注意!これは景太郎×素子小説…一応。

*これは『居られるという幻想を 選んだ私の在る理由』の続きです。
*夏休みの話については一切省略します。
*『これは○○の設定と違うぞ』的な意見は後でどうぞ。
*関西弁の一人称をやる自信がなかったので緊急処置を取らせてもらってます。
*素子の影が薄くなりそうな予感…



結局のところ全ての原因は、あまりに無知で、子供で、臆病な彼女…そして私にあったのだと思います。

(中略)

思うにそれは、一種の防衛機構なのでしょう。
あまりに純粋で脆弱な彼女が、兄も姉もいない見知らぬ土地で生きるため。
とても孤独に弱い彼女が、自分自身を守るために創り上げたもう一人の自分。
典型的な二重人格症候群。

(中略)

ある時私は自分で――名前を付けました。
私が主導権を取るきっかけとなる、ある自然現象にちなんで
即ちそれが―――




                                  ラブひなEX

                        名もなき貴方の娘より 精一杯の感謝を込めて








「はあ……」

と、俺は情けないため息をついた。

ここは物干し台。
夕暮れ時なので洗濯物も取り込まれ、視界をさえぎるものは何もない。
俺は見事な夕焼けを手すりに肘を突いて眺めながら、陰鬱な気分に浸っていた。
…情けない。
ポケットの中に入れられた二組の紙が、やけに重く感じられる。
なんてことはない、ただの紙なのに
一つは留学試験申し込み用紙。
もう一つは――――

「ケータロ!こんな所で何やっとるんや――!」
げしっ!
「ぴぎゃっ!」

後頭部に凄まじい衝撃を受けて、俺はベランダから落ちそうになった。
慌てて体勢を立て直す。
いっつも落ちてるから少しは慣れてるけど、やっぱり痛いもんなあ…

「スゥちゃん…」
「なんやケータロ、元気ないなー」
「スゥちゃんはいつも元気だね」
「ウチはいつでも元気やで」

ニコニコしながら、スゥちゃんは俺の頭にしがみついてきた。
むに
なんだかとても人に言えないような感触。
つい赤面してしまう。
いけないいけない俺は何を考えているんだスゥちゃんはあくまで親愛の情でやっているんであって邪まなことを考えてはいけないぞでもスゥちゃん意外とプロポーションいいしってだからこんなこと考えちゃいけないんだって
……本当に今は、元気な彼女が羨ましい。
俺も少しは元気付けられたのか、少しは笑顔になることができた。

「でもケータロ、ほんとにどうしたんや?」
「ん、いや別にたいしたことじゃないんだ」
「そーなん?」
「うん。本当に、つまんないことだよ」

…そう、本当にたいしたことじゃないと
そう自分に言い聞かせる。
ついさっき俺は、素子ちゃんに色々と話した。
足が治ってからはじめて東大に行ってみたら、前期出席日数がゼロで留年決定だということ。
それで、外国に行って瀬田さんの手伝いをしたいということ。
今度、アメリカ留学の選抜試験を受けるということ。
それは結構倍率が高い試験で、受かるかどうかはわかんないけど
もしも合格できたら、すぐにでもアメリカに行って
半年か一年は、向こうで過ごすこと。

そんな、ことを話した。
でも俺は
本当に大事なことを、まだ彼女に言ってない。

「……いつもこうだよな、俺って」
「ケータロ?」
「ああ、心配させてごめん。なんでもないよ」
「…ケータロ、さっきからそればっかや」
「え、そう?そう……かもね」

はじめて、かもしれない。
スゥちゃんの、本当に心配そうな声を聞いたのは
俺に背後から蟹バサミでもかけてるような体勢だった彼女が、手足の動きを止めて
なんだかとても心細そうに言った。
……なんで俺はいつも、人に心配ばかりさせてしまうのだろう。
もっともっと、作り笑いが自然にできればいいのに。

――けど、なんだかこの娘に対しては嘘なんて通用しないような気がして
だから憂鬱の原因を、つい話してしまっていた。

「素子ちゃんと……喧嘩しちゃってね」
「ケンカ?」
「うん。全部、俺が悪いんだけどね…」
「いつも吹っ飛ばされてるのとは違うんか?」
「ううん…もっと、本当に、互いが傷つくようなものだよ」

あの日から…付き合いはじめてから一年以上経つけど
それまで一度も、俺は素子ちゃんと世間一般で言うところの『喧嘩』をしたことなどなかった。
些細な食い違いがなかったわけじゃない。
けど、それが本格的なものに発展する前に、必ずどちらかが折れていた。
だけど、それは『理解』だったのだろうか
…違うような気がする。
ただ単に、相手を傷つけたくなくて、『恋人』という関係を崩したくなくて、自分が傷つきたくなくて
幸せであやふやな状況がなくなるのを、ただひたすら恐れて
だから、かもしれない。
あの娘が、あんなものを渡したのは…

「なんやケータロ、素子にフラれたんか?」
「ぐはっ!!」


クリティカル!浦島景太郎に8700のダメージ!


「ケータロ?」
「……そう、かもね」

そうかもしれない。
今度こそ俺は、愛想を尽かされたのかもしれない。
どう考えても、素子ちゃんから渡されたものは
今、俺のポケットの中に入っているもう一枚の紙は
俺が素子ちゃんに振られた、という事実を示している。
……三行半なんて





三行半
みくだりはん、と読む。
一般的に、夫から妻に渡す離縁状の事を指す。
江戸時代に使われた表現らしい。
恋文の反対。
恋人関係の解消。
ついさっき、私が浦島に渡したもの。
『別れよう』ということ


ずっと考えていたことではあった。
姉上と再戦するために京都に行ったときからずっと
それはただ、事実を事実として認めるだけのこと
私と浦島は、恋人同士なのではないと。
根本的に、恋人らしくないのだ。
私は、浦島とキスの一つもしたことがない。
体を重ねあったことも
もちろん、肉体関係がなくても恋人関係が成り立つのは知っている。
でも、そもそも『恋人』とはいったいどういう関係なのだろうか。
恋愛小説で描かれるような、甘酸っぱい想いを抱いたことなど一度もない。
そこにあるのはいつも、心を傷つける欠けた想いと
浦島を失うかもしれないという恐怖だけで
全てを委ねて甘えるなんて、考えたこともない。
そんなみっともない真似なんか、できるわけがない。

多分私のこころは
常に極限まで研ぎ澄まされるように、できている。
それこそ日本刀のように
必要なもの以外の全てを切り捨てていき
それによって鋭さを保つ。

けどそれでも根本的に、浦島に依存しているのは
抜き身の刀は周り全てを傷つけ、鞘に収められた刀は安定するという
ひどく不安定だった私が、浦島という鞘を求めたという
ただそれだけの、ことなのだろう。
それは決して、愛とか恋とかいう次元ではなく
少なくとも私にとっては、ただの必然性があってのことだった。
よって恋人ではない。


そんな、当たり前の事実を伝えただけなのに
どうしてこうも、胸が痛いのか


私は浦島の部屋で正座したまま俯き
さっき浦島を追い出した時に開いたままの戸を閉めることなく
まるで部屋の主のように図々しく居座って
愛とは、いったいどこにあるのだろうと、思う。


「愛とは、いったいどこにあるのでしょうね、なる先輩」


頭上で、『がたん』という音がした。



なる先輩がそこにいるということは時間帯からして分かっていた。
私や浦島が大声を出すことによって、話に気付くだろうということも。
それでも彼女なら、聞かれても別にいいと思った。
なる先輩にはその権利があると思う。
愛というものを探し続けている彼女だから。


「…信じ、られない」
「何がです?」

天井一枚を隔てて、声。
ずいぶんと沈んだ声だった。
なにを悲しむ必要があるのだろう。
なにを怒る必要があるのだろう。
彼女にとって、喜ぶべきことなのに

「なんで、あなたは……景太郎と、想いあっているのに」
「いえ、私と浦島は、想いあってなどいません」
「な…」
「私が浦島に求めているものと、浦島が私に求めているものは違うのです」

だから私たちはいつもすれ違いばかりで
通じ合った瞬間があったとしても、それは瞬く間に通り過ぎてしまう。
そしてまた、呆とした苦みが始まって
私は沈まないように必死に足掻いて、次の一瞬を待つ。
浦島に依存する日々。

「だからなる先輩も、私に遠慮する必要はありません」
「遠慮?」
「もう恋人同士ではないのだから、私に浦島を独占する権利はありません」
「……!」
「もう、浦島を独占する権利はないんです」

だから
浦島が、留学の事を言い出したから
私は三行半を突きつけた。
私が浦島と(形式上)『恋人』という関係を結んだのは、いつも傍らに居たいからで
本当は依存しているだけなのに、互いに支えあっていると偽って
逆説的に、あいつが私と離れようとした瞬間、『恋人』関係は破棄される。
側にいられないなら無理して恋人と偽る必要もない。

それでも偽りの『恋人』として浦島を独占しようとするなら、私はあいつをを殺すしかなくなるから


「…ねえ、素子ちゃん。前に私に言ったよね」
「……?」
「私ね、その言葉すごく気にしてて…でも今度は私から言わせて欲しいな」
「なにをですか?」
「…あなたはいつもいつも、人の気も知らないで!!」
「………」
「そんな些細な理由で、景太郎と喧嘩までしたっていうの?」
「…は?」
「貴女まで…私みたいに、くだらない理由で悩まないで…」

そう、最後に言って
なる先輩の声は聞こえなくなった。
おそらく部屋から出て行ったのだろう。
もうこれ以上、私と話したくなくて

「……喧嘩?」

そして私はといえば
ずっと呆然としていた。
とある事実に気付かされて


……そうか、喧嘩か。
そういえば、そうかもしれない。
私と浦島は喧嘩したのか。
では、明日から口を聞いてはいけないのだろうか。
…私は、恋人という関係がなくなっただけで、後は元に戻るのだと思っていた。
ただ、私が浦島を独占しなくなっただけで
明日になれば、また普通に挨拶を交わす仲に戻るのだと
漠然と、そう思っていた。

「…喧嘩、か」

言葉に出して呟いてみても実感は湧かず
三行半を渡すという、はるかに過激なことをしておきながら
私は違和感を抱えたまま、呆として座っていた。





「そっかー、フラれたんかー」
「あんまり連呼しないで…」

なぜだかとても楽しそうに、スゥちゃん。
俺にしがみつくのは止めて、手すりの上で蛙のように座ってる。
ちょっとでも風が吹くと落ちそうで危ないけど、彼女のバランス感覚はよく知っている。
それでもちょっと心配で、落ちそうになったら支えようと思って側に寄ると
なんだか更ににんまりして、俺に顔を近づけてきた。
それこそ、額と額がくっつきそうなくらいに

「ス、スゥちゃん?」
「なー、ケータロ。ウチとデートしよ」
「へ?」
「最近モトコが構ってくれなくて暇なんや…ええやろ?」
「ああ…街に出かけるってこと?別にいいけど…」
「ほな、今から行こか」
「い、今から?ほら、もう夕方だし…明日にしない?」
「んー…まあ、明日でもええよ」


それから少し、ベランダで話をして
スゥちゃんが部屋に戻っても、俺はぼうっとしていた。
沈みゆく夕焼けを眺めながら
しばらくして、ふと気付いた。

もしかしてスゥちゃんは…俺を元気付けるつもりで、デートなんて言い出したのかな…






彼女が遭遇するすべてのマイナスの感情を受け止めるのが、私の役目。
別離、不安、孤独、飢餓、悲哀、焦燥、恐怖、憎悪、絶望。
すべてを彼女は記憶せず、代わりに私が傷つきます。

(中略)

傷つくことしか知らない私は、傷つけることしかできない存在に
朱い月の夜に出没する殺人鬼に



翌日。
素子ちゃんは、朝の挨拶でも食事の時も一言も口を利いてくれなかった。
俺のほうもなんだか気まずくて、食い下がることができなかった。
謝ることさえできなかったのは、なぜだろう。
喧嘩の原因は、明らかに俺にあるというのに
俺が留学なんて言い出したから、素子ちゃんは『付き合いきれない』とばかりに三行半を突きつけたのに
心のどこかで『素子ちゃんは理解してくれる』と信じていた。
結果としてそれは見事に裏切られたから、俺はこうして落ち込んでいる。

…いや、本当にそうだろうか。
本当は、彼女は俺のやりたいことを理解した上で三行半を突きつけたんじゃないだろうかと
そんなふうに思ってしまう俺は、やっぱりあの娘の事が大事なんだなあと、思う。
だとしたら俺は勝手に落ち込んで、こんなふうに遊んでいて
もっと苦しんでいるであろう彼女に申し訳ない。
……全ては俺の、願望が混じった想像に過ぎないわけだけど



「ケータロ、あれやあれあれー!」
「うわととっ…あんまり引っ張らないでよ、スゥちゃん」
「バナナたこ焼きっ!!やっぱうまそうや…」
「…よだれが出てるよ、ほらほら」

ポケットからティッシュを取り出して拭う。
まるで幼児を相手にしているように、手間とスタミナを消費する。
けどそれは決して不快じゃなくて、まるで元気を分けられるようなところがある。
深く深く思い悩む暇もない。
ひなた荘に来たばかりの素子ちゃんも、同じように感じていたのかもしれない。

「うまい!こらうまいで!」
「あ、ホントだ。おいしいね…ってスゥちゃん?」
「ウチの分もう終わりや…」
「あはははは…俺の分も食べる?」
「ええんか!?」
「うん、まあお礼ってことうわっ!」
「ひひふほ、へーはほー」
「ぜ、全部一口…」

呆れた。
同時に笑った。
そんなふうに笑顔でいながら、俺は気分が軽くなるのを感じていた。
天真爛漫な少女。
落ち込んでいる自分がバカみたいに思えてくる。
こんなふうに素直に自分を表してみたいと、思った。





私は物干し台にのぼって、風に身を任せた。
まだ残暑が厳しいけれど、秋は少しずつ近づいて来ている。
眼下に広がる木々が、少しだけ色付いて
なんとも風情。
最近、こうやって自然を感じることが多くなった。
自然のように、なんの目的もなく存在するものを見るのが好きになった。
そうして自分も、全てのしがらみから解き放たれて存在できればいいのに、と思う。
そして彼女も

「いい風ですか?」

ほら、やっぱり。
振り向くと、そこには袴姿の素子ちゃんがいた。

「……なる先輩」

なんて顔をしているのだろう。
一目見て、そんなことを思う。
昨日の、何の迷いもなく自らの道を進もうとする女性ではなく
表情こそ平静を保っているけど、なんだか泣き出しそうな雰囲気の少女がそこにいた。
今日の朝も、食事の時も
景太郎の前ではそんな気配をかけらも見せず、ゆるぎない姿を演じていたのに

「私は……私は、どうすればいいのでしょう」
「…なにを?」
「私は浦島と喧嘩なんてするつもりはありませんでした…浦島も、わかってくれると思って」
「喧嘩なんて、一つのコミュニケーションよ。互いに譲れないものがある…ただそれだけのことだから」

思う。
そういえば私は、父と喧嘩したことなんてなかった。
同じように、瀬田さんとも言い争いをしたことなんてなかった。
それは、その人のことを絶対的に信じていたから
相手の事を理解もせず、判断することもなく
無意識に、そんな失礼なことをしていた。

「大丈夫よ。私も散々景太郎と喧嘩してたけど、それでこじれたことなんてなかったから」
「でも……恐いんです」
「?」
「今日、浦島と何も話さず、挨拶も無視して」
「………」
「もしかしたら浦島に嫌われたんじゃないかと思うと、恐くて、恐くて」
「………」
「でも、今までみたいにあいつを独占することもできなくて、傷つけることもできなくて」
「………」

独白。
私は少しだけ驚いて、呆れて、羨ましくなった。
こんなにも強く、互いのことを想っていたのかと
子供のように、俯いて囁く彼女を見て
私はなんだかとても、彼女のことを愛おしく感じ
そっと近づいて、ぎゅっと抱きしめた。

「なる、先輩…?」
「心配いらない、きっと大丈夫。景太郎もわかってくれるから」
「でも…」
「あいつは、あのバカは確かにすごく鈍いけど。それでも自分の夢を持つくらいに、変わってきてるんだから」
「えっ…?」
「それはきっと、素子ちゃんのおかげだよ」
「私の……おかげ?」

私は、浦島景太郎という人間をよく知っている。
ずっと、近くで見てきたから
ある意味、私と同種の人間だから
自分自身を、約束を守るだけの存在と割り切って
自らに価値を見出せず、そんな自分が大嫌いで
変わることも、逃げることも、終わることさえできずに
ただ苦しみながら、存在し続けるだけの
浦島景太郎が
私よりもずっと重傷だったあいつが
自分だけの夢を持つなんて、どれだけの進歩だろう。

「じゃあ、私のせいなんですか?全部私の…自業自得なんですか?」
「………」
「こんな苦しくて辛い喧嘩を浦島としているのも、全部私のせいなんですか?」
「ある意味、そうよ」
「なら……こんな思いをするくらいなら、ずっと曖昧な関係でいればよかっ…」
「でも、少し安心したかな」

え、と声を上げてぽかんとした表情の素子ちゃんを見つめる。
本当に、普通の少女。
こんな風に苦しむのはそれは可哀相だけど、そうでもないと私たちは割に合わない。
一方的に焦がれるしかない私たち。
そんな私が、憎しみの対象ともなりうる少女に向かって何を言っているのだろう。
でも不思議なことに、そんなに悪い気分じゃなかった。

「あなた達も、普通の恋人らしいことを悩むようになったんだなあって」
「……え?」

呆然とした素子ちゃんはどこからどう見ても、恋人との関係に悩む一人の少女にしか見えない。
殺すとか、殺されるとか、存在意義とか、代償行為とかじゃなくて
ただ単に、意見の食い違いから喧嘩して
どうやって仲直りしようか悩んでいる、一人の無力な女の子に過ぎない。
…人によってはそれを『堕落』というだろうけど、私はそうは思わない。
こんな悩みをいくつも乗り越えながら、人は成長していくのだから

心配いらない
大丈夫
きっとわかってくれる
なんて安易で、それでいて聞く人を安心させる言葉だろう。
人間というのは寂しい動物なのだと、ある人が言った。
本質的に孤独な存在なのだと
でも、とその人は続けて言った。
そんな私たちが出逢って想い合うのは、間違いなく奇跡なのだと
ほんの一時だけど、未来を共有することができると。
獣のように刹那のみを生きるのではなく
はるか未来を夢見ることができるのが、人間なのだから
そのこと自体は、良くも悪くもない……いや、良い側面も悪い側面もある。
だったら、悪いところだけじゃなくて良いところも認めてあげればいい。

「こ、恋人らしいって……私と浦島は、もう別れたんですよ!?」
「ああ、それは素子ちゃんの勘違い。だって景太郎はまだ返事をしてないから」
「返事も何も、三行半を渡した時点で恋人関係は終わりです!」
「うん、まあ普通はそうなんだけど、あいつはバカだから」
「っ……!」
「ちゃんと話し合って納得させないと、自分の夢も捨ててしまうくらいの…どうしようもないバカだから」
「……はい」

もうこの娘は大丈夫だと、思う。
そして、ろくな恋愛経験もない私が、まるで経験豊富な教師か先輩のように話していたことに、おかしさを覚える。
案外、『恋愛コンサルティング』のキツネも似たようなものなのかもしれない。
自分自身は、何をすればいいのかもわからないのに
秋の風に問いてみても、何も答えてはくれない。

素子ちゃんの肩をぽんぽんと叩いて元気付けながら
夢も希望もない私は、ふと自分の未来に思いを馳せてみて
唐突に浮かんだ不自然なほど幸せな幻視に、面食らったりした。





食事の後、スゥちゃんの要望で『兄を訪ねて六千里』という映画を見た。
なんかやったことのある行動パターンだと思ったら、いつかの素子ちゃんとのデートそのままだった。
やっぱり考えることはみんな一緒なのだろうか。
まあ、スゥちゃんはこれがデートだなんて思って…いや、デートの深い意味なんて知らないだろうけど。
そして、スゥちゃんは今現在寝息を立ててベンチで眠ってたりする。
どうやら、はしゃぎ疲れてしまったようだ。
映画を見てる間は、かなり集中してたみたいだし…
まだ夕方にもなっていないのでしばらくは寝かせてあげようと思って
こうして、俺は膝枕をしている。


「くぅ……すぅ……」
「……今日はありがとう、スゥちゃん」

そっと彼女の髪を撫でると、さらさらとした感触。
掌の中に収まってしまいそうな小さな頭。
こんな小さな体で、毎日大騒ぎしてみんなを振り回して
こんな家族もいない異国で、寂しいだろうに
――けれど、なんとなくわかっていた。
スゥちゃんが、どうやって家族のいない寂しさを紛らわしているのか
俺に、何を見ているのか

「……にい…さま……」
「…はいはい」

所在なげに彷徨っていたスゥちゃんの左手を握ってあげると、寝息はまた安定した。
スゥちゃんは、俺に兄さんを重ねている。
それは、本当に似ているのかもしれないし、ただ手近にいるからかもしれないけど
紛れもない、代償行為
彼女は俺を『見ていない』
彼女にとって全ての思い出は、俺ではない誰かとのものとなる。
…そんな時にどうすればいいのかを、俺は知っている。
スゥちゃんが望むように、兄さんになってあげればいい。
そうして俺が心を閉ざして何も考えなければ、全てはうまくいく。
どうせ、何一つ持っていない俺では誰も満足させることができないのだから
もっといい存在のことを想っているのなら、俺自身は必要とされない
何も思わず何も感じずにいれば、痛みを感じることもないから
そうやって、これまでずっと生きてきた

「にいさま……」
「………」

―――のに……なんで今更になって、痛みが走るのだろう。


「ねえ、素子ちゃん……」


彼女のせいで、俺は変わってしまった。
今までの俺は自分のことが全く大事じゃなくて、だからこそどんなことをされても平気でいられた。
どんなに傷ついても、他人事のように突き放して考えていた。
それは確かに『生きている』とはいえないけど、限りなく楽な生き方ではあった。
誰もが俺を見ない代わりに、誰もが俺を傷つけないのだから
『人並みの感性』という余計なものを持った俺が、一人で勝手に傷つくだけで済んでいたから

けれど俺は彼女に会った
危ういくらいまっすぐに俺を見つめてくる少女に
まるで鏡のように澄みきった、俺によく似た存在に

家の事情を聞いて、ますますそう思った。
盲目的に幼い頃の約束を守ろうとする俺と
流派を継ぐという重荷を果たそうとする彼女
どちらも自分を殺していて、自分が大嫌いで
そんな二人が傍に居たがったのは、傷の舐めあいだったのだろう。
けれど傍にいると、否応なしに鏡に映った自分の姿を見せ付けられて
互いに傷つけあったりも、した。

そうして、そうして、しばらく経つと
俺は、自分のことがあまり嫌いではなくなっていた。
それどころか、好きになり始めていた。
――考えてみればあたりまえのこと。
俺は、素子ちゃんのことが間違いなく好きで
彼女の良いところなら、いくらでも言える。
多分素子ちゃんも同じだろう。
そして、互いに互いを通して己を見ていたなら
俺が、素子ちゃんを通して『彼女の中の浦島景太郎』を見ていたから―――

俺は、人間として格段の進歩を遂げて
だからこそ、代償行為の対象にされてこんなにも胸が痛い。
なんて脆弱で痛がりな心だろう。
痛くて痛くて、気が狂ってしまいそうなほど

―――――――――それなのに、夢を捨てることは素子ちゃんへの裏切りだ、と考える俺がいる。




「にい……さま……」
「あ、目が覚めた?」
「……ケータロ?」
「ほら、スゥちゃん。もうすぐ日が暮れるから、そろそろ帰ろうよ」
「んー…ケータロ、おんぶして〜」
「はいはい」

こういうのを二つ返事というのだろうか。
俺はあっさり了承して、彼女を背負い上げた。
けっこう、重い。
当たり前か。彼女は肉を持った普通の人間で、俺は運動不足の大学生なんだから。
てくてくと歩き、駅に向かう……けど、なぜだろう。
なぜだか今日は、彼女が儚い存在に思えてならない。
この、重みも
なんだか、粉雪のように溶けてしまいそうで
ふと不安になって、俺は背中の彼女に呼びかけた。

「スゥちゃん…起きてる?」
「むぐむぐむぐ……」
「ってうわ―――!なに食べてるのっ!!?」
「…なんや、マズイやないか」
「当たり前だよ!なに紙なんか食べてるの……紙?」
「これか?なんかケータロのポケットの中に入っとったんでつい」
「人のポケット勝手に漁っちゃダメでしょ!」
「なはは、すまんすまん」

え―と……試験の申し込み用紙の方か。うわ、べとべとだよ…
これは、また新しい用紙貰ってこなきゃダメだな…
まあ、不幸中の幸いというべきか。
三行半を食べられていたら、素子ちゃんに返すこともできなくなるところだった。

「ケータロケータロ。○○××大学留学選抜試験申し込み用紙ってなんや?」
「…うーん、しょうがないな。これはみんなには黙ってて欲しいんだけど」
「おー、秘密の匂いがするで」
「俺さ、前期単位取れなくて留年決定だから、外国に行って瀬田さんの手伝いでもしようかと思って」
「え……?」

がくん、とスゥちゃんの動きが止まった。
それまで俺の背中の上で何やかやと騒いでいた彼女が、急に
まるで彫像になってしまったかのように停止した。
からからに渇いた、声。

「い、いつから……?」
「え、え―と…来月に試験があって、受かったらすぐ…かな?」
「……ケータロ、いつ、帰って、くるの?」
「…語学も学んで、半年か一年くらいかな?」
「いちねん……」

声が途切れた。
俺はなんだか、彼女を裏切ってしまったようで気まずくて
スゥちゃんは背中にいるから、どんな表情をしているのかもわからない。

わかりは、しない。
他人である彼女が、いったい何を考えているのかなんて
ずっと傍にいた素子ちゃんにだって、俺はわからないことだらけなのに
…他人を、自分の物差しで理解しようなんて思ってはいけない。
だって彼らは、彼女たちは、自分とは違う存在なのだから
だから本質的に、僕達は孤独なんだ。
本当にわかりあうことなんて、できはしない。
一つになることができないように
それはとてもとても哀しいことだけど、ただの事実。



「―――――ケータロの、ばか………」

泣いてた、ようなきがした。
その声と共に不意に背の重さが消失して、俺はつんのめった。
スゥちゃんが逃げ出したのかと、一瞬思う。
けど次の瞬間、それに倍する重みが急に掛かって
不意を突かれた俺は、あっさりと後ろ向きに転倒してしまった。

「うわぁ!?……スゥちゃん、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「――――!?」

スタンと、身軽に俺の目の前に着地した少女
褐色の肌と白色の髪は変わらない。
けど、その違いは一目瞭然。
すらりとした手足。
こちらを覗き込むような姿勢。
鮮やかな、笑み。

「君は……」
「久しぶりだね、景太郎」
「大人の……スゥちゃん?」
「ううん。カオラって呼んでよ」
「え?」
「自分に名前を付けたんだ…あの娘と、区別がつくように」
「君は……スゥちゃんじゃないの?」
「私は、朱い月のカオラ」
「あかい……つき…?」
「そうだよ、景太郎」

呼ばれて、嬉しそうに返事をする彼女を前にして
俺はただ、突然の再会と展開に呆然としていた。
夕日が、眩しかった。




あの時、私は生まれて初めて『出逢い』を経験しました。
人間としての私は、まさしくそこから始まったのです。
親と出逢うことによって、人間としての生がはじまるのだから

(中略)

貴方は不思議な人です。
ただの現象に過ぎなかった私を、人間という『意味求めるもの』に変えてしまったんですから。
私は貴方の示す情動の一つ一つを得ていきました。
『人間らしさ』というもっとも大切なものを教えてもらったのです。




「え………」

その言葉を聞いた時、私にできたのは
口をぽかんと開けて、みっともなく立ち尽くすことだけだった。
――わからない
目に映るもの全てが意味をなくして、ただそこにあるだけになる。
気まずそうに俯いている浦島先輩。
その後ろで、あっけらかんとしている見慣れない姿のカオラ。
最初は、そんな姿に『変身』したまま戻らなくなってしまった彼女の話だった。
じゃあなんでそんなことになったのか、きっかけはなんなのかという話になって
そして先輩が散々に迷って、ようやく口に出した言葉は
――よく、わからない
この場にいるのは他に、キツネさん、なる先輩、ニャモちゃん、サラちゃん。
その誰もが、一言も発さずに浦島先輩を見詰めている。
くうはくの時間


『ごめん…みんな、相談もしないで』

『俺……今月末から、瀬田さんとアメリカに行きたいって思ってるんだ』

『それで留学のための選抜試験が来週あって……倍率高いんだけど、受かったらすぐにアメリカに発つことになるって』

『向こうにホームステイして…語学も学んで……半年か、一年くらい』


浦島先輩が、いなくなる。
一年
三百六十五日。春と夏と秋と冬が巡るまでの間。
無限にも思える時間。
そんなの
そんなのは
――わかりたく…ない

「そんなの…………いやです!」
「しのぶちゃん……」
「私…私、もうすぐ受験なんですよ?先輩がついてくれないと…ダメです」
「でも…ほら、成瀬川やニャモちゃんもいるしさ…」
「そんなの!そんなの無理に決まってます!先輩がいないと、私は何も出来ないんです!!」

絶叫
その場にいるみんなが、意表を突かれたような顔をした。
私がこんなふうに叫ぶことなんて、全くなかったから。
もう一年近く前に、真夜中の広場で、あの人に向かって叫んで以来
そうだ、あの人は―――

「…素子さんは?」
「え?」
「素子さんは、このこと……留学のこと、知ってるんですか?」
「!!」

浦島先輩が、息を飲んだ。
それが、彼を傷つける事柄であることがわかった。
でも、それは同時に私にとっての一筋の光明だった。
愚か者でも、卑怯者でも、臆病者でも構わない。
私は…あなたと、一年も離れていられるほど、強くない。
こんな幸せな毎日を、失いたくない。
だから私は、浦島先輩をどこにも行かせないための言葉を紡ぐ。

「浦島先輩と素子さんは、恋人同士なんですよね?」
「………」
「だったら、先輩。素子さんのことはどうするんですか?」
「……それは」
「違うよ」
「…!?」

唐突に割り込んできた、声。
聞き慣れたようで、聞きなれないその声の主は
何の憂いも躊躇いもなく、私の言葉を否定したのは
にっこりと笑った、カオラだった。
その、鮮やかな笑み
――なぜだか彼女に、本能的な危機感を感じた。

「景太郎は、素子に全部話したんだよ。それで…」
「スゥちゃん!」
「それで、素子と景太郎は別れたんだから」
「――――――――!!」

その言葉が、私の動きを止めた。
熱くなっていた血液が、一瞬で凍る。
―――イマ、ナンテ
浦島先輩と、素子さんが別れた?
そんなこと、あるわけがない

今も私の中には
あの時、部屋で抱き合う二人の姿が焼きついている
涙(と、多分鼻水)でぐしゃぐしゃになった二人の顔も
あんなに互いのことを受け入れあっていた二人が別れるなんて
そんなの……ありえない。
心の中でそう断言しながらも、なぜか私の声は震えていた。

「うらしま、先輩……」
「………」
「ほんとう、なんですか…?」
「…………ごめん、しのぶちゃん」

浦島先輩の、謝罪の言葉
……それで、なんとなく悟ってしまった。
彼女の言ったことは、たとえ一面だけであろうとも事実なんだと
あんなに想いあっていた二人が、あんなに必要としあっていた二人が、別れたんだと
そして、もう一つ
もう、私が何を言っても無駄だということも

だって貴方はいつも、私の言う事なんか聞いてくれなくて、自分の選んだ道を進んでいくから

「…………!」

後はもう、よく覚えていない。
多分私は半泣きか、本泣きになって
浦島先輩の制止を振り切って
いつものように、逃げ出したのだろう。



思う。
多分私は、どうしようもなく子供なのだろう。
浦島先輩がいて、素子さんがいて、成瀬川先輩がいて、カオラがいて、キツネさんがいて、むつみさんがいて、サラちゃんがいて
そんな中に私がいて
そんな幸せな日々がずっと続けばいいと…願っている
他には何もいらない
他には何も望まない
だから日常が崩れるかもしれないことが、とてもとても…怖い
臆病な私は……恐怖に耐え切れず、また逃げてしまうんだ


気が付くと、部屋にいた。
ぬいぐるみや小物が溢れた、自室のベットの上で座っていた。
どれだけの時間が、経ったのだろう。
そう思ってぼんやりと時計を見ると、さっきから30分くらい経っていた。
ずっと泣き続けていたらしく、膝がだいぶ濡れている。
なんだかまた悲しみがぶり返してきて、再び膝に顔を押し付けた。
もう、何も考えたくない。

――――コンコン、とノックの音がしたのはその時だった。


「入ルヨ」
「………うん」

蚊の鳴くような返事が聞こえたのか、部屋に入ってくるニャモちゃん。
その足取りはいつもと変わらずしっかりしたもので
その眼差しはいつもと変わらず透明なもので
その声音はいつもと変わらず淡々としたもので
まるで何事もなかったかのように
あっけなく、彼女は告げた。

「試験ハ来週デ、合格シタラスグニ留学ダッテ」
「………」

そのことを聞いても、何も感じない
ただ、心に衝撃のようなものが走ったのを、他人事のように思っていた。
正直、もう何もしたくなかったけど
義務感だけで言葉を返す

「他の人たちは……なんて?」
「きつねトさらハ怒ッテイタ。成瀬川ハ黙ッテイタ。素子ハ…」
「…素子さんは?」
「来ナカッタ」

そう、と気のない返事をする。
ぼんやりと、考えてみる。
キツネさんとサラちゃんは反対したんだろう。多分私と同じように激昂して
変じゃない。
成瀬川先輩が何も言わなかったのは、このことを知っていたからだろうか。どちらにしろ、反対はしていない
それも、あるかもしれない。
素子さんは来なかった。あらかじめ知っていた。
そういえば、昨日からずっと二人が一緒にいるところを見ていない。
じゃあやっぱり、二人は喧嘩別れをしたんだろうか

そうして、気付く。
私にとってはあの二人が、絶対に別れそうにないあの二人の姿こそが
ひなた荘の日常が永遠に続く象徴だったのだと
―――――そんな、身勝手で迷惑な幻想を抱いていた自分に、気付いた。


「ニャモ、ちゃんは?」
「ン?」
「ニャモちゃんは、どう思う?」

問い
なんとなく、気になった。
キツネさんや私は、否定した。
成瀬川先輩やカオラは、肯定した。
じゃあ、彼女は?
私とそっくりな姿をした、私と似て非なるあなたは?

「私ハ」
「………」
「ワタシ、ハ…」
「………」
「私ハ、彼ノ希望ヲ止メルベキデハナイト思ウ」
「……でも、ニャモちゃんはそれでいいの?」

違う、よくないのは私だ。
でも、彼女だって私と同じのはずだ。
ずっと一人ぼっちなのを、浦島先輩という灯火を見つけて
ひなた荘に来て幸せな日常を経験して
…本当に貴女は、どこか私に似ている。
けど

「…私モ、同ジダカラ」
「?」
「私モ、考古学者二ナリタイカラ…ソレガ私ノ、夢ダカラ」
「……みんなと、離れ離れになっても?」

それはつまり、一人ぼっちになるということ。
誰も誰にも心を許せないということ
その辛さを知っている私は、どうしてもそんな道を選ぶことが出来ない。
もう、冷めた夕食を温めなおすようなことも、言い争う声から逃れるように布団に潜り込むようなことも
したく、ない。
けど、あなたは

「私ハ、無駄ニシタクナイ」
「…え?」
「私ハ、ケータロニ貰ッタモノヲ無駄ニシタクナイ」
「貰った…もの?」
「夢ト、希望ト、大切ナ家族ト……心ヲ」
「……うん」

私が浦島先輩から貰ったもの
そんなものは、数え切れないほどたくさんある。
明るく話せるようになったのも
こうして友達ができたのも
人を信じられるようになったのも
成績が今までよりずっと上がったのも
そしてなにより、たくさんの思い出も
全て、浦島先輩から貰ったもの。

「ダカラ私ハ、ケータロノ……アノ人ノ夢モ、無駄ニシタクナイ」
「…ニャモちゃんは、私と違って強いね」
「チガウ……キット私ハ、孤独ヤ別レ二慣レテシマッテイル、ダケ」
「…ん、そうかも。本当に強い人なんて、いないかもね」

…そう、『強い』の一言で片付けてしまうのは簡単だけど、きっとそんな都合のいいものじゃない。
私は臆病で、とてもとても痛みに敏感だからわかる。
必死に我慢して、汗水垂らして、時には一人で涙を流して、そうやってみんな頑張っている。
初めから何の努力もなく耐えることができるのなら…その人はニャモちゃんが言ったように、何も感じてはない。
かつて、私が望んでいた道。
今ならわかる。そんな人生、なんの意味もない。
泣いて、笑って、喜んで、悲しんで、怒って、ホッとして、希望して、失望して、愛して、憎んで
そんな一つ一つの感情の欠片が、私の中で大切なものとして輝いている。
あなたに貰った思い出と
私だけの、ただ一つ私だけの想い


ああ、本当に大切なことを忘れていた
私は―――――あなたが、好きだということを




…私は彼女が大嫌いです。
私が持っていないものをたくさん持っていて、いらないものをすべて私に押し付けて、自分はぬくぬくとした日常を当然のように享受する…
殺意を抱くほど、憎悪していました。
だから絶対に、彼女のようにはならないと思い続けていました。

(中略)

私が今現在出てきたままになっているのは、彼女が現実を認めていないからです。
この世界を苦痛だと感じ、苦痛担当の私が出てきているだけの話です。

(中略)

ずっと束縛され何もできずにいた私と、何も知らずに自由に生きていた彼女の立場が入れ替わったのです。
そして私は、絶対に彼女のような真似はしないと誓いました。
私は、彼女とは違って『大人』なのだから




「あははははははあははははははは」
「ちょ、ちょっとむつみさん!?」
「うふふふふふふ浦島君私のいないところでそんな発表するなんていい度胸してますねぇ…」
「む、むつみさん!昨日むつみさんが大学にいたのは用事があったからで景太郎のせいじゃないですよ!?」
「そんなことわかっています。わかっていて言ってるんです。言わないと気が済みません」
「…って」

とりあえず、むつみさんに昨日のことを話した反応がそれだった。
ちなみにここは、和風喫茶日向でむつみさんが間借りしている部屋。やけに雑然としていたりする。
まあそれはどうでもいい。
とにかく今はこの、青酸…もとい凄惨な笑顔を浮かべている彼女をどうにかしよう。
と、むつみさんは部屋の隅をごそごそと漁って何かを取り出してきた。

「え―――と、むつみさん。その出刃包丁は一体…」
「乙姫家に代々伝わる魔剣デガード改め亀捌。こんな所で役に立つなんて…」
「か、かめさばき?」
「相手の防御力が高いほど切れ味を増す絶対切断効果。これなら浦島君でも…否、浦島君だからこそただでは済まないはず」
「………」
「うふふふふ、足の一本でも切り落とせば目が覚めますかね…」
「やめなさいって」
「あうっ」

なにやら刀身をおかしな目をして見詰めているむつみさんを『ぺしっ』と叩き、出刃包丁を取り上げる。
ツーと刃で指を滑らせてみるけど…うわ、すっごいなまくら。
とりあえずその出刃包丁は後ろの方に放り投げた。
当のむつみさんといえば抵抗もせずに、床に横になって今にもスポットライトがあたりそうな体勢ですすり泣き。
うーん、むつみさん。錯乱するほどショックだったのだろうか?

「しくしく……愛する人には置いていかれ、親友にも裏切られ、私はもう生きていける気がしません。お父様、お母様、先立つ不幸を…」
「どこまで本気なんですか……?」
「…いえ、だいぶ気が済みました。付き合ってくれてありがとうございます」
「はあ……」
「どうも私は感情を押さえ込んで爆発させてしまうタイプのようで、こうやって時々発散させているんです」
「要するに、気は済んだんですね?」
「ええ、一応。さっきはあまりにショックで、怒りや哀しみ、愛しさや憎しみを即座に発散させないとどうにかなってしまいそうだったので」
「むつみさんって……意外と筋金入りの変人ですね」

さっきまで本気で泣いてたかと思ったら、今では平気な顔して笑顔でいる彼女にため息をついてしまった。
むつみさんは元から何をするか予想できない部分があるけど、まさかこれほどとは…
親友やってる自分にちょっとした疑問を覚えたりする。

…けど、やっぱりそうなんだ。
むつみさんも、大きな衝撃を受けたんだ。
私も、そうだった。
講義が終わって大学から帰ってきて、机に向かって日記を書いていて
下の部屋から漏れ聞こえてくる会話に、ふと耳を傾けて
全身が硬直した。
持っていたシャーペンがへし折れたけど、そんなことぜんぜん気にならなくて
気が付けば私は、蓋にしているぬいぐるみをどかして耳をつけていた。
私のちっぽけな良心なんて身じろぎもせずに
そんなもの衝撃が大きすぎて、見栄と一緒にどこかに行ってしまっていた。
みっともない格好をして這いつくばって、二人の会話を盗み聞きしていた。
ただ、呆然とし続けて
景太郎が留学のことを彼女に切り出して
『そうか』と一言返した素子ちゃんがなにかをあいつに渡して
それを読んだ景太郎が半狂乱になって『ごめん、俺が悪かっ』謝ろうとして
激昂した素子ちゃんが『謝るな馬鹿っ!』景太郎を部屋から叩きだして
私はそこでようやく、理解することが出来た。

―――今、二人は別れたのだと

素子ちゃんは気が狂ったのか、と思った。
景太郎は気が狂うかもしれない、と思った。
私は気が狂いそうだった。

信じ、られなかった


「……それ…るさんは……るんですか?」
「え?」
「え、じゃありませんよ。ぼうっとして…大丈夫ですか?」
「は、はい…で、なんの話でしたっけ?」
「これからのことです」
「…でも、私達が景太郎にしてやれることなんてたいしてないですよ」
「私としては、めいっぱい妨害をして浦島君を行かせないつもりですけど」
「……は?」

白けた沈黙が流れた。
どうやら今回のギャグ担当は私達らしい
そんな、取り留めのない思考が浮かんでは消えた。

「…やめましょうよ、そういうの」
「なんでですか?ひょっとしたら、彼ともっと仲良くなれるチャンスですよ」
「どんな手段で引き止めるつもりですか?」
「今夜にでも彼の布団の中に二人で忍び込んで…」
「却下却下却下です」
「でも…素子さんも認めてしまいましたし、もうこれくらいしか…」

むつみさんにも、それはわかっているらしい
今の景太郎を止めることが、どんなに難しいかということを
そこまでわかっているのなら、今のあいつの行動が
どんなに珍しくて、貴重で、大切なのかも理解して欲しい。
…もしかしたらわかって言っているのかもしれないけど
それでも私は、友人としてあいつを弁護することにした。
どこか景太郎に似ているむつみさんなら、きっとわかってくれると信じて

「ねえ……むつみさんには夢とかありますか?」
「夢…」
「私には……ありません」
「そうですか?」

夢とは言わない
東大をずっとずっと目指し続けたのも
今も胸の中にわだかまる想いも
夢とは、形のないもの
漠然とした未来への希望
今までの私が目指していたものも、今の私が求めているものも
夢とは、言わない。
……それはむつみさんも、そして景太郎も同じのはずだった。

「……そうですね。それなら私にも、夢と呼べるものはありませんね」
「………」
「私には…それこそ、約束があるだけですから」
「きっと景太郎も同じです。でも…考古学っていう夢を持てたんです」
「ああ、それはすごい事かもしれませんね……私には、夢を持つなんて想像もつきませんから」
「……はい」

むつみさんにも、夢はない。
理知的なのに、時折ひどく刹那的な彼女だから
景太郎と同じように、ずっとずっと東大を目指して、約束を果たすための貴女になって
今も彼女は、約束に依存している。
それは、他人から見ればとても哀しくて虚しい生き方だけど、彼女本人は当たり前としか思っていない。
だから私も、そのことについて良いとも悪いともいわない。
けれど、夢がないからといって、人の夢まで潰して良い訳が…ない。
そんな権利は、私にもむつみさんにもない。

「夢を持つって、すごいことなんですねえ…」
「じゃあ、景太郎が夢をかなえる邪魔はしないですよね?」
「嫌です」
「むつみさぁぁぁぁぁぁぁん!!」
「だってまだ、一緒に東大に行くっていう約束も果たしてないんですよ?」
「……そんなの、景太郎が帰ってきてからでもいいと思いますけど」
「それに、なるさんはそれでいいんですか?」
「……え?」
「半年から…一年ですよね。そんなに長い間、浦島君と離れ離れになって…いいんですか?」
「…それは、まあ」

ごにょごにょと呟く。
だって、みんな我慢するんだから、自分だけ我侭はいえない。
そんな私がいた。
けれど


――――――信じ、られなかった

二人の会話を聞いた時に

景太郎に着いて行ければ

そんなことを思う、私がいたなんて




浦島が、二日前に留学のことを皆に説明した
らしい。
私はその場にいなかった。
ずっと、浦島を避けているから
それどころか、他の住人たちともろくに話をしていない。
私に、勇気がないから

なる先輩に『もう一度話し合ったほうがいい』と言われたけど
どう話しかければいいのか、わからない。
どんな顔をして会えというのだろう。
私は奴に、一方的に三行半を突きつけたというのに
…避けるような行動を取れば、すぐに私と浦島は会わなくなった。
奴は朝から晩まで自室で勉強しているのだし、食事の時間帯をずらして管理人室に寄り付かなければ
それだけ、私と浦島の接点は少ない。
こうしてずっと会わなければ、すぐに旅立ちの日がきて、機会は失われてしまうのだろうか。
だったら楽なのに

けれどどうやら、そういうわけにはいかないようだった。

「素子さん…こんにちわ」
「ああ。何の用だ?しのぶ」

私が物干し台で日課の素振りをしていると、しのぶがやってきた。
今、物干し台に洗濯物はない。しのぶも、シーツなどを持っているわけではない。
だったら、景色を眺めに来ただけかもしれないが
なんとなく、私に用があるのだとわかってしまった。
しのぶ、だからな…

「今日は、素子さんにお話があって来ました」
「そうか」

ひゅんひゅんと振り回していた木刀をぴたりと止めて、しのぶの方に向き直った。
どこか、思い詰めた目をしている少女。
前にも、こんな目つきのしのぶを見たような気がした。
あれは……いつだったろうか
と、黙っている私に焦れたのかしのぶの方から語気も荒く切り出した。

「素子さんは……浦島先輩を、止めないんですか?」
「…その話か」
「…浦島先輩を止めるには、素子さんに頼むしかなさそうですから」
「浦島が、留学するのは嫌か?」
「嫌に決まってます!」
「あいつが……夢を追い求めるのが、そんなに嫌なのか?」
「……っ」

わざと、そんな聞き方をする。
しのぶは、ぐっと詰まって一瞬視線を足元に這わせて
それでも立ち直り、私の目を見詰めて

「そのために、先輩がひなた荘からいなくなるなら……私は、嫌です」

言いきった。
強いな、と思う。
それとも弱いのだろうか。
自分の不当性も、相手の正当性もわかっていて、こんなことを言えるなんて
こんなことを、言わなければならないなんて

「私は、子供ですから……今の、幸せな場所にいられるなら…未来も、過去も、どうでもいいんです」
「…あいつがいなくても、ひなた荘はなくなったりしないぞ」
「あは……素子さんも、浦島先輩と似たようなこと言うんですね」
「なに?」
「さっきも言いましたけど…私は、『今』のひなた荘に居続けたいんです。浦島先輩がいなくなった『昔』のひなた荘なんて…どうでもいいんです」
「そうか……」
「私は、素子さんや、ニャモちゃんや、成瀬川先輩みたいに…孤独に強く、ないんです」
「……私だって、強くない」
「かも、しれません。でも私はみんな以上に、一人ぼっちでいることがとてつもなく怖いんです……」

しのぶが、ゆっくりと私のほうに歩み寄ってきた。
さっきから平行線を辿っている会話とは裏腹に
…しのぶは、何をしたいのだろう。
私が浦島を引きとめるなんてことは、万が一にもありえないというのは、もう十二分に伝わっているだろうに
だが同様に私も、しのぶを説得する材料を見つけれないでいた。
この少女は、相手の意見を受け入れることを初めから放棄してしまっている。
こちらに向かって歩きながら、詩でも歌うかのようにしのぶが話す。

「無いなら無いで別に構いません。初めから無いなら痛くも痒くもありません」
「………」
「でも、幸運にも手に入ってしまった今となっては話は別…素子さんにもわかりますよね?」
「ああ…そうだな」
「ここに来る前、私の両親はいつも喧嘩してました。私は父さんも母さんも好きでしたけど、あの人たちにとっては私は『厄介物』だったんです」
「………」
「だから私には価値は無いんです。自分で価値を作るしかないんです」
「…それは」
「料理洗濯家事掃除。私、ひなた荘では役に立ってましたよね?」
「なっ…!?」
「もちろん、その時は無意識ですよ?後になって考えてみて、気付いたんです」
「そう、か…」
「きっと私は、とても嬉しかったんでしょうね。自分の存在意義を自分で証明できていたんだから」

そう語るしのぶは、言葉とは裏腹に決して楽しそうではなかった。
それは、そうだろう。
私だって、剣の修行を楽しいと感じたことなんてない。
それは私の存在意義であり、当たり前のことであったのだから
辛いと感じることもない代わりに、楽しいと感じるはずもなく
それ以上、何かを得るでもない。
救いもない

「でも、今は違いますよ。私はちゃんと…生きています」
「…浦島か?」
「もちろんそれもありますけど…何より、この場所です。先輩がいて、みんながいる、この場所のおかげです」
「だが……いつか、なくなるものだぞ」

告げても、しのぶはコクリと頷くだけだった。
…そんなことは、私だってよくわかっている。
この場所にいたい、離したくない、無くしたくない。
私も狂おしくそう思っていた。

もしも浦島がもっと前に留学の事を言い出していたら、私はきっと許さなかったと思う。
泣いて、喚いて、引き止めて、もしかしたら無理心中でもしていたかもしれない。
『貴様を殺して、私も死ぬ』と
相手の意向を無視して自分の我侭を押し付けるなんて、最低だと思う。
……それがわかっていても、止めようがなかっただろう。
私には元から何もないのだから
誰一人として私には期待していないのだから
なぜなら私は、全てにおいて姉上に劣っているのだから
あの人を知っている人間なら誰もが姉上のほうを選ぶ
だから私にはそれこそ浦島しかいなくて、だからいつまでも傍にいて確かめていたいと
……そんな、私にとっての全ては
あの時、まがりなりにも姉上に勝ったことで一変したのだ


「しのぶ、お前は以前の私に似ているな」
「…少しだけですよ、きっと。私は素子さんみたいに強引じゃありません」
「おい」
「それに、私は子供だから……ここで何もしなかったら、私の想いは全て嘘になってしまうから…」
「……そうか」

やっと、理解できた。
しのぶが何をしたいのか、その思い詰めた瞳の意味を
確かにこの少女は、相手の言うことを受け入れるのを初めから放棄してしまっている。
けど同時に、浦島を説得することも諦めてしまっているのだ。
だがそれでも、引き止めないわけにはいかない。
失敗すると、負けるとわかっていても、そこに機会があるのなら、この少女は
戦う。

「……そこまでわかっているのなら、お前は子供などではない」
「え?」
「一人前の……女だ」
「…そうですか?」
「ああ、尊敬に値する」
「あは……なんだか、あまり嬉しくないですけどね」
「そうか?」
「はい。だって、とても―――」

イタクテ、クルシイ

それでも私は、諦めが悪いから
やるだけやって玉砕しますと、彼女は言った。




俺が、留学のことを皆に発表してから三日が過ぎた。
あれからずっと、ほとんどの住人とはろくに話していない。
避けられて当然のことをしたわけだけど、それでもやっぱり……寂しい。
くじけてしまいそうに
そんな気持ちを抑えて、俺は黙々と勉強していた。
受験から半年以上経っているので、やっぱりずいぶんと忘れてしまっている。
その差を取り戻すために

こんな状態は、前にも経験している。
俺がひなた荘に初めて来たころ、こんなふうにして一人で勉強していた。
自分が東大生だとみんなを騙して(不可抗力ではあったけど)どうせならこのままここにいようと思って
…みんなを裏切っているという意味では、今と同じだ。
こんな状態でアメリカに行ったら、それこそひなた荘に帰ってこれないだろう。
また、追い出されるのだろうか
それも仕方ない。
嫌だけど、仕方ない。
それでも時折悩んでしまう。
この、考古学者になるという夢に、それだけの価値があるのだろうか、と。
東大を目指していた時は、そんな疑問なんか持たなかった。俺にとって、それはごく当たり前のことだった。
約束は守らなければいけないという、義務感もあったと思う。
東大生になれば自分にも箔がつくのではという、下心のようなものがあったことも認める。
けど何より………俺には、やるべきことなんて他に無いのだから、選択の余地が無い。
確かに家業を継ぐというレールは最初から用意されていたけど、それは浦島家の長男の期待された役割であって、『浦島景太郎』に対する期待じゃない。
特に母さんは、そんな俺の中途半端なこだわりを頭から無視していて、それに対する反発もあったのかもしれない。
とにかく俺は東大を受けるために、半ば自分の意志で、半ば追い出されるように家を出た。
あの時も、俺は妹を裏切った。
……進歩もなく、また同じ事を繰り返している俺がいる。


「景太郎、勉強はかどっている?」

明るい声と共にガラリとふすまが開いた。
成瀬川―――――じゃない。

「まあ、ぼちぼちだよ」
「でもなーんか暗いよ。景太郎は、やっぱ一人より二人の方がはかどるんじゃない?」
「まあ、受験勉強の時は成瀬川やむつみさんがいてくれて助かったけど…」
「じゃあ私が手伝うよ」
「スゥちゃんが…?」
「もう!私はそんな名前じゃないって!」

彼女は、頬を膨らまして拗ねたようにそっぽを向いた。
そう、大人のスゥちゃんが。
彼女は、ずっと元に戻らないままでいる。
それはとても大変なことなんだろうけど…俺の留学騒ぎで、何かうやむやになってしまった。
彼女は、自分のことなのに追及するつもりもないようで、みんなは前と同じように接している。
そして彼女だけは、俺のところによく来て平気で話をしていく。

「ごめん、でも『朱い月の〜』じゃ呼びにくくて仕方ないよ」
「むー、自分じゃけっこう気に入ってるんだけどなー」
「うーん…なんか渾名みたいなものがあるとありがたいんだけど」
「……じゃあさ、レッド。朱いんだからレッドでいいよ」
「れ、れっど?」
「カッコイイでしょ」
「なーんか戦隊ものみたいだなあ…」

むしろレッドは成瀬川って感じ?
じゃあ素子ちゃんがブルーでキツネさんがイエロー、しのぶちゃんがピンクでむつみさんがブラック…
スゥちゃんが巨大合体ロボットやらを出してくる人で、はるかさんが基地司令だな

「ちなみに私のことも呼び捨てでいいから。代わりに景太郎のことを景太郎って呼ばせてもらうよ」
「あ、うん…」
「で、景太郎。どこかわからないところでもあるの?」
「えーあーうん。でも歴史の問題だから君には…」
「ああ、これね。@はハでAはト。(2)は『文永二年』じゃないかな?」
「えっ…スゥちゃん、国語とか歴史とか苦手じゃなかったっけ?」
「『あの娘』の苦手なもの、嫌いなものは全部私に回ってくるんだから、こういう分野は得意なの」
「うーん…よくわかんないんだけど」

俺が間抜け面でそんなことを言うと、彼女はくすくすと笑って

「要するに、景太郎のことを手伝えるってことだよ」
「あー……そうなんだ」

本当に嬉しそうな笑顔で言う彼女。
何がそんなに嬉しいのだろうか……もしかしたら、俺がひなた荘を出て行くことが嬉しかったりして
…って、そりゃないか。
鈍いとか馬鹿だとか言われる俺だけど、彼女の純粋な好意は間違えようがない。
彼女が何を考えているのかはよくわからないけど、こうして肯定してくれるのは……ひどく、ありがたい。
特にこうして、一人で勉強している時は
勉強とは結局自分との戦いだけど、誰かが認めてくれることで力が沸いてくることもあるから。


こんな状況は前にも経験している。
俺がひなた荘に初めて来たころ、こんなふうにして一人で勉強していた。
あの時は、俺を認めてくれたのは成瀬川だった。
誰も――俺自身ですら――積極的に肯定できなかった、『約束』を守るという道を
もう誰も覚えていない、多分無駄に終わるだろう不毛な生き方を
いともあっさり、無責任なまでに実感を込めて『絶対憶えている』と断言した彼女。
多分あの時俺は、そこで初めて『ひなた荘に居たい』と思ったんだ。
まがりなりにも、自分の居場所というものを発見できたんだ。


けれど今この場所に、成瀬川はいない。
代わりに、朱い月だとかレッドだとか、俺のまるで知らない少女がいる。
…ああ、そうだ。やっと気付いた。
彼女は俺の知っている、天真爛漫な少女じゃない。
とても純粋なところが似ていたから、気付くのが遅れてしまった。
外見も性格も得意分野も、そして名前も違うというのに

「景太郎、ここはdivisionじゃなくてsplit personalityじゃないかな?」
「え……あ、そうか、な」
「もう、しっかりしてよ。そんなんで試験に合格してアメリカに行けるの?」
「ま、まあ語学なら向こうで本格的に学ぶつもりだから…」
「こんなの試験勉強の役にしか立たないよ!言葉を憶えるっているのはもっと大変なことなんだから!」
「…そういえば、スゥちゃんは関西弁だったけど…君は標準語使ってるね」
「あの娘はキツネから言葉を習ったから関西弁なの。私は……」
「…?」
「…私は、ここ二年のみんなの会話から憶えたから」
「二年か……やっぱりそのくらいは必要なのかな?」


試験勉強は、信じられないほどスムーズに進んだ。
彼女が退屈が理由で暴れだして、勉強の邪魔をするようなこともなかったし
誰かがやってきて、つい話し込んでしまうようなこともなかった。
まるで、ひなた荘から他に誰もいなくなったように

…スゥちゃんは、いったい何処に行ってしまったのだろう。
どうしたら、会えるのだろうか。
このまま、さよならも言えないのは、少し……悲しすぎる。
きっと俺は、彼女を傷つけたままだろうから
それを抜きにしたって、同じ場所に住む大切な存在だから
その天真爛漫な笑顔に、何度も何度も助けられてきたのだから

その日も、何事もなく終わった。
大人のスゥちゃんは昨日や一昨日と同じように、俺の勉強に合計で半日も付き合ってくれた。
他の住人は、やっぱり誰も現れなかった。
大人のスゥちゃんが夜に持って来てくれたおにぎりは、ちゃんと形が整っていて食べやすかった。




「ぐ………」

ばたんという音と共に扉が閉まる。
今ようやく、彼女―――ニャモ=ナーモが去った。
私は思い切り打ちのめされて部屋の隅でうずくまっていた。
眼に痛いほどの緑がそこらじゅうにあってうっとおしい。全部刈り取ってやろうかと一瞬思ったけど、やめた。
そんなことをしたって意味がない。
この、悔しくて悲しくてどうしようもない気持ちは、そんな程度じゃ晴れない。
むしゃくしゃする気分を落ち着けるために深呼吸をすると、ふと嫌なものを見つけてしまった。
フローリングの床に落ちた、一点の紅い雫。


今日――つまり景太郎が留学の事を言い出して四日後――も私は彼の勉強に付き合っていた。
でも、数学とかそういう分野は全然手伝えないので自分の部屋に戻った。
ニャモ=ナーモが訪ねてきたのはそんなときだった。
「話ガ有ル」と扉を叩いてきたので、何の警戒もせずに部屋に招き入れた。
『いらっしゃい』と愛想よく笑うくらいはしたかもしれない。
景太郎の様子でも聞きに来たのかな、と思った。
そして彼女は

「何故貴女ガココニ居ルノ?」

心底不思議そうに、あっさりと私の存在を否定した。

私は「え…?」と声を漏らして呆然とするしかなかった。
…正直言って私は、ニャモ=ナーモという少女をよく知らない。
カオラ=スゥもあまり話をしていなかったし、何より彼女は景太郎としのぶ以外の相手にはほとんど心を開かない。
けれど、決して悪い娘じゃないと思っていた。
言葉が少ないだけで根は優しいのだと
だって、ひなた荘の住人なのだし、何より景太郎が信頼しているのだからと
―――とんでもない間違いだった
この少女は、言葉が少ないわけでも優しいわけでもない。

「アノ娘ハ今ドンナ状態ナノ?」
「――――っ!」

そしてニャモ=ナーモは更に私に質問を重ねた。
その一言で、一気に頭に血がのぼった。

「知らないわよ!あんな娘のことなんて!」
「何故?貴女ハ彼女ノ上位人格ノ筈。知ラナイハズ無イ」
「――――知って!?」
「調ベテ、推測シタ。多重人格ノ仕組ミト、貴女ノ存在理由ヲ」

彼女が当然のように出した言葉に、私は寒気を覚えた。
この少女は……感情に任せてきたわけじゃない。
入念に下調べを済ませて、理性でもって私を問い詰めている。
蛇のような狡猾さと執念深さで
そのガラスのように透き通った視線に、押された。

「……あの娘はずっと自閉してる。何を考えてるのかは私にもわからない。けど…」
「ケド?」
「多分……泣いてる」
「貴女ダッタラ彼女二呼ビカケルコトモデキル筈」
「っ!なんでそんなことをしなくちゃいけないのよ!」

一旦冷めた血が、眩暈を起こしそうなほどに勢いよく頭に昇った。
何故、今更、カオラ=スゥを呼び戻さなければならないのか
どうせあの娘は、この状況を前にしたって泣き喚くだけだ。
あまりに子供で、無知で、臆病な彼女だから
だから、今ここに私がいる。

「あの娘がいても景太郎の邪魔をするだけなんだから、私の方がいいに決まってるじゃない!」
「……ソレハ本気デ言ッテイルノ?」
「何がよ!」
「貴女ハ嘘吐キ。ソレニ偽善者」
「なっ……」
「彼ノ邪魔ヲスルノガ悪いコトダナンテ誰ガ決メタノ?彼ヲ引留メヨウトシテイルしのむハ間違ッテイルノ?」
「………」
「ナラ、貴女ハ何故彼ノ手伝イヲスルノ?」
「そ、そんなの……景太郎のためになるからに決まって…」
「違ウ、貴女ハ」


ただ、カオラ=スゥに戻ってこられると困るから
だから貴女は景太郎の手伝いをするのだと、彼女は言った。


世界が揺れた。
足元がぐらつくほどに、激しい感情を抱いたのはそれが二度目だった。
そして怒りとも悲しみともつかない……そう、憎悪とでも呼ぶべきものを抱いたのも
ニャモ=ナーモは相変わらずガラスのような眼でこちらを観察していて
一瞬だけ、本気で殺意が湧く。

その一瞬で、視界に線が走った

「………………」
「あっ…!」

その線に沿って、彼女の頬に赤い筋ができた。
つぅ、と血が垂れる。
ショックを受けたのはむしろ私の方だった。
少女は全く怯むことなく…というか気付いた様子すらなく、こちらを見据えている。
激しい感情は本当に一瞬だけで、後には苦いものが残った。
…もう、こんな場所にいたくない。

「出てって……」
「………」
「これ以上話したくない、出て行って!」
「……ソウ」

私は、まるで親の仇に対するように彼女を睨みつけていた。
彼女はそんな視線など存在しないかのように無造作に背中を向け、扉に手をかけて
ふと、思い出したかのように聞いてきた。

「―――――ソウイエバ、貴女ノ名前ハ?」

笑い出したくなるような、質問
この少女は、私に対して調べて推測し、こんなに追い詰めて打ちのめしておきながら
私の名前も知らなかったなんて

「あかい、つきの……カオラ、よ………」

五日前のように自信満々で名乗れるはずも無く
搾り出すように言葉を紡ぐのが精一杯だった。


彼女は去って、私は耐え切れなくなってうずくまり
部屋には一滴の血の雫だけが残った。
どうしようもなく、悔しくて、悲しくて
ニャモ=ナーモは、けっして言葉が少ないわけでも優しいわけでもなく
蛇のように狡猾で執念深くて
徹頭徹尾、私を否定していたけれど
けれど
間違ったことは……言って、なかったから………


――私が誰にも望まれていないこと――
――そんなことは知っていた――
――けれど、認めたくなくて目を逸らしていた――

私は、みんなのことをよく知っているけど
みんなは、私のことを知らない
このひなた荘で、みんなと共に過ごしてきたのはあの娘であって
私は、その様子を羨ましげに盗み見していただけなのだから
彼らにとって、私はただの他人に過ぎない。
みんなの信頼も、知識の大部分も、この肉体ですら、本来はカオラ=スゥのもので
私には本当に、この想いを除いて何もなかった。
そして、それでもいいと思っていた。

こんな状況になって、私が表に出るまでは

朱い月の下という束の間ではなく、ずっと長い間出られることができる。
彼の声を聞いて、見て、触れて、思い出を残すことができる。
悲しみと痛みしか知らない私にとって、それは想像したことすらない歓喜だった。
――この場所にずっといたい――
欲が生まれた。
私は、純粋性を失い
朱い月の下でのみ存在できる『朱い月のカオラ』は、『朱い月のカオラ』ではなくなった。
…無いなら無いで別に構わない。
…初めから無いなら痛くも痒くもない。
けれど、仮初といえど手に入ってしまったならば―――
どうしようもなく、終わるのが怖くなる。

ニャモ=ナーモの言っていることは正しい。
カオラ=スゥが戻ってくれば、私は再び『朱い月のカオラ』になってしまう。
…もう、あの牢獄の中に戻りたくない。
彼女は『景太郎がいなくなる』という現実に耐え切れずに逃げ出した。
なら『景太郎がいない』という現実が続けば、彼女は戻ってこない。
だから私は彼の留学に賛成し、試験勉強の手伝いをしていた。
…そういう一面は確かにある。
けど、景太郎のことを想って手伝ったというのも、嘘じゃないはず……
…………………………………………………………
……あれ?
景太郎の勉強を手伝って
景太郎がアメリカに行って
あの娘はずっと自閉したままで
私がずっと表に出ている状態が続いて
そして
わたしは……どうするのだろう?
だって、そこにはけいたろうがいない
……………………………………………………
……あれ?
じゃあ私が景太郎の邪魔をして、彼がひなた荘に残ったら?
安心したカオラ=スゥが出てきて、私は牢獄に戻る。
………
………
………
あは
あははは
…なあんだ
どっちにしろ、私に未来なんてないんだ
私はどこまでいっても『朱い月のカオラ』のままなんだ
景太郎の試験は明日。受かったら、すぐに留学
あと一週間もない
私の望むものはそこで終わる
とても簡単
そして、どうしようもない


ねえ……わたしは、どうしたらいいの?

だれか……おしえて……




試験当日。
試験当日だ。
やるだけのことはやった。
これで落ちても、それはそれで仕方ないと諦めることができそうな程に
・・・試験を受ける前から悟り入ってるなあ、俺。
でも、東大受験の時はこんな気分を味わった事なんてなかった。
あの頃はただ『やらなければいけない』という義務感だけが先行していて・・・いや、それ以前にただ当たり前のことで
辛いと感じることもない代わりに、何かを目指しているという充実感の欠片もなかった。
生きながらにして死んでいたようなもの
今の俺と、あの時の俺では、それこそ雲泥の差がある。
良きにしろ、悪きにしろ

「ってまあ、だからといって朝風呂入るほどのんびりしてるのは自分でもどうかと思うけど・・・」

朝靄の中、うっすらとけぶる露天風呂はそこはかとなく神秘的で、幽玄だ。
滅多に味わうことのできないこの雰囲気を、心の底から堪能する・・・訳にはいかなかった。
それはもちろん試験前の緊張のせいもあったけど
なによりも、心残りがあったから
・・・そう、結局俺は、留学のことをみんなに許してもらっていない。
それが、心の中にとても重くのしかかっていた。
俺にとって、みんなはとても大切な人達だから。
それに、俺はまだ一番大切なことを話せていない。
謝れていない。
特に、あの二人に・・・

ガラガラガラ・・・・・・

「あ、誰か入ってきた・・・」

・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ええっ!?」

たたたたた、確かちゃんと『景太郎入浴中』の張り紙は出しておいたはず・・・
前にサラちゃんがそれを剥がして入ってきたことがあったけど、今は喧嘩中だし・・・
とにかくこの女子寮には男は俺しかいないわけで入ってくるのは必然的に女性ということに・・・!
・・・スゥちゃんかもしれない、と思った。
大人のスゥちゃんはこんな事はしない。彼女は常識とか線引きといったものを、よくわきまえている。
だから、もしかしたらスゥちゃんが元の姿に戻ってやって来たのかもしれないと
そんな、願望混じりの考えが浮かんだ。

この時の俺は、自分の思考の罪深さに気付かなかった。

急いで、急いで考える。
どんな表情をすればいいのか、どんなことを言えばいいのか、どんな謝り方をすればいいのか。
脱衣所からこの場所まで、そう距離はない。
とりあえずそちらの方向に背中を向けて、俺は急いで覚悟を決めようとする。
背後でチャプンと、湯船に入る音がして俺の思考をかき乱した。
ドキドキする。
目の前には波紋が広がる湯面しかないのに、背後に彼女がいると思っただけで
こんなにも
・・・・・・・・・怖い。


『―――――ケータロの、ばか………』

傷つけてしまったという実感があった。
あの娘が変わったまま戻らなくなってしまった責任の一端は、誰がなんと言おうと俺にある。
他の誰でもない俺が、カオラ=スゥという人間を傷つけ(たぶん今も)苦しめている。
俺は彼女に対して謝り、償わなければいけない。
・・・否定されなければ。
否定されたら、どうしよう?
その覚悟ができていなくて、だからとても・・・怖い。
覚悟を決めないといけないのに、なかなか決まらない。
そして、その覚悟が決まる前に



「せん、ぱい・・・・・・・・・」

消えゆくような、ささやき声

「え・・・・・・・・・?」

予想とは違う声に慌てて振り向くと、そこには

湯船に半身を浸して佇む、しのぶちゃんの姿があった。


デジャヴ
既視感


ひなた荘に来た初日の事を思い出した。
あの時も、露天風呂に入ってくつろいでいた所に突然バスタオル一枚の成瀬川がやってきて
(たぶんキツネさんと間違えたんだろうけど)胸が大きくなったと自慢して
直後に気付かれて、悲鳴を上げられて俺は焦って逃げ出した。
昨日の出来事のように憶えている。
それが、俺と成瀬川の・・・みんなとの、出会いだったのだから。
本当に、あの時と同じ状況が、逆の手順で訪れている。
だったら順当に、俺は出ていくべきなのだろう。
ただそれが、逃げ出すのか見送られていくのかという違いがあるだけで


「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」

バスタオルで体を隠したしのぶちゃんが、じっとこちらを見つめてくる。
慌てることも、目をそらすことも、逃げ出すことも、喋ることも許さない瞳で
それはつまり
・・・いいから黙って話を聞けって、ことだ。

「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「先輩」
「な、なに?」

情けないことに、俺は完全に腰が引けていた・・・・・・否、気圧されていた。
俺よりずっと年下の、普段はとても気弱な少女に
逆らったらただでは済みそうにない気配が、彼女の目線から声音からガンガンに感じ取れた。それはもう、素子ちゃん並に。
しのぶちゃんにこんな面があったなんて・・・と、ある意味感心しながら俺は金縛りになり
彼女は彼女でいつもとは全然違う淡々とした声で、俺が知りたかったことを告げた。

「私、この五日間でみんなに『留学のことをどう思ってるか』聞いて回りました」
「えっ!?」
「成瀬川先輩と素子さんは初めから知ってて賛成。むつみさんは反対してましたけど、成瀬川先輩が説得して今は納得しています」
「あ・・・・・・・・・」
「キツネさんとサラちゃんも、成瀬川先輩が説得しました。ニャモちゃんとカオラは全面的に賛成しています」
「そうなんだ・・・・・・」
「嬉しいですか?」
「・・・・・・うん、とても」

本当に、本当に嬉しかった。
前に一度、実家を追い出されたことがあったから・・・それがどれだけ精神的に惨めなのか、わかっていたから。
『地球が滅亡しても、お前は東大なんて入れるわけがない』なんて母さんに言われるのは・・・正直、効いた。
なまじ自覚していただけに
・・・その時、俺は相当に浮かれていたのだろう。
しのぶちゃんが唯一挙げなかった住人がいたことに、気付きもしなかった。
こんな時、こんな場所にしのぶちゃんが来た意味も

「嬉しい・・・・・・ですか?」
「うん。だってさ、それってみんなが認めてくれたってことだから。やっぱりそれは、嬉しいな」
「私は・・・・・・」
「え?」
「私は、嬉しく、ありません」
「え?あ・・・・・・しのぶ、ちゃん・・・・・・?」

なんの前触れもなく
唐突に
淡々とした無表情を崩すことなく
しのぶちゃんの瞳から、涙が盛り上がって、零れた。
死んでしまいそうなほど寂しくて悲しくて、感情が我知らず漏れ出てしまった・・・そんな、泣き方。
いつか、もう一人の彼女が俺に見せた泣き顔。
あの時俺の目の前にいた、孤独に慣れきってしまった彼女。
今俺の前にいる、孤独に押しつぶされそうな少女。
どこが違うというのだろう。

「しのぶちゃん、俺は・・・」
「何も言わないでください!」
「・・・・・・でも」
「誰がなんて言っても、私は嫌なんです。先輩がいなくなったら、ひなた荘はひなた荘じゃなくなってしまうんです」
「そんなことは・・・」
「あるんです!少なくとも私は!私は・・・先輩がいないと、ダメなんです・・・」
「しのぶちゃん・・・」
「臆病者でいいです。軽蔑してください。子供のわがままで構いません」
「・・・・・・・・・」
「私なんでもします!先輩のためなら、先輩がいるなら、私なんでもできるんです・・・・・・」

ボロボロ、ボロボロと涙を流しながら、必死な表情で
しのぶちゃんが一歩二歩と踏み出して
真正面から、抱きついてきた。
バスタオルが、落ちる


「・・・・・・・・・好きです、先輩・・・・・・・・・行かないで・・・・・・・・・」


俺の胸にしがみついて俯き、小刻みに震える少女。
ポタポタ、ポタポタと水滴が湯に落ちる音だけが響く。
俺はびっくりして、どぎまぎして、そして


   
デジャヴ
また、既視感


もう、何年も前のこと
俺が遠くの高校に行くために実家を出ることがあった。
やっぱりその時も、妹を泣かせてしまった。
・・・それで、俺はどうしたんだっけ?
ああ、そうだ。話したんだ。
真っ暗な部屋で、彼女と向かい合って
その胸の内を、全て話した。
子供のわがままだなんて、悲しい事言わないで
今までずっと妹のように、保護すべき対象として見ていたことについては謝るから。
なんでもするだなんて、自分を卑下するようなことは言わないで
君はもう・・・一人前の人間だから。

だから、だから尚更、理解して欲しい、わかって欲しい。
しのぶちゃんと肌を合わせたまま、なんだか奇妙に落ち着いた気分で、俺は空を見上げて話し始めた。


ねえ、しのぶちゃん。
俺さ、自分で言うのもなんだけど、勉強ダメ運動ダメ外見もぱっとしないし、性格も情けないダメダメ男だろ?

ああ、うんありがとう。しのぶちゃんがそう言ってくれるのは嬉しいけど、やっぱり俺は自分のことが嫌いなんだ。結局はそれが、全ての元凶だったんだと思う。
いわゆる劣等感ってヤツ。どうせ俺は・・・だなんて自分を卑下してた。そんなことだから、やりたいこととか叶えたい夢なんか何一つなくて。

東大?ああ、あれはさ・・・それこそ、他にやることがなかったから。
しのぶちゃんには話したっけ?俺が東大目指してたのは、小さい頃にある女の子と『一緒にトーダイに行こう』って約束をしたからなんだ。
その時俺は5歳だったから、もう17年も前の話だな。
普通なら、そんな約束本気にするヤツなんていない。それこそ子供の戯れ言なんだから。
小さい頃の約束を守るっていうのは確かにロマンチックかもしれないけど、自分の人生しっかり考えてるヤツならそんな道選ぶわけがない。

うん、本当にそういうこと。
義務感とか、下心とか、そういう人間っぽい部分も確かにあったけど、それが一番大きかったと思う。
俺には何もないから。
それこそ、子供の戯れ言ぐらいしか縋るものがなかった。
そんな自分が大嫌いで、そんな自分の人生なんて別にどうなってもいいやって。
・・・・・・いや、違うか。やっぱり俺が弱かっただけの話なんだ。
俺は逃げていたんだと思う。未来を自分で決めようとしないで、約束という安易な場所に、責任逃れができる道に
呆れるほど馬鹿馬鹿しくて、情けないヤツだよね。

・・・・・・でも、今度のこれは違うんだ。
俺、瀬田さんみたいに考古学者になって世界中飛び回りたいって思ったんだ。
約束とか、逃避とかじゃない。自分の意志で。
きっかけはなんだったのかもう憶えてないし、理由も上手く説明できない。
そのせいでみんなと離れ離れになるのは辛いけど・・・・・・多分、生まれて初めて抱いたものだから大切にしたい。
俺、自分のやりたいことやるために今度の試験受ける。
これは完全な我が侭だけど・・・・・・みんなには、しのぶちゃんには、許して欲しい。
大切な人だから、わかって欲しい。


「夢、なんだ・・・・・・」



俺が長い長い身の上話を終える頃には、しのぶちゃんの震えは収まっていた。
涙ももう流れていないようで、ポタポタという音もしなくなっていた。
俺はちょっと安心すると共に、なんだかとても気恥ずかしくなって顔を赤くした。
こんなに腹を割って全てを話すなんて、両親にも成瀬川にも素子ちゃんにもしたことがない。
まるで裸を見せるようで・・・って実際に今現在見せてるじゃん!
やばい、本気で恥ずかしくなってきた。体が熱くて頭がボーっとする。
今更ながらに気付いたんだけど、しのぶちゃんはバスタオルの下に水着をつけている。良かった・・・だって成瀬川や素子ちゃんに見つかったらとても痛いから。
頭がぼんやりとして取り留めのない思考が浮かぶ。心なしか揺れる視界の中で、しのぶちゃんが顔を上げた。
目を閉じてるし、涙の跡もまだ残っているけど、もう泣いてはない。良かった
・・・と、思ったその時

「セン、パイ・・・・・・」

一瞬だけ、柔らかくて暖かい感触が唇に走った

――――――――――――――え?

呆然とした俺に向かって、一歩退いた彼女がにっこりと微笑んで

バチィィィィン!!

左頬に衝撃。

「悔しいけど、今回はこれで許してあげます」

ぐらりと、今度こそ本当に視界が揺れた。
ええと、何が起こったんだろう。
突然キスされて、そしてビンタされて、そして許してもらった。
多分いいシーンなんだろうと、納得して
俺はビンタされた勢いのまま横倒しに倒れた。
バチャン

「・・・ってキャー!浦島先輩!?」

ぶくぶくぶくぶくと湯の中に沈んで、やっぱり風呂に浸かりながら長話はしちゃいけないんだなあと思う。
頭に血が昇りきっててバランスがとれなかった。
しのぶちゃんの悲鳴がひときわ遠い。多分、俺を助け起こそうとしてくれているんだろう。
ところで
俺は、試験にちゃんと間に合うのかな・・・?

湯の中から見上げた空は、ユラユラと不安定だったけど、これ以上ないほど青く澄んでいた。




伝えたいのは、私自身のことです。
何故私が存在するのか、何故私がここにいるのか

(中略)

我慢なんてしないで、『私を見て!』と叫んでいればよかった。
もしそうしてたら、今とは違った私になれていたんでしょうか。

(中略)

長々と失礼しました。
書き忘れてましたが、これは遺書です。
私が、確かにこの世に存在していたという証です。



ゴオオオオオオオと巨大なエンジンの駆動音。
あちこちに溢れる日本語、英語、そして見たことも聞いたこともない言語。
日本の玄関、成田空港。
そんなところに、みんなといる。

「しかし難関とかいっといて留学試験に通ってしまうとは・・・なんだかんだ言って頭良かったとちゃうか?」
「せ、先輩は頭悪くないですよ。私の勉強も・・・」
「否。ケータロハ確カ二頭ハ悪イケド、其レヲ補ウ集中力ト努力ト経験ガ有ル」
「ま、あいつは性格的にも能力的にもバカだから」
「景太郎もヤツに似てきたってことかな・・・」
「はるか。パパはあんなヤツよりずっとかっこいいって」
「あらあら皆さん、最後だからって浦島君に言いたい放題ですね」
「わかっているんなら止めてくださいよ、むつみさん・・・」
「まあまあ。みんな君を信頼してるんだよ。昔から言うじゃないか・・・ほら、可愛さ余って憎さ百倍」
「それは微妙・・・というかなんというか。とにかく違うと思う」

なんだかなあ・・・がやがやと会話をしているみんなを前にすると、とても見送りだなんて思えない。
でもまあ、こっちの方がひなた荘のみんならしくていいかもしれない。
少なくとも、出発の時間まではこういったやりとりが続くのだろう。
悪くない。
この寂しさも、少しは紛らわすことができそうだ。

「でも、景太郎は東大に合格したし、この試験にも合格したんだから、頭はいいってことでしょ?」
「だから、何度も同じことをし続けるバカな性格のおかげなんだって」
「なるさ〜ん。それじゃ私もバカなんですか〜?」
「・・・まあ、カメのねーちゃんがバカっていうのはわかる気がする」
「こらこら。みんな、あまりバカバカ言うもんじゃないよ。いくら景太郎君でも可哀想だ」
「あんさんも十分酷いこと言っとるやん・・・」
「成瀬川。今日ハ随分ケータロ二突ッカルノハ何故?」
「そんなの、もうすぐ時間切れなのになかなかチャンスが掴めなくて焦ってるだけです」
「・・・・・・?焦ってるって何を?」
「止めとけ、しのぶ。にしても景太郎、そのうち刺されても知らないぞ」

その直後、俺は成瀬川に殴られた・・・人目もあるのでボディーブローで。
地味に痛いし、かなり理不尽だ。
まあ、これで殴られ納めかと思うとなんだか惜しく感じられてくるから不思議だ・・・といっても俺はマゾじゃない。
こういう遠慮も何もないコミュニケーションが、ホントに大事だったんだなあと実感しただけだ。
なんというかこう、今の気分を一言で表すなら

「景太郎?こんなところまで来て、何ボーっとしてるのよ」
「んー・・・なんだかね、なにもかも皆懐かしいって」
「それ、某宇宙戦艦アニメの艦長のセリフ・・・」
「ギャハハハハ!スゥはとにかくケータロからそんなセリフが出るとはなー」
「まあ誰の言葉かはともかく・・・なにもかもか。少し寂しいな」
「そうかい?会おうと思えばいつでも会えるんじゃないかな?」
「瀬田ハ世界中ヲ飛ビ回ルカラソウ思エル。私達二トッテ国境ハ・・・遠イ」
「そーだぜ。あたしだってパパと一緒にアメリカ出るときはけっこう緊張したんだからな」
「でも、たしかに会おうと思えば会えない距離じゃないんですよね・・・あうう、でもお金が」
「大丈夫よ、しのぶちゃん。海を渡るくらい、ボートを頑張って漕げば何とかなるから」

なりません、とほとんど全員で突っ込んで、俺はアハハと笑った。
ああ、本当にいつもの日常だ・・・ただ一つ、足りないものを除けば。
そして、そろそろ時間だよ、と瀬田さんが告げた。
・・・はい、と返事して、俺はみんなの名前を呼んだ。

「成瀬川・・・」
「気をつけなさいよ。あんた基本的にバカなんだから、夢ばっか追ってないでたまには足元見なさいよ」
「・・・心配してくれて、ありがとう」
「別にあんたの心配してるわけじゃないわよ!」

「しのぶちゃん・・・」
「せ、先輩。向こうに行っても風邪ひかないように、栄養のあるもの食べて、おなかを冷やしたりしないで、体に気をつけて、それから、それから・・・」
「うん」
「その・・・向こうでも頑張ってください!!」

「ニャモちゃん・・・」
「多分、此デモウ暫クハ会エナイト思ウ」
「俺、手紙書くよ。君も頑張って。でも、無茶しすぎはダメだよ?」
「大丈夫・・・スグ追イ付ク」

「キツネさん・・・」
「にしてもケータロもけったいなやっちゃなあ・・・こんなハーレム状態で、普通自分から出てくか?」
「な、なに言ってるんですか!?」
「そやそや、辛気くさいのは嫌なんや。ウチはこれっくらいがええ」

「むつみさん・・・」
「いいんですよ、謝らなくて。どうせ私、もう16年も待った上に肝心の約束をすっぽかされた口ですから。大抵のことは平気です」
「う、うぐ・・・・・・その、えっと・・・勘弁してください」
「うふふ、冗談です。でも、少しでも気にしてくれるのなら、早く帰ってきてくださいね」

「サラちゃん…」
「おい!アタシを差し置いてパパの手伝いをするなんて百年早いけどな、まあ今からアタシが言う条件を果たしたら許してやってもいいぞ!」
「うん、いいけど……何?」
「フィッシュ&チップスだ!本場のファーストフードの、揚げたてアツアツじゃないから認めないからな!いいな、絶対買ってこいよ!」

「はるかさん…」
「私もキツネと同じで、辛気臭いのは嫌いなんだ。だからお前もその情けない顔は止めろ」
「俺、そんなに情けない顔してますか?」
「叔母さんだったら殴ってるほどにな。いいか?お前が何処に行こうがあいつや婆さんに比べりゃ百倍マシなんだよ。今はただ道が別れただけだ。また交わる日が来るさ」

「スゥちゃ……じゃなくて、その…」
「んもう。この期に及んで無理しなくていいよ。景太郎って、意外と頑固だよね」
「その…こんな時に、無責任でごめん…」
「気にする必要なんかないよ。別に景太郎のせいじゃないんだから…それに私は、こういうのには慣れてるんだ。だから平気だよ」


そして

(素子ちゃん……)

俺はこの場にいない彼女の名を、心の中でこっそりと呟いた。

そう、今この場に素子ちゃんはいない。
朝から見当たらなかったそうだ。今日が出発の日だと知っているはずなのに。
…結局あれから、ろくに話すこともなくこの日がきてしまった。
まだ、俺と素子ちゃんが喧嘩しているのだという実感が沸かない。
俺たちは付き合っていたとはいえ、同じ部屋でゴロゴロしたり、手を繋ぎ合ったり、キスしたり…そんな普通の恋人らしいことは何もなかったからかもしれない。
恋人ってなんだろうと、こういう状況になって改めて思う…そして、三行半を渡された意味も。

男と女が互いに好意を抱いた、その結果の関係。
互いの『好き』という気持ちを高めあっていくための関係。
そのために世の恋人たちは、手を繋ぎ、キスをし、肌を重ねる。
それじゃあ俺と素子ちゃんの関係は、本当は『恋人』なんてものじゃなかったのだろうか。
よく……わからない。
どう接するべきなのか、何を求めていいのか、何をすべきなのか。
三行半を渡されたことを、どう思うべきなのか。
…もしかしたら俺は『彼女に嫌われた』という可能性を否定したいがために、こんなことをウジウジ考えているのかもしれない。
でも、きっとそうじゃない。
だって、そもそも根本的に

俺はまだ、素子ちゃんのことを信じている

証拠なんて必要ない。
裏切られたなんて、考えられない。
何かの事情があって互いのためだったのだと、思っている。
成瀬川の言う通り、俺はバカみたいだ。
だって、仕方ないじゃないか
バカなんだから。


「みんな、本当にありがとう。
 俺、ひなた荘で二年間暮らせて、みんなに出逢えて本当に良かったよ。
 たった半年だけど…俺、まずは自分のやりたいことをやってくる。
 みんなが認めてくれたんだから、それに恥じないように
 そして、次に会う時には、きっときっと楽しいお土産話を持ってくるからね。
 あ、もちろんお土産も
 見送りありがとう。
 それじゃ…行ってくる」

俺は餞別――マフラー、考古学書、ミニブランデー、スイカ、、ミニ土器、詩集――を持ち直して、みんなの顔をもう一度見回した。
成瀬川は何かを言いたそうにしている。
しのぶちゃんは目をウルウルさせて今にも泣きそうで
ニャモちゃんはいつもの通りじっとしていて、感情を抑えているみたいだ。
キツネさんは泣きそうなしのぶちゃんを抑えつつ笑っている。
むつみさんはいつもの仮面じゃない、本当の笑顔でこちらを見守っている。
サラちゃんは瀬田さんにしがみついて、眦に涙を浮かべている。
はるかさんはちょっと離れたところで煙草を咥えてクールに佇んでいる。
大人のスゥちゃんは本人が言う通りけっこう平気そうでニコニコしている。

「さよなら!みんな!」
「浦島景太郎君バンザ――イ!」
「がんばれよ――!」
「あはは、ありがとー!」

むつみさん、キツネさん、サラちゃんの声を合わせての声援にちょっと汗ジトになったけど
…嬉しかった。
だから俺はエスカレーターで下りながら、もう一度声を張り上げた。

「さよなら――――――!!!」



そしてエレベーターは下り続け、みんなの姿は見えなくなった。

「………」
「いい仲間を持ったね、景太郎君」
「はい…もう、家族みたいなものです」
「でも、今更だけど…本当にいいのかい?」
「瀬田さん、決意を揺るがせるようなこと言わないでくださいよ」
「ごめんごめん。まがりなりにも教師なんかやってると、性分でね」
「余裕というか、欲が出てきたんです。なんだか視界が開けて、いろいろなものが見えるようになって」
「…成長したんだね、君は」
「そうかも…しれません。そうだったらいいですね。自分を好きになれそうだから」

それはきっと、瀬田さんが言うような特別なことじゃない。
損なうことの許されない、否定されたら全存在を賭けて戦わなければならない、大切なものを持つということ
誇りを、持つということ。
確かにそんなものがなければ、馬鹿にされたって理不尽なことが起こったって悔しい思いなんてしない。
『ああ、そうか』と無感動に思うだけだ。
でも同時に、何かを感じる事も何かにこだわる事も何かを始める事も出来ない。
とても楽だけど、なんの実りもない生き方。
以前の俺。
そんな俺の前に、自分の強烈な生き方を示したあの娘。
彼女は俺と同じ無力感の中で生きながら、俺とは全く正反対の誇りに満ちた心を持っていて
そのせいで必要以上に苦しんでいたからこそ、俺は惹かれたのかもしれない。
俺は彼女の影響を受けた。
彼女にとっては当たり前のことも、俺にとっては大きな変化だった。
つまるところ誇りというものは
暗闇の中で行く道を示してくれる道標のようなものなんだ。
未来という暗闇の中を、夢という名の道を歩むための、みちしるべ

「君は、大切なものがあるかい?」

「はい、あります」

それが答え。

『…エンジントラブルによる機体点検によりロサンゼルス行き521便は4時間遅れての出発となります。繰り返しお伝えします。521便は……』

「す……って、え?」
「あ……」
「………」
「……………」
「え――と…どうしましょう、瀬田さん……」
「まあ四時間待つしかないね。とりあえずは上に戻ろうか」
「はあ……」
「イヤー、参った参った。どうしよう、景太郎君」
「あはははは…でも、みんなと別れた後でよかったですよ」
「さっきの別れのシーンはあまりに感動的だったからねえ」
「これでだれかいたら気まずす…ぎ……」
「え…?」

エレベーターが上がりきる。
視界が開け、何気なく上げた視線の先に
呆然とする、成瀬川なるがいた。

視線まではっきりと合っていては、言い逃れなんてできるわけがなかった。





「まったく、いったい何やってんのよ」
「仕方ないだろ、飛行機の故障なんだから。俺に言われても…」
「それでどうするの?瀬田先輩はどこかで時間潰してくるっていってたけど」
「四時間か…ひなた荘に戻れるほど時間ないし、かといってボーっとしてるには長いし…中途半端な時間だなあ」
「…ねえ。じゃあさ、景太郎」

神様、ありがとう。
今まで何度も何度も恨んだけど、今だけは素直に感謝する。
チャンスをくれて、ありがとう。
さっき言えなかったことを言って、出来なかったことをするチャンスを。
時間をくれて、ありがとう。
後悔しないように、精一杯がんばろう。
困った時の神頼みなんて、みっともないこと甚だしいけど
それでも、それでも

「だったらさ、しばらく一緒に遊ぼうよ」

神様



私はとぼとぼと歩いていた。
周囲の状況はぼんやりとしてよくわからず、それはとても危険な状態なのだけど、それほど深く自分の中に沈み込んでいた。
いや、危険だろうがなんだろうがどうでもいい。
どうせ、もうすぐ私は消えてしまうのだから。
景太郎を見送るという私の最後の役目は終わった。
だったら…もういっそ、この場で消えてしまおうか。
私が存在を開始したこの場所で。

生と死について考える。
死とはなんなのだろうか。肉体と精神が消滅すること?
それでは精神だけの存在である私は?
この肉体は本来カオラ=スゥのもので、私はそれを一時的に占拠しているに過ぎない。
そもそも私は『生きて』いるんだろうか?
本当はただの現象に過ぎない私が、『生きて』いるなんて妄想を抱いただけなのかもしれない。
もしそうなら私は死ねない。生きていないものは死なない。
たとえこの世から跡形もなく消滅しようとも、それは死ですらない。
…違う、私は生きている。私は人間として存在している!
彼が、『人間らしさ』というもっとも大切なことを教えてくれたのだから。
でも、でも……今はそれが何より辛い。
心を持っているからこんなにも辛い。思わず、生きていることを恨んでしまいそうなほど。
そういえば誰かが言っていたっけ

人間は自殺する動物なのだと


「Red」
「カオラ?」

二人の声で我に返った。
そこには心配そうな表情のしのぶと、ニャモ=ナーモがいる。
私はまだ空港の中にいた…そのことにまず驚く。相当長いこと考え込んでいたから、出ていてもおかしくない。
実際に他の…キツネ、サラ、むつみ、はるかの姿は見えない。一足先に行ってしまったようだ。
…なぜ、この二人は残っているの?

「カオラ、本当に大丈夫?なんだか顔色がすごく悪いよ…」
「………」
「あはは…心配いらないって。大丈夫」
「大丈夫二見エナイカラしのむハ心配シテイル……Red」
「…それ、私のことだよね。なに?」
「死ヌ気?」

ピシリと、空気が張り詰めた。

「にゃ、ニャモちゃん!なんてこと…」
「…なんで、そんなふうに思うの?」
「貴女ノ表情、死人ト同ジ。目ガ半分死ンデイル」
「…ずいぶんはっきり言うね」
「カオラ?まさか…ホントなの?」
「心配しなくていいよ、しのぶ。この肉体は大丈夫…私がいなくなって、カオラ=スゥが戻ってくるだけだから」
「いなくなるって……!!」

しのぶの声はほとんど悲鳴だった。
ニャモ=ナーモの表現はあまりに生々しかったけど、確かにそれは死。それも『自殺』だ。
死という概念に慣れているはずもない普通の人にとって、それは恐怖の象徴にしかならない。
でも、なぜだろう。私は別に怖くない。
それは、私が人間でないということだろうか。結局、私の『人間らしさ』なんてそんなものだったのだろうか。
別に、いい。
どうせ私は『朱い月のカオラ』なんだから。
確かに私は死人も同然だろう。
この世界の誰にも望まれていない存在なのだから

「勘違いしないで、しのぶ。私はあなたの知っているカオラ=スゥじゃない。私は彼女の隷属人格『朱い月のカオラ』に過ぎないの」
「…え?なに言ってるの?カオラ…」
「しのむ。Redハ事実ヲ述ベテイル。確カニ彼女ハ記憶傷害ヲ伴ウ多重人格症ヲ患イ、現在ハ自閉シテイル」
「だから私はあなたとは友達なんかじゃない、赤の他人なの。心配する必要なんてないよ」
「………でも………」

しのぶは何かを言いたそうだったけど、混乱したらしく黙ってしまった。
親切にしてくれて、ありがとう。騙していてごめんなさい。
私は心の中で礼を言ってから、てくてくと歩いてビニール張りの椅子に座った。
そこはいわゆる待合所で、飛行機の出発を待つ人が体を休めるための椅子が並んでいたり、自販機コーナーが近くにあったりする場所だった。
もっとも、今は日中なので時間をつぶす場所はいくらでもある。
隅のほうで英字新聞を読んでいる人が一人いるだけだし、その人も新聞によって視線が遮られている。
他人の目が無い方が集中できて都合がいい。

「何故コノ場所デ?」
「ここが私の発生した場所だから……ここで消滅するほうが、いいな」
「ここで?」
「三年ぐらい前に、気が付いたらここで座ってた。空っぽのジュースの缶を持って、横に手荷物を置いて…よくわからなかったから、夜まで座ってた」

人間とはどんなときに孤独を感じるのだろうか。
周囲に誰もいないときもそうだけど
周囲にたくさんの人がいて…しかも、誰にも話が通じない場合にも孤独を感じる。
自分が周囲とは『違う』ということをまざまざと見せ付けられて
彼女はとても寂しかったのだろう。
だから私が発生した。
そのこと自体を、恨んでいないといえば嘘になる。

「デハ…何故、消エタイノ?」
「…私がいたら、あの娘は戻ってこないの。だから、私は消えないといけない」
「何故、カオラ=スゥガ必要ナノ?」
「……そんなの」

自嘲。
何故、カオラ=スゥが必要なのか。
端的にして全てを集約する問い。
そしてその答えもまた、私の全てを物語る。
すなわち

「私じゃ無理だからに、決まってるじゃない」


そのこと自体を、恨んでいないといえば嘘になる。
いや、もうはっきり認めてしまおう。
私が彼女を殺意を覚えるほど憎んでいる一番大きな理由は、私を発生させたからだ。
ただ苦しみ続け、傷を負い続け、名前すら与えられない存在。
この世にいないほうがよかったと、数え切れないほど思った。
私にこんな苦しみを与え続ける世界なんかなくなったほうがいいと、幾度も思った。
こんな想いを抱かせる『人間らしさ』を、それを与えてくれた彼を何度も恨んだ。
生まれてくるべきではなかったと
生まれたくなかったと


「弱イ」
「っ…!」

そんな私にかけられたニャモ=ナーモの一言は、私を激昂させるのに十分だった。
私が…弱い?
私の置かれた境遇も、私の味わってきた絶望も
私の気も知らないで!
かっとなって顔を上げると、彼女は真っ向から睨み返してきた。
視線が、絡み合う。

「貴女、ソンナ事ヲ言ッテイルト私ノ友人二殺サレルワヨ?」

奇妙な抑揚で話す彼女の声は、果てしなく凍てついていた。
その瞳は、ガラスのように透き通りながらも静かに煮えたぎっていた。
…怒っている。
私のようなすぐに発散してしまうような感情じゃない。心の底で怒りがぐらぐらと煮立っている。
そういえば、彼女の感情らしい感情を発見するのは初めてだと、ふと思う。

「気ガ、変ワッタ」

そして彼女は唐突に怒りの気配を消して私の横に座り、話し始めた。
…ニャモ=ナーモは、けして優しいわけでも言葉が少ないわけでもなく、蛇のように狡猾で執念深く、徹頭徹尾私を否定して、おまけに問答無用だけど
けして、間違ったことは言っていない。
今も



Red、よく聞きなさい。私は
正直、カオラ=スゥのことも貴女のこともどうでもいい。
私がカオラ=スゥを呼び戻してほしいのは、ケータロのためだからに過ぎない。
ケータロが何の心残りもなく旅立てるように、『別れ』をしてほしいだけ。
だから本当は、貴女が消えようが苦悩しようが絶望しようがどうでもいい。
けど…気が変わった。
貴女を見ているとイライラする。
生まれてくるべきじゃなかった?自分じゃ無理?
そんなの貴女の不幸自慢に過ぎない。

…それなら何故、誰にも言わずに一人で消えなかったの?
もう一度聞くわ。何故この場所で?
猫だって、死ぬときは人のいない場所に行く。
そんなに孤独ばかりだったら、人と馴れ合うのは苦痛でしょう?
貴女は自分の不幸にかこつけて、皆の好意を欲しがっているだけ。
孤独なら孤独なりの、誇りはないの?

それと貴女は、自分が世界で一番不幸だと思ってるみたいだけど
その程度で『生まれたくなかった』なんてお笑いね。
物心つく前から親がいなくて、ずっと一人で生きないといけなかった人なんてゴマンといる。
しかも、その状況を打破しようとせずに諦めてしまってるなんて、救いようがないほど弱っちい。
そんな事を言っていると知れたら、シノムに殺されるわよ。
彼女がどれだけ無理をして、どれだけ歯を食いしばって笑っているのか、貴女は知っているというの?
『自分が消えてカオラ=スゥが戻ってくる』なんて、自己犠牲にすらならない自己陶酔。
そういう偽善者は自分に陶酔したまま死んで、そのうち皆に忘れ去られるものなの。

…なに、怒ったの?
『私じゃ無理』だなんて、初めから諦めてた割にはつまらない所だけ人間臭いのね。
どうしてそこまで偽善者なの……ああ、なるほど。
そういえば、貴女が手本としたのは彼だったわね。
それなら、ここまで救いようがないほど愚かなのも納得できる。
なにしろ彼も、自分がずっと一人ぼっちだと思い込んでいて、優しさと甘やかしの区別もつかずに、他人の気持ちも考えない迷惑な人だから……
っ!!

…できるじゃない。
なにが『私じゃ無理』よ。その手は何のためにあるの?今私を殴ったじゃない。
その口は?その目は?その耳は?その頭は?いったい何のためについてるのか、少しは考えたらどう?
貴女を見ているとイライラするの。
私はもう絶対に、自分の不幸に酔ったりしない。
それを餌に、人の好意を欲しがったりしない。
孤独なら孤独なりの、誇りを持って生きる。
嘘吐きで偽善者で弱い自分には、絶対に戻らない。
貴女は、ケータロから何を教わったというの?
それを、自分なりに解釈して自分のものにしたの?
もしそうなら『生まれたくなかった』なんて言葉は吐けないはず。
頭を使ってから、言葉は選ぶこと。
今なら、撤回は受け付けてあげる。




……そう、あるの。
だったらさっさとカオラ=スゥを連れて来なさい。
最初に言ったけど、本当は私は貴女のことなんてどうでもいいの。
ケータロが何の心残りもなく旅立てるように、『別れ』をしてもらいたいだけ。

…わかってきたじゃない。私は私、貴女は貴女。
貴女が生きたいと言おうが、私には止める理由なんてないんだから勝手にしなさい。
ケータロ?彼はまだ旅立ってない。さっきアナウンスで『512便が四時間遅れる』と言っていたから。

…そう。だから三時間以内に戻ってくること。
そうそう、カオラ=スゥにも言いたいことが山ほどあるけど、貴女が代わりに言ってほしい。
まず、私はもうすぐひなた荘を出る。

なに驚いた顔をしてるの?私にも夢があるんだから当たり前。
私は、故郷に戻ってパララケルスの大学に入って、考古学者になる。
だから、この場所にはいつまでも留まっていられない。
ひなた荘は確かにとても居心地のいい場所だけど、そこにいつまでも留まってはいられない。
だから私は、ケータロに貰ったもの、そしてここで得たものを無駄にしないために、先に進む。
カオラ=スゥ。貴女はいつ、先に進むの?
王女ともあろうものが、いつまでそこで腐っているつもり?
貴女の行動は、貴女の大切なもの全てを裏切っているのよ。
…別に返事はいい。
それじゃあ、ひっぱたいてでも連れ戻してきなさい
Red





今日、私は景太郎への餞別を用意していなかった。
しのぶちゃんが、それこそ死に物狂いでマフラーを編み上げたことことを、私は知っている。
大人のスゥちゃんが手帳を持ち歩いて、暇があれば何かをしたためていたことを私は知っている。
知っているんだ。
みんながいかに、景太郎の旅立ちを認めようとしていたのか。
私は密かにあいつの留学を応援し、むつみさんやキツネの説得をして回っていたけど
私自身は
そう、私自身はまだ、本当に認められてない。
でも、それじゃいけない。そんなんじゃ景太郎を見送って、そして迎えるなんて出来ない。
だから餞別を送ろうと、思った。


「シャネルかあ……ブランド物って、こんなところにもあるんだなあ…」
「ま、空港には免税店があることが多いから…にしても、ヨーロッパにでも行ってブランド物を買い漁ってこようって人達にはまったく意味がないわね」
「成瀬川は、ブランド物とか買う方?」
「ん〜〜、そりゃ欲しくないっていったら嘘になるけど…あ、この時計はどうかな?」
「買うの?う〜〜ん、いいんじゃない?値段も手ごろだしデザインも悪くないし…あ、でもこれ男物だよ」
「気に入ったんなら買ってあげる」
「………え”?」
「な、なによ。ハトが豆鉄砲食らったような顔して、そんなに意外?」
「い、いや…意外もなにも、けっこう高いよ、それ」
「手ごろな値段って言ったのはあんたでしょ?それに私バイトしてるから、これくらい余裕よ」
「で、でも…どういう風の吹き回し?」
「…………そんなの
「成瀬川?」
「そんなの!ただの餞別に決まってるじゃない!それ意外にどんな意味があるっていうのよ!あんた餞別の意味ほんとにわかってるの!?時計を選んだのも、前に私が上げた時計をあんたがものの見事にぶち壊しちゃったからじゃない!受け取る、受け取らない、どっち!?」
「う、受け取るよ。その…ありがとう」

最後はほとんど勢いに任せたような感じだったけど、何とか餞別を渡すことができた。
正直、ブランド物はけっこう痛かったけど…
以前、私はクリスマスプレゼントとして景太郎に時計を貰った。
そのお返しに、私も景太郎の誕生日に時計を贈った。
私と彼の目に見える繋がりの一つ。
それを見るたびに私は、満たされるような疼くような、不思議な気持ちを感じていた。
失ってみて初めてわかる。
あれは……嬉しかったんだと。
だから餞別として時計を選んだのは、失われた絆を取り戻すという意味があったのかもしれない。
……こんな考え、吐き気がする。
ただ好意を示すだけなのに、こんなことを考えてしまうなんて


「うわあ、ゲーセンだ。やっぱあるんだなあ…クレーンでもやろうか?」
「なんか取ってよ。時計買ってあげたんだから、それくらいいいでしょ?」
「う、それくらいでいいなら…でも、あんまり得意なわけじゃないよ」
「それでも私よりマシよ。ぬいぐるみ一個取るのに5000円も掛けたことないでしょ?」
「ご、五十回…そこまでいくと不器用も一種の才能だね」
「人が気にしてることサラっと言ってないでさっさとやるっ!」
「じゃあどれがいい?」
「適当に選んでくれていいから」
「よし、じゃあ……」



「取れたっ!」
「………」
「あれ?どうしたの成瀬川。そんなに額の血管をぴくぴくしてさせて、まるで怒って…」
「怒ってんのよ、私は!」
「わっ」
「なんで鬼のぬいぐるみなのよ!しかも赤鬼!私に対するあてつけ!?」
「いや、別にそんなんじゃなくて一番取りやすい位置にあったから」
「ブランドのお返しがそれっ!?」
「!?!?!?!?」
「!!!!!!!!!!!」


これはデートなんだろうかと、ふと思う。
私と景太郎の最初で最後のデート。
そんな悲しいフレーズが浮かんでは消えた。
違う、私は景太郎の彼女じゃない。だからこれはただの暇つぶしでしかない。
でも、景太郎の彼女である素子ちゃんは見送りにすら来ていない。
三行半を渡していた。
そんなことを思いながら、なんだか上の空で私はゲームセンターでの時間を過ごした。
景太郎はきっと何か気付いていたんだろうけど、なにも言わなかった。
プリクラの筐体は、なかった。


「成瀬川はなににする?」
「私は…チキンのバリューセットで」
「じゃあそれとテリヤキバーガーのセットで」
「はい、チキンタッタのセットとテリヤキバーガーのセットですね。あちらの席でしばらくお待ちください」
「………」
「何よ、さっきからチラチラ…ブランド物身につけるの初めてなの?」
「いや、そうだけど…そうじゃなくてさ」
「ま、安物買いの銭失いよりはマシでしょ?そういうのって造りだけはしっかりしてるから」
「いや、そうじゃなくて成瀬川がさ」
「私?」
「なんだか様子が変っていうか」
「景太郎、さっきから思ってたんだけと私に喧嘩売ってるの?」
「え、いや別に深い意味はないんだ、ただなんとなく辛そうだなって」
「――――っ!」

言い返せなかった。
普段は鈍いくせに、なんでこんな時ばかり鋭くなるんだろう。
確かに…そうだ。なんでもない風を装わないといけないから。涙なんて絶対に見せてはいけないから。
嘘をついて、自分を偽っている。
でも、だからといってどうしようもない。
嘘と建前でがちがちに固められてしまった私には、素直になる方法がわからない。
だから建前を通す。
でも、でも、でも
素直になっていいんだろうか。
素直になって、この胸の内を全部打ち明けてしまっていいんだろうか。
自分自身でもよくわからない、本当の私が出てきていいんだろうか。
…あの少女がいない今

食事を終えたあと、外を回ってみようという話になった。
滑走路の裏、地図上ではなにもない場所に。
話をしながら通路を歩き、見取り図を頼りに人気のないほうに向かい、非常口と表示された扉を見つけて
先頭の私は扉を開けた。

――そこに、一枚の絵画があった――

もちろん比喩だ。
私は一瞬だけ硬直してからパタンと扉を閉じて、扉に背を向けてくるりと振り返った。
動揺と納得を押し込めて
私に続いて外に出ようとしていた景太郎が「どうしたの?」と問い掛けてくるのには答えず、私はじっと目の前の存在を見詰めた。
浦島景太郎
現在東大一年生、三浪一留(決定済)の劣等生兼女子寮管理人。
勉強ダメ、運動ダメの冴えない男。
バカでお人よしでスケベでドジで優柔不断。
中肉中背、なんてことはない黒髪黒目にいつもかけているダサいメガネ。
センスはそこそこいいくせに、こだわらないからぱっとしない服装。
傷つきやすく落ち込みやすく、立ち直りが遅くすぐにウジウジする。
本当に、私の理想の男性像とは正反対。
……まだ、認めるのは怖かった。
けれど、神様から貰った時間はもう終わりだとわかってしまった。
最後の最後に、別れを後悔で彩りたくない。
だから、私は

「ねえ、景太郎」
「な、なに?」

聞いた。


「もしも私が、アメリカに行きたいって言い出したら……どうする?」
「………………え?」
「私が、景太郎に着いて行きたいって言ったら……連れて行ってくれる?」
「………」

私は、絶句するように黙り込んでしまった景太郎の目をじっと見詰める。
そこに映っている自分の顔が確認できるほどの至近距離で
今は、見て、触れて、声を掛けれる場所にいる。
今、だけは
その時の私は怖いくらい真剣な表情をしていたのだろう。
笑ってしまうほど簡単に、動揺と困惑が伝わってきた。
そして、かすかに瞬く意志の光が
…まったく、どうしてこんな奴について行きたいなんて言い出したんだろう。
思わず、口を突いて出てしまった。
断られると、最初からわかっていたのに


「あの、成瀬川。俺さ……」
「………
冗談よ
「気持ちは嬉しいけど、俺は素子ちゃんのことを……え?」
「冗談よ」
「じょ、じょうだん!?」
「あったりまえでしょ!美人で前途有望な東大生の私が、なんであんたみたいな冴えない男についていかなきゃいけないのよ」
「そ、そうだよね。あははは…良かった」
「ん?なにが『よかった』って〜!?」
「わわわわ!?ゴメンゴメン怒らないで〜!」

……ふう
私は景太郎の胸倉を右手で掴みながら、後ろ手でこっそり非常口のドアを開けた。
そして景太郎を持ち上げ、ぐいと引き寄せる。
私と景太郎との距離が、さらに目と鼻の先にまで縮まった。
私に殴られるんだと誤解して身を強張らせていた景太郎の体が、ふと弛緩した。
私の顔に浮かぶ苦笑いを見たんだろうか。
ああ、本当になんてこと
私は――――

「……成瀬川?」
「じゃ、ね。景太郎」

にこりと笑って、彼の頬にかすめるようなキス――――
え、と呆然とした景太郎を掴みなおし
非常口にドカンと後ろ蹴りをかまし、間髪いれずに砲丸投げの要領で

「てりゃああああああ!!」

非常口の外に向かって、景太郎をぶん投げた。

「ひえええ――――!!!」

くるくると回転しながら、景太郎が飛んでいくのを見届けて
それ以上見られないように、私は扉を閉めてそこに背中を預けた。


景太郎、大丈夫かな?
大丈夫だろう。不死身なんだから
ああ、でも服は不死身じゃないんだから少し大変かな
彼女が裁縫セットを持ち歩いているとは思えないし
………
………
………
………頬へのキスは友愛の証、だったかな
そんなところだろう
これが、今の私の精一杯かあ…
帰ってきたら、覚えておきなさいよ
………
………
………あ
涙……だ
ああ良かった。景太郎の前で出て来なくて
そんなことになったら、もう子供みたいに泣きじゃくっていただろうから
でも、しばらく止まりそうにないな、これ
…いいや。しばらくここにいさせてもらおう
景太郎が戻ってくるまでには去らなくちゃいけないけど、せめてもうしばらくは
………
………
………

「うぐっ……馬鹿……ひっく……バカ……すん……ばか……ぐす……」

今までで一番複雑な想いで、その言葉を口にしながら




私が踏み込んだそこは、おとぎ話に出てくるようなお城だった。
ずいぶん大仰で人っ子一人いない、彼女の自閉のイメージ。
その城門の前に立ちながら、私は思う。

当初の計画では、私が消滅してカオラ=スゥの人格を無理やり引っ張り出す予定だった。
彼女が自閉していられるのは、その間私という防御機構が発動しているから。
私がなくなってしまえば、彼女は自分で自分を守るしかなくなり、外に出てくる。
このままでは彼女は、景太郎のことを忘れて一人でずっと泣いているだろう。
私にはそれが許せなかった。
理想化してる部分はあるだろうが、やはり私にとって景太郎は、唯一敬愛できる存在なのだから。
ただ消滅するのではなく、景太郎のことを教え込んでから消滅するつもりだった。
何故そこまでするのか。
…それは、私にとってカオラ=スゥという存在は、どう足掻いても大事だからだ。
殺意を抱くほどに憎んでいるど、どうでもいい存在をそんなに憎めるわけがない。
愛憎紙一重。大事なのは当たり前だ。
純粋培養で、まっすぐだけどとてつもなく弱いカオラ=スゥと
傷つき続けたゆえに傷には強く、けれど歪んでしまった朱い月のカオラ
つまりそれは
ふたりで、ひとつ

「カオラ=スゥ、出てきなさい!!」

とりあえず、城門の前で叫んでみた。
反応ナシ

「そんな所でめそめそ泣いてて、人間として恥ずかしくないの!?」

反応ナシ
………ぶちん

「…そっちがそう来るなら、こっちにも考えがあるわよ」

『我慢担当』にあるまじき沸点の低さで、あっさりと私はキレた。
時間制限がついてることとか、彼女に対する積年の恨みとかを考慮に入れても早すぎた。
ああ、要するに私は『朱い月のカオラ』すら失格ということ
もう、役割を遵守する必要なんてない。
…そういえばこの城も、形さえ違えど彼女の一部なんだった。
ちょうどいい。今まで私が傷ついてきた万分の一ぐらいは、彼女も味わうべきだろう。

「別離を!」


城門を真っ二つにして中に入ると、そこは大広間だった。
シャンデリアとか絵画とか絨毯とか、とにかくいろんな煌びやかなものが飾ってある。
一つ一つが、彼女の大切な思い出なのだろう。
私はその中の一つ…テーブルの上に飾られたグラスを手にとってみた。
そこに込められた思い出が流れ込んでくる。
――みんなで海にいった。『西遊記』という劇をやった。ケータロとセタとモトコのアクションで盛り上がった。またみんなで――


どうして私にこんなことができるのか、知らない。
私の記憶は三年前から始まったのだから、憶えているはずがない。
だから推測するしかないけれど…多分、こういうことだろう。
私は傷つき続ける『朱い月のカオラ』
傷つける方法なら、誰よりもよく知っている。
たとえば……こう。

「飢餓と恐怖と焦燥を」

通路を進んでいるときにやってきたカメの形をしたガーディアンの群れ。
三分の一が跡形もなく空間に喰われ、三分の一が真っ白に凍結し、三分の一が内部から燃え上がって機能停止した。
…弱い。
まあ、傷つくことを何も知らない彼女が急ごしらえで作り上げたものなのだから、こんなものだろう。
大抵の人は、心の中に免疫機能を持っている。
自分を傷つけようとする者を排除しようとする働き…つまり、このガーディアンも彼女の一部ということだ。
けれど、彼女では私に勝てない。
なぜなら私こそが、彼女を守る最強のガーディアンなのだから。
隷属人格とは、つまりそういうものだ。
機能停止したガーディアンを乗り越えて先に進む。
彼女のいる場所はもうすぐだ。


「……ぐすっ……にいさま…ひぐっ……ねえさま…うええええええええん………」

そして私は、一枚の扉の前にいた。
何の変哲もない、木製の華奢な扉。
中の部屋も、そう大きくはないだろう。
ここが、彼女の中心部。
そして彼女のすすり泣く声が、扉の隙間から漏れ出ている。

「カオラ=スゥ」


私があの人から貰ったもの
それはまさしく、カオラ=スゥのただのガーディアンだった私に、そこから脱出させるための力を与えてくれた。
想いという、力を
その瞬間から私は私となり、現象ではなく人格となった。
私が私でいるための、もっとも大切なものを彼から貰っていた。
それは

「ひくっ……誰…や…?」

誇りだ


「私はもう一人の貴女」


全てを感じ取ろうとする心を、自分に名前が欲しいという想いを、自分で自分の名を決めるという意思を
もう誰はばかることもなく、負い目を感じることもない。
私は即ち―――


「――――朱い月のカオラよ!」





「いててててて……」

俺は成瀬川に投げ飛ばされて痛む体を抑えつつ、立ち上がった。
どうやら空港の裏は広大な草原になっていたようだ。膝ぐらいの高さまで草が茂ってる。
少し向こうに空港の建物があって、俺が放り出されたらしい非常口はもうしまっている…あ〜あ、地面抉れてるよ。
髪とか肩とかにこびりついている土をぱっぱと払い落としていると
ざあっ、と草原を揺らして風が渡った。
頬をなでる風の感触が気持ちよくて、思わず呟く。

「いい風だなあ…」
「まったくだ」


………

………

………

………え?


ゆっくりと振り向くと、そこには
黒髪をたなびかせ、袴姿で刀を携えた
青山素子という少女が、いた。


「久しぶりだな、浦島」
「そうだね」
「それにしても遅かったな」
「…そういえば、なんでここで待ってたの?」
「しのぶから電話があってな。最後のチャンスだと無理矢理呼び出された」
「しのぶちゃんが?」
「アナウンスがどうとか言ってたな…ところで時間は大丈夫なのか?」
「あ、うん。え〜と…あと一時間ぐらいは」
「そうか」


それから、草原の一角に二人で座って色々な話をした。
試験のこと、勉強のこと、留学のこと、みんなの事。

「みんなが?」
「ああ。お前は知らないだろうが、ひなた荘の中では色々あったんだ。なる先輩やしのぶは、何度か私のところに来た」
「はあ…」
「ひなた荘自体が崩壊するかどうかの瀬戸際だったんだぞ。呑気なやつだな」
「えーと…俺のせいなの?」
「自覚がないのは罪悪だぞ」
「……ごめん」
「別にいい。こうして私がここにきて、結果的に全員見送りに来たんだからな」
「全員、か……」
「どうした?」
「俺はスゥちゃんを…大人じゃない、元々のスゥちゃんを…あの時、泣かせちゃったままなんだ」
「そうか」
「どうしたら…いいんだろうね」
「それは、私やお前にはどうしようもない。おそらく、スゥ自身の問題だ」
「…そう、かな」
「だが、お前は悩むのを止めるべきではない。悩み始めたのなら、問題が解決するまで悩んでいろ」
「…なにそれ?」


彼女の言うことは半分くらい理解できなかったけど
それは要するに誠意を見せろということだろう。
やっぱり素子ちゃんは、厳しい。


別に特別な雰囲気もなく、俺たちは普通に話をしていた。
あと一時間足らずで俺が旅立つという事実を、無視するでもなくただ認めて
それでも彼女は穏やかで、釣られて俺も焦燥なんてものは消え去ってしまった。
やらなければならないこと、やるべきこと、全部吹き飛んでしまった。
会話はいつしか、思い出話になっていく。

「そういえば、みんなで海に行って劇をしたことがあったよね」
「ああ。お前が瀬田さんとの演舞で無理をするから、皆が心配していた」
「無我夢中だったし…それに、もう1年半も前であんまり覚えてないんだけど…」
「私ははっきりと憶えているぞ……なにしろそれが、始まりだったんだからな」

「みんなでNEVERLANDに行ったよね〜」
「私はああいった所は初めてだったのでずいぶん緊張したものだがな」
「そうだったの?結構みんなと一緒にはしゃいでた気が…それに、特別展示場の方にすっ飛んでいかなかったっけ?」
「幻の日本刀展だったな。いや、あれはなかなか壮観だった」
「つくづく、素子ちゃんらしいねえ…」
「そういうお前はしのぶと一緒に菓子を見に行ったのだろう?非難されるいわれはないぞ」

「そういえば、むつみさんもお前が連れてきたのだったな」
「あの時はね〜……帰ってきたら、危うく素子ちゃんに殺されそうになったっけ」
「よく考えたら、誤解されるような行動をとるお前が悪かったのではないか?」
「…って、開き直らないでよ!」
「そもそも『他の女性を見たら殺してくれていい』なんて命知らずな言葉を私に吐いた時点で、お前に一切の言い訳は許されないのだぞ?」
「う……そ、そうかな?」
「そもそも浦島。お前は人を想うということの重さをどのように考えていいるのだ?薄々気付いているかもしれないがはっきり言わせて貰えば―――」

「そ、それはもういいからさ・…ほ、ほら。みんなでパララケルス島に行ったこともあっただろ?」
「そうだな…あれは、お前が試験の後逃走をして、それをみんなが追い詰めたという感じだったが」
「う、うぐ…」
「私は三日間も船に揺られて気分が悪くなり、砂漠を横断して日射病と脱水症状を併発し、亀に襲われて遭難したりで酷い目にあったな」
「いや、その……ごめん」
「何を謝るのだ?」
「え?怒ってるんじゃ…ないの?」
「ひなた荘で暮らしててこの程度で怒っていられるか…それに、いい思い出なのでな」

「京都に…行ったのは、俺と素子ちゃんだけだったね」
「向こうにはむつみさんとなる先輩もいたぞ」
「ああ、あれは驚いたっけなあ…ホント、すごい偶然だったよね」
「…そういえばずっと気になってたのだが、浦島。お前はなる先輩と何を話してたのだ?」
「・……え”」
「ほら、あの二人が道場に一泊したときがあっただろう?」
「え……ああ、あの時!あの時ね!別にさっきのことは関係ないんだよね?」
「…?」
「いや、別にたいしたことは話してないけど…『ちゃんと勝て』とか励ましてもらったくらいかな」
「そうか…まあ、そうだろうな」


昔の話題から、だんだんと最近の話題へ
そうして彼女は俺がずっと気にしていた『そのこと』について、あっさりと触れた。

「そういえば浦島。あれはまだ持っているか?」
「…うん」

多分これだろう、と思ってポケットから三行半を取り出す。
肌身離さず持ち歩いててよかった……というのもなんだか情けない。
『浦島へ』と表に書かれた、紙を包んでいる紙。
中身はもっと凄まじく、ただ『別れよう』と書かれた紙が入っている。
めちゃくちゃで、だからこそ俺は戸惑っていたのかもしれない。
もっとしっかり書いてあれば、もっとしっかり信じることができたのに

「あのさ、素子ちゃん…ずっと思ってたんだけど、なんで『別れよう』なんて…」
「知りたいか?」
「そりゃ、そうだよ」
「教えたら納得するのか?」
「……わからないけど………多分、納得すると思う」

苦しげに呟く俺に向かって、「馬鹿だな、お前は」と溜息をついてから
彼女はゆっくりと、語った



浦島。私とお前は喧嘩しているらしい。

どうしてといわれてもな…意見の食い違いがあってお互いにそれを譲らなくて疎遠になってたら、それは喧嘩というんじゃないか?
そうか、お前も今気付いたのか。私もなる先輩に言われるまで気付かなかった。
まったく……間抜けな『恋人同士』もいたものだな。
気付かなかったのはな、多分私たちが根本的に『恋人』ではないからだ。
普通の『恋人』が、一年半も付き合ってて肉体関係の一つもないなんてことはありえない。

それなら聞くが、お前は私を『恋人』として抱けるのか?
そう、お前のその戸惑った態度が何よりの証拠だ…お前は、私を女として見ていない。
以前、姉上が来て私を無理矢理連れ戻そうとしただろう?
私はその時『女としてここに残る』と言って止水を砕いた。
剣の道を捨てたのだ。
そしてキツネさんからメイド服など借りて、女として生きようと思っていた。
ずっと浦島の傍にいて、浦島の傍にいるだけの人生を送ろうと
けれどお前はそんな私を否定して、姉上との戦いに誘った。
女としての私を否定したんだ。

そう。だからなんだよ、三行半を渡したのは
浦島が遠くに行っている間、ただお前を待ち続けるというのは…それは女としての行動だろう?
女としての私は、お前に否定された…ここにいるのは、剣士としての私。
だからお前がどこかに行っている間、私も自分の道を進もうと思う。
神鳴流当主候補、青山素子として
あるいは、受験生青山素子として

ん…ああ、勘違いするなよ。
私は、お前のことが大切だ。
だから…『恋人』なんてあやふやな関係で、私たちの可能性を縛りたくない。
多分、私とお前にはもっと相応しい…おそらく、言葉で表現できないような関係があるはずだ。
それを、探してみたい。
私にとってのお前を、なにかと比べたり、なにかの代償などにおとしめたくない。
だから…浦島

別れよう



「ぐっ……うぐ……うん……」

俺は、泣きそうになるのを必死でこらえて頷いた。
なんだか…素子ちゃんの話を聞いているうちに、なんだかとても寂しくなって
ようやく、ようやく、別れの意味が実感できてしまって
とても、とても……苦しくて
でも、別れの場面で涙を見せるなんてことはできない。
それは、彼女に貰った『誇り』に反することになる
だから

「そう…だね。もう…俺は、三行半を渡されたんだから」

微笑むことなんてとてもできなかったけど
せめて真っ直ぐに胸を張って、彼女の目を見詰める。

「そういえば浦島…私はお前に、餞別も渡してなかったな」
「ん…そういえば、そうだね」
「私は……私には、ずっとこの髪と、剣しかないと思っていた」
「………」
「この髪も、剣も、姉上になりたいが故に伸ばしていたものだった」
「…素子ちゃんは、素子ちゃんだよ」
「そうだな……だが、女としての私はお前に否定されたのだから、必要ない」


そういって、彼女は右手で妖刀ひなを抜き、両手を頭の後ろに回した。
そして

「『髪は女の命』だと、言うだろう?」
「素子ちゃん…?」
「餞別だ、受け取れ」

ザッ―――――――――


流れる黒髪が、途切れた


「いつか………………迎えに来いよ」

最後にそう言い残して
切った髪を三行半の髪で纏めて、驚きのあまり呆然としている俺に持たせて
彼女は、初めからいなかったかのように去っていった。
風が、吹いた。


「……うん。お互いに、頑張ろう」





拝啓、浦島景太郎様
突然のお手紙ごめんなさい。直接言葉で話すことはどうしても出来なかったので、こうして伝えることにします。
多分この文章を読むのは、飛行機の中かアメリカでだと思います。詩集の最後に綴じこんでおくので。
伝えたいことは、私自身のことです。
何故私が存在するのか、何故私がここにいるのか

結局のところすべての原因は、あまりに無知で、子供で、臆病な彼女…そして私にあったのだと思います。

私の最初の記憶は、日本という小国の空港で始まっています。
荷物を右脇において、両手に缶ジュースを持って、ビニール張りの椅子に座っていました。
カオラ=スゥという少女が、留学のために国を出て
一人ぼっちであることを、彼女が強く意識して、私が出てきた瞬間。
こう見えても私は、せいぜい三歳ぐらいなんですよ。
思うにそれは、一種の防衛機構なのでしょう。
あまりに純粋で脆弱な彼女が、兄も姉もいない見知らぬ土地で生きるため。
とても孤独に弱い彼女が、自分自身を守るために創り上げたもう一人の自分。
典型的な二重人格症候群。そして隷属人格。
それが私。

彼女が遭遇するすべてのマイナスの感情を受け止めるのが、私の役目。
別離、不安、孤独、飢餓、焦燥、恐怖、憎悪、絶望。
すべてを彼女は記憶せず、代わりに私が傷つきます。
彼女は喜びしか知らず、彼女の天真爛漫さはそうして守られていました。
私は生まれてからずっと、傷つくことしか知りませんでした。
起きている時は、彼女の目を通して外の様子を覗き見ることが出来たけど
すべてがテレビ越しのように現実感が沸かなくて
外界に興味を持てない。
私が実感を持って表に出てくるのは、一人ぼっちの時や誰かと別れる時だけだから。

このまま時間が経過していたら、私はどうなっていたのかと…思う時があります。
傷つくことしか知らない私は、傷つけることしかできない存在に
朱い月の夜に出没する殺人鬼に
なるはず……だったのかも、しれません。
そんな運命を変えてしまったのは、貴方です。

私は別離しか知りません。
私は終わりしか知りませんでした。
ある人が来て、そしてひなた荘から出て行くときも私は発現していました。
『ああ、この人とも別れるんだ』と、大して興味もありませんでした。
けれどそれは、別れてから10分後に帰ってくるという奇特で奇抜な貴方だった。
あの時、私は生まれて初めて『出逢い』を経験しました。
人間としての私は、まさしくそこから始まったのです。
親と出逢うことによって、人間としての生が始まるのだから

人間としての生が始まる際、一つだけ必要なものがありました。
それは名前です。
本当は貴方につけてもらいたかったのだけど、私の存在に気付いてくれてなかったのである時自分で仮の名前をつけました。
私が主導権を取るきっかけとなる、ある自然現象にちなんで
即ちそれが―――朱い月のカオラ、です。
…私は彼女が大嫌いです。
私が持っていないものをたくさん持っていて、いらないものをすべて私に押し付けて、自分はぬくぬくとした日常を当然のように享受する…
殺意を抱くほど、憎悪していました。
だから絶対に、彼女のようにはならないと思い続けていました。
彼女とは違って、落ち着いた存在になると
彼女とは違って、人に迷惑をかけないと
彼女とは違って、理性的になると
彼女とは違って、大人になると
そうして、彼女とは正反対の私が形作られていきました。

私の過去の経験は、全てにおいて心理的外傷で埋め尽くされていました。
それが人間の姿を取ろうとするのだから、そこにはかなりの無理が生じます。
今も私は、身を裂くような激痛と戦っています。
そんな私が憎悪に飲み込まれなかったのは、やっぱり貴方のおかげなんですよ。
だって貴方も、心の痛みと戦っていたんですから。
この痛みは、私が人間に…それも、貴方に近づいているという証なんです。
何も感じない命なんて、それこそただの現象に過ぎません。
貴方は不思議な人です。
ただの現象に過ぎなかった私を、人間という『意味求めるもの』に変えてしまったんですから。
私は貴方の示す情動の一つ一つを得ていきました。
『人間らしさ』というもっとも大切なことを教えてもらったのです。

私が今現在出てきたままになっているのは、彼女が現実を認めていないからです。
この世界を苦痛だと感じ、苦痛担当の私が出てきているだけの話です。
彼女の精神は自閉しているのでよくわかりませんが…多分、ずっと泣いています。
私は正直、ざまあみろと思いました。
ずっと束縛され何もできずにいた私と、何も知らずに自由に生きていた彼女の立場が入れ替わったのです。
そして私は、絶対に彼女のような真似はしないと誓いました。
私は、彼女とは違って『大人』なのだから
…でも、そう思うこと自体私が『子供』であるからでした。
本当は私は、『大人』でもなんでもなかったのです。
衝動的で、迷惑千番で、先のことを考えなくて子供の、私が大嫌いなカオラ=スゥと同じだったのです。

そういえば以前、朱い月の夜に貴方に会ったことがありましたね。
あの時は私が主導権を取っていて、その姿(どうして姿が変わるのかは私にもわかりません)に貴方はずいぶんと驚いて混乱していたようなので
あまり貴方に追い討ちをかけるのはどうかと思ったから、私はカオラ=スゥのフリをしました。
本当は大声で私の存在を告げて、そして私に気付いて欲しかったけど
それは『子供』のやることだと、その時の私は自分を納得させました。
…そんな我慢なんてしないで、『私を見て!』と叫んでいればよかった。
もしそうしてたら、今とは違った私になれていたんでしょうか。

貴方が行ってしまったあと、彼女がまた戻ってくるのかはわかりません。
ずっと自分の殻に閉じこもったままかもしれません。
どちらにせよ、このままでは貴方のことは忘れてしまうでしょう。
私には、それが何より許せません。
理想化してる部分はあるでしょうが、やはり私にとって貴方は、唯一敬愛できる存在なのです。
私は確かにカオラ=スゥが大嫌いですが、同時に間違いなく自分の一部でもあります。
認めるべき、大事な存在です。
だからこそ、忘れるなんて許せません。貴方のことを理解して欲しいのです。
いつかきっと帰ってきたら、彼女にも『ただいま』と言ってあげてください。
彼女は待っているはずです。
無理矢理にでも、そうさせておきますから。

長々と失礼しました。
書き忘れてましたが、これは遺書です。
私が、確かにこの世に存在したという証です。
多分、貴方が帰ってくる頃には私はもう存在していないでしょう。
彼女を現実に向かせるには、彼女の逃げ道を無くしてしまうのが一番効果的ですから。
たまにはスパルタも大事ですよね。
だからって、この遺書を見てすぐに戻ってきたりしたら嫌いになっちゃいますよ。
じゃあこんなこと書かなきゃいいんですけど…そうすると心残りが出来てしまうので、やっぱり書いちゃいます。
自分の夢を、後悔しないようにしっかりと進んでください。
他の心残りといえば、帰ってきたときに『おかえり』といえないこと…貴方に名前をつけてもらえなかったことでしょうか。
やっぱり私は最後まで、朱い月の下でしか存在できない『朱い月のカオラ』だったようです。
心配しないでください。なにしろ『朱い月のカオラ』は、別れには慣れてますから。
でも、頭の片隅にでも記憶していて、何かの拍子にでも思い出してくれたなら…それ以上の喜びはありません。
それでは、またいつか、どこかで
その時は、ちゃんと私の名前を呼んでね。

敬具




しばらく呆然としていた俺は、ふと我に帰った。
もうすぐ飛行機が出発する時間だ。
非常口のほうに向かって歩きながら、もしかしたら今のは夢じゃなかったんだろうかと思う。
けれども、右手に持った髪の束は頬をつねってみても消えない。
やっぱり本当だったんだ。

にしても…と苦笑する。
髪を切って渡すって、普通『形見分け』とかそういう意味があるんじゃないだろうか?
まあ、彼女なら多少の不吉なんか一刀両断してしまいそうだ。
じゃあ、お守り代わりにありがたく貰っておくことにしよう。
俺は髪の束を懐に入れると空港ゲートに向かった。


一番心残りだった、素子ちゃんが来てくれた。
俺の中に燻っていた暗雲はだいぶ晴れてくれた。
俺は旅立ち、そしてひなた荘に帰ってきてもいいのだと
…ただ、心の片隅に残ったモヤモヤ。
俺が泣かしてしまった彼女のこと。
確かにそれは、俺にはどうしようもないことなのかもしれない。
でも、それでも俺は悩んでしまう。
だって間違いなく、責任の一端は俺にあるのだから。


空港のゲートにつくと、出発まで後二十分ほどだった。
瀬田さんの姿はまだ見えない。
まあ、あの人なら時間に遅れるということはないだろう…急いで来ようとしてどんな騒動が起こるかは想像もつかないけど。
できるだけ瀬田さんが余裕を持って現れるように祈ってから、俺は荷物を降ろそうと