申し訳ないとは思っている。
なんだかんだ言って、三年間の予備校通いの学費を出してくれたのだ。
家を追い出されたにしても、大学の膨大な学費を出してくれたのだから、認めてくれているんだろう。
感謝している、本当に。
浦島景太郎という人間が今幸せでいられるのは、あの人たちのおかげなんだと。
素直にそう思える。
だから、合格したはいいが入学式の日に骨折して留年決定してしまったことを…両親に、申し訳ないと思ってはいるのだ。
うん、だから。
もうちょっとこう、柔らかい言いかたしてくれると助かるなあ、なんて。
『なに甘ったれたことを言ってるのこの史上最大の親不孝者。貴方が身勝手なことをしてどれだけ周囲に対して負債を抱えていると思ってるの?その筆頭株主が私なのだからいくら文句を言っても言い切れないのは分かっているでしょう。『わかっている』とさっき生返事でそういったわね?申し訳ないと思ってるのなら少しはその気持ちを行動で示したらどうなの』
電話口から一息に母さんがまくしたててくる。
なにかのスイッチがマックスに入ってる感じだ。
俺が初めてこの状態を目にしたのは、家を追い出される半日前だった。
ちなみにその場に居合わせていると手が出る足が出る肘も出る膝も出る。
痛かった。
「行動って?」
なんとか言葉尻を拾い上げ、遠ざけていた受話器に返事をする。
あんな大音量のセリフを耳元で言われたら脳震盪を起こしてしまうから
かといっておざなりな言葉を返していると、話が勝手に進んでいってしまって後でえらいことになるのも分かっている。
なんていうか……母さんは、いろんな意味で強引な人だから。
『ギプスも取れたんでしょう?とにかく一度こっちに帰ってきなさい』
「実家に帰ってこい!?」
「――――――――――――」
しん、と騒がしかった居間が水を打ったように静かになった。
誰かが息を飲んだ…ような気もする。
うっ、と振り返ってみるとみんなの視線がこっちに集中している。
大声出したのはまずかったなあ…と後悔してももう遅い。
とりあえず心持ち身体を隅に寄せて、みんなに話が聞こえないようにする。
『こんな大事な話を電話越しなんかで済ませるつもりじゃないでしょうね?三浪一留なんて舐めた真似をしてくれたからには、直接詫びいれるくらい当たり前でしょう。私は何か間違ったことを言ってるかしら』
「…しょうがないだろ、骨折なんだから」
『骨折箇所は左足だったかしら?別に片足引きずってでも大学には通えるわ。両足折れたなら這ってでも登校する、それが学生の本分というものでしょう。それをしょうがない?重ね重ね言うわ、なに甘ったれたことを言っているの!』
「う……いや、だからって…」
母さんは相変わらず過激だ。
にしても、まだ実家には(恐くて)連絡していなかった『留年決定』という事実をどこでどうやって知ったのだろう。ついでに底が知れない。
しかも強引だから、なにをしでかすか予想もつかない。
無駄っぽく思いながらも、俺は譲歩を引き出そうと電話口に向かって必死の説得を試みる。
「確かに悪いと思うけどさ、いくらなんでもいきなり帰るってのは…こっちの方が、ほら東大に近いし。通うにしても便利じゃないか。それに管理人のとしての仕事もあるし…」
『…別に、今すぐそこを出ろといってるわけじゃないわ。ただ…そうね、四日ばかりこっちに戻ってきたらどうか。そういう意味よ。どうせ留年決定なら暇でしょう?私は仕事があるからひなた旅館――改めひなた荘へは行けないの。貴方が戻ってくるのが筋というものよ』
「まあ、そりゃそうだけど…じゃあ三泊四日で」
『部屋は使えるようにしておくから、荷物はいらないわ。それじゃ、首を洗ってきなさい』
ぷつんと電話が切れる。仕方なく俺も受話器をガチャンと置いた。
気が進まないなあ…非があるのは明らかに俺とはいえ、下手をしたらまた病院に逆戻りだ。
これでまた三ヶ月入院なんてことになったら非常に困ることになる。
だけどまあ、それも含めて仕方がない。
大人しく怒られてこよう。
それと、両親に真っ先に話しておかなきゃいけないこともある。
怪我については…俺の不死身度と父さんの仲裁に期待しよう。
俺はなんとか自分を納得させて、振り返った。
そこには、こちらに注目してきているみんなの視線。
今度はみんながすんなり納得してくれると、いいなあ…なんて
「というわけでまあ、俺…ちょっと実家に帰って説明してくるよ」
ラブひなEX
景太郎のいる一週間
一日目
息子と会うのは何年ぶりだろう。
計算してみると一年八ヶ月22日ぶりだった。
毎日一言だけつけている日記ではその日こう記されている。
『今日、景太郎を追い出した。何日で戯言を諦めて帰ってくるか見物だ』
…結局あの子は、戯言を実現させて627日で帰って来た。
悔しいが、認めざるを得ない。
だが、なんと言って迎えろというのか。
私は息子を勘当同然で叩きだした張本人だ。
恨まれているだろう。
どういう顔を…すればいいのだろう。
「お嬢様、どうかしたんですか?」
梅さんの声で我に帰った。
気付くと私は、店内の椅子に座って、試食ケースに備え付けられている爪楊枝を何回も捻っていた。
ほどけた木の繊維が粉となってパラパラと空気中に振りまかれている。
カウンターの向こうで売り子をしている梅さんはこちらの方を心配そうに見詰めていた。
梅さん―――和菓子『うらしま』の夫婦従業員の片割れ。主に接客を担当している。
50代か60代のはずだが、私のことは生まれたときから知っていて、いい歳した私を今だに『お嬢様』と呼ぶ。
祖母にえらく世話になったらしく、いくら止めても呼び方を変えようとしない辺りは夫婦揃って頑固だ。
その辺りは私も気に入っている。
「ああ、なんでもないわ。ちょっと考え事をしてただけよ」
「でも、お嬢様。朝からそこに座ってらっしゃるじゃないですか。爪楊枝も、四本目ですよ」
「…梅さん。そういうことは早めに教えて欲しかったわ」
「お嬢様は昔から我慢しすぎてしまうお方だから…悩み事があるなら、誰でもいいから相談したらどうですか?」
「私、もう40よ?子供扱いされる歳じゃないと思うけど」
「とんでもない、お嬢様は私たちの子供みたいな方です。親にとって子供はいつまでたっても子供なんですよ」
「………」
「それに、お嬢様はいつまで経ってもお若いですよ」
「素直に誉め言葉として受け取れないわね…」
本当に、いい歳をしてなにを悩んでいるのだろう。
不惑だなんて体のいい嘘だ。ただ歳を重ねるだけではダメということだろう。
とにかく今は、そんな事を恨んでも仕方ない。
早急に、対策を考えよう。
なにしろあの子は、今来てもおかしくは――――
ガラ、と店の扉が音を立てた。
その瞬間、思考が停止した。
首が麻痺を起こしたかのように固定化して振り向くことが出来ない。
だが、気配だけでも間違えるはずがない。
「まあ―――――景ちゃん!」
「えーと、ご無沙汰です、おばさん」
どうせ気まずそうに、頬をかいてるに違いないのだ。
部屋はそのまま残してあるのに、着替えの入ったバックなんか担いでいるのかもしれない。
『安い』という理由だけで私が選んだ冴えないメガネもそのままだろう。
「そういえば大学に受かったって旦那様が…だから帰ってきたんですね。おめでとうございます」
「あ、はい。ありがとうございます…あの、おばさん。俺もう22なんですけど『景ちゃん』は…」
「景ちゃんは私たちの孫みたいなものですから。今更変えれません…やっぱり、親子ねぇ」
梅さんが背後で話してる。
ずるい。
確かに、私は店の椅子で硬直してるから、玄関から見えないのも仕方がない。
確かに、最初に目に付くのはカウンターに陣取っている彼女だけど
それでも即座に気付いてくれたっていいもんじゃない?
血を分けた親子なんだから
「親子って言えば…ねえ、景ちゃん。お嬢様に挨拶したら?」
「うん……母さんはどこにいるの?」
「ええ、そこにいますよ」
「―――――え゛」
「なに、私が居ては都合が悪いというの?」
声が出た。
声しか出なかった。
首はまだ回らない。だけど声だけは調子よく冷静に出る。
自分のそんな性質に感謝すると同時に、最も言いたいことを言えないことを恨めしく思ったりする。
モドカシイ
夫以外の他人にもう分かってもらおうとは思っていない。
だけど彼は他人じゃない、家族だ。まだ私は望みを持ってしまっている。
「ここは、私の領域よ。私がどこに居ようと勝手でしょう」
「いや、別に悪いとかじゃないけど…」
「我が家に帰ってくるからには、貴方も私の言葉には従ってもらうわよ」
「あのさ、俺の意志は無視……って、え?」
間抜けた面だ、間違いない。母親である私が断言する。
背中を向けている私は、彼にどう見えているのだろう。
振り返る、そんな簡単なことも出来ないなんて。
おかえり、と一言発することが出来ないなんて。
母親として未熟に過ぎる。
…構うものか。母は背中で語れ、だ。
「そうだね、母さん……ただいま」
涙が
「勘当は解いてあげる。そんな所に突っ立ってると客が来た時迷惑するわ。さっさと入ってきなさい」
私は戸口で立ち尽くしているだろう息子に、そんな返答をした。
そしてさっさと立ち上がり、結局彼に顔を見せることなく奥に引っ込む。
すれ違いざまに梅さんがなにか言いたそうな視線を向けてきたが、視線で対抗して無言を命じた。
全身全霊を込め、我が名に於いて厳命した。
背後で、二人がまだ会話しているのを聞きながら私は廊下を12歩歩きトイレに入って扉を閉めた。
「母さん、やっぱり怒ってるのかな…」
「いいえ、そんなことないですよ。お嬢様も人の子、ということです」
「母さんが人の子って、当たり前じゃないですか」
「鬼の目にもなんとやら、の方がいいでしょうか…それにしても、景ちゃんのそういうところ変わってませんね」
蛇口を捻り、小さな洗面台の中に水の流れを作り出す。
栓をしてあるのであっという間に三リットルほどの水が貯まった。
ばしゃ、とその中に顔を突っ込む。
視界が歪み、明かりが遮断されて暗くなった洗面台の白しか見えなくなる。灰色の世界。
顔を上げる。ぼたぼたぼたぼたと、前髪や顎の先から雫が落ちる音がした。聴覚正常。
もう少し視線をあげる。壁に取り付けてある鏡に、べったりと濡れた髪で目を隠した不気味な女がいた。ちょっと前まで水死体でもやっていたような顔だ。
当たり前のように頬は一面濡れている。これでよし。
今更のように呟く。
「……梅さん、口が軽すぎるわよ」
全てはもう遅い。まあ、あの鈍感息子だったら気付くことはないだろうが。
そのあたりはきっと私に似たのだ、きっと。
一つのことに気を取られると、他のことがどうにも目に入らなくなる。
そういう面は私にもあるし、あの子にもあるのだ。
血が繋がっている、そんな当たり前の事実に感動するのはそんなとき。
涙が
あの時、瞬間的に溢れそうになった。死ぬ気でこらえた。
一適でも床に零れようものならアウトだったから。
自分の中の不可解な感情を憎んだ。
息子と再会しただけで涙を流すなんて、そんな馬鹿なことがあってたまるか。
自分はそういう類の人間ではない。それは自覚以前の当たり前な条件だったのに。
子を持つというのは、どういうことなのだろうか。
出産前から20年以上経った今でも、その問いは続いている。
悟りの一つでも開いていい年月であると思う。だというのに、まだわからない。
私には、家族というものが、よくわからない。
二日目
事のあらましはこうだ。
和菓子『うらしま』では毎年多忙を極める時期がある。
老舗らしく得意先が多く、三月四月のお祝いなどにウチの菓子を贈る人は地元ではかなりいるからだ。
決して規模が大きいとはいえない和菓子屋も、その時だけはアルバイトも雇ってフル回転する。
もちろん私の仕事も等比級数的に増大する。
それはそれで家計を管理する身としては非常に結構なのだが、子育てにまでは手が回らない。
だからその時期だけは、息子を祖母に預けていた。
変なことを吹き込んだら承知しない、という但し書き付きで。
さて、息子が生まれてから5回目の春、そろそろ小学校に入る時期。
事後処理も一通り済んで、これでやっと一段落ついた。家計に余裕が出来たから冷蔵庫でも買い換えようか、というところで息子が帰ってきた。
変なことを言うようになっていた。
『なっちゃん』『むーちゃん』などという単語の意味はよくわからなかったが翻訳してみると
『東京大学に入学したい』
らしい。
『子供は色々なものに影響を受けやすい』と育児書に書いてあったので、それがいかに困難なことか現在の教育制度と入試制度、受験者数と入学者数の比率をもって説明した。
泣かれた。
仕方ない、最終手段ということで肘関節を極めてみた。
更に泣き叫んだが、すぐに黙った。
しかし三日後にまた『トーダイ』と連呼し始める。
首関節と肩関節を同時に極めて固めたら黙った、というか酸欠になっていた。まあいい。
だがまた三日後に復活する。
とりあえず両肘を極めて投げ飛ばしたが、さすがに埒があかないので、祖母に直接問いただした。結局殴りあいになって、三時間の戦闘の末私が負けたので理由はわからなかった。敗因はトレーニングを怠っていたこと。流石に鈍っていた。
だが、どうやら友達と約束をしたらしい、ということは聞く。
子供の口約束か、と納得した。
その後も、息子が時折『トーダイ』と言い出しては『まだ言うか』と打極投な日々はしばらく続いたが、小学校高学年の頃には収まっていた。
油断していた。
まさか遠方の高校に入学して私の目を欺き、東大を志望校にして受験するとは。
その高校はたいした進学校でもなかったし、東大のこともおくびにも出していなかったので『まさか』という思いがあった。
たいした進学校でもなかったので、当然のように落第したらしい。
知ったときには即座に高校の寮に邪魔者を蹴散らして突入し、殴って殴って極めて投げてまた殴ったが、居直った息子は『浪人してでも東大に行く!』と断固主張した。
結局夫の『まあ、しばらくは様子を見ようじゃないか』という取り成しもあって、私も一年猶予を与えた。
どうせ合格できるはずがない、とたかをくくっていたこともある。
そもそも、受験勉強などという淡々とした作業に向かない人間なのだ、あの子は。
感受性が高いというか芸術家肌というか…そのくせ人並み以上に悩む。危なっかしくて見てられない。
とにかく一年間は容認したのだ。
予備校に通って、自分なりに勉強して、飲食店でバイトなどして、偏差値が低いと泣いて喚いて。
『長い人生、そういうこともある。ちょっとした回り道』だと、夫は言っていた。
私は息子が二回目の受験に失敗した瞬間、調理師専門学校に叩き込むか、どこかの菓子職人に弟子入りさせようと思っていた。身内では甘えが生ずる。厳しい教師の下で何年か修行してくれば立派な職人になるだろう。
そういう計画を立てていた。
だというのにあの馬鹿息子は二回目の受験に失敗しても諦めようとしなかった。
甘ったれた戯言をぬかすな。
言葉で分からないのなら仕方がない、というわけでかねてからやりこんでおいた8連サブミッションコンボをかける。気絶させてから学校なり和菓子屋に放り込もうと思っていたが、悲鳴をあげて苦しみ続けてはいたものの気絶しなかった。
どうやら暴力に対して耐性ができていたらしい。まあ、小さい頃からだから当たり前か。戦うのなら必要不可欠な素質なのだが、日常生活には全く役に立たない耐性。
人間関係には害となる、と夫は言っていた。私がそうであるように、我が身を全く省みなくなる。体の痛みに慣れていると、ココロの痛みもわからなくなってしまう、そうだ。
一気にケリをつけるという目論見が崩れて、息子の進路についてはほとんど泥沼状態な日々が続く。
朝、食卓で会うたびに『そろそろ現実を見詰めたらどう』『俺は東大を受けるんだ』などと挨拶のように言い合う日々。手が出るかどうかはその場の雰囲気次第。
割烹着を身に付けた夫が朝食を持ち出して仲裁に入るのもいつも通り。
奇妙な冷戦状態。
どうやって事態を打開しようか考えた。本当に考えた。仕事の合間でも、暇があれば考えていた。全ては経験したことのない手探りだったから。
純粋に息子のためにならないと思ったし、『家族は仲良く』の方がいい―――育児書にそう書いてあったので。
奇妙な均衡は半年続いた。
ちなみにその間、息子はのほほんと勉強をしたり予備校に通ってたりした。絞め殺してやろうかと刹那的に思う。
考え続けて半年。そんな気の迷いを持つほど半年は長かった。焦燥ばかりが募っていく毎日だった。
私は夫曰く『低血圧な激情家』らしい。
すぐにはキレたり落ち込んだりはしないが、そのぶんゆっくりとストレスが貯まっていき、ある日猛烈に
爆発した。
無縫(対概念用外道極意)三段状態で暴れたのはずいぶん久しぶりだった。結婚してからは間違いなく初めてで、景太郎はずいぶん驚いていた。夫は慣れたもので速やかに諦めて殴り倒されていたが。
とにかくキレた私は息子に荷物を纏める三時間の猶予を与えてから、勘当同然に家から叩き出した。
『地球が滅亡しても、お前は東大なんて入れるわけがない!』と怒鳴りつけて
寝る場所もない状況で、どこまでそんな戯言を吐けるものか、という思いがあった。
だが同時に――――私の息子が独力だけでどこまでやれるのか、楽しみな部分もあった。
…獅子は子を千尋の谷に突き落とし、這い上がって来た者だけを育てるという。
ライオンごときが出来て、人間様に出来ないわけがない。
――――長くなったが、以上が事のあらましだ。
二日目は定休日だったので、食卓や縁側、息子の部屋で、その時のことを話して過ごした。
どうも私の家庭内暴力ばかりが際立っていたような気もするけど…まあいい。
息子は明日は夫の菓子造りを手伝うようだ。腕前の程をテストされていたが、まずまず合格らしい。
留年したお詫びとか殊勝な心がけに見えるが――――私にはわかる。あれは点数稼ぎだ。
どうやら息子は、私達に言い辛いなにかをまだ隠しているようだ。
そのうちまた、ふざけた戯言をぬかしてくるのだろう。
それは……実のところ楽しみでもある。とてもそうは見えないが意外性のある息子だ。なにしろ本当に東大に合格してしまったのだから。意外性もここに極まる。
ああ、なるほど
子育てとは楽しいものである、か。それもまた一つの答えかもしれない。
とりあえず、十二連サブミッションコンボの封印を解いておこうと思う。
三日目
実を言うと、老舗の和菓子屋『うらしま』は、歴史こそ相当に古いがあまり大きな店ではない。
店舗も下町にあり、目立つところにあるわけではない。
地元ではそこそこ有名で、固定客の常連がいることが、この不景気では大きな助けになっている。
老舗ということは、歴史も深いということで。伝統というものがある。
伝統は昔からの固定客をもたらしてくれるが、同じものばかり作っていては衰退していくだけだ。
老舗といえど新しい試み、精進を重ねていかなければいけない。
確かにそのあたりは厳さんの言う通りだ。
―――だが、これはどうかと思いまふ
「どうだい、今度の新作は」
「母さんの口に合えばいいんだけど…」
経理をしている私のところに、そう言って夫と息子がそれぞれ差し出してきた二つの饅頭。
新作らしい。
一つがドングリ饅頭、一つがドリアン饅頭。
こいつら実は脳味噌発酵してんじゃないかと思う。
このセンスは…少なくとも片方は梅さんが確実に絡んでいる。年甲斐もなく珍し物好きのミーハーおばさんめ。
昔は良かった。可奈子が梅さんにとても気に入られていて、こういうイロモノ菓子は全てあの子に試食してもらったから。ただ、あの子は二年程前に家を出てしまった。理由は知らない。知るもんか。
現実逃避はそれくらいにして差し出された饅頭を見てみる。
どちらも外見は普通の饅頭だが、中身は宇宙からやってきた侵略者の撒き散らす毒性物質のごとき味なのだろう。いや、もっと酷い。私は毒には強いが味覚の方はどうにもならないから、文化の違いというのは恐いのだ。
ドリアンに…ドングリ?
ドリアンは言うに及ばず、ドングリも野外生活以外では好んで食べたいとは思わない。猿じゃないんだから。
とりあえず………私は、キラキラと子供のような目でこちらを見詰めてくる付き合いが長い方の馬鹿が持つドリアン饅頭を取ってみた。当たり前な白い皮に包まれて匂いなどは伝わってこない。表面に『どりあん』と焼印がされているのはどういうことだろう。
一瞬の躊躇の後、覚悟を決めて、はむと咥えた。
噛む。というか思い切り噛み千切る。
意外なことに、予想したほど強烈な匂いはほとんどなかった。
まったり。ただひたすらにまったり。舌に絡みつくようにまったり。ちょっと油断させてから、まったり。
味はよくわからない。飲み込むのに苦労するほど、まったりな印象ばかりが強かった。
「……ん」
「どうだい?」
「味は置いといて、喉に絡みつくわ。鬱陶しい」
「そうか…少し細かくしすぎたか、それとも餡の比重が少なかったかな」
「それに饅頭にドリアン?一個辺りのコストを考えると、とても商品には出来ないわ」
「いや、梅さんがドリアンを丸ごと持ってきたんで、ちょっと饅頭にしてみただけさ」
「……そういう事をしてる暇があったら仕事をしなさい仕事を」
飲み込んで、言葉を吐く。
いや景が手伝ってくれたから早く終わったんだ、等と呟いている夫を一睨みしてから
私はもう一個の饅頭に手を伸ばした。付き合いが比較的短い方の馬鹿が持つドングリ饅頭を手に取った。
ドングリは、修行で山篭りの時期に主食としていた。あれはピーナッツに近いが、湿っていて苦味がある。
さてどうなっているか、と咥える。
椅子に座ったまま、一瞬だけ息子を見上げた。
眼がキラキラしている。
そういうところはよく似た親子だ。
息子は、少なくとも同年代の平均的な男よりは料理がうまい。和風洋風中華の、本格的な料理も作れる。
だが、本当の得意分野は和菓子作りだ。夫が、厳さんと一緒に幼い頃から仕込んでいる。
もちろん『後継ぎだから』という理由からだが、夫に言わせると『もったいないから』らしい。
彼には才があるから。
だからといって、材料を揃えるだけで目の玉が飛び出るような費用がかかる、聞いたこともない料理を教えてどうしようというのか。神仙の領域でしか採れない果物を使った不老長寿の菓子とか。飲んだだけで百年続く呪いがかかる魔女スープとか。
コストや対費用効果を考えたことはないだろう、多分。
夫は、たとえそれが化け物の肉であろうがそこにあれば『もったいないから』という理由で調理してしまう人間だ。なんでも調理できる包丁でもあったら、とんでもないことになる。
幸いなことに、息子はそうならなかった。
そういう意味では、息子が目指していた東大に感謝してもいい。
だが、その技術と心構えはしっかり伝わっている。
馬鹿でドジで間抜けで危なっかしくて手間がかかる息子の、数少ない他人より優れている点なのだ。
食う。
「ん……」
「どう?」
「…うん、美味いわ。苦味が消えていて香ばしいわね」
「塩に漬けてから炒めて餡に混ぜたんだ。しの……知り合いの子に教えてもらったんだよ」
「そう…材料が調達できて、コストが見合うなら商品にしてもいいわよ」
「いや…母さんに食べてもらいたかっただけだから」
息子はそんな事を言う。
昔の私だったら、なんの感想も抱かずに経理の仕事に戻っていただろう。
けど、母親として二十年間やってきた程度には、私は変わって―――成長している。
たぶん
「そう…それじゃ、ありがとう」
なんでもなく言ったつもりだった。
夫と息子は驚いたように目を丸くして、それから満面の、実に嬉しそうな笑みを揃って浮かべて立ち去った。
……なんか悔しい。
悔しかったので経理を早目に切り上げて私が夕食を作った。
夫と息子が泣いて止めてくれと頼んできたが、きっぱりと無視した。言葉さえ無視してしまえば、私を止められる人間などそういない。
適当に材料を、焼いた。味加減という概念が根本的に理解できないので、これもまた適当な調味料を適当に振ってかけた。なんかどろどろしたものになった。
なぜだろう、と思いながら食卓に出す。
夫は『食事に対する冒涜だよ…これは』などと泣きながら食べていた。息子は『これに比べたら成瀬川のほうが百倍マシだよ…』などと吐きそうになりながら食べていた。
私はといえば、酷い味のものを食べる訓練はしているので別に平気だった。美味い不味いという概念を封じてしまうのがコツだ。ちなみに食感などを無視した純粋な味としては塩化ビニールに近かった。
とにかくその日はつつがなく(一部反論アリ)過ぎていった。
四日目
その日の朝食は、ほんの少し豪華だった―――ような気がする。
朝食に使う食費はいつもと変わらないはずなので、その分手間をかけたんだろう―――おそらく
食費は、切り詰めて浮いた分を小遣いなどに出来ないよう、本当にぎりぎりしか渡してないはずなので
料理のことは全くわからないが、相当頑張ったのだろう。
アサリの味噌汁をすすりながら、息子がふと切り出した。
「あのさ、俺の留年の話ってどうなったのかな」
「……忘れてたわね」
既に食べ終わり茶を飲みながら私が呟く。
ちょっと呆然としたのは秘密だ。
なんというか、息子のいる日常がごくごく当たり前すぎて、そんな話忘れていた。
今日が、息子のいる最後の日、なのか―――
「―――あのさ、父さん、母さん」
「ん?」
「なにか留年したことについて弁明でもあるの?」
「俺、留学したいと思ってる」
――――――――――――――――――
「景、説明してくれないか」
「うん……尊敬する先生がいるんだ。それで、瀬田さん―――っていうんだけど、色々手伝いたいなって」
「時期と場所は?」
「アメリカ…それで、試験が十月にあるんだ。期間は一年か、短くて半年くらい、かな…」
「そっ、か……」
――――――――――――――――――
「その先生は何を教えているんだい?」
「えーと…考古学。本人も、世界中飛び回ってる考古学者なんだ」
「景は、その道に進みたいと思っているんだね?」
「………うん」
――――――――――――――――――
「この話をするのは、僕たちが最初かい?」
「…うん」
「そうか、まあお金のこともあるだろうしね…それでも、嬉しいと感じてもいいのかな」
「なんで父さんが嬉しいの?」
「嬉しいに決まってるさ。好きな相手に信頼されてるってことなんだから」
「そりゃ、父さんは父さんだし…母さんは母さんだから」
――――――――――――――――――
「さて、まあ僕に聞けるのはこの程度だ」
「あのさ……父さん。母さんの様子がなんか変なんだけど」
「ん…これはかなりびっくりしてるね。目を見開いたまま固まってる…となると次はあれか」
「やっぱり?」
「まあこれも彼女に関わった反作用として諦めるべきだと思うよ」
「いや、そうまで割り切れないんだけど…」
―――――――――――――――――ざ
「っけんじゃないわよっ!!!!」
「えーと、一応言っておくけど、少し落ち着いたほうがいいとおもうよ」
「邪魔!」
「はぐっ!」
虎進肘で、進路を塞ごうとした夫の右肋骨三番目と四番目の隙間を一撃して床にのたうちまわさせる。
そして立ち膝から一歩踏み出し、下から掬い上げるように息子の襟元を引っ掴んだ。
片手で持ち上げる。息子の膝が少し上がった。更に締め上げる。
「三浪したあげく留年しといて今度は留学!?どこまで親に迷惑かければ気が済むの貴方はっ!」
「か…さん、しまっ…て、し…まっ…」
「しかも一年!?この親不孝者、もう一回生まれ変わってきて人生やり直してみるっ!?」
「ごめ……で、も……」
「あん!?」
「ゆめ…な、んだ……」
「―――――――――――――――っ」
ゆ、め?
私は右手を僅かに緩めた。言葉を聞くためではなく、気絶してしまわないように。
これから言う言葉が確実に届くように。
「東大東大言い続けて三浪したように、貴重な時間を使い潰すの?だいたい、東大に入ってもやりたいことなんてないでしょうに!」
「でも……見つけた。やりたいことをみつけたんだっ!」
「まだそんな戯言をッ!」
「ぐ……あ」
「考古学者ですって…!?それじゃあ…この店は、代々続いてきた『うらしま』は誰が継ぐの!潰れても良いというの!?」
母と、姉と、夫の顔がかわるがわるに浮かんだ。
いつから私は縛られているのだろう。
母に使命を伝えられた時からだろうか
姉が死んでしまった時からだろうか
夫と出会わされた時からだろうか
それとも
息子が生まれたときからだろうか
思考が乱れて、締め上げた手が我知らず再び僅かに緩んだ。
そして息子がその隙を突いて反論、した。
「和菓子屋なら、可奈子が継げばいいじゃないかっ!」
「――――――――――――――っ!」
フラッシュバック
和菓子屋なら、かなたが継げばいいわけだし
はじめ、まして。よろしく…というのも、変かな
トーダイにいきたい
そうですか。私はあなたの代わりというわけですね…別に、いいです
轟音
なんの音かと思ったら、私が息子を畳敷きの床に叩きつけた音だった。
もう一度、襟元を掴んだまま床に叩きつける。
轟音と共にびきり、と建材のどこかにヒビが入る音。
確認する。息子は完全に気絶していた。
安心する。
もうこれ以上、反撃されることは、ない。
私は右手をゆっくりと息子から離し、信じがたいほど力が篭った両足を抜いて、背を向け襖を開きその場を後にする。
僅かに、夫の声が届いた。
「景、聞こえていないし手遅れかもしれないが、これからのために一応忠告しておこう。あれはまずい。彼女は可奈とこの店に対して強烈で複雑な負い目があるんだ。それは、まず僕も会ったことがない彼女の亡くなったお姉さんに関係してくるんだが…」
とって返して床に転がっている夫の首を引っ掴んで再びその場を後にした。
満天の星空が見える場所に私たちはいた。
屋根の上。
和菓子『うらしま』の看板が、足元でぱたぱたと風に揺れている。
私は膝を抱えて夜空を見上げていた。
「この場所で星を見るのもずいぶんと久しぶりだね」
確かに久しぶりだ。
結婚してしばらくしてからぼちぼちと、可奈子が来てからはパッタリ。そして息子の二度目の受験が失敗してからまた何度か。
計算してみる。587日ぶりだ。
「君はここでは無口になるし」
「…貴方は饒舌になるわね」
「だって、ほら。君が無口になるからその分僕が喋らないと。黙っていてもわかり合えるなんて幻想だと思う。もちろん、善意があることが大前提だけどね」
「私は…喋る必要なんてないと思う」
思う。
かつての私にとって世界は閉じていた。
感知できる全ては完全に理解できる事柄だけだった。
そういうふうに育てられた。
『浦島』を継ぐ者として
―――姉は
ごく普通に生き和菓子屋『うらしま』を継ぐ。幸せな日常を紡ぐ。
そのはずだった。
「お姉さんのこと、考えているのかい?」
「……ええ」
「陽子さん、か…僕は、その人を知らない。だから、彼女の死にだけ感謝する」
「……殴るわよ」
「もうそのことでは何度も殴ったろ?僕と君が出会ったのは、確かに彼女の死のおかげなんだから」
私は和菓子屋『うらしま』を継ぐことになり、しかし私にはその技術はなかった。
ならば必要な技術を持った者を入れればいい、というのが母の結論で。
あれは、見合いというのか。奇妙な挨拶だった。
初めて会った時の夫は、夫ではなく、ただの男だった。
その結婚に、私は特になんの感慨も抱くことなく同意した。
――――その時は、まだ
「私は、貴方を、殺したいほど愛している」
「光栄だよ」
「だけど同時に、殺したいほど憎んでいる」
「…光栄だね」
「私を人間にしてくれた、私を人間にしてしまった。私は世界が様々な真実で成り立っていることに気付いて―――」
「僕たちの関係が真実でないことに気付いてしまった…景がいなかったら、僕たちは離婚してたのかな」
「多分、私は貴方と自分自身を殺して辻褄をつけていた。そうしなかったのは、育児書に『両親は健在であるべき』と書いてあったから」
「……僕たちは育児書に命を救われてたのか」
「息子に救われたのよ」
息子。浦島景太郎という私たちの子供。
そもそもからして矛盾に満ちた存在。
偽りでしかない関係は不幸にならねばならないのに、息子は無邪気に笑う。
わからない。
偽りの母。母らしいことなど何もできない私。
偽りの夫婦。始まりには希望など存在せず、だからこそ幸福など発生しないはずの関係。
偽りから生まれたものは偽りでしかないはずなのに―――なぜ、この子の方が正しく思えてしまうのか。
息子の前ではつい、自分を偽ってしまう。
まるで、当たり前の母のように振舞いたくなってしまう。
真っ当な人間などではないくせに、当たり前の幸せを望んでしまう。
壊すことしかできない私が愛を得ることができても、それは夫を巻き込んでの破滅へと向かっていくだけのはずなのに。
不可能なはずのことが、ごくごく当たり前にできてしまう。
ふしぎな子だ。
「…息子に酷いことを言ってしまったわ。後で謝っておかないと」
「畳が陥没するほどの勢いで叩きつけたことに対しての謝罪もあったほうがいいんじゃないかな」
「後でまた厳さんに修繕を頼んでおかないと」
「それだけ……まあ、こんなこと日常茶飯事だし景は不死身だから別にいいか」
「……いつか、『浦島』のこと、可奈子のこと、息子に全て話す時が来るかしら」
「――全てが清算された後か、あるいは景をも巻き込まなければならなくなった時か…後者は勘弁願いたいけど、そう思うのは可奈に対する裏切りだな」
浦島可奈子。
私の義理の娘。
姉の死により、後継者の座は移行した。
私は『うらしま』を継ぎ、『浦島』の正統後継者がいなくなる。
息子をその地位につけることを私が否定すると、母はどこからか少女を連れてきた。
『浦島』を継がせるため、だけに。
――――かつての私のように
それを私たちが育てることになるなんて、なんて皮肉だろう。
私は、私は、どうしても、彼女を娘だと思うことができない。
あれは、もう一人の私だ。
日々の暮らしの中で、気が付くと私は彼女を避けてしまっていた。
だからだろうか。可奈子は世界でただ一人息子にしか心を開いていない。
――――私と彼女との違いは、早すぎたか遅すぎたか、だけだ
「それにしても…可奈がこのことを知ったら、凄いことになりそうだね」
「…そうね」
「でも、僕としては景と可奈、どちらの希望も潰したくない。これは、贅沢かな?」
後継者の座は移行する。
それは私のときに実証済みだ。
そして、息子が『うらしま』を継がないのなら―――私のときと全く同じことが繰り返されるだろう。それが慣習というものだ。
可奈子に和菓子屋を継ぐ技術はない。なぜならあの子は『浦島』を継ぐためだけに育てられたのだから。
――――私と同じように
だが私と違って、可奈子は既に息子に希望を見出してしまっている。
…あの子はどう出るだろう。
もうこの時点で、二人の希望を両方とも叶えるなんて不可能だ。
だけど、私は夫の質問にこう答えた。
「贅沢だなんて―――――そんなものは、親としての義務よ」
「――そうか。それじゃあ君も、景の留学には賛成なんだね?」
「…そういうことに、なるかしら」
「今すぐに割り切らなくてもいいと思う。君の性格だと、割り切って考えるのは無理かもしれない。だけど……本当に大変なのはあの子達だってこと。それだけは知っておいてほしい」
「―――まったく、貴方という人は」
「うん?」
「私が三日三晩考えてもわからないことに、あっさり気付いてしまうんだから」
「んー、いやほら。それは性質の違いだよ。僕にできなくて君にできることもたくさんある…経理とか」
「それにしても、損な役回りね。恨まれてばかりだわ」
私は恨まれているだろう。
試練を与え、厳しく接し、成長を促す役なのだから。
それはわかっている。充分に理解している、けど……辛いときもある。
息子に謝るにしても、どういう顔をすればいいのだろう。
殴って極めて投げて否定しておいて、どういう顔をしろというのだろう。
わからない。
言葉にできない。
今まで22年間なんとかなってきたのに、改めて自らに問うてみるとどうしても言葉にできないのだ。
なんてあやふやで、不甲斐ないのだろう。
―――――――でも、それこそがきっと母としての私だ
「それにしても、ここで話すのも久しぶりだけど…まだまだ、互いに知らない部分があるものだね」
「当たり前よ。二人とも、変わり続けてるもの…それとも、不服なの?」
「とんでもない。わかりあえる余地があるのは、素晴らしいことだよ。次の二十年間が楽しみだ」
「お爺さんお婆さんね、そこまでいくと」
「そう呼ばれるのはいつになるんだろう……景に、決まった人がいればいいんだけど」
「当分は無理でしょ。あんな馬鹿息子に惚れるような物好きが、そうそういるとも思えないし…」
「それに?」
「まがりなりにも私たちの息子よ。その辺の馬の骨にくれてやる気は、ないわ」
「…確かに、君みたいな姑がいるからには、よっぽどのことがない限り無理か」
久しぶりに星空の下、屋根の上で私たちは話をした。
私は屋根の縁に膝を抱えて座り、夫は私と背を合わせて座り、共に夜空を見上げている。
私は拳を振るうようなことはないし、夫も言葉を偽るようなことはない。
それは儀式のようなものだ。
この場所では私たちは、ありとあらゆる仮面を捨てて、言葉を偽ることもない。
それで誰が傷つこうが――――構うものか、どうせこの場所には私たちしかいない。私が傷つけるのは夫であり、私が傷つけられるのは夫でしかありえない。
それは儀式だ。私達が夫婦として在り続けるための、儀式。
今夜の月は、細く引き絞るような三日月だった。
五日目
日付が変わったばかりの暗い居間に、私は戻った。
電気をつけるまでもなく、息子が倒れているのを発見する。
…まだ気絶している。
襟首を掴んで思い切り真下に叩きつけたのだから、衝撃がどこにも逃げずにまともに入ったはずだ。それも複数回。普通の人間だったら背骨が折れていてもおかしくはない。
いくら不死身といえど、流石に気絶している。
…さて、どうしたものか。
少し考えて私はだらんと投げ出されている息子の腕を取った。
「…よいしょっと」
思ったより重い。
腕力は年齢と共に衰えていくものだが、トレーニングは怠っていない。つまりは
成長したんだな、としみじみと感じながら担ぎ上げる。
以前に息子を背負ったのは何時だったろうか。
まだ恨まれていなかった頃―――ずっと昔のように感じる。
はじめて息子をこの手に抱いた時
なにかすさまじい感情の本流が訪れ、涙を流したことを憶えている。
息子を胎内に宿している日々よりも、半日以上に渡る出産の時よりも
強く、強く、強く、実感した。
生きているなんて信じられないほど華奢な体。だけど確かに命を感じさせる温もり。
当たり前に矛盾した存在。
だというのに、なぜだろう。
とてもとても――――無条件に、愛しかった。
守るということの真の意味が、護るべき存在がそこにいるという事実が、涙を流すほどの衝撃だった。
22年経った今でも、私はまだあの時の感情を忘れていない。
あの時の感動は確かに私の根底に息づいて、いる。
明かりもついていない部屋に、ドアを蹴飛ばして入った。
五日前に掃除をしておいたので埃こそ積もっていないが、それでも使っていなかった部屋特有の匂いはどこか漂っている。
マンガや小説の詰まった本棚、かさばるベット、天井からぶら下がる古びた電灯、空っぽのクローゼット、六畳一間の小さな部屋。
使われた時間は―――延べ、15年といったところか。
かかっている金はそれに比べて小さい。そもそも家具が少ないし、ベットにしろクローゼットにしろ本棚にしろ、人から譲ってもらったり中古で買い叩いたりしたものだから。
一つ一つに、息子の歴史が息づいている。
その一つ、厳さんと息子が共同で作ったベットにその主を放り込んだ。
どさり
「――――――ん………かあさん?」
夫曰く、私は実は『教育ママ』らしい。
なるほど、確かに私は、息子に対してだけムキになる傾向があるかもしれない。
息子が言いなりにならずに、私に対して自分の我侭を示してきた時など特に
5歳の時に、トーダイに行きたいと言い出したときも
18歳の時に、勝手に受験をしたときも
20歳の時に、二浪してもまだ受験を諦めなかったときも
そしてさっき、留学を希望したときも
私は強硬に反対した。
それはあまりに愚かしくて、危険な道だと思ったから
殴ってでも極めてでも投げてでも、干渉しようとした。
…道から外れることは、道から外れることのできなかった私にとって禁忌だから
なるほど、確かに私は『教育ママ』かもしれない。そう言われても仕方がない。
―――――それだけ、息子のことが心配なのだ。
「そのままで聞きなさい」
「……ん」
意識は取り戻したようだが、まだ朦朧としているようだ―――というより、寝惚けているのか。
生返事しか返ってこない。
さっき激しく言い合った相手だとわかっていないのかもしれない。
息子の返答もぼんやりと曖昧な響きを持っている。
助かる。
多少――――緊張が和らいだ。
それでも、一言出すのに途方もない思い切りが必要だった。
「…さっきは悪かったわね」
「……なに?」
「留学のこと…ねえ、貴方が私に相談してくれたの、はじめてね」
「……そうかも」
「夢、といったわね。その意志は揺るぎないものなの?」
「……たぶん」
「頼りないわねえ…まあいいわ。貴方の留学費用、全額負担してあげる」
「……ん」
「私にできるのはそれだけだけど…その程度で恨みを晴らしてくれなんて言わないから」
「……うらんでない」
「え?」
「……んー」
「もう一度言って」
「……かあさんのことべつにうらんでないよ」
「もういちど」
「……?かあさん」
「りぴーと」
「……かあさんすきだよ」
「―――――――――――――――――」
断言しよう。寝惚けている。
夢現のでの、息子のいつもの戯言だ。
枕に顔をうずめ、もごもごと不明瞭な言葉。
真に受けたら馬鹿を見る。
私は聞き流すことにした。
―――――だって、そうでなければあまりにも―――――
「…私、馬鹿みたいね」
「……んー」
「貴方、可奈子のことは好き?」
「……すきだよ」
「そう……じゃあ、私にもまだ貴方達のためにできることがあるみたいね」
「……んー?」
「なんでもないわ。とりあえず今は、関係ないことよ」
後継者の座は移行する。
『うらしま』と『浦島』の後継者の座。
移行させても、関係ない者を巻き込んででも、絶やしてはいけないもの。
息子が自分の意志で『うらしま』の後継を放棄したなら、母は可奈子を『うらしま』の後継者に持ってくるだろう。
そして私のときと同じように、和菓子作りの技術を持った者を婿に取らせる。
けれど可奈子は、すでに景太郎に希望を―――全ての救いを見出してしまっている。断ち切られれば、破滅だ。
そして空位となった『浦島』の後継者は……おそらく息子の子供、私の孫だ。
『うらしま』は救い。許されがたい罪を重ねていく『浦島』が、幸せな日常を身内に創り出すことによって少しでも救われるための理想家族。
『うらしま』は理想が故に、時に『浦島』より優先される。
よって、後継者の座は移行する。
この輪廻が正しいか、間違っているか、そんなことはどうでもいい。一生考えたところで私には答えなど出はしない。
だが、いまや『浦島』は息子と可奈子の希望にとって、障害となっている。
子供の希望を生かすのは、親としての義務であり権利だ。
いつか、『浦島』を潰すために戦う時が来るかもしれない。
『浦島』の呪縛から逃れようともしなかった私が、息子のために禁忌を犯すのかもしれない。
その時、私は母と―――浦島ひなたとケリをつけることができるだろうか。
わからない。
息子のことになると、わからないことだらけだ。
子を持つというのは、本当にどういうことなのか。
出産前から20年以上経った今でも、その問いは続いている。
―――でも今日はその答えが少しだけ出たかもしれない。
「おやすみなさい、景太郎」
「……んー」
六日目
留学に対して少々条件を出した。
その一。とりあえず三日間ほど実家帰りを延長すること。
またしばらく会えなくなるのだから、というのがその理由。
一年八ヶ月22日も会っていなかったのだ。追加で一年くらい別に平気な親(夫)もいるのかもしれないが。
私は平気じゃない。
そんな素振り、欠片も表に出さないように努力してるが…寂しいものは寂しい。
せっかく誤解が解けたのなら尚更だ。
おまけに、息子は夫の方の手伝いにかかりきりで経理の方には顔も出してくれない…息子に経理の手伝いができるわけもないのだが、そこは気分の問題だ。
PLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLL
そういうわけで、その電話が鳴ったときも私はあまり機嫌がよくなかった。
客商売なので無視するわけにもいかない。手を伸ばして机の脇にある受話器を取る。
多少ぶっきらぼうな口調になってしまったのはそのためで
「はい、『うらしま』で――」
『景太郎!?なにやってんのよアンタ!!』
いきなりだった。
私と息子は声が似ているらしい。
当事者たちはよくわからないのだが、私の声は女にしてはハスキーで息子の声は男にしては甘ったるい、 と夫が言っていた。
私が男っぽく厳しいせいか、息子が女っぽく軟弱なせいか―――まあ両方だろう。
それ以前に親子なのだから、似てくるのは当然とも言える。
息子が中学生の時は、友人からの電話を取ってはよく間違えられたものだ。
それを利用して息子の交友関係を調べたりもしたが、女子から電話がかかってくることはただの一度もなかった。想像以上に寂しい青春を送っていたようだ。
だから、それなりに驚いた。
その電話の主は―――怒りで我を失っているようだが、確かに若い女性の声だったから。
私としたことがその事実に気圧されて、即座に反応できなかった。
まくしたてられる。
『アンタいつもいつもみんなに心配かけて――――四日で帰ってくるんじゃなかったの!?昨日はみんな一日中待ってたのよ!パララケルスじゃないんだから、約束ぐらい守りなさいよっ!』
「………」
『素子ちゃんはなんでもない顔してるけど、ホントは心細いに決まってんだから!ちょっと三浪してたかが留年で、親になんか言われて落ち込んでるんでしょうけど、その程度で帰ってこないなんていったら私が許さないわよ!』
「………」
『なんとか言いなさいよ、このバカッ!ドジでマヌケのエロガッパ!』
息子が管理人をしている寮の住人らしい、ということしか思いつかなかった。
いや、もっと聞いて考えればいろいろなことがわかるのだろうが
それどころではなかった。
確かに息子は馬鹿だろう。愚かかもしれない。東大のみを受けつづけて三浪、しかもいきなり留年するなど正気の沙汰ではない。それを差し引いても性格的に抜けている。危なっかしくて仕方がない。
人生の勝利者にはなれそうもないタイプ。
だがそれでも、正真正銘私の息子だ。
そこまで言われる筋合いはない。
「―――失礼ですが、どちら様ですか?」
『!!!!!!?』
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
完璧にカウンターのタイミング、息を呑む気配がこちらまで伝わってきた。
多少気分が晴れる。だが、まだまだ半分も満たされていない。
借りはきっちり返すのが対人交渉の秘訣だ。
『え、あ……景太郎の…おかあさん?』
「ええ。一応、馬鹿でドジで間抜けで助平な愚息の母です」
『あ!あの、すみません!さっきはちょっと動転してて……私、ひなた荘に住んでる成瀬川なるというものです。景太郎…君には、住人としていつもお世話になっていまして…』
「それで、ご用件は?」
『…』
弁解の言葉を遮って慇懃無礼に聞く。
相手がカチンときたのが気配でわかったが、そんなものはわざとに決まっている。
おまけに、更に神経を逆撫でするような事を言ってやった。
私の息子を愚弄するのは私だけに許された行為だと思い知れ、とばかりに
「伝言があるなら、息子に伝えておきますが」
『え……あの、景太郎君に代わって…』
「息子は現在仕事中です。電話に出られる状態ではありませんから」
『しごと……』
嘘ではない。
本来は夫と厳さんの仕事なのだが、厳さんには居間の修繕(床下が破損していた)を頼んだので、手が空いている息子が夫と共に仕事をしているのだ。
家業の手伝いというかもしれないが、きちんとバイト代は清算するのでこれは仕事だ。
留年分の学費、そして留学費用もこうやって自分で稼いでほしいのだが―――時間が足りない。これは貸しだ。
『…あの、それじゃ伝言だけお願いします』
「はい。貴女が最初にまくしたてていたことでいいでしょうか?」
『………』
微妙な沈黙。
受話器の向こうでは、先程の失言を頭を抱えて後悔していることだろう。
そう思うと胸がすっとする。
――多分に八つ当たりが混じっているかもしれないけど。
だが、聞こえてきた声で晴れた胸中がいきなり曇って稲妻が走った。
『その――――早く帰ってくるようにって』
「………」
…言ってくれる。
つまりなにか。息子にとって本来帰るべきところは私たちが住むこの家ではなく、ひなた旅館―――改めひなた荘であると、そう言いたいわけか。
勘当同然で追い出された実家など、さっさと出て行って欲しいと願っているわけだ。
あまつさえそれを、私に伝えさせようとは。
なるほどなるほど。念のいった皮肉だ。
たった一言なのに、効果的に腹が立つことこの上ない。
―――――もちろん、そんなことは私の考えすぎだ
と、頭ではわかっていても感情ではわからない。理屈で割り切れるのだったら苦労はしない。
というか、私は半分意図的に暴走している。
なにより…気に食わない。
息子のことを心配して電話をかけてくるような女性がいるという驚愕の事実が
そうでなければ、こんなことは言わなかっただろう。
「息子なら、しばらく帰ってきませんよ」
『――――え?』
嘘ではない。
ただ、それは今年の十月から―――それも、息子が留学試験に受かったらの話だ。
実現する可能性が皆無とは言わないが、実のところ少し厳しいと私は睨んでいる。
『多分落ちるだろうけど貴方は慣れてるだろうから平気でしょう』などと水を差すのもあんまりなので言わなかっただけだ。
まあ、色々と必要な情報が抜けているが嘘ではない。
「ご存知かもしれませんが、ウチは和菓子屋です。一年に何回か、特別忙しい時期がありまして…今も息子に仕事の手伝いをしてもらっています」
『え…あ……で、でも景太郎はすぐ戻ってくるって言ってましたよ!』
「……息子が何を言っていたかは知りませんが、私は嘘など申していませんので」
『そんな……』
嘘ではない。
一年に何回か忙しくなるというのは本当だ。特に春先は祝い用の注文が多い。実際に和菓子を作るのもそうだが、予約清算場合によっては郵送を手配する事務仕事は飛躍的に増大する。全部一人でこなしているので目の回るような忙しさだ。
だがそれは今の時期ではない。特に大きな行事もないので暇―――とまでは行かないが、息子の手伝いが必要なほど忙しくはない。
今息子が手伝っているのも、新商品の開発及び試行錯誤なのでさほど緊急性があるわけではない。
嘘ではない……限りなく嘘に近いが。
「それでは、私にも仕事がありますので」
『あ、ちょ…待って!景太郎と話をさせ――――――』
がちゃん
トドメに電話を切ってやった。
再び掛け直してくるかもしれないが、その時はまた相手をしてやればいい。
あの調子なら、叩けばいくらでも埃が出てきそうだったし。
まあ、普通の娘ならここまで言われて掛け直すなどということはあるまい。
さて、憂鬱な気分もだいぶ紛れた。
事務仕事に戻ろう。
・
・
・
「現在の売上は前年比で2%UP…だけど増加率としては減少傾向。やっぱり和菓子は流行に乗れないのかしら…まあ、老舗だからまだマシだけど」
・
・
・
…さっきの電話の主、ずいぶんと切羽詰っていた、というかテンパっていた。よほど息子のことが心配だったのだろうか
・
・
・
「領収書―――ドリアン6800円?梅さん、領収書で落としたの…これは給料から差し引き、と。釘、材木、畳。これは厳さんの見積もりね。私の貯金から出して……それにしても予想外の出費だわ」
・
・
・
たった一日戻るのが遅れただけで
・
・
・
「この上留学もあるのね。ホームステイだけでも何十万か必要だし、一年分の学費は無駄になるし……奨学金は出るでしょうからまだマシとはいえ、あの子には計画を狂わされっぱなしね」
・
・
・
息子が戻らないと(いう意味にも取れる言葉を)ほのめかしたであんなに、滑稽なほどに呆然として
・
・
・
「頭が痛いわね……やっぱりこれは夫の車の買い替えを遅らせるしかないわ。まあ、別にマニュアル車だからって死にはしないし確かに小さいし鈍いしスピードも出ないけどその不満と息子の進路とどちらが大事なの―――よし、これで行きましょう」
・
・
・
………………って、おい
小枝が折れるような音がした。
見てみると、書類に記入するために使用していた一本200円のボールペンが見事にへし折れてプラスチックの残骸と化している。中身のインクが血のように飛び散り右手とその下に置いてあった何枚かの書類を真っ黒に染め上げて
ここ1時間の作業が全て無駄になった。
いや、そんなことはどうでもいい。
今、気付いた――――いや、思い付いたことがあまりに…なんというか
衝撃で
まさか…そんなことがありうるのか?
考え過ぎに決まっている。
いや、だが…そう考えれば辻褄は合う。
だが、だがしかし…その条件からして私の知る理に叶っていないのだ。そこだけ辻褄が合うからといってなんの意味があろうか。
常識で考えろ。そんな存在がいるはずがない。
…いや、だが可能性としては皆無に等しいがそれでもないわけではないわけでもない。それに、あの様子はどう説明をつければいいのだろう。
もしも私なら、三百九十億円積まれたってお断りだ。絶対に譲れない線というものは、ある。
だが、もしかしたら世の中には私の全く理解できない常識で動く人間が…いるのか?
いてしまうのか?
本当に?
そんなことが現実に、この世に、本当に、まさか、本気で、冗談抜きで、ありうるのか?
まさか本当に『――――――』いるのか?
いや、待て待て待て待て。そもそも
息子の方はどうなのだろう
電話は鳴らない。
……居ても立ってもいられなかった。
「ちょっといいかしらちなみに今は仕事を休憩中これは労働基準法に照らし合わせても正当な割り当てでありたしかに普段は休みナシで仕事を片付けてしまう傾向が私にはあるけど気分転換も時には必要だから別に深い意味はないのよ本当に」
「……いきなりどうしたの?母さん」
とんてんかん
店舗の方は事務室のようにしっかりとした造りになっていない(というか空間的に繋がっている)ので、居間を修理する音がよく聞こえる。
厳さんは手拭を頭に巻きつけ(必要もないのに)直足袋を履いてどこからどう見ても大工の棟梁といった格好で居間の床板を剥がして軒下に潜っている。寡黙なくせにそういう所のノリがいいところは、流石に梅さんの連れ合いだ。
実際に昔は大工もしていたらしく腕前も格好も板についている。母と喧嘩したりして家具や家そのものが壊れた時は、いつも最終的に厳さんのお世話になったものだ。
…そんなことはどうでもいい。
「というか、夫の手伝いをしていたはずの貴方がなぜ梅さんの代わりに店番をしているの?」
「いや、話すとちょっとややこしいんだけど…」
とんてんかん
夫はいくつかめの試作品干青唐辛子饅頭で舌が麻痺してしまい試行錯誤はひとまず中断して休憩。
その間に店の方を覗いてみたら、厳さんの差し入れにいくために梅さんに店番を頼まれた、らしい
『休憩中なのだからちゃんと休憩しなさい』と言ったら
『いや、俺は明日には帰っちゃうわけだし、どうせなら活用してくれたほうがいいよ』と笑う。
…そんなことを聞きたかったのではない。
「……景太郎」
「なに?」
とんてんかん
何度目かの問いかけ。
息子はカウンターに陣取って何気なく戸口から覗く外の光景を眺めていて、私はカウンターの更に奥の居間に続く段差に腰掛けている。
幸いなことに客はいない。修繕作業は続いているようなので厳さんに聞かれることもない。
機は熟した。
後は思い切りだけだ。
さっき思いついたことを直接問いただす
「『成瀬川なる』と『素子』って誰かしら?」
とんてん
――――――――――――――――――ことはできなかった。
『そんなこと』を言ったら、まず正気を疑われる。戯れに聞くにしてもあまりに馬鹿げている。
そいつらは『――――――』いるのか?なんて
それに相手は息子なのだ。『そんなこと』を聞いたら母の威厳が失墜してしまう。
なによりなにより―――――『そんなこと』を聞くのは恥ずかしすぎる。
結婚までしておきながら、私が全く慣れていない未知のジャンルの話題だ。
そんな理由で最後の踏ん切りがつかず
だから電話の中に出てきた名前という『事実』をでカマをかけるという程度しかできなかった。
……これって、恋人が浮気してるんじゃないかという疑惑を持って携帯のメモリーを調べた後の女の行動そのままではなかろうか。
「ぶっ!!!!」
かん
すさまじい反応があった。
息子がいきなり吹き出し、『くわ』と目を見開いてこちらをまじまじと凝視する。
目一杯動揺する息子を前に、私の方がちょっとビビってしまった…表には出さないが。
「か、母さん。なんであの二人の名前知ってるの?」
「ど、どうでもいいでしょう。そんなの」
「いや、よくないって。まさか婆ちゃんに聞いたの?それとも…」
「ほら、仕事の方が留守になっているわよ。前を向きなさい前を」
カマをかける程度のことしかできなかったことを後悔する。
もっと直接問いただせば事実をポロっと出したのかもしれないのに。
この反応だけでもなにかただ事でない関係があるのは間違いなさそうだが…
どっちがどっちだ?
考えられる組み合わせは10通り以上あるが……まさか両方が両方とも?
そんなことがあるわけがない。
くっ…かえって気になる。
いや、まだ遅くはない。今からもう一度息子に聞いて事実を明らかに―――
「少し出かけてくるわ。遅くなるかもしれないから、食事はいらない」
「え?ちょ、ちょっと母さん、どこ行くんだよ!説明してよ説明!」
「知人がくるから迎えに行くの。帰ったら説明してあげるわよ」
―――できなかった。
カウンターと息子の横を通り抜けて、言いながら外に出る。
服装は、仕事をしていたので簡単なスーツ姿。出かけるのになんの支障もない。
後ろで息子が何かを言っているが―――無視だ無視。
どうせここで返事をしたところで、不毛な揚げ足の取り合いになるだけなのだ。
私には電話を繋がなかったという負い目がある。
だが同時にそれはチャンスだ。
もしかしたら――――――――――
夏ももう終わりに差し掛かり、残暑の日差しがじりじりと照りつける。
万に一つの可能性を得るため、そして叩き潰すために
私が向かったのは最寄の駅だった。
この町はさして大きな町ではない。
あのひなた市ほど寂れてるわけではないが、お世辞にも栄えてるとは言いがたい。
駅前ですら建物が密集しているわけでもなく、バスターミナルが広々と場所を主張している。
10年も前からその場所は何も変わっていないような錯覚を受ける。
地方都市化が進む昨今ですら、だ。
古びた町。
細かいところでは色々と変わっているのだろうが、やはりその光景は何も変わっていない。
―――そんな光景を愛し、私なんかとは比較にならないほど柔らかく微笑んでいた人の言葉を思い出した。
あなたが積み重ねてきたものを大事にしなさい。傲慢でも卑屈でもなく、ただ素直に認めてあげさえすれば、思い出はきっとあなたに味方してくれるから。あなたの望むかなたへ変わることができるはずだから
馬鹿げている。
思春期の少女じゃあるまいし、そんな言葉に心を揺り動かされるような歳じゃない。
ただでさえ夢見がちな人だったのだ。いちいち戯言を真に受けていられない。
それに、理解できない言葉になんの意味があろうか。
ただ、その言葉だけが長年に渡って棘のように突き刺さっている。
理解できないまま、いつまでも
「………」
ふと、我に返った。
どうも暇で暇で、普段考えないようなことを思考してしまったようだ。
私はもう一度、ベンチに座り直すというさっきから十分ごとに行っている行為を繰り返した。
駅はやはり十年前と変わらず古びていて、ホームには売店どころか自販機が一つあるきりだ。
そしてベンチ。
錆びた鉄の骨組みと、背もたれと座る部分には安っぽいブルーのプラスチック板。どこにでもありそうで、実際には今時珍しい年季の入った、ホームのど真ん中にぽつんと佇むベンチ。
そこに私は、ずっと座っている。
屋根に固定された時計を見上げてみる。
私がここに座ってから二時間が経過していた。
・
・
・
何本目かの電車が来た。
降りてきた三人の乗客を睨みつけるようにチェックする。男が二人、これは真っ先に除外。残る一人は私よりも歳のいったおばさん。
はずれだ。
電車は約三十分ごとに来る。次の三十分間、どう時間を潰そうか。
・
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・
スーツ姿で頭髪がやや薄くなった中年が同じベンチに座り、新聞を広げながらちらりとこちらを見た。
なに見とんじゃわれ
十倍で視線を返したら、そそくさと他のベンチに移っていった。
その少し後にやってきた電車(ちなみに誰も降りなかった)に乗る前、座りっぱなしの私にもう一度視線 を走らせてきたが
そうだ待ちぼうけじゃい悪いかコラ
ガンつけ百倍で返してやったら、そそくさと怯えたように電車の中に入っていった。
・
・
・
これは勝負だ、と自分に言い聞かせる。
私が諦めて帰ってしまったら私の負け
私の勝ちはそれ以外の全て
そうしてベンチに座って待つ。
待つ事は慣れている。そうでなければ獲物を仕留めることはできない。
夕方になっても、日が暮れても、私は待っていた。
痛みや空腹は我慢できる。そんなのには慣れている。
だが、息子のことについては母としてどうしても我慢できなかった。
・
・
・
ぶっちゃけた話、私はあの電話をかけてきた女を待っている。
あそこまで酷い対応をしたのだ。逆切れor事実の確認orそれ以外の何かのために直接やってくるかもしれない。
ひなた旅館――改めひなた荘にははるかがいる。こちらの電話番号はあの子に聞いたのだろう。住所も知ることができるはずだ。
正直、今日来る可能性はかなり低いだろう。よほど直情な人間でないとそんなことはしない。
だが、ゼロではないなら、それはチャンスだ。
来るかもしれない、来ないかもしれない。
その女か、あるいは関係者が来たのなら丁重にもてなして事実関係を教えてもらうつもりだ。
来なければ来ないでそれはいい。
そいつの目的がどうあれ、迎えが来たのなら息子は帰ってしまうから。
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終電一本前がホームに滑り込んでくる。
もうとっくに日も暮れて、ホームにいる人間は私しかいない。
さっきの電車からも降りてくる人間は一人もいなかった。
…夏でよかった。これで冬だったら、空腹と退屈に合わせて寒さにまで耐えなければいけないところだ。
ガー、と圧搾空気など使っていない機械仕掛けのドアが音を立てて開く。
これと合わせて後二本。それで待つのは終わりだ。
帰って冷めた料理を温めなおして食べて家族みんなで下らない話をして寝よう。
そしてホームにいる人間が増えた。
「ずいぶん遅くなっちゃったね」
「出た時間が遅かったですから…なる先輩も、私を待っていないですぐに出ていれば良かったんです」
「でも…やっぱり、景太郎のことなんだし素子ちゃんには話しておかないと思ったから…」
「そのことには感謝してます。しかし…浦島が監禁されてるというのはどうかと思いますが」
「絶対そうよ!いくら忙しいからって、話もさせてくれないのはおかしいもの!」
「…とにかく、この目で真偽を確かめないことにはなんとも言えません。早く浦島の実家にいきましょう」
手間が省けた。
実を言うと外見がまるでわからなかったので、どう確認しようか悩んでいたのだ。
『成瀬川なる』が栗色セミロングの20ぐらいの女。頭から二本アンテナを生やしているのが印象的、っていうか動物の耳と尻尾がついているのはどういうことだ。耳尻尾女と呼ぼう。
『素子』が背の高い制服姿の少女。おそらく何か修めているのだろう、物腰がただ事ではない。この少女は片目というか顔半分が包帯で覆われている。包帯少女と命名。
会話がなくてもわかったかもしれない。
目を引く二人だ。
その格好のせいもあるが……二人共にタイプさえ違えど美人なのだ。
この二人の内のどちらか――あるいは両方が?
信じられないが、漏れ聞こえて来る会話からは間違いなく息子の名前が聞こえてきた。
いや、待て。そもそも全て私の思い過ごしであるかもしれないのだ。
だが―――それならここまで来るか?
「はじめまして、二人とも」
立ち上がり、微笑みながら声をかけた。
話をしていた二人が驚いて振り返る。当たり前だろう、見知らぬ中年女にいきなり話し掛けられたのだから。
だが私の方も驚いていた。
私は……本当に笑っている。
意図するでもなく、威嚇するでもなく、自然に微笑みがこみ上げてきた。
極上の笑みだという自覚があった。
こんなことは初めてだ。夫にだって、笑い顔など見せたことはほとんどない。
なるほど、これが―――――殺ス笑ミというものか。
「息子が普段からお世話になっているみたいなので、迎えにきましたよ」
包帯少女の表情が静かな驚愕を表現し耳尻尾女の顔はまともに引き攣った。
失礼な女だ。いくら私に対して失言をかましまくったとはいえ、この笑顔に対してそんな表情をしなくてもいいだろう。
とはいえ、もう一人の方にも笑顔を返すような余裕はないようだ。強張った表情で聞いてくる。
「なるほど……ではさっそくですが、浦島景太郎がひなた荘に戻ってくるのは何時ですか?」
「明日かもしれないし、一年後かもしれない。もしかしたら一昨日にもう帰っているのかもしれないわね」
包帯少女の表情も僅かに引き攣った。
ちょっと言葉遊びをしてやっただけなのに、忍耐が足りない少女だ。
ひらひらと右手を開いて目の前で振りながらそう思う。
別に挑発のためにやっているのではない。指をほぐしているのだ。
「聞きたいことがあるのなら…」
ぐっ、と掲げるように拳をつくり
「これで言いなさい」
静かに宣告する。
「………」
「………」
反応はそれぞれだった。
片方の女は唖然として『この人正気?』などという目でこちらをまじまじと見詰め
もう一人の少女は『スラリ』といきなり隠し持っていた刀を抜いた。
それも普通の刀ではなさそうだ。ほとんど力を封じられているようだが、概念武装としてはかなりの上物。並の結界なら、そこにあるだけで分断してしまうだろう。
それがわかっても、私は気楽に構えを取った。右手を前に、左手を後ろに。体全体を傾け、前面に対して晒す面積を少なくする、ごく基本的な戦闘体勢。
「戦る気ね。話が早くて助かるわ」
「浦島の母君ですか……戦うのは本意ではありませんが、やむを得ません」
「ちょ……素子ちゃん!いくら失礼だからって、他にいくらでも聞きようが…!」
「…気付きませんか?なる先輩」
「え?」
「この方…やります。それも尋常ではありません。ほとんど人外の域に達しています…!浦島の母君が、まさかこれほどまでに化け物だとは予想外でした」
じり、と包帯少女の頬を汗が伝った。
いくら残暑が厳しいとはいえ、今は夜だ。むしろ涼しいぐらいで、暑さで汗をかくなどありえない。
つまりは緊張で、か
私がこっそりと発していた『逃がさん』という気配を感じ取れたのだから、この少女もなかなかやる。
相手の強さを測るのは、やはりある程度の強さがないと不可能だ。
「ふうん…実力の差が圧倒的で、そのことを十分理解していても、あえて戦るというのね」
「…そうしないと、浦島を連れ戻せそうにありませんので」
「そう、ならもっと前に出てきなさい。獲物を持っているからって三倍どころじゃ済んでないわよ」
「む、無茶苦茶言うわね。ホントに景太郎の母親なの…?」
「…なる先輩。できれば援護をお願いします」
「え、援護?」
「同時に来なさい、それがせめてものハンデになるのなら」
「くっ……ああもう!わかったわよ!やってやろうじゃないの!」
耳尻尾女も構えた。怒りと興奮で顔が赤くなっている。
流派は中国拳法の一種のようだが、やや大雑把。戦闘と行為そのものに対してあまり慣れていないのだろう。
だが、見たとこ潜在ポテンシャルなら包帯少女よりも上のようだ。
油断はできない、というかそんなもの初めからする気がない。
この二人は、少なくとも今は、私にとって明確な敵だ。
三十分以内に片をつけ、二人から事実を聞き出し終電に蹴りこまなければいけない。そのために手段を選ぶ気はない。
構えながら、躊躇や、倫理や、情をゆっくりと精神から捨て去っていく。後には、純然たる攻撃衝動と
微笑が残る。
「♪」
「「………!」」
六分で踏み込みながらの最初の攻撃。
一撃目の右足刀で耳尻尾女を線路上まで弾き飛ばし、3撃目の手刀まで凌いだ包帯少女の反撃を折り曲げた人差し指と中指の間で白羽取りし、その勢いを利用して反対方向に捻りを加えてぶん投げた。
私と息子は、家族だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
確かにそれは生まれたときからある強固な関係かもしれないが
しょせん様々な要因で簡単に崩れるようなものでしかない。
人間同士の繋がりなんてそんなものだ。
だから私は、家族の維持に全力を尽くす。
脆いものほど愛しく思える、そんな気質が私の中にあったとは我ながら驚きだ。
…息子は一週間、家にいる。そしてまた出て行く。
それはもう決定事項で、変えようがない。
もしかしたら、その後一年以上顔も見れないかもしれない。
だから、せめて家族の一時として
景太郎のいる一週間、一日たりとも削らせはしない。
20分後
「ま、私も自分の子供みたいな歳の相手に負けるつもりはないから」
私は再び座りながら、独り言のように呟く。
ただし今度は、鉄の骨組みとプラスチックの板で構成された安っぽいベンチにではない。
うつぶせに倒れ十字に積み重ねた人間の背中が、椅子の代わりだ。
こういうときはビジュアル的にキセルかタバコが欲しい―――私は吸わないが。
呻き声が聞こえる。
「つ、強い……」
「滅茶苦茶よ…なんで会っていきなり乱闘に持ち込んでるのよ…」
「それはもちろん、私にも聞きたいことがあるからよ」
微笑を崩さず、くいくいと手近にあった耳尻尾女の頭の耳を引っ張ってみる。
急所を攻撃して一撃で気絶殺傷させるわけにはいかなかったので二人の体力が尽きるまで丁寧にボコり、もう全身ぼろぼろだ。それでも20分間もったのは凄い。
特に包帯少女の方は耐久力的には限界に達していたのに、それでも倒れず戦意を失っていなかった。仕方ないので点穴を突いて下半身を麻痺させ自由を奪わせてもらった。後遺症が残らないことを祈ろう。
耳尻尾女は技術的には赤子同然だったのだが腕力と耐久力は私を凌ぐほどだった。というわけで動けなくなるまで殴り蹴り投げ極めてまた殴るのはなかなか手間がかかった。
まあいい。時間がない。
笑顔を消して真顔になり、聞いた。
「貴女達、『――――――』いるの?」
「「……は?」」
呆気に取られたような返事。
確かに荒唐無稽というか唐突というかムチャクチャ失礼な質問ではあるのだが、もう怒る気力もないようだ。
力なくその真意を聞いてくるが―――私は勝者だ。一方的に質問する権利がある。
さあ、さっさと答えろ。
私はもう一度質問を繰り返す。
「貴女達、『息子に惚れて』いるの?」
まさか、だ。
そんな馬鹿なことがありうるわけがない。
だが、それなら電話であそこまで焦っていたことも、こうして実家まで来たことも説明がついてしまう。
しかし、単なる考えすぎかもしれない。フリスビーがUFOに見えているだけかもしれない。
っていうかそう思いたい。
そんなことが――――現実に起こっているなら、私は一体息子にどう接していけばいいのだ?
…ええ?
だが、知らないままでいるのも我慢がならない。
その辺も、私は母としてまだまだ未熟だ。
さあ、答えろ。
「…んなわけないでしょ」
「…だったらどうだというのです」
――――――――――――――――――――
「そう……」
なんとも複雑な気分
それに尽きる。
というか、私は一体どうしたらいいのだろうか。
一人はもう完全に開き直って認めていて、もう一人は強がって嘘をついているのがばればれだ。
だって二人とも同じ眼をしている。
これが恋する乙女の目というものか…?などと思ったが少し違うような気がした。
まあ細かいことは気にしないようにしよう。
息子に、よりにもよってあの息子に惚れるなんて――いったいどこに?
私が二十二年間で知りえた一般常識と照らし合わせて…男としての魅力は皆無に等しいと思うのだが
この二人がおかしいのか…それとも、息子には私が知らないような魅力があるのだろうか
複雑すぎる気分だ。
で、私はどういうリアクションを、どういう態度を取るべきだろうか。
…神でも悪魔でも精霊でも世界の敵でも誰でもいいです。
なんでもいいからアドバイスをしてくれたなら一つ貸しにしてあげるから
傲慢でも卑屈でもなく、ただ素直になりさえすれば――――
…よりにもよって死人からアドバイスが来た。
「……私たちの質問にも答えてくれませんか?」
「ん?ああ、息子のことね…残念ながら、それは私の口から詳しく答えることはできないわ」
「ふざけんじゃないわよ、人を馬鹿にすんのもいいかげんにして…」
「そこ、愚痴ってんじゃないの。心配しなくても、息子は明日には家を出るわ」
「……その言葉に偽りはありませんか?」
「ホントよ」
「じゃあ、電話で言ったことはなんだったのよ…」
「別に嘘は言ってないわよ。ま、そのことに関してはそのうち息子が教えてくれると思うから、気長に待ちなさい」
「……それでは今の戦闘は何のために?」
「あー、うん。なんていうか…まあ、並の馬の骨じゃないってわかったからいいわ。それと……私の無茶苦茶さ、思い知った?」
「もうこれ以上ないって程に骨身に染みてるわ…」
「それならよし。じゃ、お帰りの時間よ」
がたんごとん、と上りの終電がホームに入ってきた。
時間切れだ。
私はひょいと立ち上がり、耳尻尾女の首筋を右手に包帯少女の首筋を左手に持ちズリズリ引きずって開いたドアまで運んだ。トレーニングは怠っていないから、この程度造作もない。
終電には誰も乗っていない。ちょっと鉄道警察に通報されそうな光景だから他人に見られなくて助かった。
なにしろ戦闘の煽りでホームの所々を破壊してしまったし。
どさどさ、と電車の中に二人を放り込んだ。
そんな扱いに文句をいう気力も残ってないようで、恨みがましい眼でこちらを見てくる。
ひらひらと笑顔で手を振ってあげる。
「ま、こういう姑がいるから。息子と結婚する気なら死ぬほど覚悟することね」
ガー、と耳障りな音を立てて明るい車内と暗い空間とが隔てられる。
そして今日最後の電車は動き出し、呆然とした二人を速やかに運んでいった。
さて、帰って冷めた料理を温めなおして食べて多分帰りを待っているだろう家族と下らない話をして寝よう。
七日目
「それじゃ、父さん母さん。見送りありがとう」
「ほら、お土産忘れないで。まあ、ウチのカメ饅頭だけど向こうのみんなで食べてくれればいいよ」
「そこそこ高価な菓子よ。この分は給料から天引きしておくから味わって食べなさい」
「母さん…」(泣)
「情けない顔をしないの。汗水たらして働いた三日間の成果の一部と思えば、普通よりも美味しく感じること請け合いよ」
…たった一週間の実家帰りだけど、最後の最後まで母さんに泣かされっぱなしだったなあ。
帰る時の駅のホームでも父さんの仲裁を求めることになろうとは…
一年半も帰っていないとは思えないほど馴染んだ一週間だった。
あまりに馴染みすぎて、ひなた荘がちょっと懐かしく思えてしまったぐらいで
たった一週間顔を見ていないのに心配だ。
みんな、元気でいるだろうか。
「そういえば、なんかいろんなところがテープで囲われて壊れてるみたいだけど…何かあったのかな?」
「さあ、何があったのかしら。暴走族が乱闘でもしたのかもね」
「今時暴走族はないと思うけど…あ、景。時計が壊れてるみたいだけどそろそろじゃないか?」
「あ、そうだね。時間だ……」
柱に設置されていたスピーカーは何かがぶつかったかのように派手にひしゃげていて、駅員の人が『間もなく一番ホームに上り電車が入ります!』と声を張り上げている。
別れの時間だ。
がたんごとん、と電車が入ってくる。俺は自分の部屋から持ち出した荷物を両手に持ち、最後に両親と言葉を交わした。
「父さん、母さん。それじゃ…」
「別に今生の別れってわけじゃないよ。気が向いたらこれからも、ちょくちょく帰ってくればいいわけだし」
「とりあえず試験に合格して留学が終わるまで絶対に帰ってくるんじゃないわよ」
「…あのさ、俺は帰っていいの?いけないの?」
「いいに決まってる。だって、君の家なんだよ?いつでも待ってるさ」
「悪いに決まってるわ。留学までしようっていうのなら、もう戻らないくらいの覚悟が必要よ」
なんだかなあ、と苦笑する。
これでもうしばらくは会えないわけだし、俺は内心結構しんみりしてるんだけど
父さんは全然いつもの調子だし、母さんもやっぱりいつもの調子だ。
この両親のことは、俺が心配するだけ無駄じゃないだろうか。
なんで俺みたいなのが生まれたんだろうと、いつも不思議に思うのだ。
苦笑しながら、なにか珍しく口喧嘩をしている二人を後に、ホームの領域から車内の領域に移動する。
まあ、あんまり別れを惜しんでいても仕方ない。特にこの両親の場合。
なにしろ前回は、蹴り出すように追い出されたわけだから。
『扉が閉まります、ご注意ください』と駅員さんが拡声器で声を張り上げている。
「それじゃ、父さん母さん。またね」
気付いた父さんはこちらに向かって笑顔で手を振り、母さんは―――
笑顔?
凄まじく珍しいものを目撃してしまい、俺の思考は一瞬で停止した。
だって、母さんの笑顔なんて。俺の記憶の中にはそんなもの存在していない。
まったく未知の現象を前に人間ができることなんて驚くことだけだ。
鋭い声が空気を震わして伝わる。
「景太郎!次に来たときは『貴方はどう』なのか聞かせてもらうわよ!」
ガー
がたん、ごとん
がたんごとん、がたんごとん
そんな感じで
俺の一週間に延長された実家帰りは終わった。
…ひなた荘に戻った俺が仮装をしたみんな(というかなぜかぼろぼろの素子ちゃんと成瀬川)にボコボコにされたのはまた別の話。
Fin
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