がした女が――――少女が、いた。
黒髪を後ろで纏め、切れ長の怜悧な瞳を持った、私とたいして違わないんじゃないかと思える年頃の、少女。
…こいつが
「浦島流龍牙、です。さすがに、しばらくは身動きもとれないでしょう」
言われた通り、ただ首を持ち上げただけなのに内蔵がぎしりと軋んだ。
意識が再び途切れそうになるのを必死で引き留める。
刀は打たれたときに手放してしまった(おかげで地面を転がっても自分を傷つけずに済んだ)が、たとえ持っていたとしてもそれは無意味だろう。
もう、これ以上は、指一本動かせそうに、ない。
「素子ちゃん!?」
成瀬川なるの悲鳴が響いた。
スモークグレネードの効果が切れた、か。
青山素子を彼女の助言から遮断し不意打ちするという目論見は見事に成功したのだから、別にいいのだが。
件の青山素子はというと―――5mほども向こうに土まみれで地面に転がり、こちらを睨みつけている。
………
私が内ポケットから二枚のチャクラム(手の平サイズ)を取り出すと―――おや、すごい。
「……な、る、せん…がはっ……ぱい、に…てを、だす……な……っ!」
呼吸をするだけでもとんでもない苦痛(意識を失った方がはるかに楽)のはずなのに
すさまじい根性というかしぶとさというか
同僚に、それこそ根性の塊みたいな奴がいるけど…彼女を見たらさぞかし『見所がある』などと感心するだろう。
ま、別に私は(三十分前ならいざ知らず)成瀬川なるを殺害したいわけではない。
両手の人差し指で二枚のチャクラムを回転させ、狙いを定め、右左と投げつける。
ひゅん、と乾いた音を立ててチャクラムは緩い弧を描いきながら飛翔し、狙いあやまず建物の上部、ビニールシートを繋ぐロープを断ち切った。
ぶわりと、風を含みながらビニールシートが覆いの役目を放棄した。
そこには
バササッ!
「わ、わぷ!?」
私の記憶の中にある通りの『ひなた荘』がそこにあった。
「…おじさん、どうもありがとうございました」
「いえ、どうせあっしらじゃ『戻っちゃまずい場所』を線引く程度しかできやせん。礼なら女将と若旦那に言ってくだせえ」
「…わかりました」
「にしても…あっしも初めて見やした。浦島の秘術、生きている聖域、ですか。こいつは確かに、十年前のあの姿…」
「どうやら、私のことも多少は憶えていてくれたようですね」
「それじゃ小御嬢、あっしらはこれで」
「…おじさん、その『小御嬢』というのは何とかなりませんか?」
「御嬢の娘さんですから、ちょいと他の呼び方を思いつきやせん。ご勘弁くだせえ」
「…まあ、いいです。それでは、おばさんにもよろしくお願いします」
「へい…うお――――っし、おめーら、引き上げっぞぉ!!」
ガラガラガラと、厳おじさん率いる重機集団が引き上げていく。
ちょっと頼んだだけで、即座にあれだけの集団を手配できるおじさんと祖母って一体何者なんだろうと、ふと思った。
厳おじさんは大工の棟梁を努めていた時期もあったらしい(と聞いたこともある)けど、それがなんで和菓子屋に…?
梅おばさんに聞けば教えてくれるんだろうが、私はどうもあの人が苦手だ。
まあ、素直に感謝しておこう。
それからもちろん、おじさんが抜けた穴を埋めるべく当社比二倍で働いているだろう父にも
ちなみに、祖母に感謝する気は全く存在しない。
――――と、そんな物思いに耽っていると、成瀬川なるがシートの下から這いだし、呆然と呟いているのが耳に入った。
「ひ、ひなた荘が新しくなってる…?」
「いえ、十年前における改築直後の『旅館ひなた荘』に戻っただけです」
「――――え」
「業務も再開します。宿泊費が足りない場合は、住み込みの従業員として働いてもらうことになりますが」
「!?」
「そうそう、自己紹介が遅れましたね、私は――――」
二つ名の方を言いかけて口をつぐむ。
そういえば…こちらの方を名乗るなんて何年ぶりだろう。
二つ名とはただの虚仮威しではなく、厳然とした意味があったのだと明確に悟る。
それは自分を保つため
任務を果たすとき、本来の自分が汚れないように、泥をかぶる仮面。
罪を犯す名前。
だから、あちらでは本来の名前など使わない。ただ二つ名だけで呼び合っているのだ。
まったく浦島流というのはとんでもなく大雑把なくせに、そういうところばかり残酷極まりない。
その構成員全員に、非日常以外の生き方を、強要している、のだから。
…いいだろう、乗ってやる。
今までずっと非日常の中で生きてきた私に、いったい何ができるのか
そう、怖くないと言えば嘘になる。
これから私が何をするにしても、罪を、責任を被るのは、全て私自身に他ならないのだから。
人は、間違いを、ミスを、必ず犯す。その時私は耐えることができるのか。
体験したこともない、だからわからない。
…だが、それでも
自らの意志で覚悟を決めなければ、一歩たりとも進みはしない。
さあ、一歩を踏み出せ!
自らの名を、名乗れ――――
「新しい管理人の、浦島可奈子です。よろしく」
4/11(水)
今日、景太郎の妹さんがやってきた。
浦島可奈子、カナちゃん
ひなた荘を旅館にして、みんなと一緒に旅館をやりたいらしい
それまで、本当にいろいろあったけど…
とりあえず、しばらく塾のバイトは休まないといけないだろう。
カナちゃんは、今はみんなと仲が悪いけど…根は、とってもいい娘だと思う。
はやく仲良くなれると、いいな
4/12(木)
今日から、旅館を運営するための特訓が始まった。
私の役目は接客、だったんだけど…
特訓してるうちに、キツネ、しのぶちゃん、スゥちゃん、サラちゃんが次々と飛び出していってしまった。
素子ちゃんは、一日中ぼうっとしているし…
結局みんな帰ってきたけど、それまでカナちゃんと二人で雑事全てをこなすことに
今日は疲れた…
でも、景太郎が帰って来るまで、私がひなた荘を守っていかないと
約束したんだから
4/13(金)
景太郎のエアメールを開くのをすっかりと忘れていて、それが巡って大騒ぎが起こった。
きっと、カナちゃんは景太郎のことが好きなんだろう。
なんだかいいな、そういうの
私には男の兄弟がいないから羨ましく(いや、別にメイがどうこうではなく)感じる
エアメールは、カナちゃんに預けておいた。
今日は、彼女と少し仲良くなれたような気がする。
それにしても、手紙の内容はカケラも色気がなかったなあ…景太郎らしいといえばらしい
4/14(土)
今日も、旅館を運営するための特訓
覚えること、やるべきことは本当にたくさんある。
今度旅行とかで旅館に行ったら、帰るときに女将さんたちに思いっきり感謝をしよう。
大変だ。
…でも、一つ気になることがある。
素子ちゃん
彼女は、ずっと元気のないままだ。
鎧兜という警備長の格好に、文句を言うでもなく
…景太郎、早く帰ってきてよ…
4/15(日)
今日は、カナちゃんが大量の備品を取り寄せてきて、その設置におおわらわだった。
大量の食器、布団、洗剤、食材保管用の大型冷蔵庫、本格的なキッチン用具、案内板、等々…
へとへとになって寝ようとしたら、自室で大量の書類を処理している彼女を見かけた。
…それはそうだ。彼女が一人で、この旅館の手続き、必要物資の買い付け、さらに宣伝用のチラシまで作成しているのだから
その上、私たちの監督までするのだから―――その疲労たるや、私なんかとは比べ物にならないはずだ。
本当に、頑張ってる。
…そういうところ、景太郎に似てるなあ、と思う。
お茶を差し入れたら、少し驚いた顔で感謝してくれた。
一歩前進、前進
4/16(月)
今日は、カナちゃんの(遅めの)歓迎会を開いた。
言い出しっぺは私。やっぱり、ひなた荘の住人は仲良くないと
彼女の大事な写真を巡って、また一波乱あったけど…
とにかく、カナちゃんとみんなが、少しだけ和解してくれたような気がする。
よかったよかった。
…ところでしのぶちゃんが、妖怪猫がどうとか騒いでたけど何のことだろう。
4/17(火)
今日、遂に旅館オープンの日
けど、カナちゃんは最初に迎えたい人がいるそうなのでとりあえず開店休業状態
時間を利用して(むつみさんを実験台にしての)特訓の成果を試すことに
むつみさん、景太郎そっくりだったなあ…
カナちゃんは、本当に景太郎のことが好きらしい。
悪いことをしてしまったのかもしれない。
…景太郎は、いったい何時帰ってくるのだろう。
――――――――――――――――――――――――――――――以上、成瀬川なるの日記より抜粋
あれから――――ひなた荘が旅館になってから一週間が経ちました。
私たちは旅館を運営するために猛特訓中です。
なる先輩は接客、素子さんは警備、キツネさんは露天風呂の管理、カオラは整備の、それぞれの長になりました。
私も食堂長兼洗濯長という大役をもらい、サラちゃんに専属で補佐してもらっています。
可奈子さんのことは…はるかさんが紹介してくれました。
そのとき、少し揉めたみたいでしたけど…
「はるか叔母さん、それは」
「いいだろ、紹介するくらい。どうせ協力してかなきゃならないんだから、それくらいの情報の流出は仕方ないと思うがな…それに、お前だってゲンさんに助けてもらったんだから、この程度の助言でトントンのはずだ」
「……わかりました、どうぞ」
浦島先輩の妹さんだそうだそうです。
七年前からずっと先輩と離れて暮らしてきたって…
一度も聞いたことがなかったので驚いたけど、浦島先輩の妹さんなら仲良くしたいと思う。
私と年齢も近い(17だそうです)し、最初は怖い人だと思ったけど時々親切にしてくれて
きっといい人なんだろう。
「って、思うんですけど…」
「あかんあかん、やめとき。しのぶは知らんやろうけど、あらとんでもないタマやで」
「そ、そうなんですか?」
「アタシ等は温泉の中に爆弾ぶち込まれて吹っ飛ばされたし…」
「なるやんはウチらにボロボロにされて、鉄球に轢かれそうになったんやろ?」
「私はまだいいの。一番酷い目に遭わされたのは素子ちゃんよ」
「………」
「そ、そんな。なる先輩より!?」
「なんか、私が全ての不運を背負ってるみたいな言い方ですごく気になるんだけど」
「そんなもんだって」
「…でもやっぱり、仲良くしたいですよ」
「…うん、まあそんなに悪い娘じゃないと思うんだけどね…それに」
「『それに景太郎の妹だから』やろ?」
『キツネッ!』
『キツネさんっ!』
『………』
『ニヒヒッ、そんな怒ることないやろ…って、モトコは無反応かい、つまらんなー』
「…そんなことだろうと思いました」
私はラジオから流れてくる会話(クロが盗聴中)に対して密かに毒づいた。
手帳に新たな情報を書き加えていく。成瀬川なる前原しのぶポイントプラス、と
ラブラブ度評価表も、この一週間でだいぶ埋まってきた。
地道な盗聴と、微妙な会話と、管理人特権を生かした資料の閲覧(日記等の盗み見)のおかげだ。
その結果、私は不機嫌だ。
何でこいつらは揃いも揃って、偏差値が60を越えている…!?
兄は人付き合いが下手だ。
自分から何かを主張するタイプではない。そういうところが、見ててイライラする人もいるだろう。
それでも、男友達なら数は多くないなりに作れてたようだ(というか男のほうにモテていた、らしい)
しかし、女性が相手だとあっという間にあがってしまう。
なにも喋れなくなって、ただでさえぱっと見冴えないのに、女性との付き合いなんて夢のまた夢だ。
兄が緊張しないのは、私や、母や、梅おばさんや、叔母のような、家族だけ。
なぜなら兄は、同年代の女性に対して幻想を抱いているから
あの忌々しい存在。
女性に対するたび、もしかしたら、もしかしたらと、そう思ってしまう。そして同時に、あり得ないことだと理解もしている。そこにあの人の悲劇がある。
馬鹿で、頑固で、自分自身が傷つくことに途方もなく鈍感で
本当は、とても寂しがり屋で、弱い人なのに、とんでもない無理を強要され、あの人は自分が嫌いになってしまった。
…約束の女、許すまじ。
さて、話を戻そう。
だから、というかなんというか。私は兄とずっと離れていても、あの人に悪い虫がつくことは危惧してなかった。
というか常識的に考えて有り得ない。
あの、馬鹿で(偏差値性格両用)頑固で(良識的なくせに常識を気にしない)鈍感極まりない(少しは気付いて、私の気持ちに)兄を、『すきなひとがいる』なんて有り得ないと―――私の中の常識は今も現状を認めていない。
だからずっと無視している。
理性のみで考えよう。
何故、こいつらこんなに偏差値が高いのだろうか。
50が『友人』、60が『気になるor憧れ』、70が『恋人』、80が『夫婦』相当となる。
ちなみにこれは知り合いの占い師から貰った算出方法で、私は偏差値79となった。夫婦レベルでなかったのが非常に残念だが、まだあの人を好きになる余地があるということで自分を納得させておいた。
さてそれを踏まえて
サラ=マクドゥガル62
かなり意外だった。てっきり兄を嫌っているのだと思っていたが、算出によるとこうなる。
紺野キツネ65
まあ、この女はこんなものだろうか、というかこいつは意外と低かった。その性格から要注意としてマークしていたのだが…
青山素子67
ただしこれは暫定。最初のアレはなんだったのやら、意気消沈してろくに話もしようとしない。まあ、受験に仕事でそれどころではなさそうではあるが…でも67
カオラ=スゥ70
ついに恋人レベル。しかし彼女の場合、明らかに一方的というか子供のような…しかし恋人レベル。この算出方法、本当にアテになるのだろうか?
前原しのぶ73
ちょっとまて、あの娘はせいぜい憧れレベル――先輩後輩の関係だと思ってたのに何故に恋人レベル?
乙姫むつみ、成瀬川なる80
…他を一気に突き放して同着『夫婦』レベル―――おかしい、なんだコレは。日本は一夫一妻制のはず…そういう問題じゃなくて。結婚もしてないのに結婚レベルまでいってるのはどういうこと?
いや、それよりなにより
私よりも高い。
……この算出方法を私に教えた占い師は『夫婦』についてこう語っていた。
『それはね、相手の良いところも悪いところも全て受け入れ、その上でなお相手のために自分に何が出来るのか考えることよ』
あの二人が、兄に対してそれを実践していると?
というより――――――私が、負けていると?
ふざけるな!
想いなら誰にも負けないという自負があった。
誇りがあった。
それが例え胡散臭い偏差値でも…ぶち壊された気分になる。
…理性だけで考えよう。
もっと重要な問題があるはずだ。そちらの方に目を向けたほうがまだしも建設的のはず…負けず劣らず苦しい問題だが
すなわち
兄には『すきなひとがいる』のだろうか、ということ
…馬鹿げた妄想だ、と私の中の常識が狂ったように喚いている。五月蝿い、黙れ。
確かに一理あるのだ。
あの人は…『約束の女』を信じている、幻想を持っている、待っている、思春期の少女のように、心のどこかで救いを信じている、そうしてずっと生きてきた。
そんな彼が…人を好きになる?『約束の女』を諦める?
私の中の常識が喚き散らすのも無理はない。そんなことは、たしかに有り得ない。
それは、今までの生き方全てを否定することになるのだから
……でも、もしかしたら、それは単なる私の願望なのかもしれない。
兄の好みとは一体どういうものなのだろう。
ふと思った。
そういえば、一度も意識したことはない。それさえ知っていればかなり参考になっただろうに、私は戦い続けるうちにいつしか今の私になっていた。
淑やかなタイプだろうか
活発なタイプだろうか
大人っぽいタイプだろうか
飄々としたタイプだろうか
母性を感じさせるタイプだろうか
私は…若い頃の母に瓜二つなどと言われる体たらくだ。
少なくとも…兄のタイプは母ではないだろう。皮肉でもなんでもなく素直にそう思う。
約束の女
それ以外に有り得ない。
――――だが、本当にそうなのか?
途切れ途切れな記憶の相手に操を立てるなんて(馬鹿で頑固で鈍感な)兄にしか出来ないと、私はずっと思っていた。
だから私は…『約束の女』に勝つために『こう』なった。
思い出に勝つなんて至難の技だから、私は限りなく強くならなければいけなかった。
だけど
もし
もし
兄が、この中の誰かを好きになっていたとしたら?
目に見えない誰かではなく、そこにいる誰かを好きになっていたとしたら?
…私は楽観主義者ではない。
ずっと離れて暮らしていた妹を、兄が第一に思ってくれているなどと…妄想を抱くほど子供ではない。
確実に、あの人は私でない誰かを見つめている。
それは、今までは顔も知らない誰かだった。
だから――――まだ、我慢できた。
いや、その苛立ちと憤りと嫉妬を、向ける方向がなかった。結局それは私自身の中に溜め込まれるだけだった。
だけど、もし
それが、実体を持ち、名前を持ち、私の手の届く範囲にいるとしたら?
兄が、この中の誰かを好きになっているとしたら?
………私は
この、わたしのなかでずっとくすぶってきたサツイを、むけることにタメライをおぼえるだろうか
私は、ぼうと突っ立っていた。
その、無意味に仰々しい格好と、何もできぬ自分を合わせて
案山子のようだと、空々しく自嘲した。
「…素子ちゃん、大丈夫?」
「…なる先輩」
声をかけられ、ガチャンと振り向く。
そこには(私と違って)可愛い旅館の制服に身を包んだ女性がいる。
哀しそうな顔をしている。
…ああ、なんだか、私は彼女に、いつもそんな表情をさせてしまっているような気がする。
「心配無用です。これが、私の仕事ですから」
「…でも、素子ちゃんばっかり…見世物みたいで」
それは、力及ばず敗れた私が悪い。
負けたら、なにをされても文句は言えない。
あの瞬間、殺されていてもおかしくはなかったのだ。
『これ以上邪魔をするようなら、殺してあげましょうか』と、あの目は語っていた。
ああ、そうだ、私は怖い。
平気であんな目ができるあの少女が、まるで…姉上のようで
…くそ、そうだ。やはりそれだ。
姉上、姉上、姉上
冷たい目
一度は克服したはずだった、克服したつもりになっていた。
だが、そんなものはただの幻想に過ぎないと―――嫌というほど思い知らされても、いる。
青山素子という存在に、長い長い時間をかけて刷り込まれた恐怖、一度勝利した程度で、そう簡単に覆せるわけがない。
冷たい目
浦島可奈子は姉上ではないと、頭ではわかっている。
意味がない。
一度思い出してしまったら、私はもう成す術もなく恐怖に支配され、弱々しい存在となってしまう。
死にたくなるほど惨めな自分
「あのさ、わたしからカナちゃんに話してみようか」
「…なる先輩は、彼女と仲が良いのですか?」
「あ、うん…仕事しながら、少しぐらいは話するから…」
「そうですか」
「だから、その…素子ちゃんも、少しは話してみたら?景太郎の話なら、少しは興味があるみたいだから…」
「なる先輩」
この人は、どうしてこんなに
皆が仲良くなるように努力をされるのだろう。
八方美人と見られかねないけど、実はそうではなく
自分の身すら省みないで、ひなた荘の和を保とうとする。
以前からそういう傾向はあったにしても、浦島がいなくなってからは更に強くなったように思える。
浦島
…ああ、やはりそういうことなのだろう。
彼の居場所を、帰ってくる場所を守るために
本人は隠しているつもりかもしれないが、端から見ると必至で努力しているのがばればれで
でも
でも、何故彼女は、肝心要の浦島が、今、この場に、触れて話ができる距離に存在しないというのに…信じることができるのだろう
私には、とても…できない、できていない―――
「ねえ、素子ちゃん」
じ、となる先輩が
なにか、悟ったような見透かすような優しい眼差し(最近、この人はこんな表情をすることが多い)でこちらを見つめていた。
「景太郎がいないのが、そんなに不安?」
不安に決まってる。
…考えを見抜かれたことに対しての驚きは、あまり感じなかった。
私がなる先輩のことを考察するのと同様に、なる先輩も私のことを考察していたのだろう。
となると、意外と私のポーカーフェイスも穴だらけなのかもしれない。
なる先輩の気持ちが、周囲にばればれなように
私が密かに考えそして答えが出ないことも、本当のところ皆が知っているのだろうか
「大丈夫、景太郎はもうすぐ帰ってくるから」
「……なぜ、そんなこと」
が、わかるというのか
を、言うのか
根拠のない励ましはたくさんだと、私は思った。
そんなので立ち直れるぐらいなら、毎日毎日自分を励ましなだめすかし脅して生きている私は、もうとっくに立ち直っているはずだ。
そろそろ、自分を動かす言葉も尽きた。
『もうすぐ帰ってくる』だなんて言葉、もう何百回何千回と自分に言い聞かせている。
……疲れた
「気休めは…結構です」
「…気休めなんかじゃ、ないよ」
「何を、根拠に」
そこでふと、彼女はこちらを気遣うのではない、本当に満面の笑みを浮かべた。
「だって、さっき『もうすぐ帰る』って連絡があったんだもの」
………………
……………は?
「……どういう、意味ですか?」
「スゥちゃんの携帯に、メールでね。文字化けが酷かったから詳しい日時はわからないけど、もうすぐ帰ってくるのは確実みたい。だから…」
「…嘘ですね?」
「旅館のお客第一号としてみんなが準備…って、え?」
「なる先輩、お心遣いはありがたいのですが嘘は、やめてください」
「え、いや、嘘じゃなくて」
「まあ、なる先輩は浦島可奈子に一際酷使されているようなので、こうやって鬱憤晴らしをしたい気持ちもわからないでもありませんが」
「あ、あのね素子ちゃん……って、今さらっとキツイこと言わなかった?」
「さあ、なんと言っても私の仕事は警備です。接客を一手に引き受けるなる先輩には、私たちには言えないような苦労がたくさんあるのではと推察しただけですが」
「……素子ちゃん、私になんか恨みでもあるの?」
「いえ、日々感謝していますが」
…そうか、帰ってくるのか。
なんだか急に、世界に色がついたような気がする。
まったく、なんて現金なのだろう、私は
なる先輩に気付かれないよう、こっそり苦笑までしてしまう。
今の今まで顔をあげることも億劫だったのに、急に明日を見据える気力が沸いてきた。
明日はきっと晴れだ、夕焼けだし
ただ、明日に続く道へは問題が山積みだ。
事はそう簡単には収まらないことにも気付いたが
問題を片っ端から片付けていく気力も今は存在する、満ち溢れている。
さて―――――
とりあえずは警備の職務を果たそう。
成瀬川なると乙姫むつみ
どちらに話を聞くべきか、束の間逡巡した。
そして、まず彼女の方に向かった。
彼女はひなた荘に住んでいない。立場としては、未だ叔母の管轄下だ。だからこそ、早急に手を打っておくべきだと判断した。
兄はもう、明日来ても不思議ではないのだ。
だから私は、乙姫むつみを訪ねた。
「乙姫さん」
「はい、なんですか?カナさん」
貴女は一体何者ですか?
そう聞きたいのは山々だったが、それでまともな答えが返ってくるとは期待していない。
だいたい、恋愛偏差値なんてものを計測していたのは機密事項なのだ。
…いっそのこと公表してしまうのも一つの手か。それをネタにして邪魔な(偏差値の高い)奴を解雇してしまうという手もある。
いや、それでも乙姫むつみは適応範囲外だ。この話し合いで(それ以外になる可能性は高いが)相手を見極めないといけない。
だから
「今日は少々、兄について聞きたいことがあるのですが…と、ブレンドをお願いします」
「あ、わかりました。店長、二日ぶりのお客さんですよ〜」
「そういうことを店員が大声で言うんじゃない…と、可奈子か」
店の奥から叔母が面倒くさそうに出てきて、ブレンドを淹れてまた奥に引っ込んでいった。私に「わかっていると思うが、今度こいつに手を出したら明らかな協定違反だからな」と釘を刺して
私と乙姫むつみは店の机に向かい合って座る。
「それで、浦島君の何を聞きたいんですか?」
「えーと…」
やばい、落ち着けと、焦っている自分に言い聞かせる。
こういうときはロクなことにならないと、経験上わかっている。
だけど、兄は明日にでも来るかもしれない―――
結局、私の第一声は下策中の下策とも言えるものだった。
「あの…兄はモテるのでしょうか?」
「はい?」
「……いえ、失言でした。忘れてください」
「そうですねえ…一般的に言って、全然さっぱり全く壊滅的にモテないと思いますけど」
「………」
自分の発言を後悔するのも束の間、私も全く同感の答えが返ってきた。
ただ、他人に言われると妙に腹が立つ。
「でも偏差値は…もとい、皆さんずいぶんと兄のことを―――好いているようですが」
その一言を搾り出すのには、途方もない悪寒と戦わなければならなかった。
私の存在意義が揺るぎそうな予感。
レゾンデーテルを自己否定しているような気になる。
「好きな―――だけでしょうか」
「…は?」
「好きなだけなら、もう私は終わっているはずなんです。なるさんも、そして素子さんさえも」
「なにを、言ってるのですか…?」
いや、待て。
成瀬川なるは『同類』としてまだ分かるににしても…なぜ、ここで青山素子の名が?
私の知らない情報、破滅の足音
言い知れぬ不安
「あの人が…どうかしたのですか?」
「素子さんは、並外れた勇気を持つ人です。そして、ひどく深い心の傷…それ以外は何も持っていない、本来は幸せになれない人…もしかしたら、可奈子さんに似ているかもしれませんね」
「私と、あの人が・・・似てる?」
それはどういう冗談だろう。
青山素子は…住人名簿によると、神鳴流継承者候補。私は浦島流正統後継者。立場的には、ほぼ正反対となる。
それに私は…あんな、抜け殻のような女とは違う。実戦経験で鍛えた強さ、確固とした信念、行く道を示す戦術。
違うのだ。
そう、自分に言い聞かせる。何故だか乙姫むつみの言葉は、私の深い部分にまで響くように思えて仕方がなかったから
理性だけで考える。
先程の乙姫むつみの発言は、兄への好意を充分に示唆していた…というか直接言った。
ついつい話に巻き込まれてしまっていたが、そもそも私の目的は
乙姫むつみが敵と成り得るか否か、の確認
…なのだから
そしてもう、乙姫むつみは私の敵だと、決まったも同然だった。
敵
敵、だ
敵……の、はず
敵のはずなのに
好きなだけではないと、乙姫むつみは言った。
彼女自身も、成瀬川なるも、青山素子も、そして青山素子に似ている私も
自問:私は兄のことを好きなのか?
自答:Yes
自問:私は兄のことを好きなだけなのか?
自答:この世の誰よりも、愛しています
自問:本当にそれだけなのか?
自答:………
敵ならば倒す、それだけだ。
敵の条件=私の障害に成り得る≒兄のことが好き
…だが、兄のことを好き『なだけではない』場合は?
なにかが狂っていると、私は感じた。
兄のことを好きな人間が(私以外に)存在する、という時点でもう自我が削れそうなほど負荷なのに、それを無理矢理帳消しにしようとするから様々な無理が生じている。
その上『なだけではない』?
敵なのか味方なのかもわからない。
何故―――この世界には、こんなにあやふやなものが多い?
近日中に、兄は帰ってくる。こんな所で時間を食っているわけには行かない。
焦燥
私は、この話し合いに今すぐケリをつけることにした。
「乙姫さん」
「はい」
「私は、兄を愛しています。妹として、人間として、女として」
そこまで言うべきかどうか迷ったが、どうせ相手は――気付いているのだろう。
「みたいですね」
「おそらく…いえ、ほぼ確実に、この世の誰よりも」
「そうですか?」
「疑問があるみたいですね?」
「…そうですね、そうかもしれません。話の腰を折ってしまってすみません、続きをどうぞ」
息を吸う
吐く
殺気
「私は、兄を私だけのものにします。貴女はそれを邪魔しますか?」
邪魔をするというのなら容赦はしない、殺すことだって厭わない、そういう意志を込めた問い。脅迫か恫喝に近い。
だが、乙姫むつみは
少し困ったように眉根を寄せただけだった
「それは少し困りますねえ…」
「なにが…ですか?」
「しのぶちゃんや、なるさんが…泣いてしまいそうですし」
「…また!」
また、他人の名前が出た。
そういう自分はどうなのか、どうして自分のことを言わないのか。
それじゃあまるで、自分自身はどうでもいいような言い方だ、いい加減にしろ。
さっき自分で、兄のことが好きだといったではないか。
ならばそれなりに…私に理解できる反応を表してもいいではないか。
「カナさん、何を焦ってるんですか?」
「………」
「なんだか、慌てているというか人間らしいというか…いつものカナさんらしくないですね」
「…そうかもしれません、ね」
心を落ち着ける。
…確かに私は焦っている、らしくない。
あの人がもうすぐ来ると思っただけで、私を構成する強さがボロボロと崩れだしているような気がする。
やはり、兄が来るまでに全て片付けておくしかない。
そのためには
乙姫むつみが敵か味方かはわからない。
だが―――少し、初心に返って自己を確認してみよう。
「…約束の女」
「はい?」
「兄の人生を滅茶苦茶にし、その上兄の心まで縛る、私にとって不倶戴天の敵がいます」
「はあ…」
「おそらく実在しません…だから、だからこそ、その幻想に勝つためには尋常でない強さが必要でしょう。ですから私は、強くなりたいと思いました、強くならねばなりませんでした」
「…それは、辛くありませんか?」
「辛いと…思ったときが、負けです。あの人への想いがどんな形であれ、重荷になったときが…浦島可奈子という存在の、負けなんです」
…そうだ。
心の中の、一つの理想。それさえあれば、私は揺るぎなく立っていることができる。
敗北は、即ち私だけの問題ではない。私の中の彼を汚すことにもなる。それは、それだけは許されない。
だから私は立っている。だから私は、約束の女を倒すために強くなれる。
わたしは、あなたのいもうとであることをほこりにおもいます
幼い日の誓いは、私の中で生き続けている。
「…強い人ですね、カナさんは。少し、羨ましいです」
ふと、乙姫むつみが寂しげに呟いた。
心持ちうつむき、どこか、無くしてしまったものを懐かしむような声音で
「今度は、私の話もいいですか?」
「?どうぞ」
「私にも…小さな頃から、守らないといけない約束がありました」
「…約束」
「はい…でも、その道は長くて辛くて険しくて、無理解と無関心に私は耐えかねて…自分自身を、無くしてしまいました」
「無くす?」
「だから私は、今はどんな誹謗中傷にも精神的な苦痛にも笑って耐えられます…その代わり、幸福と思われる状況を、感じる実感もなくしてしまいました。そういうのは全部、私の横を素通りしていくような気がするんです、今も………ああ、つまり私はカナさんほど強くなかったんですね。やっと分かりました」
「………」
乙姫むつみは顔を上げた。
笑顔
ふと……彼女が、この瞬間に自殺してしまいそうな予感
…もちろんそんなことは起きない。
だが、ようやく分かった。乙姫むつみが他人の名前ばかり出す理由。
彼女には自分の願望というものが存在しない…いや、存在するのかもしれないが、それは決して自らの希望と成り得ない。
だから、他人の心配ばかりする、自分の心配などしない。彼女にとって自分自身とは、切り捨てられてしかるべき存在。
兄のような自己嫌悪ですらない。感情を挟まず理性で割り切り、なんの躊躇いもなく赤の他人と自己を同列に扱う。
笑顔で『私は強くなかった』と納得する彼女を見て…膝が震えた。
百戦錬磨の、人の死すら幾度も見慣れたこの私が、怯えている?
信じられなかった。
相手はたかが生身の、戦闘訓練も積んでない一般人で、殺意を撒き散らしているわけでもないのに
それでも――――震えが、止まらない。呪縛されたかのように動けない。
本当に、本物の、理性を保った狂人というのは、これほどまでに―――
「私も、カナさんのように、憎めばよかったんでしょうか、恨めばよかったんでしょうか…そうすれば、私はまだ自分自身を見失っていなかったのかもしれませんね…」
人を、惹きつけるものなのか
「浦島君と、約束の女の子…なるさんを」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――すとん、と
私の中で、何かが抜けた
凄まじい勢いで、私の中で情動と思考と空白が行き来する。
まず、何より
――――――――約束の女が実在したことに対する驚き
次に
――――――――それが、成瀬川なるだったことに対する驚き
そして最後に
――――――――絶望
理性で思考し、納得した。
事態は、私が危惧する以上に単純で、悪辣だった。
兄が、新しく誰かを好きになったのではない。『約束の女』を諦めたのではない。
ただ、再会しただけだ。
物語の結末のように
そしてごく当たり前に、兄は成瀬川なるに『引き続き』恋をしたのだ。
何も不自然な所はない…ただ一つ、再会などという異常事態を除けば
現実は常に想像よりも酷薄だ
そしてすとんと理性が抜ける
あはははははははははははははははははははははは――――
おかしくておかしくて仕方がない。
世界というのは、私が思っているより少々ロマンチストだったらしい
そして、思っているより随分と(少なくとも私に対して)悪意があるようだ
憎たらしくて仕方がない。
浦島流正統後継者の私が、世界の敵になる?
それはそれで面白そうだ。
少なくとも今は、世界を潰すという行為に対して情熱を燃やせそうではある。
くくくくく
その含み笑いを残して感情が抜ける
成瀬川なる
偏差値80
―――つまり、兄の想いを受け入れたということ
間違い、ない、二人、は、恋人、同士、だ
なんで?
なんで、あの人がお兄ちゃんの『――――』なの?
…何故なら彼女が『約束の女』だから
…何故なら兄のずっと抱えてきた幻想にはカタチがないから、理想は誰にでもなりうる。もちろん、成瀬川なるにも
…彼女は何の努力もせずとも、ただ『約束の女』であるというだけで、兄の想いを受けることができるから
そこに実在し、形を持っている
そのことを認識した瞬間、私の中から理性と感情が抜けた
鬼に、機械に
鬼に理性は要らない、機械に感情は要らない
鋼の心が、あればいい
……成瀬川なる
約束の女
…成瀬川なる
約束の女
…成瀬川、なる
約束の、女
…成瀬川、なる!
約束の…女!!
やくそくのおんな
――――――――成瀬川なる!!!!!
サツイが、はじけた
今日は一日、最初のお客さん(景太郎のことだ)を受け入れる準備に明け暮れて
いつもより大分疲れて、床に入った。
すぐに眠れそうだったけど、興奮のためかなかなか寝付けなくて
ようやくウトウトしてきたのは、夜がどれだけ更けた頃なのか
キリ、となにかが微かに引きつる音が―――したような
(……夢?)
続いてふわりと浮遊感、地に足がつかない、体が宙に浮いている
(ああ…やっぱり夢なんだ)
ぼんやりとして(文字通り)ゆめうつつの視界
そして、目の前には
(あ、カナちゃんだ)
部屋の空気よりはるかに暗い気配と共に、何かを掻き毟るように右腕だけを掲げた彼女がうずくまっている。
あまり良くない夢だと、思った。
「――――流絞殺術、傀儡舞」
彼女の右手の指には、それぞれ頑丈そうなリングがはめられていて(夜闇で見えにくいけど)リングには一本ずつ糸が繋がっている。
リングから伸びた五本の糸は、それぞれ部屋の中を縦横無尽に張り巡らされ―――ああ、私の体に幾重にも幾重にも巻きついている。だから私は吊り下げられ、浮いているのか
はりつけのような姿勢で
「…非常に残念なことが二つあります」
ぼそぼそと呟いた言葉は、何故か明瞭に私の耳に届いた。
彼女が立ち上がる。
その瞳は、なんだか……どんな感情を写しているのか、うまく表現できない。無感情が一番近い、かな。
宿った光は、強く弱く、明滅するような
「私は――――なるさん、貴女のことが嫌いではありませんでした。この状況で、数少ない『味方』だと……思ったこともありました。結果から見ると騙されていたわけですが…不思議なことに、怒りはないんです。それどころか、感謝してもいいかもしれません。貴女は、動機はどうあれ、私と仲良くしてくれましたから」
ぼそぼそと『残念なこと』を語る少女
…よく、意味がわからない。
私は、感謝されることなど何もしていない、まだできていない。ようやく景太郎も含めた全員が揃って、彼女を受け入れることができるのだと、思っていたのに
まるで彼女の言い方は、私とお別れするときのようだ
―――騙す?
「そしてもう一つは……ああ、本当に残念です。こんなことなら、習うか受けるかしておくべきでした」
キリ、と彼女が右手を緩やかに握り締めた。同時に部屋中からキリキリと微かなひきつり音。
ぐい、と私の体が前のめりに―――首を差し出すような姿勢に
カナちゃんが左手を前に回すと、そこには月明かりを吸い取るような黒い輝きがあった。
…ナイフ?
「私に拷問の心得があれば、貴女に最大限の苦痛を長時間与えることが、兄の無念の万分の一も晴らすことができたのですが…返す返すも残念です」
ぎ、と体中が糸によって強く強く締め付けられた。
指一本動かせない。
…変な夢だなあ、と思う。
なんだか、カナちゃんは私を殺したがっているようだ。
そんな夢を見るということは―――私は、なにか彼女に対して後ろ暗いことでもあったのだろうか
ぼんやりとした頭の中でそんなことを考えてみたけど、特に思い当たるふしはなかった。
聞いてみる
「カナちゃん、何で……?」
「――――知れたこと。貴女の存在そのものが、兄にとっての過ち、私にとっての悪なのです、約束の女……つくづく」
つう、と真紅の血が、彼女のかみ締めた口の端から流れている。
答えた一瞬だけ、彼女の瞳はぎらぎらとした憎悪に燃えていた。
約束の…?
前に、むつみさんから聞いたことがある。私が、景太郎と彼女にとっての『約束の女の子』であると。父にも確認したことがある。
それでも―――結局、実感は沸かない。
当たり前だ。
景太郎は約束を覚えていた、覚えていて、家族の反対も押し切って東大を受け続けていた。むつみさんも、同じだろう。
ただ一人、私だけが忘れている。
誠実ではない。
私が東大に入ろうと思ったのは憧れの人がいたからで、約束のことなど綺麗さっぱり忘れていた。
むつみさんにも景太郎にも話したことはないけど、それは私の中で重いしこりとなり、ずっと私を苦しめていた。
―――その、罪の意識が見せているのだろうか、この夢は
「……ああ」
ぬるりと、流れるようにナイフが私の首筋に当てられて
カナちゃんが、何かに思い当たったかのように声を漏らした。
私はといえば
これで死んで、目が覚めるんだろうなと―――やはりぼんやりとした頭で、無感動にそう思っていた。
「あの夢の、あの返り血は、貴女のものだったのですね…」
しゅ、と刃が引かれ
私の首から命の血潮が噴き出す
――――――――――――――――――――ことは、なかった
ずどっ、と轟音
部屋の片隅にあったヌイグルミが、下から吹き飛ばされて宙に舞うと同時に
豪風のように飛び込んでくる、赤と白と黒のコントラスト
同時に、幾重にも幾重にも幾重にも重なる剣閃
それは、部屋の中に張り巡らされたワイヤーを見事に寸断した。
宙吊りにしていた成瀬川なるが、支えを失い布団の上に落ちた。ばふんと、音
―――私はといえば、不覚にも完全に不意を突かれて何の反応もできなかった。
「…秘剣、五月雨斬り」
そこには、私の知らない青山素子がいた。
すっくと立っているのも前と同じ
構えこそ違えど、刀を抜いているのも前と同じ
巫女装束も前と同じ…ただし、何故か兜をかぶっている。違和感は、そのせいか?
いや、そんなものではない。
表情が違うのだ。
こいつは――――――――何故、笑っている?
「さて…管理人代理、なる先輩の部屋で一体何をしていたのですか」
「…そういう貴女こそ、何をしに来たのですか」
冷水をかけられたように、高揚した気分が(そう、思えば私は高揚していた)冷めていく。
相手の戦気(とでも言うべきもの)に反応し、感情と理性が取り戻され、心が戦闘用にシフトしていく。
いけない、これはいけない
この状態で成瀬川なるを殺したしたとしても、それは復讐を果たしたことにはならない。ただの殺害、それ以上でもそれ以下でもなくなってしまう。
それではダメだ。
だいたい、青山素子は何故、正に望み=復讐を果たす、この瞬間に乱入してきたのか
「知れたこと、警備長の職務を果たしに来たまでです」
「な――――」
「誰であろうと、管理人代理であろうと、ひなた荘での狼藉は…この、青山素子警備長が許しませんよ」
ふふ、と笑いながら兜をかぶりなおす彼女
ふざけ―――るな!
こいつは敵だ……なにより、その表情が気に食わない。
その、全て承知しているような、全てわかっているような、笑顔
くそ、くそ、何故、お前が、お前が
―――――――何故、お兄ちゃんと同じ顔をする…!
この女を速やかに倒して、約束の女への復讐を再開する。
私はそう決めて無言のままに、だん!と横の壁へ跳躍した。
「―――警告、無視か」
青山素子の言葉を無視して着壁、足場を蹴り、相手の刀の届く範囲外を抜けながら天井に足をつけ、再び跳躍
だんだん!と、三回目の跳躍で、私は相手の死角に潜りこんでいた。
相手は身じろぎもしない。完全にこちらを見失ったのか、それとも……知るか
気配を消し、床を這うように駆けつつ、すれ違いざまにナイフの刃で相手の脇腹を狙う―――
避けられた。
その事実を受け入れ、相手に無防備な背中をさらした私は間髪要れず、上体を捻って左手のナイフを投擲した。ガキンと、金属と金属が打ち合う音。
牽制が効いたのか、追撃はなかった。
一瞬で体勢を整える。相手を正面に見据え、袖口に仕込んでおいたナイフと――黒く塗った毒飛礫(つぶて)を隠し持つ。
即座に真正面から、影打ちという技で投擲。
月光を反射して闇世の中でも鈍く光るナイフは囮、相手にとってナイフの影になるように投げられた飛礫が本命。かすりでもすれば、毒が回ってあっという間に行動不能になる。
それすら、見切られた。囮と本命、共に返した刃で弾かれる、
そして、無手となった私に対する反撃。一気に飛び込こまれ、刀を一閃。私は飛び退いて一瞬を稼ぎ、咄嗟に引き抜いた大型ナイフで受け流した。きぃん、と白刃と黒刃が噛み合う。続けて、畳み掛けるように二撃三撃と打ち込んでくる刃を、私はなんとか右手のナイフだけで凌いだ。どうしても力負けし、一歩二歩と後退する。
背中が、とんと障子に当たった。大型ナイフに半ばまでヒビが入っている…くそ、相手の獲物は並みの刀じゃない。
「管理人代理、投降するか?」
攻撃の手を休めて、余裕綽々で降伏勧告をする青山素子―――確かに、純粋な技量なら相手のほうに分がある。距離を詰めての打ち合いではまず勝てないだろう。
だが
「……冗談を!」
思い切り背後に跳んだ。障子を破り、廊下に転がりでる。
同時に私は左腕を、左指一本一本を複雑に引き絞った。
―――浦島流絞殺術、空斬糸
先程、部屋中を駆け回った際に仕掛けておいたワイヤーが、部屋の中で突っ立っている目標に巻きつき五体をバラバラに切り裂く、技
ワイヤーももちろん黒一色、しかも襲い掛かってくるのは前後左右上から5本、普通だったら防げるはずはないが―――
かわされた、手応えがない。
見ると、青山素子は部屋の奥のほうで今まさに立ち上がるところだった。私は即座に右手のナイフの刃を向け、手元を捻る。刀身が強力なバネに弾かれて、バチンと矢のような速度で射出された。
だが、完全に不意をついた(普通、ナイフの刃が飛び出るとは思わない)はずの一撃も、ギャリィンと刀身同士を絡めるようにして弾かれた。
先程の空斬糸も、ワイヤーの隙間を縫うようにして身を投げ出したようだ。そんなことは、全てのワイヤーを見切っていないとできるわけがないが―――どういうことだ。
青山素子がESP能力者などという話、聞いたことがない。
「不意打ちなどしなくても十分に強いじゃないか、管理人代理…いや、浦島可奈子。私の攻撃をしのげるのなら、正面から賭けてみたらどうだ?」
おかしい。以前に打ち倒したときは、相手はこんなに強くなかった。なにが変わった、なにが違う。
嫌でも目に付くのは、未だ浮かべている笑顔。
――――――――
「その顔を、止めろ!!」
浦島流、空塵。
リストバンドから抜いた千本(スポークほどの太さの針)を両手に構え、ばばばばばば、と六本続けて投げつけた。狙いは腕、足、そして頭部。
「―――その技は、知っている」
避けられることも覚悟していた。
全て刃で弾き散らされるだろうとも、予想していた。
だが―――まさか、空中で全て掴み取られるとは
刀を手放した青山素子が、両手の中の針をじゃらりと無造作に、指と指の間に挟みこむように構えた。
「風塵乱舞」と囁きが響く直前
私は、横手に思い切り飛び退いていた。
まるで散弾銃のように、六条の千本が私のいた場所を貫いていく―――
「……くっ」
いや、一本避け損ね、左足をやられた。
ずるりと、太股に突き刺さったそれを引き抜く。紅い血が跡を引いた。
平気だ、まだやれる。これ以上の重傷を負ったことはいくらでもある。
廊下で、体勢を立て直す。
左足は、力を込めようとすると血が吹き出る。仕方なく片膝立ちの体勢で、両手にワイヤー操作用のリングを嵌め直した。右手から伸びるワイヤーを、辺りにばら撒き配置する。
来い、そして受けてみろ。
「さあ、なる先輩を殺そうとしたときの意気はどうした?」
笑っている
笑いながら青山素子は無造作に、廊下に一歩踏み出した。
頭に血が上る、自制が効かない。
何故――――と原因を探る理性をよそに
「はああああああああっ!!」
もはや不意打ちも何もなく、私は全力で技を行使した。
両腕両手両指を素早く複雑に交差し振り回す。前から右手のワイヤーが五本、後ろから左手のワイヤーが五本、蛇のように一斉に飛び掛った。
ぶし、と普段以上の負荷に耐えかねて、左右の指から血が噴き出す。頬に血がかかる。
狭い廊下、今度こそ逃げ場はない。
青山素子はそれでも身を翻し、刃を繰り出し、4本を避け、3本を断ち切った。
だが、残る三本が右腕右足左腕に、今度こそしっかりと絡みつく。
今度は右足からも血が吹き出るのも構わず、私は踊るように身を翻し技を放つ。
「浦島流絞殺術、頚城…外し!!」
ぶおん、と青山素子の体に滅茶苦茶な回転を与えながら横に引っ張り―――叩きつけたところは窓ガラスだった。
ガシャアアン!!!とガラスを派手に破壊しながら青山素子の体が宙に放り出され、闇夜に消える。
同時に、ぶつんと手応えがなくなった。
―――このワイヤーは、人間一人の重量やガラス程度で切れるようにはできていない。
つまり…青山素子に切断されたのだ。
あの状況で?
普通だったら動くどころか、関節が軒並み外れているはずの技を受けながら?
…どうやら相手は、私には及びもつかないレベルの感知能力を備えているらしい。神鳴流に伝わるなんらかの技、かもしれない。
となると、受身も成功していると見るのが妥当だろう。
相手はまだ戦闘続行可能だ。
「………」
ぼたぼたと血が滴ったワイヤー、及び操作用リングを一つ一つ外しながら
ちらり、と背後を見る。
暗い部屋の中、成瀬川なるがべちゃりと布団の上で倒れていた。夢現のようだったから、状況を理解しているかどうか。
それを見ても、特に何の感慨も浮かばなかった。心と体が、戦闘状態にシフトしている今だから
それでは―――いけない。
戦闘状態を解くには、危険を完全に排除するしかない。私は青山素子を完全に行動不能にすべく、気配を消して窓から闇夜に身を躍らせた。
「――――――――え」
血の、におい
それでようやく、我に返った。
それでようやく、これが夢でないとわかった。
素子ちゃんとカナちゃんの、殺し合いが
「!」
がばり、と起き上がる。もう部屋の中にも、破られている障子から覗ける範囲にも、二人の姿は見えない。
窓ガラスが一つ、ものの見事に窓枠ごと吹き飛んでいるのが目に付いた。戦いは、外に移行したのか
血の、におい
止めないと
そう思って立ち上がったものの、どこに行けば、どうすれば、二人を止めることができるのかわからなくて
へたりこみそうになった自分を叱咤する。今は、挫けていいときじゃない。
素子ちゃんもカナちゃんも頼れない。
今は私が、景太郎の代わりにひなた荘を守らないといけない。
―――でも、どうやって?
突き当たってしまった思考を破るように
バタバタと足音と声が聞こえた。
廊下を走ってくるのは―――スゥちゃん?
「なるやーん、えらいこっちゃ!えらいこっちゃ!」
「ど、どうしたのスゥちゃん、こんな夜中に」
「さっきまでゲームやっとったんやけどな、寝ようかと思ったらメールきとったんや」
「そ、そうなんだ…あ、そうだスゥちゃん。今、素子ちゃんとカナちゃんを探してるんだけど…」
「で、チェックしたんやけど…ほら、見てみい!」
「聞いてくんないのね……って、ええっ!?」
もうすぐ日本につきます、お昼頃にはそちらにつけるでしょう
「ケータロ、ちゃんと携帯使えるようになったんやな〜」
「ってそうじゃないでしょスゥちゃん!このメールっていつ来たの!?」
「着信は9時になっとるで」
「え、それでお昼頃につく…?成田からならせいぜい4時間ぐらいで…って時差!」
「時差ボケやな。昼夜逆転しとるんやから、こっちにつくんは深夜になるんやないか?」
「…9時だったら、まだタクシーやってるわね」
「ほな、みんなで準備せなあかんやんか…なるやん、そーいやモトコ知らへんか?部屋におらんかったけど」
その一言で、全身の血が引いた。
素子ちゃんとカナちゃんは今もひなた荘のどこかで
殺し合っている
「…どうしてこんなことになったんだろ」
「ケータロ帰ってくると、なんかまずいんか?」
状況が次々に壊れていく、崩壊していく。
この一週間、まがりなりにも訪れていた平穏は、一体なんだったのか
これじゃあ―――景太郎が日本に来ても、ひなた荘が『帰るべき場所』だなんて、とても言えない。
いや、それどころか
今この瞬間にも、景太郎に…妹か、好きな人の人の死を目撃させるかもしれないなんて
加えて、もしも素子ちゃんカナちゃんが共に無事で済んだとしても、しこりは消えない。きっと、これまで通りには行かない。
それは…私が、彼が、どんなに言葉を尽くそうが同じことだろう。
まるで
景太郎が帰ってくるのをきっかけに、全てが崩れだしたみたい…
―――――――――――――ォォォォォォォォン!!!!!!
その時
私の思考を引き裂くように、露天風呂の方向から形容しがたい爆音が響いた
戦場は、いつしか露天風呂へ移っていた。
「以前の戦いでは、怒りのあまり忘れていたことがある」
私は岩陰に隠れ、呼吸を整えている。
鏡で声の方向を確認、相手は露天風呂の洗い場で、悠々と立っている。怪我の一つも、ない。
「神鳴流…そしてお前の浦島流、共に意志に依りて気を操り敵を滅す。もっとも、技の完成度ではこちらのほうが上のようだが」
位置関係を頭に叩き込んでから、チャクラムを二枚取り出した。応急処置を施した人差し指で回転させ、明後日の方向に放つ。
ひゅん、と風切音を残して、二枚のチャクラムは闇夜に消えた。
「気を操るには、気を感じ取らなければいけない。そしてある段階に達すれば、自分の気だけではなく、天地万物の気の流れをも感じ取れるようになる」
今度は懐から爆弾を取り出す。破片式の手榴弾やスタングレネードではなく、凄まじい高熱を発する小型ナパーム。同僚の研究室から拝借しておいたシロモノの一つだ。
時間差を考慮してタイマーと威力を設定し、背後に放り投げる。チャポンと、湯の中に沈んだ音。
「気の流れとは、つまるところ意志の流れ。極めれば、戦いの全ての流れを感じ取り予想し、支配することができる」
戯言はそこまでだ。
ナイフの、最後の一本を左手に滑り込ませ、心の中でカウントする。
3.2.1
「即ちそれが――――」
―――――――――――――ドォォォォォォォォォォォン!!!!!!
背後で、形容しがたい爆音と共に、水蒸気爆発による衝撃波が押し寄せてきた。岩を盾にしてやり過ごす。洗い場の青山素子までは、おそらく届いていないだろう。
そして、蒸気と湯気によって視界が真っ白に埋め尽くされた。
岩陰から飛び出る、カウントを続行しながら、事前に確認しておいたルートで(音を立てないよう縁石沿いに)私は駆ける。蒸気で肌が焼ける、構うか。
1.2.3.4.5
ひゅんと、左前方と後方から風切音
前方でゆらりと、飛来したチャクラムを避ける影が見えた。
6.7
気配は、私にできる限り断っている。それでも尚接近を感知できるというのなら、それは単純にこちらの修行が足りないからだ。
だが、今すぐに技量は上達しない。ならば―――頭を使うまで
撤退は、できない。兄は二、三日中には帰ってくる。それまでに、決着をつけないと―――
即席の煙幕を抜ける。
そこにはやはり、笑みを浮かべたままの青山素子が
真正面に、刀を構えて
「神鳴流極意、流水だ」
こちらの行動が全てわかっていたかのようなタイミングで、走りこんでくる私に対して万全の斬撃
ギィン、と受けたナイフが真っ二つになり
だが、その一瞬で私は斬撃を、屈みこむようになんとか回避。足は止めず、そのまま突進
8.9
返す刃で私を切り裂こうとした(のだろう)青山素子へ、屈んだ私の頭を掠めるようにチャクラムが強襲
キンと軽く弾かれた、が、一瞬だけ動きが止まる
10
そこへ、勢いのまま飛びつき
ズダン!と押し倒し、私が青山素子を組み伏せる体勢となった。
・
・
・
「はは―――本当に、やるじゃないか。焦っていても、能力で劣るときの戦い方をよく心得ている…と、浦島流とはそういう流派だったな」
「…何故、貴女が浦島流のことを知っているのですか!」
左手で相手の刀を握る手を制し、右手を首にかけて
圧倒的に優位な体勢で、それでもなお私は苛立ちを隠せず、怒鳴り声を上げた。
未だに笑みを浮かべている、青山素子に
「二回ほど手合わせをしている。特に半年ほど前に、酷い目にあってな…それから、調べてみた。実家の方のツテで」
「…浦島流に二度も敗れながら、生き残った?何を馬鹿な――」
「いや、一週間前――お前にやられた分を入れれば、三回か。私もまだまだ修行が足りないな」
「――――――――」
何故こいつは
この期に及んで
あの人と同じ、笑みを
兄はむしろ、あまり笑顔を見せない人だったと記憶している。
辛そうな表情の方を、私は多く見てきたような気がする。
それは単純に、楽しいことよりも、辛いことの方が多かったのだろう。
あの人の心は、私の側にはなかった。
約束を見つめていた。
私に見せる笑顔は―――辛くて、泣きたくて、でもそれを我慢した、立派な笑顔だったように思う。
今となってはそう思う。
「兄を――――侮辱をするな!!」
「?」
「その笑い方を…今すぐ止めなさい!」
「―――私が、浦島の…?そうか、そうだったのか……くく」
「何がおかしい!!」
「くっくっく。これが、笑わずにいられるか…いつのまにか、えらく影響を受けていたものだな、私も」
「…貴女は一体、お兄ちゃんを何だと―――!」
そこで気付く。
バタバタと、脱衣所の方向から複数の足音。
他の従業員が、水蒸気爆発の音を聞きつけて、来たか。
邪魔が入る前に、青山素子を始末すべきか、一瞬迷う。
そして青山素子が私の逡巡を他所に、ポツリと―――
「元恋人というのも、伊達ではないということか」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーのうがことばをきょひした
バキャ!ズザザザザザザザザザザザザザザッ!!!
唐突に轟音――――横を見ると今まさに、垣根を破壊して一台のバンが猛スピードで突っ込んでくるところだった
こちらに向かって
「!?」
「!」
轢き殺されるのを避けるため、私は両手を離して咄嗟に前に転がった。直後に後方で再び轟音―――青山素子が潰されたか?
振り向く
その、何の変哲もない白いバンは、見事なまでに洗い場に突き刺さっていた。
くそ、いったい何処の誰がこんなことを――――
「うわー、やっちゃった。免許取り立てだから、露天風呂まで突っ込んじゃったよ」
――――――――――――――――
バンを隔てた向こう側で、悲鳴と驚愕の声がいくつもあがった。
ひなた荘の他の従業員が起きてきた(これだけ騒ぎが大きくなれば当然か)のだろう。
だが、その声もすぐに止む
「あたた…あれ?扉が開かないな…よいしょっと」
――――――――――もう誰も、言葉を発していなかった。
ただ、固唾を飲んで見守っていた。
そして
「みんな、久しぶり。浦島景太郎、ただいま戻りました」
待ちかねた、声が―――――――
バンの向こう側、車一台隔てた距離で、した
「……あ、あれ?どうしたの、みんな」
おにいちゃん
おにいちゃん
おにいちゃん
わたしにきづいて
お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん
お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん
お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん
「おにい……」
「―――勝負はまだ終わってないぞ、浦島可奈子」
声と共に
私の目の前に、黒と、白と、赤のコントラストが
バンの上に乗っていた青山素子が、鉄をも断ち斬る閃きを携えて
降ってきた
「斬鉄閃!」
袈裟懸けのその一撃を、紙一重でやり過ごすことができたのは
一度、見て太刀筋を覚えている技だったことと
―――ほとんど、偶然に過ぎない
…あの人が側にいるとわかった瞬間
戦闘状態も、復讐心も、鋼の心も、全て何処かに隠れてしまっていた。
ただ、彼のことを想うだけの無防備な私に
彼女は、微塵の容赦もしなかった。
振りきられ空を切った黒刃に、強力な気が一切宿っていないことを、私は見つけてしまった。
手加減などでは、断じてない―――そういう女ではない
すぐ側にいる青山素子が、顔に
にい、と笑みを刻んで
「――――弐之太刀だ」
斬!
脇腹から逆袈裟に発生した衝撃に斬り上げられ
私の体は、宙を舞った
浮遊、感
世界が―――回る
夜明け前の、群青色に染まった空と――――
残心の姿勢で、ただ純粋に勝ち誇った嬉しそうな笑みを浮かべる青山素子と――――
そして
ぽかんと口を開けている、成長した兄の姿を視界の隅に認めたような気がして――――
―――あぁ、かみさま
自分でもよくわからない、普段なら絶対に信じない、なにかロクでもないものに祈りながら
私は、意識を失った
後編へ続く