注意!これは景太郎×素子小説です。
*これは『突然の別れと 長すぎる孤独と 遅すぎた出逢いに あなたは…』の続きです。
*『こんなん○○○様違う!』的な文句はいくらでも受け付けます。
*作中の時期はゴールデンウィークです。
拝啓 姉上
お元気ですか、姉上。私は元気です。
桜も散り終え、ツツジの咲く季節になりました。いかがお過ごしですか?
私は、今年度も無事進級できました。ただ、部が残り数ヶ月で終わりとなってしまうのが惜しくはあります。
有終の美を飾れるよう、今まで以上に精進を重ねていこうと思います。
また、依然話した後輩のカオラ=スゥが入学してきました。寮のみならず、登校中と放課後も一緒にいます。その元気の良さは、私も見習いたいものです。
こちらでの生活にも慣れ、日々は平穏に過ぎています。
今日は姉上に報告したいことがあって筆をとりました。
実は…だいぶ前からつきあっている男性がいるのです。
名は、浦島景太郎といいます。
私が住んでいるひなた荘の管理人で、ひなた婆様の孫だそうです。
年は4つ上の21歳です。
東京大学の学生で、今は3回生。考古学者を志しているそうで、勉学に励んでいます。
高校の勉強で不明な点について、教えを請うこともしばしばです。
また、以前剣を教授したところなかなか筋がよく、今ではよく稽古につきあってもらっています。
競い合う相手がいて、私も剣の修行に一層身が入ります。
浦島には公私ともにお世話になっていて、本当に感謝しきれません。
出逢ってから1年半ほどですが、将来を誓い合った仲です。
私は浦島のことをよく知っていますし、浦島も私のことをよく知っています。
いずれ直接紹介しようと思いますので、その時には―――――――――――――――
「ほう…………」
「いずれと言わず、今すぐでもええんやで、素子……」
ラブひなEX
居られるという幻想を 選んだ私の在る理由
「まず―――――――――――い!!!」
絶叫が、ひなた荘に響きわたった。
絶叫をあげたのは僕のマスター、青山素子。
え?ああ、そうそう。僕は止水。久しぶりだね。
前に出番があったのは夏だったから……かれこれ八ヶ月ぶりかな?
錯乱して、わたわたとロビーを走り回っている少女の腰に差された白鞘の刀。
それが僕だ。
……まあ、僕自身についてはこの際あまり重要じゃないから省こう。
今、彼女がわたわたしている理由は至極簡単。
彼女の姉……僕の元の主人が来るらしい。
手紙にはただ一言、『参る』とだけ書かれてあったのが彼女らしいというかなんというか…
まあ、それならマスターの様子がおかしいのもわかる。本来彼女が来るのは、マスターが京都に帰るという意味なのだから。
まあ、それはちょっと嫌だろう。
けど、少し違和感もある。
もしも本当に彼女が来るのなら、その時は問答無用、疾風迅雷、奇襲上等で来るんだけど…
今は少し落ち着いて、膝をがくがくさせながら手紙の文面を幾度も読み返しているマスターを眺めながら、僕はふと(気分的に)首を傾げた。
ところで…『追伸、会わせてもらうで』というのはなんだろう…?
涼しい風が吹いたような気がした。
それほどまでにその人は静かだったし、その行動も自然だった。
俺のよく知っている少女が、時折見せる雰囲気を纏った女性。
チリンッという涼やかな音と同時に
俺の両隣を猛スピードで鉄塊が通り過ぎていき、後方で大爆発を起こしていた――――――
ドゴン!!ドガン!!
「ぎょ、ぎょえええええええええ!?」
その耳を圧する轟音で、やっと理解できた。
この人が、俺の目の前にいるとんでもない美人さんが
居眠り運転のトラックに轢かれそうになった俺を助けるために
真正面からトラックを両断したということを。
―――――――人間業じゃない―――――――
「ひええええ!?」
「何や、いきなり車が襲ってくるなんて、東京は怖い所おすなぁ……」
「なななななな……ええっ!?」
「もし、そこの方」
「は、はい!俺ですか!?」
「ええ。ちと、モノをお訊ねしたいのどすが……」
そう言って、袴姿に笠をかぶったその人は、肩に鳥(!)を留めてにこりと笑った。
俺は、その人が今さっきトラックを両断したことも忘れて、つい見とれてしまった。
「ひなた荘……という旅館をご存じありまへんやろか?」
「へ……いや、ご存じも何も、俺そこの管理人なんですけど……」
「………ほう」
「…・・!?」
な、なんだ?今一瞬だけ、背筋がゾクッと凍ったような…
まずいまずいまずい……
再びロビーでグルグルと歩きながら、私は必死で対抗策を編み出そうとしていた。
無駄な足掻きになる可能性は大きいが、座して死を待つよりはましだ。
私一人の問題ならまだしも……
「おーい、素子。どうしたんや?」
「素子さん…何ぶつぶつ言ってるんですか?」
「ウチも回る――!」
「ダメだ、こりゃ。聞いてねえぜ」
「………」
だいたい、何がまずいかというとあの手紙だ。
浦島がストレートで東大に受かったとか、稽古に付き合えるほど強いとか、なかなか頼りになるとか、あることないこと書いてしまったような…
その中で一番まずいのは『将来を誓い合った』という一文だ。
私は、いずれ京都に戻って道場を継がねばならない。
そのための精神修行の一環として、こうして東京に出てきている
……ということになっている。
だが、神鳴流では、女は結婚すれば継がなくても済む。
姉上は、そこも踏まえて確かめに来るのだろうが…
「ふむふむ、そーゆーことかいな」
「……ケータロ、バカ、チガウ」
「素子さん、可哀想です……」
「結婚すればええなら、ウチが結婚しようか?」
「カオラ…その姉さんが納得しないと意味ねえんだよ」
そう。もしも、それらが全て嘘だとわかったときは…
私は叩き伏せられ、問答無用で京都に戻されてしまうだろう。
いや、もっと酷いことになるかも…
とにかく、こうなったらもう嘘をつき通すしかない。
そのためには、浦島と口裏を合わせておかねばならないのだが…
くそ、この大事なときに、あいつはどこに行ったのだ!?
「ケータロなら、ギプス取りに行くとか言っとったで」
「そうか、やっと治ったのか…って、なんでキツネさんがここに!?」
「気付いてなかったのかよ…」
「話は聞かせてもらったで、モトコ」
「素子さん、さっきからずっと考えてること声に出してたから…」
「イカナ、イデ」
「スゥにサラにしのぶ…ニャモまで」
むつみさんとなる先輩はゼミの合宿にいっているので、ひなた荘の全員に聞かれていたということになる。
いや、浦島が居ないか。
あいつは始業式で折った足(タマネギに潰されてその程度で済んだらしい。その時ほど、私は浦島の頑丈さに感謝したことはない)のために病院通いを続けている。
さいわい経過は順調で、今日にもギプスは外れるとのことだが…
いかんな。下手をしたら姉上の方が先に来てしまうかもしれない。
いや、そうなったら『浦島は留守』と言えば良い……その場合、浦島には1週間ほど消えてもらおう。
うん、そうだな。それが一番確実か…
「モトコ……ヒドイ、コト、カンガエ、テル」
「な、なんのことだ!?ニャモ」
「なんや、ケータロと駆け落ちでもしよう、とか思っとったんか?」
「か、かけおっ…」
「それってうまいんか?」
「や、やだなあ、皆さん。そんなわけ…」
「ただいまー」
「お、帰ってきたぜ」
「よ、よし。おい浦島、突然で悪いが…」
消えてくれ。
そう言おうとしたができなかった。
だって
五体満足に戻って嬉しいのか、のんきに手を振っている浦島の後ろに
「あ、素子ちゃん。素子ちゃんにお客さんだよ〜」
喉がカラカラに渇いていく。
舌がもつれて言葉が止まってしまう。
膝が勝手にガクガクと震えだす。
体が急速に冷えていく。
覚悟をしていてさえ、そのざまだった。
「あ、ああああ……姉上……」
「お久しゅう、素子はん」
浦島、私はもうダメかもしれん
あれ?どうしたんだろう。
違和感に気付いたのは、お姉さんがソファーに座った後だった。
なぜか、キツネさんやしのぶちゃんの顔が微妙に引きつってるような気がする。
特に素子ちゃんは、顔は青ざめて体は震えて、なんだかすごく具合が悪そうだ。
しかも、しきりに俺に何かを訴えかけているような…
「お姉さん、なんだか素子ちゃんの具合が悪いみたいなんですけど…」
「そそそそそそそそんなことはないぞ浦島」
「そう?気分が悪かったら、部屋に戻った方がいいよ」
「クスッ…浦島はんは、素子はんに優しいんやな」
「え、そうですか?別に普通だと思いますけど…」
というか、なんだかお姉さんに言われると不必要に照れてしまう。
なんだかこそばゆいというか…こういうのが、大人の女の人なのかなー、と思う。
けれど素子ちゃんは照れるどころか、いよいよ顔色を青くして怯えたような表情になっている。
と、この場ではじめて、素子ちゃんの方から口を開いた。
「そ、それで姉上、今日はどのような用件で…?」
「決まっとりますやろ」
コトンと湯飲みを置いて、お姉さんは何気なく言った。
「素子はんを連れ戻しに来たんですわ」
間
「「「ええええええええ――――――!?」」」
つ、連れ戻すって!?
素子ちゃんは、もはや蒼白ともいえそうな顔色になっている。
そうか、素子ちゃんの様子がおかしかったのは、そういうことだったんだ…
俺はまた、彼女の気持ちに気付かなかった。
鈍感な自分に腹が立つ。
けれど、自己嫌悪は後だ。
今は、素子ちゃんを助けないと――――――
「お姉さん、素子ちゃんは…」
「と、思っとったんやけど」
「え?」
「素子にも、浦島はんのような立派な人ができたんや。そんな必要もあらしまへん」
「へ…・・いや…?」
こちらを向いてにっこり微笑んでくるお姉さんに、しどろもどろになりながら
なんとなく、とんでもない裏があるんだろうな、と思ってしまう。
だって、素子ちゃんの顔色は蒼白を通り越して真っ白になっているんだから。
俺としては、素子ちゃんの体の方が心配なんだけど。
質問1
「そういえば浦島はん、東大生なんやろ?頭よろしおすなぁ」
「いや、俺なんて全然馬鹿ですよ。東大にしたって、3ろ…」
「いえ浦島はとても頭がいいんですよなあしのぶ」
「そ、そうですよ。私だって、よく勉強教えてもらって、とても助かってます」
「でも、それは中学生の問題だし…」
「ホホホ、謙遜することないで、浦島はん」
「はあ……」
質問2
「ところで浦島はん。素子の剣については、どうお思いどすか?」
「どうって…」
「…ま、確かに、モトコみたいに剣振り回してる女は珍しいかもな」
「…別に、素子ちゃんが剣道やってるのが嫌とかそういうのはないんです。それに、なにかに頑張ってる素子ちゃんはすごく輝いてて…」
「う、浦島……」
「言葉じゃ上手く言えないけど、そういうことです」
「けど、毎日稽古に付き合ってて大丈夫どすか?東大生なんやし」
「いえ、どうせ大したことはできないんだし、東大生といってもまだ一度も…」
「いやそんなことはない浦島のおかげで私も稽古に身が入ろうというものだ」
「え、そう?いつも見てるだ…」
「ケータロ、よくのウチの実験にも付き合ってくれるやろ〜」
「ワタシノ、ベンキョウ、ニモ…」
「フフ…みんなええ人ばかりで安心しました」
「ふう……」
質問3
「御当主の浦島はん。素子とはどういった付き合いを?」
「(ん?キツネさんがプラカードを…何々)それはもう結婚を前提としたおつきあいを毎晩…」
「おいっ!」
「ん?どうしたんやサラはん」
「(キーツーネーさーん!!)」
「(にゃはは、スマンスマン)」
「失礼どすが…浦島はん、ホンマに彼氏おすか?」
「うぐっ…」
「…はい。今はまだ弱輩者ですけど、素子さんとの将来をしっかり考えさせていただきます」
「(う、浦島…)」
「(先輩…)」
「なるほど…『将来を約束した仲』ということは、当然『接吻』などはお済みでしょうなあ」
「いえ、お姉さん。そういうのはまだ…」
「姉上、その『接吻』が何か?」
「いえ、一つ見せてもらおと思いましてな」
「「「ええええ――――!?」」」
「姉上、いきなりキスなんて…!」
「…できんので?」
「いえっ!」
「素子ちゃん!?」
「別にえーやん、キスぐらい」
「カオラっ!!」
「(というか、こいつらキスもまだだったのか?)」
「(…みたいやな。ホンマ中学生以下やな)」
「(で、キスできると思うか?)」
「(impossible…)」
「(じゃ、あの手でいくで)」
「(も、素子ちゃん?)」
「(いいから…それとも、お前は嫌なのか?)」
「(いや、別に全然そういうことはないんだけど…)」
「(なら………・・してくれ)」
「じゃあ…いきます」
「(あ、息が…)」
グググググググ
「や…」
グ……
「やっぱりできーん!!」
パキャッ!!
「それもっ!」
ササッ
「ん?」
「おお、すばらしいキスやー!」
「?」
「ほら、ねーさんも」
「あ、はいはい」
「………って」
いかん、このままでは嘘がばれる前に、こっちの神経の方が焼き切れる。
キツネさんも同意見だったのか、素早く目配せをしてきた。
「ねーさん長旅で疲れたやろ?温泉にでも入ってきたらどうや?」
「そうですなかなか良い湯ですよ今案内します姉上」
「ほな、お言葉に甘えて…そや、素子はんも一緒にどうや?」
「え、いや私は…」
「そーやな素子も部活やなにやらで汗かいてるやろ」
私はとっさに断ろうとしたが、キツネさんが了承してしまった。
…仕方ない、身から出た錆と思って腹をくくろう。
この場はとにかく、浦島に事情を説明しないといけない。それはキツネさん達がやってくれるとして…
問題は…私が、どこまで姉上に隠し事ができるかということだな……
もしも私が、浦島にこの事を話していれば
『いつか道場を継がねばならない』と伝えていたなら
こんな苦労も、少しは減ったのだろう。
けれど私は、告げることができなかった。
『いつか姉上が来る』と
どうして私に言うことができただろう。
『いつか別れなければならない』などと。
私にできたのは、ただその日が少しでも遠くなるように祈るだけで
私は……………・・ずっと目を背けていた。
ザアアアア………
桶から溢れた湯が、艶やかな黒髪を流れていった。
体を洗っている姉上を、湯に浸かりながら見て
(本当に、綺麗だ)
思う。
なる先輩やキツネさんは、私のことを綺麗などと言うけれど、私なんか全然綺麗ではない。
姉上こそ、本当に美しい。
幼い頃は、よく一緒に風呂に入っていた。道場の露天風呂。
その強さ、気高さ、美しさ
幼心に、ずっと思っていた。
私は、姉上になりたい。
髪を長く伸ばしているのも。
剣を振るう道を選んだのも。
全て
私の全ての始まりは、姉上であり
あの日に全てを壊したのも
姉上……
なぜ……
剣を、捨てたのですか……
私は……
貴女を……
認めることは……
できません……
『姉上、どうしたのですか?』
『すまんなぁ、素子』
『?なぜそんな事を……』
『ほんにすまんな………ウチな、退魔師を引退するんや』
『姉上?』
『ウチ、静馬はんと結婚して、当主やめるんや。しばらくは素子とも会えんなる』
『!!!!!!!!!!!!』
『………』
『イ、イヤや!!姉上、ウチよりもそいつの方が大事なん!?』
『ほんにすまん…………素子も、きっと分かる時が来るで………』
『そんなん分かりとうない!!姉上、行っちゃヤダ!!』
わかりたくない。
知りたくもないと……思って
私は剣の道に生きると決めた。
だって姉上は私を捨てたのだから
私を捨てて、男を選んだのだから。
私に残っていたものは、この髪と、剣だけだったから。
だから私は、それにすがりつくしかなかった。
私は剣の道に生きると決めて
けど……
『そして、お前の………太陽になりたかった』
いつからか私は…
姉上と同じ道を……
歩いていたのかも、しれない………
「素子はん……?」
「あ、はい」
すぐ隣からの姉上の声で、我に返った。
どうやら私は湯船の中で呆としていたらしく、姉上が湯船に入ってきたこともわからなかったようだ。
「のぼせたんなら、あがりましょか?」
「いえ…少々、考え事をしていただけです。それで、何の話でしたか?」
「…本当に、大丈夫おすか?」
「え…なにがですか?」
姉上は答えずに、私の方をじっと見つめてきた。
その目は、心配そうにこちらを伺っていた。
ああ…
ふしぎだ…
不思議なことに私は
少しの間だけ
姉上に対する劣等感から解き放たれていた。
けれど
「それで、何の話でしたっけ?」
「浦島はんのことです」
「う、浦島ですか。どうです?私が言うのもなんですが、なかなか良い奴でしょう」
「ええ、ほんまに。せやけど…」
そんな余裕のようなものは全て吹き飛んでしまった。
そうだ、私は姉上に対して重大な隠し事をしているのだ。
浦島も今頃は説明を受けているだろうが、あいつに隠し事を期待するのは無理がある。
なんとか私が納得させなければ。
私は首の後ろ辺りに冷や汗をたらたらとかきながら、浦島についての情報(偽)を洗い直した。
ええと、まず東大に現役合格していて…
「三浪して入学なんて、えらく苦労しとるんどすなあ」
硬直
「しかも先日まで骨折で、一度も通ったことがないとか…」
「あ、あああああああああねうえ。ど、どうしてその事を…」
知っているんですか、と聞くまでもなかった。
私は話していない。
キツネさん達も話してはいない。
だったらもう、後は一人しかいないじゃないか―――――!
「ホホホ。ここに来るまでに、浦島はんの身の上話を少々…」
悪びれたふうもなく姉上が言う。
勝負は、はじめからついていたのだ。
咎めることなどできるはずがなく、私はガタガタと震えていた。
その笑顔の裏にある鬼が、いつでてくるのかと。
まるで―――――前の私に戻ってしまったかのように、動揺していた。
「あ、あ、あ、姉上、これは…」
「問答、無用……」
わかってはいた。
わかってはいたが、やはり姉上は
口で言って聞くような人ではなかった。
姉上はゆっくりと湯船から立ち上がり…どこからか愛用の刀を取り出した。
チリリ――――ン、という音色と共に
その双眸に鬼神を思わせる灯火が宿り―――――――――
「お仕置きや、素子!!」
同時に巻き起こった、闘気と水蒸気の爆発が合図だった。
(―――――いかん、本気の姉上だ!)
『あの時』と同じ、爛々と輝く瞳でそうと知れる。
私はとっさに後方に飛び退き、洗い場で体勢を立て直していた。
止水を手に取る。
はあ、はあ
(やるしかない…だが、姉上だって引退した身。腕は落ちているはず…)
辺り一面、湯気に覆われて視界は封じられている。
姉上の放出した気によって、体に触れていた湯が全て蒸発したのか。
先手を、取られてしまうだろう。
はあ、はあ、はあ
(ならば、後の先を、取る!)
あえて止水を抜かず、腰だめに構える。
居合いの体勢を取りつつ、体内の気を練り上げて
待つ。
はあ、はあ、はあ、はあ
(どこから、来る?)
乳白色の湯気によって視界はゼロ。
気配を探っても何も感じない。
だが殺気だけは四方八方から襲ってきて、私を金縛りにしようとする。
はあ、はあ、はあ、はあ、はあ
いつしか、じっとりと右手が濡れていた。
湯気が結露した割には、とても冷たい。
止水に添えられた指先が時折痙攣し
はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ
どれだけ経ったのだろう。
5分?10分?それとも1時間?
だがおそらく、実時間で20秒も経ってはいまい。
もはや私は、全身に冷や汗をかいていた。
神経が擦り切れる寸前だということが自覚できた。
はあはあはあはあはあはあはあ
呼吸がうるさい
まるで自分のものではないかのように
気に障る
いったん意識してしまえば、まるで世界にその呼吸音しか存在していないように感じて
息を、この音を止めてしまえば姉上がどこにいるのかすぐにわかるというのに……
はあはあはあはあは――――――――――
―――――――――しかいのすみでかげがうごいた。
「――――――つああっ!!」
斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬空、閃!!
刃が鞘走り、完全に抜き放たれるまでの僅かな間に、解き放たれるだけ解き放たれた私の気は無数の牙となってその空間に殺到し―――――
ズガドドドドドドドドドッ!!!!
―――――そしてなんの手応えもないまま、その向こうにある垣根を粉砕していた。
「!?」
「アカンな…数撃ちゃ当たるとでも思ったんか?」
声は上から聞こえた。
とっさに上空を見上げた私の視界に映ったのは逆さまの
「あ―――」
1mという距離にまで迫った姉上の笑み。
先程の連撃を、気配も感じさせることなく跳躍することでかわしたのだ。
そして居合いを放った私は体勢が崩れてしまい刀を振るえない。
…そんなことを考えたのは全てが終わってからだった。
その笑みを見た瞬間、私はただ反射的に
「―――あああああっ!!!」
止水を振り抜いた勢いのまま、左手に持っていた鞘を振り上げていた。
同時に最後に残った気によって鞘自体を焼き尽くしながら雷鳴が宿り―――
殺った、と思った。
だが、姉上を弾き飛ばし戦闘不能にするはずの一撃は、虚しく姉上の体をすり抜けた。
「なっ!?」
否、すり抜けたように見えるほど、自然に避けられていた。
足場のないはずの空中において、私の肩に手を置くことで。
「甘い」
たん、と姉上が着地した。
私の肩に手を置いたまま
文字通り目と鼻の先に。
一瞬だけ、その一糸纏わぬ姿に、見とれた
ドン!という衝撃と共に
既に気を使い果たしていた私の体は、自由を失った。
「アカン、剣の腕前は話にならん」
声が聞こえる
「心の方も、道場を出た時と何も変わっとらん」
うつぶせに倒れたままの私に
「どうやら、ここでの3年は何の意味もなかったようやな」
その人は冷ややかに断言し
「帰るで、素子。明日の朝までに準備しとき」
最後にそう命令して
「ほな」
そして気配は消えた
・
・
・
・
・
・
・
・
ザアアアアアアアア………
・
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・
「素子ちゃん………素子ちゃん!!?」
そして気配が訪れた
朝は、どんなことがあっても変わりなく、訪れる。
目が覚めて、俺は枕元の眼鏡を掛けた。
目覚まし時計は6時を指している。
どうやら3時間ほどは眠れたらしい。
そのまま着替えて、いつもよりだいぶ早い時間に部屋を出た。
当たり前だけど、こんな時間に起きている人は多くない。
俺が思いつく限りでは2種類しかいない。
一つは、朝の食事当番の人。
それを確認するために食堂に行ってみると、案の定しのぶちゃんが――――
「Good morning…」
「って、ニャモちゃんか…おはよう」
「オハヨウ…」
彼女は俺に挨拶をしながらも、手を休めることなく調理を進めていく。
ニャモちゃんは意外に家事が上手だ。
家事ができる理由が『一人で生きるため』というのは悲しいけれど…
もちろん勝手は違うだろうけど、彼女はなぜだか適応がとても早く、すぐにひなた荘に馴染んでいた。
今ではしのぶちゃんと一緒に洗濯や物干しもしている…らしい。
そんなことを、お見舞いに来た人から聞いてはいたけど…うっかり忘れてた。
「けど、今日は君が当番だっけ?」
「シノム、モトコノ、セワ」
「ああ……そっか。ありがとう」
「No…Motoko and Ketaro have a very hard time」
調理を進める手と視線は変わらない。
まな板で野菜を刻みながら、彼女は英語で呟いた。
今は片言ながら日本語を話せるけど、ニャモちゃんは時折英語で話す。
それは大抵、彼女が心から思ったことだ。
ニャモちゃんと別れて階段を上りながら、俺はその言葉を噛みしめた。
(『本当に大変なのは景太郎と素子だから』か……)
本館南三階。
『青山素子』と刻まれたプレート。
今までに、何度か入ったことのある部屋。
「素子ちゃん、入るよ」
開けると、そこは暗闇の世界。
二人を起こさないようにこっそりと入って、音を立てないように戸を閉めた。
二人、そう、二人だ。
布団の上に寝ている素子ちゃんと…
俺は、正座したまま眠ってしまったしのぶちゃんに近寄った。
少し考えてから、起こさないようにそっと体を横にさせる。
俺は心の中で、しのぶちゃんに感謝した。
彼女には、もう本当に何度も世話になっている。
頭をそっと撫でてから、もう一人の少女の方に視線を移した。
「素子ちゃん……」
呟いてみても返事はない。眠っているのだから。
けれど、たとえ起きていても返事があるかどうかは…怪しい。
昨日からずっと彼女は呼びかけに答えていない。
自分からは何もせず、なすがままで。
昨夜、何があったのかもわからなかった。
ただ、虚ろな呟きとして聞こえたのは
「ちょっと出かけてくるよ」
それだけ言って、布団をかけ直してやり
そっと、部屋を出た。
その時背後で起こった小さな音に、結局俺は気付くことはなかった。
階段を下りて、ロビーを横切る。
玄関で靴を履き、外に出る。
長い石段を下り、『日向』に着いた。
もちろん、まだ開いていない。はるかさんだってまだ寝てるだろう。むつみさんなら尚更だ。
俺は、出しっぱなしになっている木製のベンチに腰掛けた。
そのまま、景色を眺める。
チュンチュンと、小鳥のさえずり。
もうすぐ暑くなるのだろうけど、まだ出たばかりの弱い太陽。
時折、早朝ランニングをしている人が通りがかる。
そんな風景を見ながら、俺は待っていた。
何時間でも、待つつもりだった。
けれど、待ち始めて10分ほどでその人は訪れた。
「あら、浦島はん。おはようございます」
「おはようございます、お姉さん」
「浦島はんは、こないな所で何を?」
「ちょっと、お姉さんに話があるんです」
「あら、ウチを待ってたんどすか…けど、素子はんに用事があるんです。その後でよろしおすか?」
「その素子ちゃんのことで話があるんです」
俺の前に立っている彼女に対して、強い調子で言うと
お姉さんは不思議そうな顔をして、俺を見返してきた。
「浦島はん、もう彼氏のフリなんてしなくてええんどすよ」
ああ、そうか。
この人は勘違いをしている。
俺のことを『素子ちゃんが帰りたくないがためにでっち上げた偽の彼氏』だと思っているんだ。
確かにそれは一面の真実かもしれない。
今の素子ちゃんが何を考えているのか…俺にはわからなかった。
今の俺に何ができるのか…それもわからなかった。
けれど虚ろな素子ちゃんを見ているのも辛くて、俺はここにいた。
本当に彼氏なら、側にいるべきだろうか。
……そんなことを考えてしまったせいで、答えは弱々しいものになった。
「…素子ちゃんの彼氏だと、俺はそう思っています」
「付きおうとる、というのはホンマやったんか…よろし、なら浦島はんには聞く権利、ありますわ」
「ただの管理人でも聞く権利はあると思います!」
「ふふ…ホントに素子はんの心配してるんですなぁ」
すごく優しい目をしたお姉さんに、俺は少し見とれてしまった。
そのまま、俺の隣に座って湯飲みをズズッとすすって…
「って、その湯飲みどこから!?」
「ホホホ…こういう時には、必要でっしゃろ?」
「そ、そういうものですか…」
浦島はん。神鳴流のことをどれほどご存じですか?
ええ、そうです。魔を討ち人を守る特殊な剣です。
では、素子はんが流派の継承者ということはご存じでしたか?
ウチの家系は、神鳴流の…分家の中でも有力な家系なんです。
そうですね。ホントなら、ウチが継承者だったんですけど…
3年前、今の旦那と結婚しましてな。神鳴流では、女人は結婚すると継承者の資格を放棄できるんです。
ウチが引退して、あの娘が継承者候補になったんどす。
もちろん、他にも継承者候補はおります。けど、三年前にある事件が起こって、候補がめっきり減ってしもうて…
ウチの家系では、素子が最後なんですわ。
三年前の事件ですか?詳しくは言えないんどすけど…
あの時、ウチは今の旦那に逢いましてな…
…………………で
…その時……………………・
………………たんや。せやけど………………………
……………あの人が…
それでウチは……………………
あ、すんまへん。いつの間にか惚気話になっとりましたわ。
それで何の話でしたっけ……そうそう、あの娘の資格についてでした。
神鳴流というのは特殊な流派です。その継承者となれば、剣だけではなく心の方も強くなければ務まりません。
けれど、素子は子供の頃から芯の弱いところがありましてな…
何をそんなに驚いとるんどすか?
あの娘は、大事なところで他人に頼ってしまうような所がありましてな…ずっと、ウチのことを慕っていました。
確かに仲間を頼るのは悪いことではないですけど、それも度をすぎれば依存となります。
そんなことでは継承者以前に、剣客としてやっていけません。
三年前、あの娘が道場を飛び出したのを機に、東京に一人で放り出そうと決めましてね…
誰も頼りにできない状態で、精神修行をするということで
…けど失敗だったようどすな。
あの娘の心は、三年前と何も変わって…いや、それよりも弱くなっています。
「そないな訳で、素子はんは連れ帰らせてもらいます」
「そんな…一方的過ぎます!!」
俺は恐怖も忘れて、お姉さんに詰め寄った。
とうてい納得できなかった。
その結果が…あの、虚ろな瞳をした素子ちゃんなら
俺は、断じて
「だいたい、貴女が来てから素子ちゃんは、ずっと様子が変だったんです!」
「ほう…そうなんどすか?」
「そうですよ!まるで…」
まるで、何だろう。
上手い言葉が見つからない。
けれども俺は、確かにあんな素子ちゃんを見たことがあった。
あんな、肩肘張って無理してる素子ちゃんを。
「ふむ……浦島はん。素子はんが、以前より弱くなった理由、なんやと思います?」
「…わかりません。だからってすぐに連れ戻すのは早急すぎると思います」
「ウチな、浦島はんのこと、さっきまで偽の彼氏だと思っとったんどすよ」
突然お姉さんは関係ないことを言い出した。
その事は、さっき俺が自分で否定したはずだ。
お姉さんは、なんだかひどく…鋭い目をして、続けた。
「けど…本当に彼氏なら、合点がいきます」
「…それが、素子ちゃんの強さと関係あるんですか?」
「あの娘の弱さは、肝心な部分で他人に依存してしまうところ…というのは、さっき申しましたやろ?」
そこでお姉さんは不意に立ち上がった。
そのまま1,2歩歩いてクルリと振り返る。
けれども、向いた先は俺の方ではなくひなた荘の方だった。
「せやけどこの3年間、ウチは素子はんに一度も会うとらん」
…なんだか、変だ。
お姉さんは、俺の方を見ずに言葉を紡ぐ。
そして、俺の方に話しかけているようでもない。
ましてや、独り言でもなくて。
まるでそこに誰かがいるように…
「ほな、『あんたが』依存しているのは浦島はん、ということになりますな」
その言葉に驚きを感じる間もなく
ガサ、という音と共に、素子ちゃんが姿を現した。
気付かれていたか…まあ、元より姉上から隠れ通せるとは思っていなかったが。
そんなことを思いながら、私は乗っていた木の枝から飛び降りた。
ガサ、という音がして二人の前に立つことになる。
「も、素子ちゃん、起きてたの!?」
「ああ、お前が部屋に来たときにはもう起きていた。騙すようなことをして済まなかったな」
考える時間が欲しかった。ただでさえ時間が少なかったのだから。
その間、しのぶや浦島やニャモに心配をかけてしまったのは悪いと思うが。
私は、しのぶに着せてもらった寝間着のまま、(所々炭化した鞘に収めた)止水を持って姉上と対峙した。
「素子はん。出立の準備は済みましたか?」
「お姉さん!」
浦島が、浮かしていた腰を完全に上げた。
姉上の恐ろしさを知っていて1対1で話をしていたなら、大したものだ。
ならば私も、浦島なんかに負けてはいられない。
私は一句一句区切るように、言った。
「姉上、私は、帰りません」
「……なんやと?」
「帰らないと、言ったのです」
場が、凍り付いた。
朝の澄んだ空気も朝日も変わりはない。
だだ、それまで時折聞こえていた雀の鳴き声がなくなって
真正面の姉上から、凍てつくまでの殺気を感じるだけのこと。
何度浴びても、慣れることなく体の芯から冷えるが。
「今の話、聞いてたんやろ?ここに居たままやと、あんたは剣客として堕落するばかりやで」
「ええ、聞いてました」
「それでもここに残るというのが・・どういう意味か、わかっとるはずや」
「……・・」
堕落、か…
確かに姉上から見ればそうなのだろう。以前の私もそう思うはずだ。
剣客としては…か。
「その覚悟があるんか?それとも…」
姉上が言葉を切った。
いや、切らせた。
私が焼け爛れた鞘から、止水を抜くことで
姉上の表情が、完全に本気になった。
「素子ちゃん!」
「昨日の再戦でもする気か?」
姉上は抜かない。この間合いなら、抜く必要もないということだろう。
正しい。
「昨日よりはマシなようやけど、まともに戦えるとでも思ったんか?」
「いえ、戦う必要はありません」
金縛りになりそうなほどの圧迫感の中
私は浦島の方をちらりと見て
浦島も、心配そうに私の方を見つめてきて
「これが、私の答えです」
そして私は
『じゃ、元気でな。私も一族の仕事に就くさかいしばらくは会えん』
『私の愛刀、「止水」をやるから大事にしいや』
『立派な剣士になり、素子』
『はい、姉上!!』
…………すまない、止水。
―――――――――――――パキィィィィィィィィィィン………………
私は、刀身を柱に叩きつけて、止水を、砕いた。
「それが…あんたの答えか…」
そう呟く姉上は、酷く寂しそうで、どこか安心したような、とても心配そうな表情をして
「私は、女として、ここに残ります」
私は、根本から折れた止水を持って、大切なものを捨てて、大切なものを選んで
「なら、もう戻れとは言わん…青山素子」
「神鳴流継承の資格なしと見なし、汝より継承者候補の資格を剥奪する」
最後に、凛とした表情で宣言して
最初からいなかったように
姉上は、去った。
・
・
・
・
「素子ちゃん……」
浦島が、震える声で私を呼んだ。
何を言っていいのか、酷く迷っている声で
そして私を心配してくれている声で。
私は折れた刀身を拾い、むりやり微笑んだ。
「帰ろう、浦島。そろそろ朝食の時間だ」
その笑みは、なんだかひどく儚いものとして、俺の目に映った。
その日から、素子ちゃんはひなた荘に住んでいる。
いや、以前から住人なのだけど…ひなた荘の掃除や洗濯なんかをしてくれて
しかも(キツネさんに借りたらしい)メイド服で。
聞いてみたら『私には他に帰るところもないから』と笑っていた。
正直、助かっている。
左足のギプスは外れたばかりで、まだリハビリの段階だし、GW中だから講義はないけど、復学の手続きはしないといけない。
だから、廊下掃除や洗濯、その他管理人の仕事の手伝いはありがたい。
身体能力を生かして、寮の補修なんかも手伝ってもらっている。
ただ、料理に関しては不評だったけど…しのぶちゃんに教わるとか言っていた。
いや、料理だけじゃない。
洗濯にしろ掃除にしろ補修にしろ、素子ちゃんは一生懸命に学習していた。
それまで剣に傾けていた情熱を、全て費やすように。
けれども俺は、人がそんな急には変われないことを知っている。
…その兆候は、あちこちにあった。
その日から、三日が経っていた。
「難しいものだな…女として生きるというのも」
そんなことをふと呟いて、私は階段を下りた。
両手には、先程取り込んだシーツの山。
これを今から、各員の部屋に届けなければいけないのだ。
シーツ自体の重さは大したことないのだが、畳んで積むと結構な高さになる。
小柄なしのぶでは視界が完全にふさがれてしまう(そしてよく浦島とぶつかる)が、私ならそんなことはない。
背が高いというのも、たまには役に立つものだな…
とりあえず上から、ということで最初に着いたのはなる先輩の部屋。
……と、なる先輩は旅行中か。
シーツだけ部屋の中に置いてから、次へ。
次はカオラの部屋。
いつ見ても混沌とした部屋だな…どうやら、本人はいないようだ。
また、サラと一緒にどこぞを駆け回っているのだろう。
シーツを置こうとしてふと気付く。
よく考えたら、カオラは毎晩私の部屋で寝ているのだ。ここに置く必要はないではないか。
私は置きかけたシーツを元に戻して、次に向かった。
その隣は私の部屋だ。
そこに二人分のシーツを置けばいいのだが…
「………・」
しばらく…3分ほど迷った後、結局シーツを置くことなく下の階へ向かうことにする。
昨夜のことを思い出して、少し複雑な気分になった。
「おー、メイドモトコやー」
「モトコねーちゃん。洗濯してんのか?」
階段を下りる際、カオラとサラにすれ違う。
二人とも、この暑いのに元気なことだ。
朝食の時は文句ばかり言っていた二人だが…と、二人が右手に持っている物が目に付いた。
「おい、二人とも。昼まで間食厳禁と言っただろうが」
「ええやん、アイスくらいー」
「っていうか、こんなに暑いんだから、アイスでも食わないとやってられないよ」
「武士は食わねど高楊枝だ」
「いや、アタシら武士じゃないし、その格好で言っても説得力が…」
「ぶー、モトコのケチー!」
二人は逃げるように上に登っていってしまった…むう、両手が塞がっていては手出しができん。
後で、冷蔵庫の中身も調べておく必要がありそうだな。
間食の管理方法を考えながら、私は階段を下りて次の部屋に向かった。
2階でまず訪れたのはキツネさんの部屋。
扉の前に立った私は、部屋の中から漂ってくるある匂いをかぎ取っていた。
すなわち、アルコール臭を。
「キツネさん、昼間から何を飲んでいるのですか!?」
「ええやん、かたいことはいいっこなしやで〜…ヒック」
部屋に入って目に付いたのは、床中に乱立するビールの空き缶。
そしてソファーで寝そべりながらビールを飲むキツネさんだった。
まったく…酒瓶の中身は全て酢に入れ替えておいたのに、まだこんなものを…
朝食に出てこないと思ったら、一晩中飲み明かしていたようだ。
「キツネさん、適量は渡しているはずですよ!」
「あんなんじゃ全然足りへんわ〜。ウチは飲んでないと死んでまうんや〜」
「だいたい、こんな大量のビールをどうしたんですか!?」
「へへへ…知り合いの親父さんに頼んだら、箱ごと譲ってくれたわ。そ〜ゆ〜訳でモトコも一緒にどや?」
「酒臭い息を吐きかけないでください!」
まったく…久しぶりの酒(といっても1日しか断ってないが)で精神が緩んでいるらしいな。
まあ、この人は酔うといつでもこんな感じだが。
私はとりあえずシーツを置くと、キツネさんを脅しつけておいた。
「キツネさん。態度だけではなく体も弛みますよ!」
「なんや失礼やな〜。心配せんでも運動ぐらいするで」
「…なんなら付き合いましょうか?一昨日のように」
「ひえっ…そ、それだけは勘弁な」
よっぽどひなた荘20周が効いたのだろう。キツネさんは青い顔をして頷いた。
まあ、私としてもわかって(思い知って)もらえればそれでいい。
背後の方から空き缶を片づけるカンコンという音を聞きながら、私は次の部屋に向かった。
ニャモ=ナーモの部屋は、前原しのぶの部屋の隣にある。
それは管理人の心配りとかそういったもののせいだ。同年代の者が側にいた方がいい、とでも考えたのだろう。
外見も似ていることだし。
ただ、その必要があったかどうかは甚だ疑問だ。
彼女は人見知り…という言葉では片づけられないほど、人を頼らない。
ひなた荘に来た当初も、引っ越しを全て自分の手で片づけてしまったほどだ。
住人と話す事もまれで、彼女が自分から話しかけるのは浦島程度だ。
思うに彼女は、致命的なまでに『一人で生きる』ことに長けているのだと思う。
技術的にも、精神的にも
これまでずっと一人で生きてきて、他人を頼ることを知らないのではないのだろうか?
…同じ異人でも、カオラとは正反対だな。
そんな彼女も、隣人のしのぶとはよく話をしているようだ。
そういうわけで…
「入るぞ、ニャモ」
「………」(コクン)
「あ、素子さん。お疲れさまです」
机に向かっていたニャモは頷いただけだったが、その向かいに座っているしのぶが返事をした。
机の上には参考書や教科書、辞書や問題集が散乱している。
なる先輩と浦島が受験をしていた頃にはよく見た光景なのだが…同じ顔が向かいで勉強しているというのはどういう気分なのだろう?
とりあえずそんな疑問は横に置いておいて、シーツを…
「しのぶ、シーツはどうする?」
「あ、えーと…ニャモちゃん、今日も一緒に寝る?」
「…カマワ、ナイ」
「ではここに置いていくぞ」
二人は最近、よく一緒の部屋で寝ているらしい。
親睦を深めるためらしいが…ずいぶん仲良くなったものだ。
というか、しのぶからの積極的なアプローチの賜物だろう。
見てみればなるほど、極めて殺風景な(ほとんど備え付けのもので私物といったら本程度しかない)部屋の所々にぬいぐるみがあるのはしのぶの影響か。
もっとも、学術書ばかりが目立つ本棚にはまるで似合わないが。
「二人とも、勉強は進んでるか?」
「………」(コクン)
「あ、はい。素子さんとニャモちゃんのおかげです」
「いや、この程度当然のことだ。気にしなくていい」
「………」
しのぶは頭が悪い、らしい。
考えてみれば当たり前のことで、ひなた荘の家事全般を担っていては勉強する時間などあるわけがない。
今まで、私たちはしのぶに頼りすぎていたのだ。
私が洗濯物の取り込みをして、その間にしのぶが勉強をするのは妥当だろう。
「シノム、ココハ、ドウ、ヨムノ?」
「えーと『次の指数関数yを元にして対数関数y’を求めよ』…なんだかよくわかんないけど」
「Thank you シノム」
「…・・うん」
そしてニャモは頭がいい、らしい。
しのぶよりも…そしておそらく、私よりも。
正直半信半疑だったが、この目で見てしまうと疑う余地もない。
話によると、今やっている勉強は大検をとるためのものだとか。
いかなる理由があって、彼女がこれほどの学力を有するのか…
多分、私や…なる先輩のように、一つのものに打ち込んできた結果だろう。
「ねえ、ニャモちゃん。ちょっとこの部分を教えて欲しいんだけど…」
「…カクチュウ、メンセキ?」
「うん、そこ」
「ダンメン、ダイケイ。(cos30*10+cos30*17)*sin45*5」
「ちょ、ちょっと待って。えーと、断面の形が台形で、上辺と下辺が…」
もちろん、共に勉強をするといっても学力が違いすぎるため、もっぱらしのぶが教わることになる。
優等生と劣等生。
なんとなく、なる先輩と浦島を彷彿とさせる二人だ。
もっとも、ニャモはまだ日本語がカタコトな為、しのぶが教えることもたまにはあるのだが…
私は二人の勉強の邪魔をしないように、二人分のシーツを置いて部屋を出た。
最後の部屋に向かうために。
「浦島、入るぞ」
いないのはわかっていたが、一応声をかけてから部屋に入る。
本人は、復学の手続きのために朝から外出中だ。
まあ、さすがに入学式の日から一ヶ月も欠席していたのだから、色々面倒なのだろう。
ちなみに、浦島は当初全治三ヶ月といわれていた骨折を一ヶ月で治した。
無意識的に気を操って、自己治癒能力を促進させたのだろう。
あいつの不死身ぶりにも、最近ますます磨きがかかってきたようだ。
姉上の一撃をくらっても、骨折程度で済むのではないのだろうか。
「姉、上、か……」
持っていたシーツをドサドサと置く。
止水を取り出し、抜いてみた。
刀身は、根本近くから砕け散っている。
私が、私の手で、私自身のために砕いた
姉上からもらった、姉上との絆の一つ。
私は姉上と決別するつもりで、止水を折った。
剣と決別し、浦島の側で女として生きていくと。
けれど
「私は…また、姉上の影を追っている…」
姉上になりたいと思っている。
なぜなら、私の全ての理想はそこにあるから。
剣の道を極めたのも
それを捨てて女としての道を選んだのも
…姉上だから。
あの日、姉上が剣を捨てて
私も捨てられて
もう私に残っているのは、この髪と剣だけだと思ったあの日。
道場を出て、見知らぬ所に来て
それから3年が経って
私は、私がずっと否定していた道を選んでいる。
姉上と同じように
結局私は、姉上の後を追うことしかできていない。
できていないのだ。
「私は…」
ああ、そうだ。自分でもわかっている。
けれども、どうしようもない。
私は、姉上と再会してからずっと
『浦島と出逢う前の青山素子』に
姉上の影に、戻ってしまっている。
こんな私を、姉上が認めるわけがなかったのだ…
止水をかき抱くようにして、少しだけ泣いた。
「ふう…」
とりあえず、道路脇のベンチに座って一息ついた。
別に、疲れるようなことをしたわけじゃない。
ただ、素子ちゃんのことを考えて歩いていたら、いつの間にか2時間もフラフラしていた自分に驚いただけだ。
…俺も相当重傷みたいだ。
日々はつつがなく過ぎている。
けれど気は晴れない。
その平穏は、いつ崩れるかわからない危うい均衡の上にあるものだから。
素子ちゃんの、心の均衡の上に。
「『依存』、か……」
お姉さんが残していった言葉について考えてみる。
依存。
他人に頼って存在すること。
お姉さんは、俺に依存していると言った。あの素子ちゃんが。
常に一緒にいるわけでもなく、別に頼られてるわけじゃない。
少し前なら…そう、お姉さんが来る前なら、そんなこと信じなかっただろう。
けど、今の素子ちゃんは
あの人にも言ったけど、俺の知っている素子ちゃんじゃない。
素子ちゃんは、家賃代わりとして色々なことをしてくれている。
買い出し、調理、後片付け。
露天風呂、廊下、部屋の掃除。
ゴミの回収、建物の修繕といった、管理人の仕事まで手伝ってくれる。
本当に、頑張っている。
そして、暇があれば俺の部屋に来るようになった。
いつ自分の部屋に戻ってるのだろうかと思うほど…
けれど、別に何をするわけでもなく、俺が勉強するのを見ているだけ。
まるで、俺の側にいるのが義務だと思っているみたいだ。
……昨夜から、遂に素子ちゃんが寝るときも部屋に来るようになった。
「あれはびっくりしたなあ…」
なにしろ目が覚めたら、部屋の隅に毛布にくるまって寝息を立てている素子ちゃんがいたんだから。
しかもスゥちゃんをくっつけて。
どうやら、真夜中に目が覚めて『つい』来てしまったらしい。
かなり問題があるような気がしたけど『また来ても…いいか?』と聞く素子ちゃんに対して、何も言えなくなってしまった。
多分、あの娘は
……必死で、俺に好かれようと、嫌われまいとしている。
多分それが、お姉さんの言っていた『依存』だ。
「でも……そんなの、素子ちゃんらしくないよ……」
俺には『依存』することが良いのか悪いのか判らない。
ただ、素子ちゃんがすごく無理をしているのはわかる。
いつも一緒にいるんだから、わからないはずがない。
料理して、掃除して、修理して、そして笑って
全てにおいて、どこか無理をしている。
ほんの一瞬だけ、辛そうな顔をすることがある。
俺の知っている素子ちゃんは
世間知らずで
理屈っぽくて
まっすぐで
そのくせ、俺にだけは傍若無人で
頑固で融通が利かなくて
いつも一人で行動して
けれどたまには一緒にいてくれて
責任感とプライドが高くて
嬉しいときにはフッと笑って
怒ってるときは無表情になって
哀しいときは陰に篭もって
楽しいときは安らいだ表情を見せてくれて
思い込みが激しくて
めちゃくちゃ意地っ張りで
死ぬほど不器用で
すぐに俺を殴ったりする。
そんな、少女。
「…あの娘も、なかなか壮絶に思われとりますなあ…」
とは、隣に座っている人の言葉。
……
………
…………
……………
たっぷり十秒は時間を止めてから、俺はギギギという音がしそうな動作で首を横に回した。
ついでに目をこすってみる。
けれどやっぱり、湯飲みを傾けてお茶をすすっているお姉さんは消えなかった。
「お………おねいさん?」
「まあ…『お義姉さん』だなんて気が早いどすな」
「な…何でまだ神奈川に?帰ったんじゃ…」
「ま、ああは言いましたがウチも人の子。素子はんのことが心配でして」
「は、はあ…」
「この三日間、あの娘が何をしとったかは見させてもらいました」
「そ、それってストーカー?」
「はて?『すとーかー』とはなんでっしゃろ。靴の一種どすか?」
「お、お姉さん…マジですか?」
っていうか、この人に狙われた人にはプライバシーなんて存在しないってこと?……公権力でさえ通用しそうにないし。
でもまあ、素子ちゃんだって俺に対しては似たようなもんだから、大して気にならなかった。
…問題あるなあ、色々と。
「なあ、浦島はん。さっき言っとったことは本当どすか?」
「な、何がですか?別に俺は素子ちゃんに疚しいことなんか…」
「『素子が変わった』ということが」
「はい。あなたが来てからずっと変なんです」
…なんだか俺は、この事に関してはずいぶん攻撃的になっているみたいだ。
今のは『お前が来なかったら全てうまくいってたんだ』と言っているのに等しい。
別に俺は、お姉さんのことが嫌いな訳じゃない。むしろ好きだ。
それでも『あなたが来てから』と強調してしまうのは、俺がまだ未熟だからだろうか。
…なんだか、素子ちゃんの考え方が感染ったみたいだ。
俺の未練がましい答えを聞いたお姉さんは、フッと笑って
「浦島はんは、偉いお方どすなあ…」
「えっ?」
「ウチにできなかったことを簡単にやってしまわれて…」
「え…えっ!?」
「あの娘の姉として…礼を言わせてもらいます」
「え、ちょ…ちょっとお姉さん!」
いきなりお姉さんは、ベンチの上に両手をついて深々とお辞儀をした。
俺はいきなり予想もしなかったことをされて驚いて
動揺して
狼狽して
そして初めて、この人が素子ちゃんのお姉さんなんだと納得してしまった。
こういう、意外と自分勝手なところはあの娘にもあるから。
「頭、上げてください…俺は、素子ちゃんに何もしてやれていません。もし素子ちゃんが変わったなら、それは……彼女自身の、意志です」
「浦島はん…」
「それに素子ちゃんみたいな頑固者は、俺が何言ったって聞かないですよ」
「フフ……そうかも、しれまへんなあ…」
そう言って、笑った。
うん、そうだ。やっぱり素子ちゃんの笑顔に似ている。
けれど、素子ちゃんの笑顔はもっと力強い。
最近は見せてくれないけど、俺は素子ちゃんのあの笑顔が好きだ。
見ていると、俺まで元気づけられて。
…もう一度あの笑顔が見たいと、我が侭でも強く思う。
だから
「素子ちゃんには、もう本当に継承者の資格がないんですか?」
多分またあの娘を傷つけてしまうようなことを、俺は言っていた。
そして
すっと目を閉じて「いえ、まだです」とお姉さんは言った。
元々、家の…青山の親類は、素子が東京に出てるのには反対なんですよ。
大事な継承者なのだから、手元に置いておいた方がええと。
ま、あの人達の言い分も理解できます。
何らかの事故にあってもすぐに対処できるし、悪い虫(ここでお姉さんはクスリと笑った)が付かないか、監視もできますしね。
事実、他の継承者候補――――といっても2,3人ですが―――――は皆京都におります。
ウチがここに来たのは、素子はんを連れ戻すためだったんですよ…そういった人たちから圧力がありましてね。
ええ、そうです。全てウチの独断です。
先日の資格剥奪も……それ以前に、東京に出したのも。
あの人達も怒るでしょうなあ…勝手に出しといて、今度は最後の駒を捨ててきたと知ったら。
ですから、家の人達を納得させんことには継承者の資格を正式に剥奪できません。
今はまだ、あの娘は神鳴流の継承者候補です。
せやけど、ウチも引退したとはいえ元神鳴流当主。
今の当主代行にもツテはありますし…
時間はかかるかもしれませんが、おそらく継承者の資格は他の者に移るでしょう。
…なあ、浦島はん。
あの娘がなんでここに残りたいと言ったのか…わかりますやろ?
あの娘は浦島はんと添い遂げたいがために、剣を捨てたんやで。
あんたがいるから
正直、剣士としてはもったいないと思います。
あの娘は、ウチを上回るほどの才を秘めておりますから…
せやけど姉としては感謝しております、本当に。
あの娘は…素子は、ウチのせいで全てを失ったんです。
ウチが引退したせいで、あの娘は…背負わんでええモンまで、背負い込んでしもうたんです。
神鳴流というのは、古い流派です。
興ったのは千年前とも、神代の時代とも言われとります。
幾つかの分家があり、それぞれの家系はほぼ独立していると言っても過言ではありません。
青山と狩野のように、露骨に対立しとった分家すらあります。
長い歴史の中で消えていった家系も、一つや二つではないそうです。
けれど、長い歴史を持つが故に、どの家も古い慣習に縛られとります。
その中で一番大きなものが『当主の命には必ず従う』という掟でしょうね。
継承者を選出した家系は大きな力を持ち、その分家は他の分家を上回る権力を持つこととなります。
それだけに、継承者候補は特別扱いされ、どの分家も幼い頃から『教育』しとります。
…なあ、浦島はん。
あの娘は…ウチの妹なだけで、元々継承者候補ではないんです。
だから他の退魔師見習いと同じように育てられ、仲のええ子もたくさんおったようです。
…あの娘の口癖は『大きくなったら姉上のような立派な退魔師になる』で…よう慕ってくれていました。
ウチは良かったんです。
始めから…神鳴流を継ぐために、修羅として育てられたんですから。
けど…ウチが血迷うて、継承者の資格を放棄して。
青山の権威を守るために、あの娘が継承者に仕立て上げられて。
…人というのは、弱いもんです。
それまで対等だった相手が、突然雲の上のような存在になって。
それでも同じように付き合えるような人間は…なかなかいません。
少なくとも、素子の友人にはおらんかったようです。
それとは別に、手のひらを返したように近寄ってくる大人もおりましてな…
15という多感な年頃に、あの娘は人間の醜い部分を嫌というほど見てしまったんです。
浦島はんは、本当に偉いお方です。
ウチらにできんかった…素子の心の中に、入ってしまわれたんですから。
あの娘がどれだけあんたのことを想っているか、わかりますか?
それまでの人生、全てと引き替えにできるほどですよ。
姉としては、少し寂しいですけどね。
…神鳴流当主の座なんて、ずっと空白でもええんです。
今も昔も、神鳴流は分家単位で機能しています。
それぞれの分家にはそれぞれのやり方があり、共同行動をとることは稀です。
全ての分家をまとめなければいけないような事態が起きない限り、当主なんて必要ないんです。
分家の老人達の、権力闘争の道具に使われるのがせいぜいや。
ウチはそんなつまらないもののために、素子はんの夢を潰しとうない。
…こんなことを言うとるのが家に知れたら、今度こそ破門やろうけどな。
ウチはただ、あの娘が自分だけのものを一つでも手に入れてくれれば…それで、いいんです。
「ただいま〜」
浦島の部屋でぼうとしていた私は、下からの声で我に返った。
浦島が帰ってきたらしい。出がけに聞いた時刻とは3時間ほどずれているが。
私は部屋の主を迎えるべく、部屋を出た。
私が姉上の影だとしても、浦島を迎えないわけにはいかない。
私には、もう他に何もない。
浦島しかいないのだから。
階段を下りながら、私は姉上になりたいと、再び思ってしまう。
それは、浦島と出逢う前の私がいつも思っていたことだから。
その時は『姉上のような剣士になりたい』だった。
今は『姉上のような女になりたい』だ。
大差ない。
私はこの3年間、何もしてこなかったようで
それが…なぜか、とても悔しい。
自分で愛刀をへし折ってまで、この道を選んだはずなのに
堂々と、胸を張って姉上に告げたはずなのに
なのにまだ私は、後悔している。
もうずっと、浦島といることができるのに
……ずっと一生。
「おかえり、浦島」
ロビーに出ながら、玄関でゴソゴソと何かをやっている浦島に声をかける。
こんな生き方も、悪くないのだろう。
日々家事をして過ごし、好きな人の帰りを出迎える。
浦島が東大生として勉学に忙しいのなら、管理人の代行をしてもいい。
結婚をして、姉上のように主婦としての人生を送るのも。
ゴールディンウィークが明けたら、部活も辞めて…空いた時間は、ひなた荘にいることにしよう。
……剣のことは、もう忘れて、女として、生きよう。
「ずいぶん遅かったな、どうか――――」
私の声が、止まる。
其れに気付いて
浦島が両手に持っている物。
ソレは、今さっき私が忘れようと思ったモノ。
暗い光沢のある鞘に覆われた、黒い日本刀だった。
「あ、これ?はるかさんに頼んで探してもらったんだ。婆ちゃんのコレクションだって」
自分でもわかるくらい、ぎこちなく微笑みながら
目の前で呆然としている素子ちゃんに、できる限り何気なく話しかけた。
聞いているのかいないのか、素子ちゃんの視線は俺が両手に持った刀に注がれている。
お姉さんの言葉を思い返す。
『ウチが京都に戻ってから、親族の家に出向くまで三日あります』
「なんか真っ黒で変な刀だよね。でも、これしかなくて…」
「……な……ぜ……?」
素子ちゃんがうわごとのように呟いた。
何故、と
虚ろな、絶対に見たくないと思った表情で。
…結局俺は、素子ちゃんを傷つけて無理をさせようとしている。
その事を『仕方ない』なんて許容したくない。
俺はきっと、罰を受けるだろう。
けど、それがいかに過酷でも
もう一度、お姉さんの言葉を思い返す。
『それまでにウチに勝てたら、神鳴流継承の資格ありと見なし、東京での修行続行を許しましょ』
「…お姉さん、京都で待ってるって」
「………」
「ほら、一回負けたぐらいで諦めるなんて素子ちゃんらしくないよ」
素子ちゃんの肩が、びくりと震えた。
その『勝負』のことを思い出したのだろうか。
その場にいなかった俺に、そんな無責任なことが言えるかどうかはわからない。
…もっと自然に笑えればいいのに。
素子ちゃんを安心させられるように
自分の言葉に、疑念を抱かないほどに
心から、笑えればいいのに。
お姉さんの寂しそうな顔が、ずっと胸に引っかかっている。
『せやけど…あの娘が、もう一度勝負を望むかどうか…』
「2回でも3回でも諦めない素子ちゃんじゃなきゃ」
「………なあ」
正直、自分でも説得力に欠けるその言葉に、反応があるとは思わなかった。
それほど、刀を見た瞬間から素子ちゃんは呆然としていた。
いや、いつの間にか虚ろな視線は、俺の方に移っていた。
俺の瞳をのぞき込んでくる、虚ろな瞳。
引き込まれそうなほどの、深淵。
そして、俺の心の弱さを映し出す、鏡。
「お前は…こんな私が…嫌いなのか?」
「それは…その…」
それが俺の
そして、お姉さんの悩み。
たぶん素子ちゃんは、このまま幸せになることができる。
俺だって毎日素子ちゃんに色々やってもらって、嬉しくないわけがない。
客観的に見て、なんの問題もない生活。
きっとお姉さんもその事で迷っている。
だから、素子ちゃんの資格を勝手に剥奪して
だから、俺にあんな話をして
だから俺は、また、曖昧な返事しかできなかった。
「いや、別に素子ちゃんのことは嫌いじゃないけど…」
途端、虚ろな瞳に真っ赤な炎が宿って
「だったら何故今更!私に『戻れ』なんて言うんだ!!」
思い切り、怒鳴られた。
耳がキーンとして、しばらく身動きとれなくなるほどの大声で。
そして、後ろを向いて走っていってしまった。
俺は
ただひたすらに面食らってしまって
素子ちゃんに怒鳴られたことは何回かあったけど
彼女の目尻に、涙を見つけてしまったから。
本当に、今までにないほど強く実感した。
今の素子ちゃんは、俺の知らない女の子なんだということを。
いつの間にか私は、自分の部屋に戻ってきていた。
ここ数日、ほとんどいなかった部屋。
意識的に避けていた部屋。
女らしさなど、欠片もない部屋。
女としての私には、不要な部屋。
「くっ…・・」
壁に掛けられた掛け軸、色即是空の文字が、なぜだか無性に気に障った。
衝動のまま、ドン!と拳を打ち付ける。
掛け軸がゆがみ、拳に血がにじんだ。
もう一度、今度は全力で拳を叩きつけた。
イメージしたモノは、岩。
ズガン!!という轟音と共に、掛け軸が千切れ、後ろの壁に放射状のヒビが入った。
「くくっ……」
わざわざ畳をはがした、板張りの床。
京都の自分の部屋に、少しでも近づけようと思って改装してもらった。
気に入らない。
思い切り双掌を打ちつけると、まるで紙のようにベキベキ!と破れた。
「くくくくくっ……・!」
部屋の中央に据えられた、鎧兜。
インテリアとしてはやけに無骨なそれは、ひなた婆様に譲ってもらった物だった。
その厳めしく緊張感が漂う品を、私は一目で気に入ったものだった。
それも今は気に障る。
爪をイメージして気の刃を形成し、素手で引き裂いた。
鎖かたびらと装甲が、メキャメキャ!と異様な音を立てて引きちぎれた。
人間としては異常な力。
神鳴流の技。
剣を捨てたと言っても、また私はこの力に頼っている。
破門にでもならない限り、一生ついて回る力。
「あははははははっ!!!」
この服。
キツネさんに頼んで貸してもらった、メイド服。
その意味を教えてもらった私は赤面し…密かに喜んでいた。
主君に従属する存在に
浦島のものになれると。
気に障る。
胸元に手をかけ、胸が露わになるのも構わず引き裂いた。
ビリビリ!と、厚手の生地が裂ける音がするのも構わずに
狂人じみた笑いを上げながら。
「はは…は……」
目につくもの全てを、私は破壊した。
箪笥、衝立、竹刀、神棚、制服…
剣の道に生きてきた、私の全ての痕跡が、気に障った。
破壊衝動の権化と化して、私は荒れ狂った。
寮中に響きわたるような破砕音。
そして、あらかたの物を壊して、私はようやく動きを止めた。
「………は………」
否、もう一つ。
もう一つだけ残っていた。
壊れた部屋の中で、壊れた止水を取り出して、抜く。
鞘も刀身も、半ばから砕けた刀。
まるで私のように。
「…………………」
無言のまま柄を両手で持ち、刃を自らの喉に向ける。
本当に気に入らないのは
これ以上ないほど気に障るのは
馬鹿で愚かな夢を見ていた
幸せになれると勘違いをしていた
―――――――――私、自身。
「……・・はっ」
吐息とも自嘲とも付かない息を吐いて
私は刃を、喉元に突きこんだ。
姉上に捨てられ、剣を捨て、そして浦島に否定された私には、もう在る理由がないから。
肉を切り裂く感触がして、血がしぶいた。
…後で思ったことだが
おそらくその時の私は、本当に死ねただろう。
それまでも切腹などをしかけたことはあったが、それはほとんど勢いだった。
ままならない事態(大抵大恥をさらしたとき)からの逃避と、武士に対する固定観念からだ。
あの時は、本当に自然に、そして身近に『死』というものを感じていた。
幼い頃から、退魔師を志す者として死の覚悟はしていたつもりだったが…
そんなものは、他愛もない思い込みに過ぎないのだと、思い知った。
今、あの時のことを思い返すと震えが来る。
それは、今の私が生きていたいからだ。
…いや、もっと簡単に言えば
あの時の私は、意味もなく、どんな存在でも殺せた。
たとえそれが自分でも。
それだけだ。
血がしぶき、そしてまだ私は死んでいなかった
「危ないよ、素子ちゃん…」
私の喉元を切り裂き、致命傷を負わせるはずの刃は、背後から伸びてきた手によって捕まれていた
掌が裂け、私の手と柄を伝って血がポタポタと床に落ちている
下手をすれば、骨にまで達してるのではないのだろうか
なのに手の主は力を緩めることなく、更に強く刀身を握ってきた
「ほら、こんな物はもう離して」
「なぜ止めた?」
止水を離す代わりに、聞く
本当に、純粋に疑問だった
もう、この男にとって、私は価値がないはずなのに
私は、否定されたのに
男は止水を手放して、唐突に私を後ろから抱きしめた
「何故そんなことを…」
「無神経な事言って……ゴメン」
抱きしめられても、別に何も感じなかった
体温は、私の方が高い。今まで激しい運動をしていたからだ
着衣越しでもわかるのだから、今の体温は相当高いのだろう
いや、違う
今の私の感度が異常なだけだ
私の体温は38度で男の体温は37度5分、背後の呼吸音は多分に不規則
けれど何故かはわからない
…思考が乱れている。そもそもこんなことを考える必要はない
ただ、見て聞いて感じていればいい
そうして何の思考も挟まなければ、それは世界を認めるということ
全てを感じるということ
「俺は君を傷つけてばかりだけど…絶対に、捨てない。君が俺を好きでいてくれる限り」
私の中で何かが揺らいだ
『何か』?おかしい。自分の中に感知不能なものがある
『好き』とはどういう意味なのだろう
いや、違う。思考など挟むべきではない
全てをあるがままに、虚ろな心で感じていればいい
――けれどそれでは、いったい何のために存在しているのか
ふとした疑問
私の存在意義
私が在る理由
何故か、胸を焦がす言葉
「俺は、君の全てを認める…いや、認めたいんだ。けど…」
わからない。何もかもがわからない
先程までは、世界の全てが理解できていたのに
流れるような『今』の全てを感じていたのに
――ふと、視界に映ったものが気にかかった
男の右手
私の肩にかかり、流れ出る血が服を汚している
不意に、思った
(痛そうだな―――――つっ!)
途端、私の両手に激痛が走った
見てみると、私も指先や手の甲が血塗れになっていた
慣れない素手で、これだけの破壊を成し遂げたのだから当たり前だろう
両手が傷ついていることは、皮膚感覚と痛覚によって初めから気付いていた
それが『痛み』という概念を伴っただけで、こんなにも意識を圧迫する――
『痛み』とは、すなわち心が流す血、心が生きている証
そして他人の『痛み』を理解しようとするのは
想いの、証
そうして私は想いを自覚し、『修羅』の境地から戻った。
「…それで?」
「素子ちゃん?」
「いいからその恥ずかしい戯れ言を続けろ。けど…なんだ?」
「けど…けどさ、素子ちゃんはそれでいいの?」
「何?」
それでいいのか…だと?
浦島の側にいて。
浦島の隣にいることができて。
そして、浦島の傍らにいるだけの生活。
前の私は『それも悪くない』と思った。
けれど今の
浦島に抱きしめられている、私は
「馬鹿言うな。浦島ではあるまいし、どうして私がそんな小さな幸せで満足しないといけないのだ」
「あ、良かった。少しは幸せだって感じてくれてたんだ」
「大馬鹿者。それに…負けっ放しでいるなど、私の性ではない」
「あはは、やっぱり素子ちゃんはこうでないと」
やっぱりこいつは馬鹿で無神経だ。
どうしてこの状況で笑うことができるのだろう。
悔しいから、私も絶対に泣いてなんかやらない。
意地でも
もしも私が姉上に勝る部分があるとしたら、この意地しかないだろう。
「では…行くか、京都に。ぐずぐずしていられないのだろう?」
「いや、でもその前に病院行かないと。二人とも、手が血だらけだし」
「ああ、そうだな。だが、その前に…」
浦島は今、私を後ろから抱きしめている。
胸の前で腕を交差して、両肩を掴むように。
ついでに、私の服は派手に破れて、胸部から腹部にかけて全開状態だ。
要するに、さっきから肘が乳房に当たっている。
「さっさと退かんかこの助平がっ!!」
ドカンッ!!
「はぐれッ!!」
拳は痛いので、そのまま肩からの体当たりで吹っ飛ばした。
…ついさっきまでの精神状態を考えると、ずいぶん現金なものだ。
つくづく、私は…女というものは、簡単にできている。
たった一言で、立ち直ってしまったのだから。
『全てを認めたい』
その言葉に私がどれだけ救われたのか、お前は本当にわかっているのか?
天井に頭をぶつけて気絶した浦島に、心の中で問いかけてみた。
結論、絶対にわかってない。
そうして、俺達は京都に向かった。
大急ぎで病院で治療を受けて、取るものも取りあえず。
滅茶苦茶になった部屋をどうするかは、帰ってきてから考えることにする。
一応、みんなには挨拶しておいた。
キツネさんは「ま、負けてもケータロの嫁さんやろ?気楽に行って来な」と無責任そうに。
しのぶちゃんは「御馳走作って待ってますから、負けないでください!」と笑顔で。
ニャモちゃんはどこから聞いてきたのか、無言で火打ち石を打ってくれた。
サラちゃんは「向こうじゃ、壊すのも程々にしとけよー」と、いつものように憎まれ口を。
スゥちゃんは「せんべつや、とっとき!」と怪しい爆弾をくれた…いいのかなあ、これ。
そんなこんなで、俺たちは京都に……あれ?
なんか…忘れているような…
気のせいかな?
「くしゅん……」
「あら。風邪ですか?なるさん」
「どうでしょう…あんまり、気候とかは変わらないと思うんですけどね」
「京都は、少し寒いみたいですけど」
「わかるんですか?」
「はい。私、体が弱い分気候の変化とかには敏感で…今朝も、あんまり寒かったから魂抜けてましたし」
「アレは夜中にふらふらして廊下で寝てたからですよ…」
ズルズルと出てしまった鼻水を、ティッシュでふき取りながら少々呆れた。
その時の幽体離脱騒ぎを私一人で収集しなければいけなかったせいだ。
寒さで死んでるむつみさんを解凍して、救急車を呼ぼうとしている旅館の人を慌てて止めて、なんだなんだとやって来た男子を追い返して、本気で怯えている娘をなだめすかして
結果、疲労だけが残った。
改めて考えてみると、いかにひなた荘が常識はずれなのか
なにかの弾みですぐに『死んで』しまう人間や、変なものを発明しては騒ぐ高校生とか、真剣を振り回す破壊力抜群の女子高生とか
もちろん、毎日管理人を殴り飛ばす女(私)も含めて、だけど。
そういえば、今ごろ何をしてるんだろう?
キツネはどうせ、GWなのも関係なしに飲んだくれてるわね。それとも酒代を稼ぐためにバイトかな?
スゥちゃんはやっぱり駆け回ってるのだろう。時たま、すごい発明品とかでみんなを驚かしたりして。
ニャモちゃんは…正直、あまり思い浮かばないけど。休みなんか関係なしに過ごしてそうな気がする。
サラちゃんは、せっかくの休みだから、瀬田さんのところに行ってるのだろうか…って、あの人は日本にいないか。ちょっと可哀想。
しのぶちゃんは、休み中も家事に明け暮れているのだろうか?GWぐらい遊びに行けばいいのに…
素子ちゃんは、休みを利用して山にでも行ってるのかもしれない。それとも部活で合宿でもあるのだろうか?
景太郎はリハビリ中だからどこにもいけないだろう。もし足を折らなかったら、今ごろは一緒に…
…いけない、別のことを考えよう。
もう合宿は終わってるので帰ってもいいのだけど、せっかく京都まできているのだから色々回ることにしていた。
ゼミの男の子から色々お誘いは来ていたけど、全部断った。
…私は、可愛い。
それは自分でもそう思うし、他の人もそう言ってくれる。
始業式の時なんか、ミス東大候補にスカウトされたぐらいだ…景太郎の骨折騒ぎで、うやむやになったけど。
でもそれは、上辺だけのものに過ぎない。
他人の前では…ううん。一人でいるときも猫を被っている。
『自分らしさ』の檻。
そんな第一印象だけで声をかけてくる人に、心を許せるわけがない。
じゃあ、どんな人なら誘われてもいいかというと
…結局、そこに戻ってきてしまった。
「ねえ、むつみさん。ひなた荘に電話でも…って、キャ―――!」
「…………あれ?なるさん?」
「なんで道端で倒れてるんですか!」
「いえ、ずっと立ってたらなんだか立ちくらみを起こしちゃって」
「…むつみさん、とことんタフかと思えば、呆れるほど体弱いですね」
「私、タフですか?」
「昨日飲み会で徹夜して男の子全員酔い潰したのは誰ですか?」
「あら、そんなこともありましたね…」
それが、誘いを断れた一因ともなっているんだけど。
そして、ふと時計を確認して驚く。いつのまにか20分も経っていた。
どうやら、ずいぶんと考え込んでいたみたいだ。これでは、むつみさんが倒れるのも不思議じゃない…初対面でもそうだったし。
「そういえば、今朝方この辺りで山火事があったらしいですよ」
「ってむつみさん。何を唐突に?」
「旅館の女将さんに聞いたんですけど…」
「はあ」
「行ってみませんか?」
「っていうか今日はお寺巡りするんじゃ?」
「でも、この辺りはお寺も神社もないみたいですし」
「そりゃ、そうですけど…」
「ものはためしですよ。もしかしたらびっくりするような事になってるかも」
「怖いですよ、それ」
まあ、確かに。
今日は朝から仏閣巡りをしていたのだけど…なんだか、変なところに迷い込んでしまったみたい。
静かな空気に生い茂る木々。
舗装されていない道。
民家すらまばらな、人気のない場所。
いわゆる『京都、山奥』といった感じの。
有名なお寺でも近くにあるのなら、土産物屋の一つも見当たるはずなのに…それが、ない。
電話をするにしても、携帯を持っていない私たちは、そういうところにある公衆電話を使わなければいけないわけで…
「ふふ…」
「なるさん?どうして笑ってるんですか?」
「わかりました。じゃあ、散歩がてらに行ってみましょうか?」
「なるさーん、なんで笑ってるんですかー?」
「たまにはいいと思って。むつみさんに付き合って、旅先で無目的にぶらぶらするのも」
「はあ……」
むつみさんは呆けた声を上げて考え込んでしまった。
目的。そう、目的。
今までの私は、ずっと目的に向かって邁進してきていた。
それは、東大を目指すと決めたときからずっと。
遊ぶ時でさえ、それは『息抜き』という目的に沿っていただけだから。
何もかもに意味を求め、自分の行動に整合をつけていた。
…けど、たまにはいいだろう。
中学のときのように、目的もなく呆としてるのも。
むつみさんを見習って。
東大にも入れたし、もう進むだけではどうにもならないこともあるのだから。
「それって、誉め言葉ですよね?」
「………どうでしょうね?」
やっぱり、見習うのは少しにしよう、と思った。
プラズマ、というものがある。
正確に言うと、それは物体ではなく状態だ。
温度が数万度以上になると、物質はもはや分子として存在できない。
原子の周りの電子が弾き飛ばされてしまって、原子核と電子がばらばらになった高エネルギー状態になる。
それがプラズマであり、プラズマ爆弾というのはつまるところ『数万度のフィールド発生装置』なのだ。
太陽の表面ですら六千度、原子爆弾で十万度とか。
つまり小型原爆並みの威力…原理は知らないけど、放射能とかが出てないことを祈る。
どんな物質でも溶ける…どころか一瞬で蒸発してプラズマ化してしまう。
…そんな恐ろしいものを、簡単に渡さないでよ、スゥちゃん…
たとえ、そのプラズマフィールドの効果範囲が小さくても、そこから発生する熱量はどうにもならない。
数万度のプラズマから全方位に放射される熱量。
たとえそれが一瞬でも相当なものになる。
そう、例えば『周囲の木々を発火させる』くらいに。
「おい、浦島。生きているか?」
「……うん」
体の上にのしかかった木炭をガラガラと押しのけながら、何とか上体を起こした。
周囲には木炭と化した木切れが転がり、下生えも焼け焦げている。
木々の天蓋があったはずの上空は、ぽっかりとした青空が覗いている。
そして、そこらじゅうに巨大な爪で地面を抉りとったような跡があって
数時間前までの神秘的な森は、無残な焼け跡になっていた。
酸性雨にやられた黒い森のように。
幸いにも大規模な延焼は食い止められたらしく、遠くの方には緑が見える。
で、素子ちゃんはというと
「では怪我はないか?」
「素子ちゃんこそ大丈夫…って、うわ!」
ようやく見つけたと思ったら、それは足だった。
袴を履いた素子ちゃんの足。
それが地面から突き出している…ように見える。
一瞬驚いたけど、要するに上半身が(戦闘でできた穴に)はまりこんでいるのだ。
にしてもちょっと不気味だ。
俺は動けないらしい素子ちゃんを救出すべく、所々火傷した体を立ち上がらせた。
まあ、何があったかというと
早朝の日課として道場の裏山を散歩するお姉さんを、襲撃する計画。
俺が撹乱として怪しい爆弾を使用。その隙に泉に潜んでいた素子ちゃんが奇襲。
…すごいことになった。
まず、前述の理由で爆発と同時に周囲の木々が発火(俺もほんのり焦げた)。
周囲が業火に包まれても平気なお姉さんに、素子ちゃん渾身の一撃を放った。
潜んでいた泉を吹き飛ばし、直線状にあった木々をもなぎ倒して
10年経っても消えないような、深い深い爪跡が地面に残った。
結局それは避けられて、吹っ飛ばされたのは俺だったわけだけど。
薄れゆく意識の中で最後に見たのは、一方的にぼこぼこにされる素子ちゃんの姿だった。
役に立ってないなあ…俺。
「でも、大規模な山火事にならなくて良かった…」
もしそうなったら、多分生きてはいないだろうし。
大文字焼きの前に山を燃やし尽くしてしまったら、いろんな人に迷惑がかかる。
…何時でも同じか。
俺は素子ちゃんと一緒に倒木に座りながら、改めて周囲を見回した。
するとおかしな事に気付いた。
森の一角、山火事によってぽっかりと開いた部分。
そして鬱蒼とした森そのままの部分。
その境界が、妙にはっきりと、そして円を描くように存在している。
なんでだろう…?
「おそらく姉上が、延焼を防ぐためにやったのだろう」
「え?」
「江戸時代の火消しなどは、可燃物を破壊して延焼を食い止めたらしい。それと同じだ」
「って、半径50mはあるんだけど…」
「そういう極意があるらしい…姉上なら不可能ではない」
「………」
「それを言ったら、あの人には奇襲など無意味なのだが…な」
「それはまあ…あるかも」
当てるつもりだったプラズマ爆弾も素子ちゃんの渾身の一撃も、あっさり避けられて無傷だったし。
どちらにしろ、(スゥちゃんには悪いけど)この爆弾を使うのはもうやめよう。
熱いし痛いし環境破壊するし。
にしても…
俺は向かいに座っている素子ちゃんを見るでもなく、ぼんやりと空を見上げた。
青い空と白い雲、天頂に差し掛かった太陽が良く見える。
「負けたねえ…」
「そうだな」
「かなわないなあ…」
「そうかもな」
「やっぱりさ、木刀じゃなくてこの刀を使おうよ」
「それは呪われていると言っただろう」
「そうかな?そういうふうには見えないんだけど…」
「使うにしても最後の手段だ」
「でも、明日までに勝たないといけないんだよ?」
「そうだな」
「………」
「………」
「………」
「………」
「おなか減ったね」
「ああ」
結局。
朝食(もう10時だけど)をとるために道場に戻ることにした。
ほとんど獣道のような、わずかに開かれた道を下る。
体中が痛いが、本来はリハビリをしなければいけない浦島の肩を借りるわけにもいかない。
痛みを紛らわすように…私は、姉上が残した言葉について考えた。
「まだ一つ、足りんものがあるみたいやな」
私を叩きのめして、帰り際に姉上はそう言った。
……足りないものとは、なんだろう。
正直、一つどころではない。
練気、剣速、技術、経験……その全てにおいて、それこそ天と地ほどの差がある。
けれど…姉上が言いたいのは、そういったことではないのだろう。
力でも速さでも技でも慣れでもない、その全てを覆せる一つの鍵とは、なんだろう。
私に足りないものとは、なんだろう。
そっと、前を歩いている浦島を伺う。
まだ少し歩きづらいのか、杖のようなものを使っている。
さっきの戦闘で、あやまって私が吹き飛ばしてしまったからだろう。
すまない、と思う。
全ては私の問題なのに、こんなことに巻き込んでしまって。
浦島には関係ないことで、助けてもらう義理などないはずなのに
だから私は、もう何度か言ったことを、もう一度繰り返した。
浦島の背中を、じっと見つめながら。
「なあ浦島。私のことはいいから、ひなた荘に…」
「戻らないよ、俺は」
「だが、せっかく足が治ったのだから大学に通う準備をしたほうが良いと思う」
「そりゃ、そうだけど…素子ちゃんを放っておけないよ…」
「……なあ。私はそんなに頼りないか?」
「いや、そうじゃなくてさ……素子ちゃんは、俺が手伝うのが迷惑なの?」
「…そんなことはない」
「あ、そう?良かった。なんだか俺ぜんぜん役に立ってないから、もしかして邪魔なのかなって」
「そんなことは…ない」
どうしても私は言えなかった。
不安そうな表情で振り返った浦島に対して、『迷惑だ』と。
本当に浦島のことを考えているのなら、言えるはずなのに。
どうして言えないのか
その理由は私の心にある。
怖いのだ。
もしも浦島が、同情心だけで私に付き合っているのだとしたら
最後まで言い切って、浦島が本当に帰ってしまったら
私が大事でないと、証明されてしまったら
…それが、とても
ガッ
そう、ガッ…って、何?
ふと気付くと、私の体が前方に投げ出されるところだった。
どうやら、あまりに考え事に没頭していて、石か倒木に躓いたらしい。
ここが獣道のような荒れた道だということを忘れていた。
体が勝手に、受身を取るために手を前方に突き出し
そしてそこには浦島の背中があった。
ドン!という衝撃と共に、私は(結果的に)浦島を突き飛ばしていた。
「わっ…うわああああああ〜!」
左足を少し引きずっていた上に、そのときちょうど足を上げていた浦島は見事に転んだ。
さらに間の悪いことに、道が急になっているところだった。
…もういいかげんに結論を言おう。
その急な道を、浦島は悲鳴を上げながら下のほうに転がっていった。
心の中で冷や汗一つ。
と、幸か不幸か、下のほうから二人組の女性が上ってくるのが見えた。
あの人たちにぶつかれば、少なくとも止まる……
「うわああああ!」
「キャッ!」
ドスン!
「きゃ〜〜!」
「わああああああ!」
ゴロゴロゴロゴロゴロ……
「………」
何が起こったのかというと
転がってくる浦島を、先頭の一人は避けた。
後続の女性は避けれなかった。
あっさりぶつかった。
そしてあっさり転んだ。
さらに間が悪いことに(ここまで来ると芸術だ)ぶつかった際に手足が妙な形に絡まったらしい。
地獄車のような形で、下手をすれば地獄行きの坂を転がっていった。
あんなに密着できて羨ましい…なんて思ってたまるか。
私は一瞬呆気に取られ、無駄だと知りつつも名を叫んだ。
「浦島!」「むつみさん!」
「「………は?」」
そして再び呆然とした。
同じように呆然としている、なる先輩と顔をつき合わせて。
お互いに『何故ここに?』という疑問を抱いて。
結局、浦島とむつみさんは50mほど先の木にぶつかって目を回していた。
「どういう……こと?」
私、成瀬川なるは
19年間生きてきて、自分を感情的な人間だと思っていた。
理性よりも感情が優先するタイプだと。
喜び、怒り、悲しみ、憎しみ、それに従って私は行動するのだと。
実際に私は強い怒りを感じている。
けれど同時に、冷静で姑息な打算もしている。
複雑で、狡猾で、薄汚く。
「ど・う・い・う・こ・と・で・す・か〜!」
「いたたたたたっ!話す!話すからアイアンクローはやめてー!」
「というより、もう全部話しましたが…」
そして、正座したまま景太郎の頭をぶら下げているむつみさんは
感情より理性の方を優先するタイプなのだろう、本来は。
いつものほほんと笑っているのは、理解の速さから来る余裕だろうから。
あるいは、どこか他人事のように突き放しているからだろうか。
けれど今は、聞かされた理不尽に対してただ単純に怒っている。
単純で、愚かで、美しく。
私たちは今、神鳴流の道場というところにいる。
そのうちの一室に案内されて、これまでの経緯を聞いた。
素子ちゃんのお姉さんが、ひなた荘に来たこと。
そして、素子ちゃんが剣を捨てたこと。
紆余曲折を経て、お姉さんに勝つために京都まで来たこと。
けれど
「なんで…負けたら、素子ちゃんが京都に残らないといけないの?」
そう、それがお姉さんを倒せなかったときの条件だった。
私とむつみさんが、どうしても納得できない部分。
けれども二人は、怒った様子もない。
一人は、『勝てばいいんだから』と能天気に。
一人は、『それくらいの覚悟はしている』と無表情に。
まるで、私とむつみさんが、二人の代わりに怒っているようだった。
「なんでそんな条件飲んだんですか!?」
珍しく声を荒げて、むつみさん。
確かに、その条件はむちゃくちゃだ。
話を聞く限り、その人は素子ちゃんと景太郎のことを認めているはずなのに
どうして今更になって、二人を裂くような条件を出すのだろうと
むつみさんは思い、そして怒っているのだろう。
ただ純粋に、二人のことを思って
素子ちゃんと景太郎のことが好きだから。
…むつみさんは、いつもそうだ。
無責任なことを言って、過ちを勧めるような口ぶりで、けれど芯のところでは、本当に純粋な想いを抱いていて
もしかしたら私たちは、見事に対照的なのかもしれない。
「いや、ほらむつみさん。勝てばいいんだからさ」
「…私は一度姉上に負けているのだ。再戦を申し込むなら、条件は向こうが決める」
「そんなことを言ってるんじゃありません!」
「…むつみさん」
「その人…素子さんのお姉さんという人は、どこですか?」
「え?」
「直接話す気ですか?」
「はい」
「むつみさん!確かに悔しいし、こんなことは言いたくないけど…私たちは、部外者ですよ」
私はむつみさんを止める。
これは、景太郎と、素子ちゃんと、お姉さんの問題だと。
他人の問題に首を突っ込むことはできないと。
それはとても悲しくて虚しくて常識的な、私がずっと通してきた、人との関わり。
そんなものではむつみさんを止めることができないと、わかってはいた。
彼女はふっと怒りを抜いて、意志の強さだけを残して
どこか、よく知った人が時々見せる表情を見せて
「私は、浦島君と素子さんの、友達です。言う権利は、あります」
その言葉を聞いた瞬間、素子ちゃんが立ち上がっていた。
そのまま無言でふすまを開け、むつみさんに手招きをする。
もはや私には何も言えない。
ただこうやって、部外者として見ているしかない。
景太郎が――二人を心配してだろう――驚いた様子で、素子ちゃんを止めた。
「って素子ちゃん!本気で、むつみさんとお姉さんを会わせるの!?」
「仕方あるまい。姉上が説得されるような輩とも思えぬが、むつみさんも私たちと問答をしていても納得しないだろう」
「けど……大丈夫?」
「むつみさんは私の…数少ない友人だ。紹介してはいけない理由はなど、ない」
なんだか複雑で、それでいて単純な答えを残して
いつもと違って、ずいぶん早足のむつみさんに引きずられるように
素子ちゃんは行ってしまった。
そうして、正座で向かい合う私と景太郎が、部屋の中に残された。
「………」
「………」
景太郎は意外な展開に戸惑っているのか、まだふすまの方をぼんやりと見ている。
なんだか少し、落ち込んでるようにも見える。
私は先程からずっと、腕時計を見つめていた。
ずっと
ずっと
ずっと
ずっと自分のことを考えていた。
成瀬川なるは、乙姫むつみのような義憤と思い遣りでは、動かないのだと
薄汚くて姑息な、打算に基づいて行動するのだと
目に見える、手の届きそうな目的がないと何もできないのだと
自分が可愛いだけの人間なのだと
そんな人間であると周囲に知られると不都合だから、猫をかぶっているのだと
そんな事実に、気付いた。
そして、そんな私が言葉を紡いだ。
「ねえ、景太郎……」
話し込むうちに、いつしか日が暮れていたらしい。
月が出ていた。
縁が欠けた、不完全な月が。
私は縁側に座りながら、夜空を見上げて呟いた。
「…私はきっと、あの月と同じだな」
太陽がない間だけしか、見ることしかできず
何かの光を反射してしか、輝くことはできず
大事なものが欠けていて、不完全な
満月でも半月でもなく、中途半端な名も無い月。
ふいにこえがかかった
「あら…風流ですね」
「むつみさん……どうでしたか?」
「負けました」
きっぱりと言い切って
むつみさんは私の隣に腰掛けた。
…まあ、予想された結果ではあったが。
あの人は話が通じるような人ではないと、私が一番よく知っている。
けれど何故かむつみさんは、目的が果たせなかったというのに怒気を消していた。
ニコニコと楽しそうに、負けたことを口にする。
「目一杯、これ以上ないくらい、初めて、完膚なきまでに、負けました」
「その割には、ずいぶんと楽しそうですね」
「あら、これでも私怒ってるんですよ」
そうか、この人の仮面が『笑顔』だということを忘れていた。
よく見てみると、やはり目だけは笑っていない。
将来とんでもないことをしでかすのは、このような人かもしれないな。
そんな失礼な感想を抱いて、視線を元に戻した。
広い中庭の奥
月の下、佇む二つの影に。
「………」
「あら…?あれは、浦島君となるさんですか?」
「……ええ」
むつみさんも気付いたようなので、小さく頷く。
どうせ声は聞こえないだろうが、念のためだ。
あまりに遠いため、月明かりの下では黒い影にしか見えないが
この(今では)無意味に広い道場には、姉上と私と浦島となる先輩とむつみさんしかいないはずだ。
消去法であの人影は、浦島となる先輩だということになる。
ことになる、のに
「これは……どうすれば、いいのでしょうね?」
誰とも知れず、呟いた。
いや、おそらく姉上に向かって、だろう。
そう遠くない昔に、呟いたことがあった。
―――だから―――
―――姉上…―――
私はどうしたら良いのだろう。
どう思うべきなのだろう。
嫉妬に狂って、今すぐ二人のところに突進するべきなのか。
見て見ぬふりをし、今すぐ部屋に戻るべきなのか。
そもそも、私と浦島の関係とは、いったいなんなのだろう。
彼氏であり、彼女であると、時折言ってくれるが
けれども私は、彼女らしいことなど一度もしたことがない。
根本的に恋人『らしくない』のだ。
それでもなお、私が恋人という関係にこだわって、姉上に手紙でそう伝えてしまったのは
恋人という関係に付随する、権利と義務。
浦島景太郎を独占する権利と、浦島景太郎に想われる義務。
ただ、それだけの
ままごとあそびのようなもの
「何を話してるんでしょうね」
「さあ……」
「気になりませんか?」
「…ではどうしろと?」
会話の内容が気にならない、と言えば嘘になる。
だが聞く気は起きない。
どうせ、私が聞いたところでどうにもならないことだから。
あの人の精神を、これ以上苛む意味も見つからない。
彼女は浦島景太郎のことを想っている。
そして浦島に想われたいと、思っている。
そんな一目瞭然なことを、彼女はずっと悩んでいて
わたしとおなじようにばかだとおもう
「本当は…止める権利など、私にはないんです」
「…なんでです?」
「私は、浦島の恋人ではありませんから」
「え……?」
溜息一つ。
そうだ、こうやって認めてしまえば早かった。
少なくとも、恋人というカテゴリーに分類されるような関係ではない。
多分それとは別の何か。
あの人は、なんと言っていたか。
うらしまにいぞんしていると
「どうして…どうして、そんなことを言うんです?」
「何故って…ほら、私を見ればわかるじゃないですか。私は、浦島が好きになるような人間じゃないって」
「そんなことはっ…」
「どこにあると言うのですか?どこにもないんですよ。私が持っているものなんて」
それも、認める。
私は、何も持っていないつまらない人間なのだという、事実を。
それは私が生まれてからずっとわかっていた、単なる事実。
私が一生涯抱えていく、虚ろの正体。
なぜなら、私はあの人の出来そこないに過ぎないのだから。
私の全ては姉上より劣っている。
全ての人は、私よりも姉上のほうを望んでいる。
私に与えられた役目は、姉上本人ができなかったことを、姉上の代わりとして処理することだった。
そこに『青山素子』が存在する余地はない。
一時期
私が私でいられるという幻想を見ていたときがあった。
姉上が来て、あっさりと砕けた幻想。
長い人生における、うたかたの夢だったのかもしれない。
だって私には、人に好きになってもらえるような要素など一つもないのに
うらしまとおもいあえたなんて
「ああ……」
沈黙を破って唐突に
むつみさんが、クスリと笑った。
なにか、ひどく納得したような声音で
こちらの表情を覗き込んでくる。
「わかりましたよ、私にも」
「何がです?」
「今の素子さんが、何を無くしてるのか」
「え?」
「今の素子さんが、何を見失ってるのか」
「…それを得れば、姉上に勝てますか?」
「はい、もちろん」
それは何か、と聞いた私に答えを返して
むつみさんは、部屋に戻っていった。
今日はもう遅くなってしまったので、泊まっていくように姉上に勧められたとか。
私はその後ろ姿を見送ってから、再び中庭に視線を移した。
二つの影は相変わらずそこにあった。
そうして、二人が動き出すまで座って過ごした。
『自分を信じてください』
ふかのうだ
『ちょっと散歩しない?』
今思えば、なんて不自然な言葉。
ひなた荘ならともかく、よく知らない他人の家で散歩だなんて。
けれど幸い、地理に関しては景太郎がよく知っていた。
そうして私たちは、広い中庭の一角に並んで座っている。
横の方には小さな池。魚がいるのかどうかはわからないけど、波紋一つ起きない。
くっきりと、月が映っている。
私が求めてるものは、そんなものなのだろう。
上辺だけの、中身のない幻想と
…そんな陳腐な言い方を、彼女だったらするのだろうか。
私には、できない。
即物的で打算でしか動けない私には、関係ない。
「あんた、明日勝てなかったらどうするのよ?」
「うーん、なんとかなるんじゃないかな」
「なに適当なこと言ってるのよ!」
だから私は、もっとも打算的な言葉を吐いた。
自分に最も関わりのある部分だけを抜き出して
素子ちゃんのことはどうでもいいと、切り捨てて
…本当に、これ以上ないほど、嫌な女だ。
そんな自己嫌悪すら押さえ込んで、私は言葉を紡ぐ。
どうせまた後で噴き出すのはわかっているけど、とりあえず今は
私は何も感じないと、決めた。
「素子ちゃんと離れられるかって聞いてるのよ」
「え…でも、出された条件は『素子ちゃんが京都に残る』だけど…」
「ここに残る気!?」
それは
たぶん私が一番恐れていたことだった。
素子ちゃんがいなくなれば景太郎を独占できてわーい嬉しい…なんて、前向きに考えられない。
そんな能天気な考え方ができるなら、どんなに楽で幸せだろうか。
けれどどうしても変わることの出来ない私は
景太郎のアキレス腱を、突いた。
「あのねえ…東大はどうするのよ。せっかく受かったのに、一回も行ってないのに退学するの?」
「うっ…」
まずは牽制。
景太郎が積み重ねてきた、3年間の重み。
私と彼の共通点の一つ。
重なり合ったのは一年だけだけど、勉強ばかりしてきた3年間というものを、同じ時期に過ごしていた。
成瀬川なるは16歳から、浦島景太郎は18歳から。
ただの、偶然。
同じ空の下に生まれた奇跡に上乗せされた、ほんの偶然。
「それに、また私やむつみさんとした約束破る気?言っとくけど二度目はないわよ」
「いや、そんな破る気はないけど…」
そして本命。
『一緒に東大に行こう』という約束。
『なっちゃん』なんて知らない誰かではなく、確かに、私自身の意志で交わした約束。
生きていく上で、流れ作業のように処理していく、人との関わりの一つ。
けれども不自然なまでに重要度が増してしまった、彼の存在。
社会的生活を送るのに支障が出るほどに肥大化した、心の中に占める割合。
強迫観念にまで発展した、価値観の偏り。
わかりやすく言うとこうなる。
心理的外傷(トラウマ)
「じゃあ、ひなた荘は?しのぶちゃんやニャモちゃんを泣かせたら承知しないわよ」
「うぐ……」
最後に保険。
多分ひなた荘で待っている彼女たちのことを出す。
とても、卑怯。
本当は本命だけで止まって欲しいけど、それは無理だとわかっているから。
『約束とか初恋とか、全部合わせたよりも』この男は彼女が好きなのだから。
構図は簡単。価値観という天秤の片方には『青山素子』という少女。もう片方には、今私が乗せた全て。
それでも、それは賭けだった。
「わかったよ!明日勝つから!それでいいんだろ?」
「まったく、自分の発言には責任を持ちなさいよ」
ひとまず、天秤のバランスは保たれた。
安堵の溜息は、けして気付かれないように心の中で
だからこそ、盛大につくことができた。
かなり、分の悪い賭けだったのだから。
けれども一応、約束を取り付けることができた。
景太郎は、明日の勝負で全力を尽くすことだろう。
それがどれだけ役に立つのか(おそらく微々たるものだろう)わからなかったけど、部外者ができるのはここまでだから。
「じゃ、明日はがんばってね」
「ああ……って、見ていかないの?」
「うん。私とむつみさんはお寺とか回ってるから、その間にとっとと決着つけときなさいよ」
「あー…わかった。でも、あんまり観客がいても困るからありがたいかな」
「そういうこと。ま、観光が済んだら迎えに来るから」
「ああ」
「明日、一緒に帰りましょ」
もう一つ、些細な約束を取り付けて
私は立ち去るために立ち上がった。
再会の、約束を。
―――約束破ったりしたら承知しないからね
ここにいたのがもう一人の少女なら迷わず、景太郎と駆け落ちでもすると言っただろう。
多分あの娘は私と同じように、心理的外傷を負っている。
そして信じがたいことに、その傷だらけの心を認めようとしている。
だから彼女は迷わない。
だから私はいつでも迷っている。
『私は私』なんて開き直れないから、いつでも私は世界のどこかにある『成瀬川なる』を探している。
ああ、違った。
多分、私の探している『成瀬川なる』は
遥か彼方にある。
彼の中に
その日の朝
俺は、素子ちゃんに妖刀ひなを渡した。
多分これが最後だから、と。
代わりに俺は、彼女の愛刀(だったもの)を預かった。
半ばから折れ、鞘すら焼け焦げた、止水という名の刀だったモノ。
どうせおまえは弱いのだから、お守り代わりだと
下手をすれば足手まといになるから、応援だけしてればいいと
だからくれぐれも、危険な真似はするなと
そっけなく、何度も念を押すように。
ごめん、素子ちゃん。
その約束は、守れそうに、ない。
――――――――カーテンの隙間から差し込む陽光で、目が覚めた。
目覚めは、あまり良いとはいえなかった。
夢を見ていたような気もするが、よく思い出せない。
まだ脳は半分寝ているのに、夢の残滓すら残らないのは少し変だ。
だが、とりあえず今は
ジリリリリリリリリッ!!
けたたましく鳴り出した目覚ましを止める方が先だろう。
「おはようございます、姉上」
「おはよう、素子はん」
部屋着に着替えて食卓に行くと、姉上が朝食を作っているところだった。
今は目玉焼きを焼く傍ら、サラダの盛り付けをしている。
私は朝の挨拶を交わしてから、戸棚から茶碗を取り出し炊飯器を開けた。
もちろん姉上の分も盛り付ける。
大体において料理は姉上が担当しているので、これくらいは当たり前だ。
もちろん私が食事を作るときもあるが、そういった時は大抵大雑把な料理か、姉上の手伝いが入ることになる。
どうやら私は不器用なようで、掃除をするにしても最後まで徹底的にしかできなかったりする。
洗濯をすると、家にある汚れ物全てを洗ってしまわないと気が済まなかったり…
…閑話休題。
「御馳走様」
「お粗末さまどす」
朝食も終わり、姉上がテレビをつけた。
身についた風習というのはなかなか取れないもので、躾というのはその際たるものだろう。
だから食事中にはテレビや新聞などを見ず、私語も慎んでいた。
最も、別にそれが嫌な訳ではない。
そういう環境で育ったせいか、むしろ静かな方が好きだ。
とは言え、姉上はテレビを見るのが好きでそれは止めようがない。
流麗な姉上が、会社が休みの日はいつもテレビを見て過ごしているのは、毎度の事ながらやはり違和感を覚えた。
共に暮らし始めて数年になるが、いつまで経っても慣れない。
しょうがないので、私は部屋に戻って布団を干すことにした。
今日は天気が良いので、その後街に出るのも良いかもしれない。
「おや、武道館に人が集まっとるようやな」
「ですね。何か催し物でもやっているのでしょうか」
「さて…妙に同年代の若者が多いようやけど」
「あ、看板があります…どうやら、東京大学の入学式のようですね」
「入学式で武道館か…豪勢やな」
10時頃になってから、姉上の誘いで街に出ることにした。
休みの日は一日中ゴロゴロしている(自称)一般的なOLの姉上にしては珍しいことに思える。
姉上の運転する小さな車(名前は知らない)の助手席に座りながら、流れる風景をつらつらと見ていく。
桜並木は満開。
日差しも暖かい。
そこら中に、新たな始まりのエネルギーが溢れている…ような気がする。
世界は喜びに満ちている
誰かのそんな言葉(あるいは歌の歌詞だったか)が、不意に実感できたような気がした。
ところで今、姉上がハンドル捌きを誤って電柱に突っ込んだ。
「大丈夫ですか?」
「ええ。この程度でどうにかなるようなやわな体はしとりません」
「いえ、車が」
「………」
なにやら哀しそうな目をする姉上。
私たちは、外出した時によく立ち寄る馴染みの喫茶店に来ていた。
バンパーとボンネットが歪んでしまった車は、小さな駐車場に停めてある。
どうせまた、それなりの時間とお金をかけて修理するのだろう。
酒も煙草も服も買わない姉上の、唯一の趣味とも言えるのがあの小型車なのだ。
そのくせ運転は下手くそで、よくぶつけては修理に出す。
まあ確かに、それだけ手間と資金をかけていれば愛着も湧こうというものだが…
ちなみに、本人は額を思い切りフロントガラスにぶつけたにも関わらず平気な顔をしている。理不尽だ。
こちらはシートベルトに胴体を思い切り締め付けられて、いまだに食欲が沸かないというのに。
サンドイッチをぱくつく姉上に、嫌味を言うくらいは許されても良いと思う。
「素子、高校の方はどうや?」
「明後日が始業式ですね。まあ、部活の方はよく通ってましたけど」
「そか。ウチは明日から仕事再開や」
姉上と二人、話をして過ごす。
たわいもない話題は、次から次へと出てくる。
学校のこと。
職場のこと。
勉強のこと(だが内容には触れない)
勤め先の後輩のこと。
私の所属する、水泳部でのタイムのこと。
その後輩にセクハラしていた上司を、裏でこっぴどくノシたこと。
同級生から、いっしょにバイトをやらないかと誘われていること。
その上司が『なぜか』急に依願退職していったこと。
女子高にも関わらず、下駄箱にラブレターが入っていて困ったこと。
同僚のおばさんが見合いをしろとうるさいこと。
「見合いを?」
「ま、ウチもええ年やからな。あの人の気持ちもわかるし、まあ付き合いや」
「結婚、するのですか?」
「心配せんでもええ。素子が一人立ちするまで、結婚なんかせんよ」
「姉上に釣り合うような輩が、そうそういるとも思えませんしね」
「何や、照れくさい事…」
「外面的にも内面的にも」
「…なかなか意味深な発言やな」
こうして日々あったことを話すのは、珍しいことではない。
少なくとも私たちは。
共同生活を送っているのだから、できるだけ分かり合いたいと思う。
いや、もっと単純に
この世でたった二人の、姉妹なのだから
「素子、今日の夕食は何がええ?」
「…シチューでお願いします」
玄関をくぐりながらの、姉上の全く無意味な問いに律儀に答える私。
何故無意味かというと、先程買い物に付き合って姉上がシチューの材料とシチュールーを買ったのを知っているからだ。
ここでひねくれた答えを返して、また買い物になど行きたくはない。
…と私も玄関をくぐろうとして、ある物に気付いた。
冷蔵庫に手当たり次第に食料を詰め込んでいるであろう姉上に声をかける。
「姉上、何か届いてますが」
「何や?」
「1m半程の長さがある、ダンボールで梱包された細長い荷物です。どうしますか?」
「ウチは今、手が放せん。開けといてくれ」
「はい」
手が離せないということは調理に入ったのだろう。
時折聞こえてくる鋭い風切音でそう知れる。
姉上は包丁…と言うか刃物を扱う際、超絶の技術を持って材料を切り刻む。
かなり無意味だと思うのだが、本人も止められないらしい。
つくづく、身についた風習とは直し難い。
とにかく、うっかり御料理演舞(名付けた)を邪魔して材料を粉砕されたくはないので
私はさっさと荷物の中身を確かめることにした。
しゅるり、とダンボールを縛り付けている紐を解く。
上端部をパカリと開ける。
そして荷物を傾けてするりと出て来たのは――
「……は?」
――刀、だった。
しばし呆気に取られる。
当たり前だろう。
なんてことはない3LDKのマンションの玄関で、いきなりこんなものが出てくるなんて想像できるはずがない。
木製の鞘と柄を持ち、所々傷がついた、妙に手に馴染む刀。
―――このヘイオンな生活の中に紛れ込んだ明らかなイブツ―――
こんなものを送って来る心当たりといったら、一つしかない。
私たちの実家。
けれど私も姉上も、神鳴流との関わりは完全に断ったはずだった。
でなければ、あれほどの腕を持つ姉上がOLなどできるはずがない。
――そういえばアネウエが当主候補でなくなったのはナゼだったのか――
とりあえず、何か手掛かりでもないかと刀を抜いてみる。
横一文字に抜いて刀身を確認してみると、本物の刀だということがわかった。
模造刀ではないので、悪戯の線も消えた。
と、柄元あたりに止水と刻まれているのが目に付いた。
――このシスイという刀をあるべきスガタに戻さねば――
転瞬
「―――――――っ!」
猛烈な虚無感と、それを上回る使命感に押されて
何の躊躇も思考もせず
私は、刀を思い切り横の柱に
パキィィィィィィ―――
変化は急激だった。
素子ちゃんが刀を抜いた瞬間、ぞわりと空気が震えた。
足元から巻き起こった風は、体に纏わりつくまでに瘴気と成り果てる。
体から響くバキバキというのは、いったい何の音なのだろうか。
そうして瞳に怪しげな光が宿り
青山素子という少女は速やかに、何か別の存在にあっさりと飲み込まれた。
今なら俺にもはっきりとわかる。
禍禍しいオーラを纏った刀に。
「あれは――600年前、京の街を火の海にし、本家を消滅させた妖刀ひな……」
「は――――」
その言葉に疑問を覚える暇もなく
『彼女』が笑みさえ浮かべながら、こちらに向かって無造作に刀を振り下ろし―――
ズバァッ!!!
光が、溢れた。
「な…」
視界が正常に戻ったとき、道場の光景は一変していた。
床が、ない。
板張りの床は跡形もなく消滅し、下の地面でさえ深くえぐれている。
天井が、ない。
破壊は彼女から扇状に広がり、その範囲内のものは根こそぎ消滅していた。
俺と、俺の前に立つお姉さんを除いて。
「同化も早いようやな…神鳴の名にかけて、封じさせてもらうで」
お姉さんが刀を抜いていた。
この数日間、一度も刀を抜かなかった彼女が。
ぞわり、と再び肌が粟立つ。
『彼女』から感じるのと同等以上の寒気を、目の前の女性の後ろ姿から感じていた。
本能が教えてくれる。
この存在は、もう『彼女』と同質の存在なのだと。
チリリ―――――――
鈴の音が鳴り終わるよりも早く、お姉さんは『彼女』に斬りかかった。
キン!キキキキキガキチャカカカガキン!カキン………
さっきも、そして今も
俺は一歩も動けなかった。
怖いのだ、どうしようもなく。
人知を超えた速度で連続で斬りかかっているお姉さんも
虚ろな笑みを浮かべながら、刀に引きずられるように防いでいる『彼女』も
巻き込まれたら、死ぬ。
命が惜しいから。
――昨夜、約束してしまったから。
「はは―――は――――」
「………ッ!」
唐突に、お姉さんが大きく跳び退った。
一瞬前まで居た空間を、威力が強すぎて光り輝く気の刃が薙いだ。
同時に――
ぶしゃり
『彼女』の右腕が、破裂したように血を吹いた。
――考えてみれば当たり前のこと
――人間を超えた攻撃をしていれば、人間の部分が耐えられるわけがない
「素子ちゃん!」
血の紅さが、恐怖による金縛りを解いた。
床に穿たれた大穴を飛び越えて、一直線に駆け出す。
――行って何ができるというわけでもない
走りながら懐に入れてあった止水を掴んで、抜く。
――『彼女』を殺せるはずもない
『彼女』がこちらに気付き、笑顔を浮かべた。
――危険な真似はするなと、素子ちゃんに言われたのに
もう一歩という所で、『彼女』が刀の腹で無造作に俺の足を打った。
メギャリという音と共に根こそぎ吹き飛ばされそうになる。
――成瀬川と、一緒に帰る約束をしたのに
「――――――っ!」
激痛で声も出なかったが、左腕はなんとか彼女の肩を掴んでくれた。
――なのに何故俺はこんなところで
そのまま、倒れこむように『彼女』に縋る。
視界に入った右足は、どうしようもなく歪んでいた。
――命を捨てる行動をしてまで、彼女の傍に居ようと思ったのだろう
「浦島はん!妖刀ひなは唇から精気を吸い取ります!」
お姉さんの声になんとか反応して顔を上げると、すぐ側に満面の笑みを浮かべた素子ちゃんの顔。
けれど俺はよけもせずに、彼女の背中に手を回した。
――だって、自分で決めたじゃないか
そして唇に、凍てつくような感触が走って
――素子ちゃんはすぐに自分が悪いと思ってしまうから
――そうして、すぐに自分自身を傷つけるから
――だからそんなときはせめて、抱きしめてあげよう、と――――――
意識が、闇に落ちた。
―――ィィィン
叩きつけたと同時に世界は止まり、私は私になった。
姉上と共に暮らす、幸せな青山素子ではなく
浦島と出逢い、茨の幻想を選んだ青山素子に。
「――――くそ!」
一瞬にしてボロボロになった止水を放り出して、私は部屋の奥へ走った。
この幻想を私に見せていた者。
この幻想の要。
姉上だったモノ
台所に辿り付くと、果たしてそこには色を失っていない姉上が立っていた。
いかなる理由があろうとも、これ以上姉上を侮辱するな――
「正体を見せろ!妖刀、ひな!」
「………」
無言の後
『彼女』はぐにゃりと姿を変えた。
そして、現れたのは
寸分違わない、私自身
「……!」
「もう…いいの?」
「何?」
だが、口から漏れ出たのは聞いたこともないソプラノ。
苛ついた私は、止水を放り出してしまったことを後悔しながら、もう一歩踏み込んだ。
「人の姿を借りるな!正体を見せろと言って―――」
「そんなことを言っても無駄だよ。彼女には自分の姿というものがないんだから」
「――!?」
唐突に割り込んできた声に驚愕しながらも振り向く。
今の今まで気配も感じなかったのに、そこには一人の少年が立っていた。
年の頃は7,8歳。
白い長髪と紅い目を持ち
陰陽士のようなゆったりとした衣を纏い
そして無残にも根元から引き千切れた両腕を持った少年。
「…何奴だ?」
「やれやれ…全く。君はなかなか薄情な人だな」
「……?」
「この両腕だって、誰のせいだと思ってるんだい?マスター」
「な――!?」
待て。
ではこの、白い髪と紅い目を持った生意気な子供が
私が折った愛刀の
止水……だと?
「お、お前……」
「驚いたかい?」
「なんでこんなところに居るんだ!?止水は浦島に預けたはずだ!」
「その彼が僕を、君の体に接触させてくれたからさ。だからこうして話ができる」
「…おい、私の体は今何をしているんだ?」
「暴れてるよ」
さらりと止水は言った……あまりに聞き捨てならない言葉を。
確かに妖刀に乗っ取られた者は、暴れるのが普通なのだろう。
私が意識を失ったとき、そこには姉上が居た。
私が暴れたところで、私ごと調伏されて終わりのはずだ。
だがそんなことよりも
先程止水は、私に触れていると言った。
つまりその持ち主である浦島も傍にいるということだ。
私は猛然と振り返り、いまだにそこに立ったままの『私の姿をしたモノ』の胸倉を掴んだ。
「おい!!今すぐ私の意識を体に戻せ!!」
「あなたはそれを望んでいない…」
「そんなわけがないだろう!!」
「だから無駄だよ…彼女は、持ち主の願望をかなえるだけの存在だから」
「どこがだ!私は、姉上や浦島を傷つけることなど望んでいない!!」
「そうだね……だって、君が傷つけたいのは君自身なんだから」
「―――っ!!」
言葉に、詰まる。
それは…確かに、そうだ。
私は、私のことが好きではない。
好きになる要素など、何一つないのだから。
だって、今まで誰も、私自身を望んでくれる人など――――
「本当に……そうかい?」
第三者の言葉。
ふと、考えてみる。
そして、思い出されたのは先程の自分自身の言葉。
――世界は喜びに満ちている――
ああ、そうだ……
「…ひな」
「………?」
私の姿をしたモノが、表情を変えないまま子供のように首をかしげた。
妖刀、ひな。
可能性を使うモノ
止水が言ったように、おそらくこいつ自身には希望も願望もありはしない。
ただ、所有者の望む行動をし、所有者の望む幻想を見せるだけ。
「お前には一つだけ、感謝しなければいけないな…」
そうだ、確かに
私はあの幻想を、心のどこかで望んでいた。
『もしも姉上が、私を捨てなかったら』と。
あの人に対する劣等感ばかりが肥大化して、大切なことを忘れていた。
私は
姉上が好きだということを
「………?」
ひなの奴はまだ首を傾げている。
…思えば、幻想の中で奴が姉上の姿をとっていたのも
『姉上になりたい』という願望を写し取っていただけなのかもしれない。
だから
私の中に『もしも姉上が私を捨てなかったら』という想いがある限り
この、私の姿を借りてる奴に何を言っても無駄なのだろう。
そして、その想いを捨てるのは嫌だから。
「さて、どうしたものか…」
「戻りたいのかい?」
「当たり前だ」
「じゃあ、これを使うといい」
そう言って止水が取り出したのは、一個のビーダマだった。
緑色の何の変哲もない、少し大きめのビーダマ。
なぜか、懐かしく感じた。
「どうでもいいが、口に咥えるのは止めろ」
「はっへ、ひょうがはいひゃないか」
「ああ、わかったわかった。取ればいいんだろう」
「僕の腕を叩き折ったのは君だよ?」
「…なかなか律儀だな」
私の方を見上げている止水に、少し呆れた。
ここは私の心の中なのだから、どんな姿でも取れるはずなのに…まあ、そこで突っ立っているのは例外として。
だいたい、こんなどこから見ても普通のビーダマを渡してどうしろというのだ?
「なんだ?これは」
「それは彼の想いだよ」
「は?」
「ひなが君の体を使って景太郎君の精気を吸い取った。僕はその流れに乗って、君の心に接触しているのさ」
「これが……あいつの、想い?」
この、何の変哲もない大きめのビーダマが?
もうちょっとこう…光り輝いているとか、そういう表現があってもバチは当たらないと思うぞ…
せめて、ビーダマじゃなくて宝石だとか…まあ確かに、なぜか異様に親しみを覚えるんだが。
「実に堅実で、彼らしいね」
「むしろ貧乏くさいな」
「前から思ってたんだけどさ、マスターってかなり口が悪いよね」
「ただの事実だ」
「……景太郎君も、こんな人のどこがいいんだか……」
「聞こえてるぞおい…まあ、これでなんとか目処が立ったな」
ビーダマを右掌の中に握りこんで目を閉じる。
今、私の肉体は別の存在が支配している。
それを取り戻すには、私が支配力で上回れば良い。
けれど、自分に対する支配力ということは
自分をどれだけ信じているか、ということ。
だから私は、ひなを抜いた瞬間に、いとも簡単に体を乗っ取られた。
私は私自身を信じることはできない。
けれど
浦島は、こんな私を好きと言う。
こんな私を信じてくれている。
こんな私を、ありのまま認めてくれている。
だったら私は、この浦島の想いを信じよう。
そして私にとって、浦島を信じるなんて、あまりに簡単なこと。
ましてや浦島が傍に居てくれるのなら―――――
私は――――――――――――――――――――
―――不意に、声がかかった―――
「精神力だけで…調伏したやと…?」
初めて聞く、姉上の驚愕したような声。
私の憧れの人。
…はじめから、そう言えば良かった。
体が、重い。
まだ奴が残っているかと思ったが、そうではなく
単に、気絶した浦島が私に正面から寄りかかっているだけだった。
顔のすぐ横に浦島の顔がある。
思えば、こうやって抱き合ったことは幾度もあった。
それでも、私と浦島のしていたのは
―――ままごと遊びのようなもの、だ―――
「姉上……」
ぐったりとした浦島を寄りかかるままにしておいて
少し向こうにいる、刀を抜いた姉上に声をかける。
言わなければいけないことがある。
「先日の手紙、訂正します………」
この騒動の発端となった手紙。
浦島のことを偽って書いてしまったのは、きっと
私の、姉上に対する劣等感の結果。
せめて姉上より立派な存在を得ようという、浅はかな見栄。
「この、浦島景太郎という男は
馬鹿で
間抜けで
愚鈍で
お人よしで
軟弱で
情けなくて
希望の大学に入るのに三浪もして
それでも諦めないような阿呆で
取り柄といったら料理くらいしかなくて
些細なことで喜んで
理不尽なことに怒って
すぐに落ち込んで
皆と一緒に笑って
将来を誓い合ったわけでもなんでもなくて」
―――私と同じように馬鹿だと思う―――
「私が、ここに在る理由です」
姉上は無言。
こんな私を、哀れに思っているのだろうか。
かまわず、左手に持っていたひなを構え直す。
それはもう、何の妖気も発していないただの黒い刀だったが
ひどく―――体が重い。
「さあ、姉上……勝負です」
浦島が寄りかかっているのとは関係なしに、体が弱っている。
ひなが好き勝手に暴れたせいで、気を消耗しすぎたのか
体の支配を取り戻すのに、精神力を使いすぎたのか
―――多分、両方。
「そんな状態で、勝てると思ってるんか?」
「勝ちます。勝って…浦島と一緒に、帰ります」
勝てるわけがない。
足はフラフラで、立っているのもやっと。
腕に力が入らず、浦島を押しのけることさえままならない。
右腕からは(なぜか)流血していて、左手だけでは刀を持ち上げるのが限界。
たとえ万全でも、姉上にはかなわないのに
「ふん…なんか勘違いしとるようやな」
「がっ――!」
無造作に近づいてきた姉上に、首を掴まれ左腕一本で持ち上げられる。
浦島の体がずるりと落ちた。
私は、振りほどくことも出来ずに無抵抗にぶら下げられた。
息が、詰まる――
「二度とそないな気が起きん様に、腕の一本でももろうとこうか…」
ごくなんでもないことのように呟く姉上。
おそらく、今の姉上なら平気でやるだろう。
…と、姉上の眉がひそめられた。
私が、渾身の力を込めて、のろのろと持ち上げていた刀に気付いて。
「しょうぶ……です…」
姉上は言った。
―――私が、浦島に依存していると―――
ならば、浦島に依存するのをやめれば
あの幻想の中のように、世界は喜びに満ちていると感じることができるのだろう。
そんな道は、確かにある。
それは確かに、素晴らしい生き方なのだろう。
それでも私は
同じ幻想なら、浦島と共に居られる方を選ぶ
―――浦島と、想い合うことができた、なんて―――
そんな奇跡に対して、私はただ想うことでしか応えられないから
だから何があろうと、この想いを、私の全てを裏切るのは
―――それこそ、絶対に、不可能、だから―――
「ふっ………」
不意に、呼吸が楽になった。
酸欠で朦朧としていた頭に酸素が回り、自分が仰向けに倒れてるのに気付く。
どうやら、吊り下げられた状態から放り出されたらしい。
ぼやけた視界が、像を結び始める。
首を必死に持ち上げて、両足の向こうを視界に収める。
悠然と立つ姉上の足元には、同じように倒れている浦島がいる。
チリン、という鈴の音と共に、姉上が刀を鞘に収めた。
どこか、根負けしたような表情で
「ウチの負けや、素子」
「は…?」
唐突に姉上が言った。
私はその言葉が信じられなくて、思わず聞き返してしまう。
「あんた等のちと、言うとるんや」
「は、は―――は―――――」
力が抜けて、後頭部が床についた。
派手に裂けた道場の天井から、目に染みるような青空が覗いている。
信じ―――られない
けど、確かに
私は――――いや、
私と浦島は、姉上に、勝った…………ん、だ…………
騒動の結幕―――ゴールデンウィーク最終日 ひなた病院の一室にて
「まったく……何やってんのよ、あんた」
「何って…決闘だよ、決闘!怪我ぐらいするに決まってるだろ!」
「せ、先輩。あの……大丈夫ですか?」
「にしても、また足折って再入院なんてなー」
「しかも前回より重傷やて?呪われてるんちゃうか?」
「…ノロイ?ケータロ、ノロイバライ、ヒツヨウ?」
「なら、乙姫家に代々伝わる甲羅を使った呪い払いを…」
「みゅッ!?」
「ケータロ、ウチの発明役に立ったか?」
「スゥちゃん…ああいうのはもうやめようね」
「ほな、今度は三倍で走れるように改造しよか?」
「…やめとけ。浦島には似合わん」
「お、モトコ。医者はなんて言うとった?」
「そうですね……浦島の回復力を考慮に入れても、2ヶ月はかかるそうで」
「そ、そんなー!」
「タマネギに潰されたときの二倍かよ…」
「でも、お姉さんも酷いですよ!素子さんも怪我してるし」
「いや、俺の足を折ったのは素子ちゃ…グバッ!」
「ケータロ…!」
「おっと、すまんな浦島。どうやら、まだバランスがうまく取れていないようだ」
「モトコー。腕、大丈夫なんか?」
「ん?私のは、右腕の血を大量に失っただけだ。血の循環を良くするために心臓より高い位置で吊っているから、重症に見えるだけでな」
「にしても……足が治る頃には、結局夏休みでしょ?あんたってつくづく東大に縁がないのねー」
「大丈夫ですよ浦島君。約束にしたって、一年くらいなら待ちますから」
「しくしく……」
「みゅ」(ぽんぽん)
そうして時間が経って
一人、また一人と帰っていき
病室には、マスターと景太郎君だけが残った。
実を言うと、消灯時間はとっくの昔に過ぎている。
いつしか病室には、彼女がリンゴを剥くシャリシャリという音だけが響いていた。
…どうでもいいんだけど、僕でリンゴを剥かないでほしい…
「浦島、もう寝たか?」
「ん?まだだけど…」
「そうか…」
「………」
「………」
「………」
「………」
「なあ、浦島」
「…なに?」
「私は、ずっと自分のことを姉上の影だと思っていた」
「え…?」
「私は、姉上が出来なかったことを、代わりに処理するだけの存在なのだと」
「………」
「剣の道に生きるのも、道場を継ぐのも、全て姉上がやるはずのことだったから」
「…あのさ」
「うん?」
「俺にはよくわからないけど…」
「ああ」
「俺は…素子ちゃんは、素子ちゃんだと、思う」
「ああ、まさしくお前のせいだな」
「…って、え?」
「そんな幻想を抱かせたんだから、最後まで責任をとってくれないと困る」
カッカッカ、と見回りの看護婦の足音。
サッと会話を中断し、念のためベットの下に隠れるマスター。
…格好悪いなあ。
ちなみに、電灯などは初めから灯けていない。
彼女は暗闇の中、片手で(しかも折れた刀で)リンゴの皮を剥いていたのだ。
別名、技能の無駄遣い。
「……行ったか。これで2時間は大丈夫だな」
「素子ちゃん…いったいどこで調べたの?」
「まあ、少々忍び歩きをな。『なーすせんたー』とか言ったか、あの場所は」
「……やっぱり、姉妹なんだね」
景太郎君の溜息はどこ吹く風で、マスターはリンゴを齧った。
さすがに『包丁以外の獲物なら何でも扱える』と言っただけあって、綺麗に剥けている。
これが果物ナイフだったら、左手まで包帯を巻くことになっただろう。
だからといって調理器具の立場に甘んじるわけじゃない。
別に、腰に下げているプライドの欠片もない無口な方を使ったっていいじゃないか。
『…それがあなたの望みなの?』
こら、同じ妖刀を侵食するな!
だいたい、補助具としての僕の役目はもうほぼ終わってる。
折れてしまったのだから直るには相当かかるし、それまでに彼女は止水の極意へ到達するだろうから。
『……役立たず?』
自我すら曖昧なくせに、なかなか言ってくれるね。
『大丈夫……私はどんな可能性でも発現する…』
精神力の押し合いでマスターに負けたくせに。
そんなことを言ってるから、所有者を暴走させる危険物として封印されるんだ。
だいたい、人間の潜在的な願望をストレートにかなえたら、犯罪行為になるに決まってる。
600年前だって、神鳴流の者(しかも本家)の破滅願望をかなえたりするから……ぎゃあ!
「素子ちゃん?」
「ああ、そうだな。どこまで話したか」
「責任って、なんの…?」
「ずっと、行こうか行くまいか悩んでいた場所があってな」
「うん」
「話は変わるが、姉上は中学までしか行ったことがないんだ」
「…関係、あるの?」
「一応な…だから『勉学』というのも、姉上が出来なかったことの一つなんだ」
「だから…素子ちゃんが代わりに?」
「本当の所は誰にもわからない。だが少なくとも、私はそう思っていた」
「そんなのは……だめ、だよ……」
「だろうな」
「へ?」
「私は私だし、姉上は姉上だ。それに、私の全てが姉上に劣ってるわけではない」
「…うん、そうだよ」
「少なくとも、意地では勝った」
「ぷっ…確かに素子ちゃんって、めちゃくちゃ意地っ張りだから」
「そんなのはお前のせいに決まってる」
「え?」
「というわけで…責任取って、協力してくれるよな?」
「え、えーと………何を?」
「もちろん…」
―――ああ、なんて――――不幸で、愚かで、不毛な、楽しい――――
ユメ
―――幻想―――
「東大に入るのに、だ」
溢れるような笑顔で、彼女は言った。
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