本編系、留学編と可奈子編の間のお話part1


ゴオオオオオオオオオオオオ……と旅客機が大気を切って離陸していく。

その轟音を受けながら、私は滑走路の一角に立ち尽くしていた。アスファルトがじりじりと焼け、熱せられた空気が肺に進入し、かき混ぜられた大気が短くなった髪を揺らしていく。

見上げると、空に浮かぶ巨大な鉄の塊が目に入る。だんだんと小さくなっていくその飛行機の中、数百人の乗客の一人。大切な人に、私は心の中でだけ別れを告げる。

じゃあ、な

きびすを返して、歩き出す。揺らぎそうになる足元を、無理矢理に正す。盛り上がってきそうな涙を、無理矢理に打ち消す。振り返りそうになる自分を、無理矢理に否定する。

そういった感情を生み出す『女としての青山素子』はもういない。あいつが戻ってくるまで、否定されたままだ。だから、悲しくない、辛くない、恋しくない。平気だ。

だから、だから……くそ

つう、と瞳から水がこぼれた。その少ししょっぱい水をかみ締めながら、私は少しだけ、少しだけ立ち止まって空を見上げた。空は青く続いている。雨は降っていないのに、なぜか私の顔は濡れている。

だから、なんだというのだろう。意味などない、認めることはできない。あの男に宣言したのだ。いまさら引き返すことなどできるはずもない。私の、私の誇りにかけて、振り返ることなく進まないといけない。



―――――――――――――――――そうして、再び歩き出した彼女は、もう立ち止まることはなかった。





ラブひなEX

Ifもしも………
ver素子


11月



ひなた荘のみんな、お元気ですか?これがみんなに宛てて出す最初の手紙になります。
こちらはようやく引っ越しも一段落つきました。ホームステイ先の人達とも仲良くなれそうです。
ただ、ちょっと会話が不自由な面もありますが
俺が通うことになる大学はとても広いです。東大と比べても、敷地面積が数倍はありそうで、一度迷子になってしまったほどです(その時は通りすがりの人に助けてもらいました)
ただ、意外に留学している日本人の姿は多かったです。
最初は戸惑うことも多かったですが、こちらでの生活も板についてきました。

そちらはどうでしょう……といっても、ひなた荘だから日々平穏に過ぎていくんでしょうね。
素子ちゃん、しのぶちゃん。受験勉強頑張ってね。こっちでも応援してるから…でもあんまり根を詰めすぎないように。
成瀬川、むつみさん。大学生活を楽しんでください。特に成瀬川は、管理人代行まで務めてもらって感謝してる。ありがとう。
キツネさん、お酒はほどほどに。家賃はちゃんと払ってくださいね。
スゥちゃん、サラちゃん、あんまり騒ぎを起こさないでね。でも寂しかったら手紙で相談でもしてね。こっちには瀬田さんもいるから。

それから、ニャモちゃん
まだ日本にいますか?それとも、もう受験のために故郷に帰ってしまいましたか?
もしひなた荘にいないのなら、以下の言葉を彼女に伝えてくれるとうれしいです。

たとえ遠い異国の地にいても、みんなが傍にいてくれたことを忘れないで
それだけで、意外と頑張れるものだよ…って、それは俺だけかも
とにかく…一緒に、頑張ろう

それでは、このあたりで失礼します。

敬具
浦島景太郎



青山素子は、旅立ちの日から受験生になった。
勉強、勉強、勉強。勉強に次ぐ勉強。彼女は東大に合格するという目標を達成するために、人が変わったかのように毎日机にかじりついていた。
苦手な英語も数学も嫌がることなく黙々とこなし、遠慮を知らないカオラ=スゥですら近づけないオーラを放っている。その様子は全盛期の成瀬川もかくや、というほどだ。
部屋から出ることがあるとしたらそれは、食事か、排泄か、新しい参考書を買いに行くかのどれかで、いつ息抜きをしているのだろうかと他の住人は皆不思議に思っている(ここ数日、彼女は他の住人とろくに話もしていない)


「素子ちゃん、ちょっと邪魔するわよ……って、きゃっ!?」

管理人代行の成瀬川なるは、最近幽鬼のような雰囲気を発するようになっていた素子を心配していた。自分の経験から照らし合わせて、少し『危ない』と感じていたのだ。
だからその日、差し入れを持って彼女の部屋に侵入した成瀬川は、その予想以上の惨状に思わず驚きの声を上げてしまった。
部屋は、彼女の部屋とは思えないほどに散らかっていた。
綺麗に整理整頓―――というか散らかせるほど物がなかった部屋は、いまや大量の参考書、辞書、教科書、ノート、原稿用紙、布団、果ては脱ぎ散らかした服が散乱する極めて混沌とした場になっていた。
その真ん中には一つのテーブルと、そしてそれに付随する青山素子がいた。
いや、その時の成瀬川には確かに、彼女がちゃぶ台の付随品にしか見えなかったのである。
ぼさぼさの髪、よれよれのジャージ、べっとりと黒くなった右手と袖。
振り返った瞳には、熱っぽく不気味な光が宿っていて、成瀬川は思わず一歩引いてしまった。

「…なる先輩?」

声まで奇妙にしゃがれている。
明らかに異様、だった。
普通だったらその状態を見て騒ぎたてるか、あるいは怯えて退散してしまうような視線を向けられて

「素子ちゃん……ちょっと、根詰めすぎじゃない?」

…それでも成瀬川なるは、若干引き攣りながらも笑顔を作ることができた。

青山素子と、浦島景太郎の間に何があったのか、彼女は知らない。見届ける、あるいは盗み見をするような余裕はあの時なかった。
ただ彼女に分かったのは、青山素子の髪がばっさりと切られていたという結果のみで
もちろんそれは大きな変化だ。
けれど成瀬川なるは、青山素子の中でも何かが大きく変わったのだと強く感じていた。
それはかつて、自分が通った道なのだと彼女は知っている。
何かを達成するために、何か別のものを代償にする不毛で救われない生き方。
今もそんな生き方しかできていない、不器用な彼女は

成瀬川はそんな素子に対して、柔らかな口調で諭すことができた。

「そんなふうに無理しても、あんまり集中できないでしょ?ほら、お茶持ってきたから休憩しようよ」
「……いえ」
「素子ちゃん?」
「申し出はありがたいですが…まだ、この参考書が終わっていませんので」
「だめだめ。さっきから全然進んでないじゃない。睡眠時間も足りてないみたいだし…このままじゃホントに身体壊すよ」
「なる先輩、私は……」

言葉が途切れる。
シャープペンを握り締めたままの素子はそこでようやく我に帰ったかのように、次に何を言うべきだったのか思い出そうとして
問答の間、一方的に机の上に盆を載せ湯飲みを手に取り饅頭を彼女に勧めようとしていた成瀬川は、その本人も意図せず途切れた言葉に咄嗟に口を挟むことができず
一瞬だけ静寂が訪れ

「…そうですね、休憩しましょう」

折れたのは素子だった。
安心した成瀬川が頬を弛緩させ「これ東大饅頭っていうの。ほら、書いてあるでしょ」と饅頭の一つを手に取って頬張り、素子が「確かに『ならでは』ですが…安直というかなんというか」と渇いた喉を潤すために、湯飲みの中の薄めの茶をズズ…と美味そうにすすってから饅頭に『あぐ』と噛り付いたところで、口の中の餡と皮を飲み込んだ成瀬川が「そういえば景太郎から手紙着てたよ」と思い出したように言って

「ぶばっ!?」

現役東大生が東大で買ってきた、ある意味非常に貴重な東大饅頭のなれの果てである餡と皮と唾の混合物が、買ってきた本人である成瀬川なるに襲い掛かる。
直撃

「§〇ヾ〃♂∈⇒ΥΦΔξ!!!!!!!!!!」

不器用な生き方しかできず、しかも最近損な役回りの多い、頭からどろどろしたものを被ってしまった彼女の、言葉にならない絶叫がひなた荘にこだました。

ちなみに、青山素子が景太郎からの国際メールを、管理人代行である成瀬川なるの手を経て読むことができたのはそれから三日後だった。



12月


雪が降るかな、と誰かが言った
きっと降ります、と誰かが言った
サンタは来るかな、と誰かが言った
来るかもしれないな、と誰かが言った
来てくれたらといいねと、誰かが言った
そうだね、と誰もが思った



今日は12月25日、クリスマス。
今から730000日前に、どこぞの国の馬小屋でそれはそれは偉大な聖者様が生まれたとされる日。
転じて、聖なる日、聖なる夜が訪れる日。
この星は、何億年も前からグルグルグルグルと昼と夜を変わらず繰り返しているだけだというのに、過去に一人の人間が生まれただけでその日が聖なる日となる。
ちっぽけなものだ
けれど同様にちっぽけな人の身にしてみれば、その日はやはり大事な日になりうるのだ。
そしてもう一つ、イエス=キリストとは関係なしにどこからか入ってきたクリスマスの風習。
サンタクロースが来る夜

―――成瀬川なるは、そんな物思いにふけりながらクリスマスパーティーの準備をしている自分に気付いて苦笑した。
クリスマスにサンタクロースが来るなんて、今時小学生だって信じていない。
自分だって、寝ているときにプレゼントを置いていってくれる誰か=父であることは小学3年生のときにもう理解していた。

けれど確かに、サンタクロースを待っている時はあったのだ。

つらつらと、成瀬川はホールを歩き回る。
前原しのぶと青山素子はこんな日にも(去年の成瀬川と同じように)勉強三昧
乙姫むつみは(こんな日には意外と客が多い)喫茶店の手伝い
紺野みつねは都合よくどこかへ出かけている
カオラ=スゥとサラ=マクドゥガルは準備というより破壊活動に発展しそうなので、二人の手伝いを成瀬川は言葉巧みに断っていた。実に合理的である。

そんな理由で彼女はただ一人でパーティーの準備を進めていた。
大した作業ではない、というより彼女一人では大した作業はできない。
物置から、飾りを取り付けたままの(人の身長ほどある)中型のツリーを取り出し配置する。
一本足の小型テーブルをいくつか持ってくる。
普段使わないグラスや大皿を取り出して並べておく。
ソファー及びテーブルをホールの真ん中まで引きずり、テーブルクロスを掛け花瓶を置いておく。
一番手間がかかる料理については、前原しのぶを軸にして一気に作ってしまうことになっていた。
酒類に関しては紺野みつねが、一切を調達してくることを一方的に宣言していた。

「どうして宴会にしないと気が済まないのかなあ、キツネは…」

友人の性癖を愚痴って、未成年者にして受験生である後輩を護るために、いざとなれば我が身を犠牲にして酔いつぶれる覚悟を決める。
心配点としては、もう一人の友人による結託の恐怖だろうか。
天然ボケにして大酒飲みの彼女まで相手にするのは不可能、あるいは急性慢性アル中への第一歩である。
そういう場合にはこちらも二人にて防衛線を形成するべきなのだが、残念なことに去年まで成瀬川の相棒を勤めていた彼は外国に行ったままで

「サンタは……来るかな……?」

今時小学生でも信じていない、サンタクロース
それでも彼女は、そんな存在が来るのを願っていた。
来てくれれば、嬉しい。
プレゼントなんか持ってこなくてもいいから、共にいれればそれだけで
自分が望むものをもたらしてくれるのがサンタなら、彼女にとってのサンタクロースは間違いなく彼だった

サンタは来るだろうか



さて、ここに一人の少女がいる。
彼女はサンタクロースの存在を本気で信じている、日本でも稀有な女子高生だ。
その純真さは本来ガラスの如く透き通っていて脆いものだったが、先日のちょっとした変化によって粘りが入り、鋼のごとき純真さとなっていた。
そもそもキリスト教圏でない異国出身であることなど、この際些細な問題である。
カオラ=スゥという少女は、自分もサンタクロースになりたいと心底思っていた。
そして以下は、小学生五年生にしてサンタの存在をまったく信じていないやはり異国の少女と、その日交わされた激動の会話である。

「サンタってどこにおるんやろ」
「……はあ?(呆れ)」
「街でケーキとか売っとるのは偽物のサンタやろ?ホンマモンはどこにおるんやろ」
「……ってかお前、17歳にもなってサンタが本当にいると思ってんのか?」
「?」
「サンタクロースなんて実在しねーんだよ」
「ええええっ!?せやけど、なるやんは『どっかにいる』って言っておったで」
「そりゃ、てめーがガキだからだ。そもそも空をソリで走って、煙突から家に侵入して不信物を置いてくなんて奴が存在するわけないだろ」
「どっかにおると思うんやけどなあ…」
「なんでだよ!」
「だってウチ、両方できるもん」
「…………(疲れたように)やるなよ」
「(ぽんと手を叩き)そや!サンタがいないんやったらウチがサンタになる!!」
「犯罪だあああああああ!!」
「子供に夢を配るんやろ?ええことやん。それに犯罪なんかせんで」
「んじゃあ、どうやって枕元にプレゼント置いてくんだよ」
「それはもちろん、空間交換機試作3号カグラナ君で…」
「おい」
「物質転送機は宇宙空間で使わん限り核融合やからな。こっちなら座標間違っても大したことあらへん。体内にプレゼントが埋め込まれるだけや」
「それも十分にえぐいが……じゃあ、どうやってプレゼントを用意するんだよ」
「どんなもんでも、ウチが作ったるわ」
「(溜息)本気でやりそうだから時々お前恐いよ」
「ウチはいつでも本気やでー」
「…じゃあさ」
「なんや。サンタにお願いでもあるんか?」
「あたしはサンタなんて生まれてこの方お目にかかったことなんかないし、実在するなんて今も絶対に信じてない」
「だから、ウチがサンタになったるって」
「…そうだな。もしもお前があたしの欲しいものをくれるなら、サンタを信じても…いい」
「サラ。何気にさっきからウチの言うこと無視しとらん?」
「………」
「ま、ええわ。要するに欲しいものがあるんやろ?言うてみ、言うてみ」
「……に」
「ん?聞こえへんで」
「……たし……ぱに…」
「って、サラ?もしかして…泣いてるん?」
「…あたしはぱぱにあいたい」
「え?」
「会いたい。パパに会いたい。一緒にいたいんだ。置いていかれたくないんだ。なあ、こんな泣き言言うのは間違ってるのか?あたしはいつでも元気じゃなきゃいけないのか?クリスマスぐらい、許してくれたっていいだろ」
「………」
「こんなところで何をやってるのか、時々わからなくなることがある。ここはとても楽しいところだけど、セタがいないんだ。会わせて、会わせてくれよ。あたしが子供だからいけないっていうんなら、今すぐあたしを大人にしてくれよ。サンタならそれくらいできるだろ?できるだ……ろ?」
「……わかったで、サラ。お願い、叶えたるわ」
「…ホントか?」
「サンタは嘘つかへん」
「…なんだよ、それ(苦笑)」
「それじゃ、メカセタを造ったるでっ」
「(硬直)……なんだって?」
「メカセタや。ジークンドープログラムを組み込んで、車の運転から発掘までなんでもできる。更に全自動ボケ機能を搭載しとくから、ツッコミ放題や。これでもう寂しくあらへんやろ?」
「…うがああああああああああああああ!!!!(マジギレ)」



クリスマスパーティーが始まる直前。
紺野みつねは一人、ひなた荘玄関の前で『前祝い』と称してちびりちびりと一升瓶を傾けていた。
ちなみに酒の肴は目の前の立派に飾り付けられたツリー&てんてこ舞いで料理を持って台所とロビーを往復するしのぶの姿。
他人の不幸は蜜の味
というわけでもないのだが、見つかると強制的に料理の手伝いなんかをさせられてしまうので、こうして外で飲んでいるのである。
……と、シャリンシャリンという鈍い音を伴って、膨らんだビニール袋を両手に下げた女が階段を上ってきた。玄関にあぐらをかいてコップと一升瓶を持っているキツネに気付き、挨拶をする。

「あら、キツネさん。ツリーを肴に日本酒なんて、風流ですね」
「カメのねーちゃんにかかるとなんでも風流やなあ…はるかさんはもう開放してくれたんか?」
「ええ、一段落ついたので。店仕舞いしてから店長も来るそうです」
「で、その袋の中身は酒か?」
「はい、はるかさんからの餞別です。『とりあえずこれでも飲んどけ』って」
「なははは。去年、秘蔵の大吟醸、残らず飲まれたのが相当こたえたんやな」

笑いながらキツネは右手のコップの中身を飲み干した。
やはり他人の不幸は蜜の味、最高の肴かもしれない。それが喜劇なら言うことはない。
彼女は一升瓶の残りを全てコップに移し、ビンを地面に置いて空いた手でむつみを手招きした。

「ま、ねーちゃんも前祝いで一杯、どや?これもなかなかのもんやで」
「あらあら、それは御相伴に預からないといけませんね」

ガチャンとビニール袋に包まれた一升瓶の束を地面に置いて、乙姫むつみも玄関に座り込んだ。
キツネの隣の段差に腰掛け、ガラスのコップを両手で持って一気に傾ける。
イルミネーションの光を反射する透明な液体が、見る見るうちに彼女の口に流し込まれていった。

「んっんっんっんっんッ………ぷはあ」
「いやあ、相変わらず惚れ惚れする飲みッぷりやなあ」
「結構なお手前で…ささ、御返杯です」
「ああ、ええんやええんや。前祝いはこれ一本だけって決めとったからな。新しいの開ける必要あらへん」
「そうですか?それじゃあ、パーティーが始まるまでとっておきましょう」

ロビーからは、準備のために忙しく駆け回る足音が聞こえてくる。
対照的に、外は静かなものだった。鈴虫もいなくなって久しい。近くを車が通ることも滅多になく、穏やかな静寂があたりを支配している。
紺野みつねと乙姫むつみは酒が切れた後も動く気にはなれず、なんとなく風景を眺めていた。
延々と下がっていく石段、あまり豊かとは言えない温泉街の夜景、黒々と佇む山、電飾や羽毛などで華やかに飾り付けられたクリスマスツリー、そして曇った空。
隣人に――というより空に向かって、乙姫むつみはポツリと呟いた。

「雪……降りますかね」
「…今日の降水確率、5%やで」
「95%をひっくり返さないと無理なんですか…奇跡が必要ですね」
「そういや去年も、一昨年も降っとったな…そうそう。一昨年は雪が降る中、けーたろ探してみんなで街を歩きまわっとったわ」
「あら、なんでですか?」
「模試の結果がボロベロでな、合格率0%やで0%。親にも大見得切っとったし……考えてみれば、けーたろの逃げ出し癖もあれが一番最初やったんやな」
「……楽しかったんですね」
「ねーちゃん、本気で言うとるか?パララケルスのときは真っ先にぶちキレてたやないか」
「まあ、確かにあの時は思わず怒りましたけど…それでも中々、楽しかったですよ」
「…なるに聞いたら、また違った意見がくるんやろうな」

会話が途切れる。
黙って空を見上げる二人の視界に、ふと白いものが入った。
天から舞い降りる、一かけの雪片
奇跡の欠片
その雪片が地面に落ち溶けたのを皮切りに、次から次へと白いものが舞い降りてきた。
二人は半ば呆気にとられて、髪に雪が積もっていくのにも構わずに、黒と白のコントラストを阿呆のように見上げていた。

「……降りましたね」
「……降りおったな」
「……奇跡、起きちゃいました」
「……ずいぶん安直な奇跡もあったもんやな」
「……もしかしたら、もう一個くらい奇跡が起きるかもしれませんね」
「……清きこの夜、やからな……」

紺野みつねと乙姫むつみは、その時まったく同じ幻視を体験していた。
――しんしんと降り積もっていく雪の中、足元に注意しながらおっかなびっくりで石段を登ってきた、メガネを掛けている気弱そうな青年がひょっこり顔を出す――

困ったような笑顔で後頭部をかく仕草さえ、はっきりと

二人は空を見上げて、パーティーの準備を終えたしのぶに見つかるまでそこに立ち尽くしていた。
幻視が現実になることを、祈って



パーティーはクラッカーと共に始まり(大方の予想通り)自然消滅的に終わった。
早目に自室に退避した二人の受験生は無事だったが、他の住人は小学生に至るまで撃沈してロビーに屍をさらすこととなった。
結局のところ、サンタはこなかった。

上記の理由により、青山素子はクリスマスの翌日もいつも通り起床することができた。多少酒は飲んでいるが、翌日まで残るほど多くもないし彼女自身そこまで弱くもない。
素子は寝巻きから着替えると、日課の早朝稽古をやめてロビーの様子を見に行くことにした。
そしてほぼ予想通り―――というより予想以上の光景に溜息をつく。

「なる先輩キツネさんむつみさん……見事に酔い潰れてるな…スゥもか」

とりあえず素子は、ソファで寝ているサラに、寝相のせいでずり落ちている毛布を掛けなおした。パーティー開始早々日本酒を生まれて初めて飲み干すという暴挙に出て(何かやりきれないことがあったらしい)、速攻で酔い潰れた少女はいまだ寝息を立てている。

それから彼女は、他の面子をどうするべきか迷った。
カオラ=スゥと成瀬川なるはカーペットの上に転がり、身体を丸めて寝息を立てている。いくら屋内とはいえ季節は冬だ。二人の体調――まあ片方は元気が有り余っている――が心配なところではある。風邪をひいててもおかしくはない。
紺野みつねと乙姫むつみは差し向かいでソファーに座り、座った体勢のまま眠りについていた。机の上には空の一升瓶が乱立しており、むつみは空のコップを、キツネは封を切っていない日本酒を握り締めたままの轟沈だった。ついさっきまで飲んでいたのかもしれない、そう思わせるほどの酒気が漂っている。
一緒に飲んでいたはずの浦島はるかの姿は見えない。適当なところで切り上げたのだろう。酒を飲むにしても本来そうあるべきだと、素子は思う。


もっとも、本来はキツネもむつみも成瀬川も、それなりに自制して酒を楽しむことはできる。
こんな風に酔い潰れるまで飲んだのは、願いが、祈りが叶わなかった反動からだった。
成瀬川は夜中の一時まで、キツネとむつみに至っては明け方まで粘っていたのだが
彼が来るのを


ぴんぽーん

その時
誰から『救助』すべきか迷っている素子に対して、さらなる厄介事を押し付けるかのようにインターホンが鳴った。
このインターホンはカオラ=スゥ謹製で、マイク、カメラ、録音装置、自爆装置を装備、更に電磁ロックと警報装置、自動迎撃装置にまでリンクしている代物なのだが
機械の扱いがまったくわからない素子がそんなものを作動させるわけもなく、三和土でサンダルを履き扉を開けて誰が来たかを確認する。
インターホンを押したのは、そこそこの大きさの包みを持った宅配便の業者だった。

お届けものです、判子をお願いします

クリスマスの翌日、朝早くからそこそこ重い荷物を抱えてえっちらおっちらと長い石段を上り腰に日本刀を差した美女の応対を受けても、その緑の制服を着た青年はプロ意識でもって何の詮索もせずにそれだけしか言わなかった。
青山素子はそんな青年の態度に敬意を表し、酔い潰れている管理人代行を起こすという手間を省いて、彼女の部屋から判子を調達してきて速やかに青年を解放した。
結果、素子の手には差出人すらも未確認の、小包というにはいささか大きすぎる荷物が残った。
もしや姉上か、と戦慄が身体を走った。その場合中身はろくなものではないと決まっているし、だからといって中身も見ずに捨てようものなら後でどんな目に会うかわかったものではない。
彼女は恐る恐る、びりびりと包装を破いて中身を確認してみる。

何の変哲もない、いかにも間に合わせといった感じのダンボール箱が出てきた。
嫌な予感が増した彼女は、どこかに抜け道がないかと箱を開けずに観察してみる。
と、箱にシールで留められた一枚のメッセージカードを見つける。

一瞬の間



「はははははははははは!」
「きゃ!?」

前原しのぶは危うく階段を踏み外しそうになった。
幸いなことにほとんど飲まずに済んだ昨夜の宴会だったが、それでも酒に弱い彼女は普段よりも起床時間が遅れてしまった。二日酔いの住人に必要かどうかは疑問だが、急いで朝食を作ろうと階段を下りているところで、ロビーの方から唐突な笑い声が聞こえてきたせいである。
咄嗟に手すりを掴んで難を逃れた少女であったが、ロビーを覗いてみて改めて絶句した。

青山素子が笑っている。

それも、彼女が時々見せるような微笑ではなく、腹を抱えて心底おかしそうに、だ。

「く、く、くくくくくくく……なにが『メリークリスマス』だ。もうとっくに昨日は終わってるぞ!」

ロビーで酔い潰れている住人が、意識もないまま身体を芋虫のように蠢かせている。二日酔いの頭に、彼女の大笑いはそれはそれは響くのである。

「そうか、日付変更線だな!?間抜けな奴だな!はははははははははは」

なにかタガが外れてしまったように笑い続ける素子。なにやらツボにはまり、溜め込んでいたストレスが一気に爆発したのである。

「い、一日遅刻のサンタクロース!まったく、お前らしくて涙が出るぞ、あはははははははは!!」
「……きゅう」

とりあえず、前原しのぶの精神はその異様な光景に耐え切れず、久しぶりにあっさりブレーカーを落とした。ぱたりと倒れる。
そして青山素子はそんな周囲の様子に一切気付かず、横隔膜が筋肉痛になるまで笑い続けていた。彼からの、国境と日付けをちょっと越えたクリスマスプレゼントが配られるのは、もう少し先の話。




1月

B判定

それが、青山素子の模試における最終的な成績評価だった。


この時期の受験生になるともう完全に追い込みに入っている。
試験直前は、むしろ体調管理に重点を置くべきなので、ここがラストスパートである。
しかし、ここまで来て体を壊しては元も子もないので、できるだけ規則正しい生活を心がけること。
若さにまかせた徹夜も、あまり続くと逆効果なので慎むこと。
以上、成瀬川なるからの忠告である。
そして彼女は、その言葉にまったく従わずに、若さと体力と気力を削りながら連日連夜徹夜を繰り返していた。
食事の時間すらも削り、一日2時間程度の仮眠だけでやり過ごすという毎日。
そしてある日とうとう、弱った体を風邪のウィルスに冒され、勉強中に彼女は意識を失った。


「三九℃七分。完璧に風邪ね」

青山素子はその声で目を覚ました。
うっすらと目を開くと霞んだ視界の中で、見覚えのない部屋で布団に寝かされている自分、枕元に正座する成瀬川なるを確認できた。
途端に、がんがんと激しい頭痛が彼女を襲う。
うっ、と呻いてこめかみをだるい両手で押さえつける。その程度で痛みから逃れられるわけもなく、額に乗せてあった濡れタオルがぽとりと落ちただけだった。
ここはどこなのか、なぜこんなところにいるのか
頭がうまく回らず、彼女は成瀬川のひんやりした手が額に当てられるのをただ黙って感じていた。

「ここ、は……?」
「心配しなくていいよ。ここは管理人室。私が様子見に行ったら、素子ちゃんが机の横で倒れてたの」
「……うらしまの?」
「うん。さすがに素子ちゃんの部屋は散らかりすぎてたから、こっちに布団ひかせてもらったの」

主を失った管理人室は、がらんと寒々しかった。
定期的に掃除はしているので埃が積もっているわけではないが、やはり生活臭というものは薄れている。
浦島景太郎の匂い
そんなものをふと確認したくなって、青山素子は鼻を鳴らしてみる。
ズズ、と鼻水の感触がするだけだった。
…彼の痕跡はゆっくりと薄れていく。
記憶の中ですら。
それは仕方ないことだと、彼女は割り切っている…つもりだった。
それでも、漠然と忍び寄る恐怖は消しようがなくて
だからこそ、待つだけの自分をやめて、追い抜いて追い越して、追いつかせるような自分になろうと思ったのに
だというのに、私はこんなところで何をやっているのか

やっと頭が回りだす
そして青山素子は、自分が今なにをやるべきなのか恐怖と共に思い出した。

東大に合格しないと
そのためには、勉強をし続けないといけない!


「………っ!」

彼女は衝動に駆られて、弱った背筋と腹筋を総動員して掛け布団を吹き飛ばして起き上がった。
頭に載せられていた濡れタオルが、見事な放物線を描いて部屋の壁にべちゃりと叩きつけられる。
がんがんと耐えがたい痛みを訴えてくる自分の軟弱な神経を、彼女は完璧に無視した。
それさえなくなれば後は動ける。
汗で寝巻きがべったりと絡んだ手足を、だるくて思い通りに動かない筋肉を総動員して、四つん這いで這いずるように布団から出ようとする彼女の

「駄目」

その両肩に成瀬川なるの両腕が伸び、そのままがっちりと布団に押し付けた。
素子はその手を振り解こうとなおも身をよじったが、成瀬川の両腕はぴくりとも動かない。

「寝てなくちゃ、駄目よ」
「………」

それから10分の間、彼女の呼びかけにも答えずに青山素子は身をよじり続け、残り少ない体力を浪費し続けた。
成瀬川なるはその間ずっと、泣きそうな表情で「駄目」と繰り返していた。


別に彼女は成瀬川なるのことが嫌いで、言いつけを無視したのではない。
彼女が倒れるまで、そして倒れた後も勉強を続けようとするのは恐怖に取り憑かれているからだ。
40%の恐怖に
B判定の志望校合格率は60%
彼女は残りの40%を埋めるために、そこからくる恐怖を誤魔化すために
そして

「あいつがいないと……寂しい?」

成瀬川のその言葉で、素子の動きがぴたりと止まる。
それでもなお成瀬川は彼女の肩を押さえつけたまま、泣きそうな表情をしている。
今ポツリと零れたのは成瀬川の本音だったのかもしれないと、鈍くなった頭で素子は思う。
そして成瀬川はそのままの姿勢で、諭すようにして彼女に改めて話し掛けた。
がんがんと、更に倍増した頭痛に朦朧としながら素子は人生の先輩の話を聞いた。


私、素子ちゃんの気持ちわかるなあ…私もね、勉強しなきゃ、勉強しなきゃって必死だった
置いていかれまい、置いていかれまいって必死だった
苦しいよね
恐いよね
でもそれ以上に……寂しいよね
自分がいったい何のために何をやってるのか、わからなくなる時があったり
そんな、苦しくて恐い気持ちが、本当に報われるのか信じられなくなったり
どんなに頑張っても、結局今ここに『あの人』はいないんだから
寂しいよね
…哀しいよね
でも、だからって自分の身体を傷つけちゃ駄目
自分の気持ちを誤魔化して、自分の心を凍らせるのは駄目なんだって……私は教えてもらった
11月も、こうやってあなたと話したことがあったよね
あの時言ってあげられなくて…ごめんね
ねえ、素子ちゃん
本当に哀しいときは…泣いてもいいんじゃないかな


そうしてその日、青山素子は布団に横になって、浦島景太郎と別れて以来流れ続けたものを、ようやく『涙』と認めることができた。




2月


25日。東京大学二次試験一日目。その19:27。ひなた荘ロビーにて、青山素子は電話をしていた。

「……ああ、そうだ。別にどうということはなかった……嘘じゃない。あの程度で緊張していたら、姉上に睨まれたとき一秒と意識を保っていられまい。お前が小心者過ぎるんだ……バ、バカ者!そんなわけあるはずないだろうがっ!……まあ正直、少し緊張した。どうせなら、心得でも教えてくれればよかったのにな。なにしろ、受験暦だけは長いのだから…はは、冗談だ。ところでそっちの様子はどうだ?居候先には馴染んだか?学友とはちゃんと付き合ってるか?ふらふら出歩いて強盗に出くわしたりしないか?……ああ、心配だ。なにしろお前は、見てて危なっかしいからな。お前、私やなる先輩に何回殴られたと思っているんだ?……ん?こっちは例年通りだ。想像はつくだろう?……ああ。まあ、受験生に飲ませないだけマシというものだ。あれでも、プレッシャーをかけないようにしてくれているのかもな……明日か。明日はなにしろ英語があるからな。自分なりにやりこんだつもりなんだが…そんなことは言われないでもわかっている。お前に心配されるほど、落ちぶれてはいない…なにを笑ってるんだ、浦島ッ!」

同ロビーのソファーに座って、成瀬川なると前原しのぶはそんな彼女の様子を眺めていた。

「…『心配されるほど落ちぶれてない』だって」
「……素子さん、さっきまで犬みたいに部屋の中ぐるぐる回ってましたよね」
「単語帳片手にね」
「現金ですよね」
「好きな人の前では、つい強がっちゃうのが男の子なのよ」
「……素子さんが聞いたら怒りますよ」
「冗談。まあ、素子ちゃんの場合は景太郎が傍にいるだけで本当に強くなれる娘だから」
「そうなんですか?」
「私がいくら誠心誠意元気づけても、あそこまで張り切らないもの……はあ、バカみたい」
「特効薬なんですね…わかります。私のときも、すごく勇気づけられましたから」
「……今度から私、誰かが落ち込んだら景太郎に相談しよっかな?」
「それなら落ち込んだ人が直接先輩に電話貰った方がいいですよ…あ、そうすると電話代が大変ですね」
「そういえばさっきからずっと電話してるけど、あいつホームステイ先に電話料金払ってるのかしら」
「最初に、こっちから掛け直しましたよ。やっぱり、先輩に悪いですから」
「しのぶちゃんの時も?」
「はい」
「……今月末ひなた荘管理人代行として、家賃特別徴収を青山素子と前原しのぶに対して実施します。仕送りで足りない分は、お小遣い削ってでも出してね♪」
「ええっ!?そんな〜(泣)」
「あ、景太郎が帰ってきたときに請求するっていうのもいいわね。半分はあいつのせいなんだから」


ちなみに、残りの面子は宴会場にて毎年恒例のドンチャン騒ぎを繰り広げている。

2001年2月25日の夜は、一部を除いてつつがなく過ぎていった。




3月


10日

「なーなーモトコ。ホントに一人で行くんか?付いてってもええやろ?なー」

と、彼女の身体にしがみつきながらカオラ=スゥが駄々をこねる。

「ダメだよ、カオラ!素子さんは一人で見に行きたいって言ってるんだから」

それを必死に引き剥がそうとしている前原しのぶ。

「ま、ええけどな。途中で逃げ出して逃亡旅行ってのは勘弁やで、ホンマ」

キシシと笑いながら、そんな不謹慎な発言をするのは紺野みつね。

「私としては、一緒に里帰りもできていいと思うのですが…」

そろそろ年季が入ってきた『合格おめでとう』『残念不合格』の旗を振りながら乙姫むつみ。

「キツネにむつみねーちゃん、この状況で落ちた時の話するなって」

呆れ顔で、この場で一番常識的な意見を出す(来年度から)小学生のサラ=マクドゥガル。

「大丈夫、きっと合格してるわよ。あんなにも頑張ったじゃない…さ、行ってきなさい」

まるで母のように、穏やかに彼女を励まし送り出す成瀬川なる。

彼女はそんな仲間たちに一礼し、謝罪して、見送りを受けながら一人で階段を降りていった。


一人で見に行きたいと言い出したことに、実は大して意味はない。
それは個人的な意地みたいなものだ
ただ今は、それを許容し送り出してくれたみんなに精一杯の感謝を


すたすたと、普段と同じように石段を歩いていた彼女の足がぴたりと止まる。
石段を降りたところにある和風茶房『日向』
まだ開いていないその軒先、出しっぱなしの木製ベンチ。
そこに一人の女が当たり前のように座って、朝靄に包まれた景色を眺めている。

茶ぁすすってやがる

姉上…なぜここに、彼女がとうめく。
そのスリーピースの女物スーツに身を包んだ女は、湯飲みの中身を飲み干して立ち上がった。
一歩、二歩と流れるような動作で進み、彼女の前に立ちふさがり当たり前のように

「妹の、一世一代の晴れ舞台や。見に来んわけにはあかんやろ?」

彼女は返答しない。
ただ無言で、後ろ頭にだらだらと冷や汗をかくだけで。
言いたくても言えるわけがない。
けれど言わないと、一人で見に行くことはできない。
来るな、と

「さ、素子はん。合格発表見にいきましょか」

口ではそう言いながら、女は背を向けない。決して隙を向けない。眼光だけで彼女を圧倒する。
確かに一度勝った…だが、それがいかほどの役に立つのか。
あんなものは女の方が引いただけに過ぎない。
圧倒的な実力の差が、二人の間を隔てていると、彼女は微動だにできずに改めて思い知った。
自分は仏の掌で踊るがごとく矮小な存在に過ぎないのだと
逆らうのも馬鹿らしい、勝てないのは当然だ、生命種としてのレベルが違う。
だから従えと、彼女の中の本能が気も狂わんばかりに絶叫していた。

けれどもう一つの彼女。理性を司る部分が、理性にあるまじき非合理性で従うことを拒否している。
彼が、頑固で融通が利かず理屈っぽくて真っ直ぐだと評した彼女が
最早これまでと腹をくくり『どけ』と神をも恐れぬ言葉を吐こうと口を開いたその時
女が、一歩を踏み出した。
彼女の精神がびきりと音を立てて恐怖に軋む。悲鳴を抑えられたのは奇跡。

「…と言いたいとこやけど、ウチは迷惑みたいやな」

そしてそのまま、彼女の横をすれ違う。
呆気に取られて振り向く彼女と、振り向きもせずに平然と続ける女。

「ウチは寮で待っとる。心置きなく、見届けてくるとええ」

石段を上っていく姉の背中を、呆然と見送る彼女。
釣り天井に押し潰されそうな瞬間いきなり天井が戻ったような、鉄の扉を骨折覚悟で殴ったら蝶番ごとあっさり倒れたような、落とし穴に落ちたら膝までしか深さがなかったような、拍子抜けした表情のまま
自分は姉の掌で踊る矮小な存在に過ぎないと、へなへなと座り込みそうになりながら彼女はもう一度思った。


……自分はこんなにも薄っぺらい人間だったのか。
それは新たな発見ですらあった。
彼がいる時は彼女と戦いすらしたのに、彼がいなくなった途端に会話すらできなくなる。
極めて不安定な自分。
そもそも、姉のことを完全に克服などできるわけがない。
それだけ深く、自分は19年間ずっと姉の影響を受けてきた。
好意、そして恐怖と共に
それは自分の矮小な精神においては絶対に近いほどの積み重ね
ならばなぜ、あの時は戦おうなんて『気の迷い』を持つことができたのか
…そんなの、簡単だ。
だが、今はそんな当たり前の事実は思い出すのも癪にさわる。
だから意地でも、一人で合格発表を見届けてやろうと決めた。

決めたのだ。



昨年、そして二週間前に潜った門を通り抜ける。
踏み出したそこは、もう東京大学の敷地内。
前方、中庭の反対側に、人が群がる掲示板が見える。

――――実を言うとその時点で彼女は、ガッチガチに固まっていた。

視線は、妖精でも探しているかのようにうろうろと定まらない。
拳は、岩のように硬く握り締められたまま解けない。
足は、石化の魔眼で睨まれたかのように動かない。
心臓だけは強心剤でも投与されたかのように騒がしく、身体に悪いことこの上ない。

そして脳は、緊張と不安と恐怖と焦りを感じるあまり、一切の思考を走らせていなかった。

それでも一歩を踏み出したのは、事前に行動を『決意』という方法で決めておいたせい。
ふらり、ふらりと一歩ずつ進む。地面を踏みしめる感覚ですら脳が処理しきれてないので、歩き方はどうしても不自然になる。それでもつまづきもせずに歩けるだけ立派。鍛え上げられた本能のおかげ。
幼児のようなふらふらとした動きで人ごみに突入する。
無謀極まりない。
案の定、すぐに『ドン』と横から衝撃を受けて倒れこみそうになる。
だが倒れこんだところにも必死になって掲示板を目で追っている人がいて、ぶつかることで転倒を免れる。その青年は迷惑そうに彼女の方を見やったが、底なしの穴を覗いてしまったかのような表情をして目をそらし、関わりあいになるのを避けた。
彼女はしかし、そんな一連の出来事にまったく気付かない。
視界に入ってはいる。だがそこから意味を解析できない。そんなところに脳の処理を回す余裕はない。
考える余裕もない。
感じる余裕もない。
ただふらふらと決めていた通りに掲示板を確認できる距離にまで近づこうとする。
例え今この瞬間に殺されても、彼女はそのことに気付かず死に至るだろう。
青山素子はその時だけ、『近づこう』とするだけの概念と成り果てていた。



朦朧とする意識の、緊張と不安と恐怖を感じるだけで精一杯の脳の片隅。
彼女の中の客観意識。端でみれば笑ってしまうほど無様な彼女自身を、笑いながら眺めている青山素子の中の彼女。
客観であるが故に、青山素子が感じている緊張と不安と恐怖から無縁でいられる彼女が笑いながら考察する。
なぜ青山素子は、これほどまでに――そう、致命的なほどに緊張しているのか。
青山素子にとって東大受験の意味とは、単なる入試、単なる進路に留まらない。
幼い頃からエリートコースを歩むことを約束された人間ならまだしも、彼女はそうではない。
そのかわり彼女には、幼い頃から『姉の出来損ない』という劣等感が強烈に存在していた。
姉の代わりに剣を続け、姉の代わりに流派を継ぐのなら、自分の全ては一体誰に必要とされるのか。
自分の意志はどこにあるのか、自分は一体どこに存在していいのか。
青山素子の居場所など、この世の何処にもないというのに。
……一度だけ、思ったことがある。
彼の傍らなら、居てもいいのかもしれないと
もしもそれが許されたなら、彼女は今までの自分全てを捨ててそこからやり直しただろう。

けれどそんな望みは無惨に否定された。
この世のどこにも彼女の居場所はない。
ならばどうすればいいのか……彼女が辿り着いたのは、ごく当たり前な苦難の道。
戦え、勝て、そして奪い取れ。
この世のどこにも自分の居場所がないのなら、自分自身で勝ち取るまでのこと
その相手が最も尊敬する姉であろうと、日本の最高学府であろうと、戦って自分の望みを通すのだ。

自分は強くなったと、青山素子は自覚している。
強くなければ、けしてこんな考えに辿り着き実行できたりはしない。
姉と戦おうと考えたことも、東大に合格しようとすることも…いや、何より18年間囚われていた自己不信から逃れられはしない。
だが、ならばこのていたらくは、何の真似なのか。
緊張と不安と恐怖を感じるだけで精一杯のこのざまは。
…それも、当たり前だ。
ここに至って青山素子は、自分の会得した『強さ』の質を苦々しく自認した。
にしてもなんだ、それは。戦隊ものの定番じゃあるまいし。
あるいは、似て非なるものとしてこうも言えるかもしれない。究極の意地っ張り。
もっと下衆な言い方をするのなら、男の前では性格が豹変する女。
どれもこれも正しいが、微妙に間違っている。
ただ確かなことは、彼女のその『強さ』はある局面においては確かに揺るぐことのない本物であるということ。
過程はともあれ結果だけを見れば
浦島景太郎がいれば、青山素子は強くなる。それ以上でもそれ以下でもない。


そして彼女は、いつのまにか人ごみの最前列まで来ている自分に気が付いた。
邪魔だった障害物はすでに背後。
前には掲示板だけしかない。
つまり――――後はもう、見上げて確認するしか道はない、ということだ。
がやがやと、背後の人並みは一喜一憂に溢れている。
だが、それさえも素のままの彼女にはできない。
首が麻痺でも起こしたかのように動かない。


―――素子ちゃん―――

幻聴まで聞こえてきた。


…なんて無様

私は一人でやってきた。受験勉強という名の苦行を、あの男の手を借りずにやりぬいた

だというのに、ここに至って、ここに至ってさえ、あの男の存在に縋ろうとは

これでは姉上の存在に怯え、縋って、何もしなかった昔と変わらない

私は姉上になれなかったように、あの男と一つにもなれない。いいかげんそのことを認めろ

一人の人間として自分の意思を示せ

できないのなら、その価値、無に等しい

そんな存在が、あの男の隣にいようなど、おこがましいにも程がある!

あの男に必要とされる存在となれ!恐怖するだけの日々を終わらせろ!

自分の居場所は自分で勝ち取るのだ!



――素子ちゃん――


幻聴はまだ聞こえる
だが、そんなものはきっぱりと無視して
彼女は心の中で活を入れ、それこそ一世一代の気合をもって
勢いよく掲示板を見上げた。



A35628
青山素子



そうしたらあまりに簡単に見つかって
なんだ、こんな簡単なことだったのかと苦笑したほど
緊張と不安と恐怖を跳ね除けた脳は、驚きを感じることもなかった。二分の一だ、驚くには値しない。
ただ―――そう、何か風のようなものが自分の中を駆け抜けていったのを感じた。
その風は確かに自分の何かを変えていったのだと、そう信じることができた。


――素子ちゃん――

幻聴はまだ聞こえる。
なぜだろう。
だが、青山素子が結果を確認できたのは、この幻聴のおかげでもある。
その点は感謝しよう、と彼女は認めた。
だが少しうるさいぞ、もう極限状態は過ぎたのだから静まれ、と自分の脳に命じてもその幻聴は消えない
なぜなら―――


「素子ちゃん」
「おい、いいかげんに…ってどわああああああああああ!!!!」
「ど、どうしたの?急に大声出して……」

掲示板の前に群がった人だかりの最前列、背の高い少女が唐突に絶叫しても誰も注意を払わなかった。
ここはそういう場だ。結果が吉なら喜びの悲鳴をあげ、結果が凶でも悲鳴をあげる受験生はいる。
ただ、彼女は受験結果のせいで悲鳴をあげたのではない。
すぐ隣に、いるはずのない人間――幽霊でもいたかのような悲鳴をあげたのだ。
今現在、アメリカのどこかで土でもいじくっているはずの男が

「お、お、お、お、お、お、お、お……」
「落ちた?」
「違う、受かった!!そんなことよりお前、なんでこんなところにいるんだ!?」
「受かったの!?やったじゃないか、も…」
「そ・ん・な・こ・と・は、どうでもいいといってるだろうが!いつ帰ってきたんだお前は!?」
「ぐ、ぐええ……ちょ、ちょーくちょーくぅ…」
「意味がわからんぞ、日本語で喋れっ!」

平均よりだいぶ背が高いその少女のネックハンギングツリーは、彼の身体を完全に群集から浮き上がらせていた。さすがに視線が集まる。
更にその男が必死で『チョーク』と連呼し、顔色が青くなりはじめているとくれば、その視線の質が『受験の失敗により友人に襲い掛かった少女』に対する怯えとなるのは仕方ない。
だが件の少女はその視線を受けても、慌てるどころか顔色一つ変えずに、ついにぐったりと力を失った彼を肩に担ぎ直して悠々とその場を去った。
好奇の視線全てを臆すことなく受けきって、自分が当然のことをしていると確信する堂々とした足取りで。
そのあまりの潔さにその場にいた人は、自分の目撃したものの善悪を測りかねて首を傾げた。


――だから、浦島景太郎がいれば、青山素子は強くなるんだって



合格者の発表をしている掲示板から少し離れた、芝生の上にこしらえられたベンチ。
発表の日とはいえ大学としては春休みなので、やはり周囲に人影はない。
一時期白いワゴンが常駐して、とある講師が『住んで』いた場所なのだが、そんな事を知る由もない。
ただ、手っ取り早く休めそうな場所だったので、彼女はそこに浦島景太郎を寝かせた。
それだけで座る部分がなくなってしまうが、彼の頭をどかしてそこに座り、頭を元の位置に戻す。
要するに膝枕。

「………」
「………」
「………」
「…私は」

呟く少女。
男は酸欠状態で意識を失い、そのまま睡眠に移行したのか寝息を立てている。
掲示板の前では桜が散り、あるいは桜が咲いている。
少し前まで当事者だった彼女は―――いや、現在も当事者であるはずの彼女は、その光景を穏やかな眼差しで眺めながら
独り言を呟く。

「私は、約束を果たしたぞ」

さらさらと、何気なく彼の髪を右手で梳りながら

「なんと、東大に合格したんだぞ」

ゆっくりと上下する彼の胸の上に、左手をぽんと乗せて

「すごいだろう…といっても、これでもまだお前に追いついてはないんだ」

彼の首筋にうっすらと残った青痣に、ちょっと反省して

「追い抜くためには、私にも夢が必要だな」

すんすんと、最近急に強くなってきた春の匂いを風に感じて

「……………こんな私にも、夢が見つかるだろうか」

ぐうぐうと呑気に寝息を立てている彼の様子に、苦笑して

「なんとか言え、こら」

言っていることとは裏腹に、彼女は上半身をかがめて




文句なしに衝動的で、それでいてごくごく当たり前に

青山素子は、浦島景太郎にキスをした



甘酸っぱく、そして穏やかな小春日和のような温かさ。それでいて一度はまったら抜け出せなくなるような底なしの予感に、青山素子は心と体とタマシイの芯から打ち震え―――――――――――――――――






「って、何を書いてるのだ私は―――――!!!」


がらがらがっしゃん!と私がひっくり返したテーブルが、それはもう見事に宙を舞い壁にぶち当たって凄まじい音を立てた。
テーブルの上に何枚も何枚も載せてあった原稿用紙が、雪のようにひらひらと部屋の中に降り積もる。
19000文字、600字詰め原稿用紙にして32枚、特殊な換算をすると39KB。
この5時間の成果が、この上なく無駄っぽくぱさぱさと床一面に広がった。

「ああああああああ………こんなことやってる場合ではないというのに」

と、散乱した原稿用紙の中に混じった、一枚の別の用紙を見つける。
私が錯乱して延々5時間も妄想小説を書くことになったきっかけ。
ついさっき届いた、受験生青山素子の初めての模試の結果



D判定



………とりあえず私は
心頭滅却するために、滝壷で座禅を組んでから素振り2000回をこなした。
ますます時間が削れていく。
こんなんでいーのか?青山素子………と自己嫌悪。

それが、これから何度も繰り返すことになるサイクルを、私が初めに経験した瞬間だった。

…本当に、いったいなにやってんだか









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