風に、身を任せる

ざあ――――と、木々のざわめきと共に髪を抑える

天気は絶好

階段の上からこの街が一望できる

向かう先は、武道館

東大の入学式を受けに行く

これまでずっと、目指していた場所

けれど、念願の目的を達成したという充実感はあまりなかった

むしろ行きたくないと思ったりする自分がいる

家族と、会わなければいけないせいかもしれない

父と、義母と、義妹

ねえ景太郎、と

無意識に出た言葉が、哀しかった





ラブひなEX

If もしも………
ver成瀬川





母はいない。
私の本当の母は、二十四歳で病死したらしい。
私が物心つく前の話。


母親のことは何も憶えていない――当たり前だろう、赤ん坊だったのだから。
0歳や1歳のときの事を明確に記憶している人間などいるわけがない。
…一度だけ、写真を見せてもらったことがある。
ポニーテールの勝気で活発そうな女性が、桜の木(東大の敷地内らしい)の下でVサインを出していた。
目元はあまり似ていなかったけど、髪質や瞳、雰囲気などが私に似ているな、と思った。
こんなに元気そうな女性が自分の母親で、もう死んでいることがうまく実感できなかった。
どうやら母は病(というより体質)のせいで長くは生きられない体だったらしい。
父さんはそれを承知の上で彼女を愛し、結婚し、そして
もしかしたら私を生んだせいで母の死期が早まったのかもしれないと
そんなことを、思った。

そんなわけで、母親のことは何も憶えていない。
私にとって母とは初めから”居ない”のだ。
見知らぬ他人だ。
ただ、なんとなく知っている言葉がある。
何度も何度も聞かされたせいで、体に染み付いてしまったのだろう。
父さんは、それが母の私に対する遺言だと漏らしていた。

――あなたは、日の当たる場所に向かってね――

意味は、よくわからない





私の最初の記憶は
黒い服を着て泣いている父さんの背中。


私は病弱だった。
というより、私も病弱だったと言うべきか。
どうやら、母と同じ病(というより体質)だったらしく、医者と激しく言い合っているのを聞いたような覚えがある。
遊ぶこともできず寝込んでいる日々が続いた。
父さんは仕事をできるだけ減らして、私の傍にいることが多くなった。
妻を失い、そしてまた子を失ったら…という想いだったのだろう。
タオルを交換する父さんの大きな手が、印象に残っている。
そして、時折母の遺影の前で泣いていた。
それだけあの人は、母のことを溺愛していたのだろう。
そんな姿を、襖の隙間から何度も見ていたような気がする。

なぜ泣いているのか、理解はできなかった。
喜怒哀楽の感情は、まだ未分化だったから
ただ、なんとなく涙が出てきてわんわんと泣いた。
泣き声に気付いた父さんが私を抱えあげ、目を真っ赤に腫らしたまま私をあやす。
そうすると私は泣き止むのだ。
その度に、父さんは言う。

――まったく、お前がいると悲しんでいる暇もないな――

私は母さんの代わりだったのだろうか





私の病はますますひどくなっていった
ある時、父さんと一緒に旅館に療養に行ったらしい
それが、ひなた荘……いや、ひなた旅館。


未だに、思い出せない。
写真やぬいぐるみといった『証拠』はあっても、まったく実感が湧かない。
いくら思い出そうとしても、どうしても無理で
本当に私は『そこ』にいたのかと
いや、そこにいたのは本当に『私』だったのかと
確かに現在の私は、過去の『私』の積み重ねでできているのだけど
それでは堆積してしまった『私』は、どこまで私に含まれているのだろう。


あまりに苛ついたので、ある時父さんに聞いてみた。
十六年前の私のことを。
あの人は私の突然の電話に驚いて、そして複雑な感情を乗せて言葉を紡いでくれた。

その頃の父さんは、ようやく母を失った悲しみに耐えられるようになり、泣くことも少なくなっていた。
けれど対照的に、私の病は悪化していた。
言葉も満足に喋れないのに、症状だけは…私を生んだ頃の母と同じだと、父さんは嘆き悲しんでいた。
その病は、母の家系にだけ伝わる一種の遺伝病らしい。
だんだんと生命力を失っていって、最後には死ぬ。
―――まるで寿命のように
そのまま症状が進めば、私は年内には永遠の眠りにつくはずだった。
ひなた旅館にいったのは、病院で寝たきりよりは静かな温泉街のほうがマシだろうという配慮に過ぎなかった。
私はそんなこと何も知らなくて、父さんと一緒にいられることを喜んで
父さんは全てをこらえて、私に不審がらせないように無理やりな笑顔で
写真を撮ったり、した。


父さんは景太郎とむつみさんのことも覚えていた。
私と遊んでくれたのが、よほど嬉しかったらしい。
それとも嬉しかったのは私のほうかもしれない。
『お前はいつも父さんに、初めての友達のことを話していたよ』と懐かしそうに言っていた。


そしてある時突然、私の病は好転した。
何の支障もなく日常生活を送れるようになり、ひなた旅館に居る必要もなくなった。
だから、私と父さんは自宅に戻った。
それからも私の病は好転し続け、完全に健康体になった。
そんな話を聞いたけど、やはり何も思い出せなかった。

――なっちゃん、病気なの?――
――なっちゃん、お母さんもいないんだって。かわいそう――
――うん…なっちゃんの病気、代わってあげられたらなあ――
――…ねえ、なっちゃん。僕と一緒にトーダイに行こーよ――
――へへへ、負けちゃった――
――ねえ、なっちゃん。わたしのいのちをわけてあげる――
――だから、シアワセになってよね――

なぜ病が治ったのか、私は知らない





それから十年ほど、何事もない日々が続いた。
小学校に通い、中学校に入る。


父さんはまた仕事に戻って、私は一人の日々を過ごした。
典型的な父子家庭だろう。
別にそのこと自体に対して不満はなかった。
私の肉親は、初めから父さん一人だけだったのだから。
それに、気心の知れた友達も出来た。
学年が一つ上なのに私と対等に話し、関西弁を話す少女とか


料理をしようと思ったのは、小学校高学年の頃だった。
それまでは、父さんが朝食を、ハウスキーパーの人が来ては夕食を作っていた。
少しでも、家族のために何かしたかったのだろう。
『母親がいない』ということの意味を、わずかなりとも理解したせいかもしれない。
とにかく私は、料理をつくろうと思った。
そして自分が不器用だということを思い知った。

指を火傷した。
フライパンを焦がした。
塩と砂糖を間違えた。
小麦粉をぶちまけた。
およそ考えうるありとあらゆる失敗を重ねて
ホットケーキという簡単な料理が、見るも奇怪な白い塊になった。
料理のことなど何も知らない私は、嬉々としてそれを父さんに差し出した。

父さんはそれを食べて、『おいしいよ、なる』と言ってくれた。

有頂天になった私は、父さんが食べ残した一部を口に入れてみた。
吐いた。
即座にその場で、夕食を吐瀉物として台所にぶちまけた。
しばらく、寝込んだ。
その看病をしてくれたのも、父さんだった。


そんなふうにして、十年間は過ぎていった。
私はこの上なく父さんを信頼していた。
父子家庭としては、理想的だったと思う。
料理も、続けた。
不器用なら不器用なりに
仕事から帰ってくる父さんに、できるだけ美味しいものを食べてもらいたい。
見た目なんて二の次だ。
私は少しでも彼を支えられるように頑張って頑張って、そして

父さんは再婚した

――なあ、なる。お前も母さんが欲しいだろう――
――なるちゃん、よろしくね――


そんなもの、はじめからいらない





家を出た。
友人であるキツネの口利きによって、ひなた荘に入居して
私は意味を失った。


父さんの再婚によって、私に新しい家族ができた。
小学三年生の義妹と、見知らぬ他人である義母。
二人きりで暮らしていた家族が、一気に四人になった。

ありふれた、ことなのだろう。
父さんの再婚も
おどおどした義母の態度も
慕ってくれる義妹も
私の反発も
全てに於いて

父さんに裏切られたのだと、私は思った。
今まで私が一生懸命、母の代わりを務めていたのに
それなのに、新しい母を連れてきた。
――気に入らない
義母は、気の弱そうな人だった。
少なくとも私に対してはいつも、気まずそうに接していた。
それは多少なりとも『自分が侵入者である』という自覚があったからだろうか。
――気に入らない
義妹には罪も悪気もないのだと、分かっていた。
彼女はただ本当に『お姉ちゃんが欲しい』とだけ思っていて、それが叶って喜んでいるのだから。
それでも、その純粋な憧れの眼差しですら
――気に入らない

結局、家族の全てに反発して、私は家を出た。
どこか親戚の家に厄介になるという手もあったのだが、今更他人の家を荒らしたくなかったので女子寮を探した。
幸いにもそれはすぐに見つかり、私はそこから中学に通うことにした。
父が、義母が、義妹が止めたけど

――なる…わかってくれないか――
――なるちゃん、あなたの気持ちもわかるけど――
――おねえちゃん、わたしのことがきらいなの――


私は聞かなかった





ぼんやりとした二年間が過ぎた。
私は中学生をやめて高校生になって
けど、何も変わらないと……思っていた。

私は、呆として日々を過ごすようになった。
家に帰って家事をやる必要がなくなったので、部活に入ってもよかったのだけど
なんだか、全てにおいて張り合いをなくしてしまって
窓辺で外を眺めていることが多くなった。

男の人から、ラブレターを貰うことが増えた。
キツネなんかは『少しはこっちに回さんかい!』などと言っていたけど、私にとっては別にどうでもよかった。
ひとしきり時間潰しのように検討してみて、やはり流れ作業のように断った。
別に付き合ってもよかったのだけど、そんな気力もなかった。
異性と付き合うのがどうとか、そういう興味もなかった。
自然、女子からの受けも悪くなり、私はクラスで孤立するようになった。
キツネが毎日のように私のいるクラスに遊びに来ていなければ、私はとっくにイジメの標的にされていただろう。
当の本人が私をそう言って諭したけど、そんなこともどうでもよかった。
私は何も変わることなく、呆として過ごした。


成績も落ちた。
授業中も似たようなものだったから、当たり前だろう。
元からあまり良くなかったけど、それこそ下から数えた方が遥かに早いほどに
高校に進学できたのが奇跡のようなものだった。
その進学先の高校でも、成績のことについて何度も注意された。
それでも私の成績が伸びないので、今度は両親が呼び出された。
担任の教師に、私と共にクドクドと文句を言われる父と義母を見て

――いい気味よ――

思ってしまう、私がいた





高校一年生の初夏、一学期も半ばを過ぎた頃。
私は恋をした。
……恋らしきものを


両親が、家庭教師をつけた。
絶対に家に帰りたくないと言う私と、放っておくわけにはいかない彼らとが、妥協して出した結果だった。
はるかさんの知り合いらしいということで、私もOKした。
そして私は、あの人と出逢った。


瀬田記康、と彼は名乗った。
第一印象は『カッコイイ人』だった。
やはりはじめは、どうでもよかった。
勉強して、成績が上がって、担任が何も言わなくなれば、それでもういなくなる人なのだと
そう、思っていたけど

勉強を教えてもらう。
その後、小テストをやる。
最初は間違いだらけだった。
それでも彼は根気よく、私に一つ一つ教えていった。
そしてもう一度小テストをやる。
今度はさすがに、八割くらいは正解してる。
そうするとあの人は、にっこり笑って誉めてくれるのだ。
その包み込むような笑顔に、私は惹かれた。
その、全てを受け入れてくれそうな笑顔を見て
父さんのようだと、思った。


勉強して、勉強して、勉強した。
瀬田先輩が来る前に勉強し、瀬田先輩がいる間も勉強し、瀬田先輩が帰った後も勉強した。
全ては、あの笑顔を見るために
当然のように成績も上がった。
『どんどん』というより『ガンガン』といった感じで
それでもまだ家庭教師が必要だと示すために、東大を目指すと宣言した。
もちろんそれは『瀬田先輩のいる大学だから』という理由もあったけど。

その時も瀬田先輩は笑顔で『がんばってね、なるちゃん』と言ってくれた。
それだけでもう、なんでもできると思った。


一つ、デートの約束をした。
『全国模試でトップを取ったら』という、普通だったら考えられないような条件付きで
そんなふうにして、冗談のように提案するくらいしか私には出来なかったから。
あの人は笑いながら『いいよ』と言ってくれた。
頼るべきものを、目指すものを見つけた私は迷いなく
そしてそれまで以上に勉強に打ち込んだ。
恋のエネルギーというものはすごい、と我ながら思う。

一回目の模試で、全国5位になった。
瀬田先輩は『すごいじゃないか、なるちゃん』と喜んでくれたけど、私は一位を取れなかった悔しさで沈んでいた。
それでも、あの人の前でだけでは笑顔でいた。
次こそは絶対に一位をとってデートをするんだと、子供じみた誓いを立てた。
家族のことなんか、もうどうでもよかった。

――父さんの代わりに、瀬田先輩がいるんだから――

けれど二回目の模試の前に、あの人は外国に行ってしまった





また、二年が過ぎた。
高校一年生だった私は二年生になり、三年生になった。
私は何の疑いもなく、目的を達成するために歩んでいた。


あの人がいなくなっても、私の恋が終わったわけじゃない。
もうほとんど勉強漬けの毎日だった。
視力が落ちた時はショックだったけど、それでも勉強だけは止めなかった。

周囲の状況もいろいろと変化した。
瀬田先輩と出会ってから私は明るくなり、クラスメートとも積極的に付き合った。
もちろん最初は、女子からの風当たりは強かったけど
『好きな人がいる』ということを話したら、あっさりと受け入れられた。
それだけでは済まずに、瀬田先輩のことを洗いざらい話すことになってしまったけど…
また、ひなた荘にも新しい住人が何人も来た。
スゥちゃん、しのぶちゃん、素子ちゃん。
最初はとっつきにくかった素子ちゃんとしのぶちゃんも、笑顔で話すうちに警戒心を解いてくれた。

私は全国模試で何回もトップを取った。
あの人とデートは出来なかったけど、誇らしさが胸を満たした。
見ていますか、瀬田先輩。
今の私がいるのは、間違いなくあなたのおかげです。
そう、素直に思った。
本当に、あの人のことが好きだった。

――勉強して勉強して東大に入らないと、入らないと捨てられちゃうから――

その想いが本物かどうかなんて、疑いもしなかった





最後の高校生活も、半ばを過ぎた。
三年生は高校にいく必要もなくなり、私はひなた荘に篭って勉強していた。
そんな時に、あいつが来た。


第一印象は『バカでスケベで浅ましい奴』だった。
これは評価としては最低に近い。
道で男にナンパされたって、もう少し高い評価をつけるだろう。
しかもそんな奴が一緒に住むという。
住人ほとんどが荷担した追い出し作戦は苛烈を極めた。
それでも出て行かなければ、その鈍感さを陰で笑いあった。
女子のイジメは恐ろしいというが、本当にその通りだと実感した。
際限がなく、しかもやっている方は楽しいのだ。
率先して実行した。
禍根が残らなかったのは奇跡だと思う。


そのうちようやく分かった。
浦島景太郎という男は、どこかおかしなところがあると。
普通の生活をしていれば、人間は痛みというものに慣れない。
だから、殴られればどれだけ痛いということを知らない。
かくいう私もそうだ。
痛みというものが、人格を破壊するほどに危険なものだということを知らなかった。
だからあいつをぽんぽんと必要以上に殴った。
普通の相手ならとっくに死んでいるか、恨みの念で凝り固まっていることだろう。
たかが信号無視(不注意)で鞭打ちにされて納得する人間はいない。
けれどあいつは、むしろ自分の方が悪いと思っているようだった。
私とは本質的に何かが違うのだ。

そのうち成り行きで勉強を教えるようになって、結構仲良くなった。
けれど別に、恋愛感情が芽生えたわけじゃない。
あいつがどう思っていたかは知らないけど
私は瀬田先輩との約束を守るために、東大に行かなきゃいけないんだから。
肝心の瀬田先輩は、試験の前日に電話をかけてくれただけだったけど
私の恩人に、大切な人に報いるために。

試験二日目、東大の前で事情を聞いて、この男のどこがおかしいのかをようやく理解した。
十五年前の約束に、縛られているのだ。
それも身動きも取れないほどに、余計なことを何も考えられないほどがんじがらめに。
そうして、自分自身がこの上なく嫌いなのだ。
だからいくら殴られても文句を言わない。
殴られて、怪我して、たとえ命を落としても、それで文句を言うほど自分自身が大事じゃない。
痛みで人格が削れようが、それならそれで別に構わないと。
…なんでこんな人間が、なんでもない顔をして日常生活を送れるのかと思うほど
普通だったら自分自身を変えるか、自殺しているところを『約束』で縛り付けて
自分を『約束を守るだけの存在』だと割り切って

――私よりも重傷ね――

その二週間後、私は東大に落ちた





その瞬間、私の中で何かが砕けた。
そしてそのまま、傷ついた心の赴くままに彷徨った。
自分を見つめ直す旅。


私はそこでようやく、自分の心が傷ついていることに気付いた。
大きなトラウマを抱えているということに。
私は、瀬田先輩に父性を求めていた。
全てを包み込んでくれるあの笑顔に、父さんを重ねていた。
そして瀬田さんが外国に行ってしまったとき
私は、再び同じ傷を負わないように心を凍結させた。
ただひたすらに約束を果たすための成瀬川なるになった。

旅をしながら、私は改めて傷ついていた。
また新しい心理的外傷を抱えた。
けれどそれは同時に『目覚め』でもあった。
ようやく私は、周囲を見ることができるようになったのだ。
ようやく私は、父さんの影を重ねていたことを、瀬田さんに謝ることが出来るようになったのだ。

――あんたと私ってさ、どっか似たもの同士なのかもね――

そして私は改めて、瀬田さん本人に恋ができるようになった





帰ってきてからも色々あった。
私は今度は自分の意志で、東大を受けることに決めた。
そしてまた愚かな私は、同じ過ちを繰り返していた。


妙に景太郎が気になるようになった。
景太郎が私のことを『好き』なのだと知ったせいかもしれない。
あるいは傷心旅行で、互いの距離が縮まったせいかもしれない。
私はなんとなく漠然と、景太郎のことを意識するようになった。
たとえば、意外と強情なところとか。
たとえば、時々信じられないほどに鈍感で単純だとか。
たとえば、お人よしの上に落ち込みやすいとか。
たとえば、真面目な顔をした時は結構カッコイイとか。

自然と『好きかもしれない』と考えるようになった。
キス未遂も何度かあったし
なんだかんだ言って一緒にいることも多かった。
そして一緒にいるときは、なんだか安心できるのだ。
きっと、私は景太郎のことが好きなんだ、と思っていた。
―――瀬田さんに再会するまでは



…私は最低の人間だ。
自己嫌悪する景太郎の気持ちが、少しわかった。
もしもあの世というものが存在するなら、私は確実に地獄送りだと思う。
よりによって今度は、景太郎に瀬田さんを重ねていたなんて


人間は失ったものをあがなうために成長していくと、誰かが言った。
全ての想いは、本質的に代償行為なのだと。
私は母を知らなかった。
だから父さんのみに全てを求めた。
ある日、父さんが私だけのものではなくなった。
そして私は、瀬田先輩を父さんの代役として求めた。
けれど彼もどこかに行ってしまった。
だから今度は、父性を景太郎に求めたのだ。

父さんのこと
瀬田さんのこと
この二つの大きなトラウマの穴埋めを、浦島景太郎という存在に求めた。
……手近にあって、似ていたから。
たった、それだけの理由で。


景太郎は、自分のことを本当に想っていてくれる少女を選んだ。
未練たらしく周りをうろついていた私はある日
とてつもないしっぺ返しをくらった。

――比べて……選んだんだ…――

家族のことよりも、瀬田さんのことよりも深い傷が、私の中に刻まれた。





だから、こうやって強迫観念のように景太郎を求めてしまうことが、とても哀しかった





「なる、東大合格おめでとう」
「父さん……久しぶり」

待ち合わせ場所にいたのは、父さんだけだった。
武道館の前の広場。周りには新東大生やその家族がたくさんいる。
けれどその中に、義母とメイの姿はなかった。
…来たくもない、ということだろうか。
あの二人の性格からして、それは考えにくい。

「あの人とメイは?」
「あの二人は少し遅れるそうだ。大丈夫、式には間に合う」
「そう……」

ふと、父さんの髪に何本もの白髪を発見した。
しばらく見ないうちに、なんだか急に老け込んだような気がする。
…そうだ、もう父さんは四十を超えたんだ。
いくら若い父親といっても、母が死んでからもう十八年も経ったのだ。
だから、義母と再婚したのだろうか。
寂しかったから
だとしたら私は、父さんを支えることが出来なかったのだろう。
だとしたら私は、邪魔者なのだろうか。

「……ねえ、父さん」
「なんだ?」
「私って、もしかしたら生まれないほうがよかったのかなあ」

もしも私がいなかったら、母さんもまだ生きていたのかもしれない。
もしも私がいなかったら、父さんが一人で泣くようなこともなかったのかもしれない。
もしも私がいなかったら、義母がおどおどすることもなかったのかもしれない。
もしも私がいなかったら、景太郎が苦しむようなこともなかったのかもしれない。

――もしも私がいなかったら、こんな傷を抱えて生きることもなかった――

「さあな。父さんには、そんなことの良し悪しは分からん」
「『そんなこと』なの?結構悩んでるんだけど…」
「そうやって悩んで悩んで、自分で答えを出すしかないことだと思う」
「そう……」
「家族としては、こうやって相談を聞くぐらいしか出来ない」
「それで、役立たずな答えが返って来たら世話ないわよ」
「あいつにも相談するといい。父さんよりは役に立つ答えが返ってくると思う」
「…あの人に?」

ゴオッと風が吹いた。
ざわざわと人がたくさんいる広場で
私たち親子は、なんとなく黙って
風が吹いてきた方向の空を眺めて、ぼんやりと呟いた。

「今日は風が強いな」
「春一番かも」
「それより、高気圧が近づいているのかもしれない」
「天気がいいのはそのせいかな」
「………」
「………」
「それじゃあ、式の後にでもあの人に相談することにする」
「……許して、くれるのか?」
「なに言ってんのよ、父さん。親子じゃない」

それにもう
私は、あの人を他人のように思えない
母としては、まだ無理かもしれないけど
女として、聞きたいことがあった

「それじゃあ、また後で」
「父さんも、ちゃんと見ててよね」





ゴオオッと、また突風が吹いた。
一瞬、体が浮くような感覚を覚えるほどの強さ。
思わず髪を抑え、空の彼方を眺めてみる。
本当に今日は風が強い。
『異常気象』という言葉もちらほらと聞こえる。
私の悩みも、この風に乗って飛んでいってしまえば―――などと、柄にもないことを考えた。
サクサクと、特に感慨を抱くことなく武道館の入り口階段を上る。
『瀬田さんとの約束』という呪縛は、もう解けている。
けど、その代わりに

――私たち……やり直しましょう、ここから――
――そうだね……ずっと一緒にいることはできないけど――
――私達……東大に行っても、ずっと友達でいようね――


そういえば、とふと思う。
むつみさんと景太郎は、もうここに来ているのだろうか。
あの二人だったらどんな感慨を抱いて、この階段を上るのだろうか―――


「おーい、成瀬川ー!!」

声が、聞こえた。

振り返ると、さっきまで私と父さんが話していた広場を
景太郎が走っていた。


「なんて格好してるのよ、景太――」

似合わないスーツがドロドロになって
頭に植木鉢を載せて流血して
おまけに、背後に看板やら自動販売機やら自動車が突き刺さって
本当にまったく、入学式に出るような格好じゃない。
そのことについて文句でも言ってやろうと口を開いた時

ごろんごろんと何かが転がる音がして
ふっ、とあいつの周りが暗くなって――


ドゴシャァッ!!!!


――轟音と共に、黄金色の何かに景太郎が押し潰された





「―――――――――!」

一瞬、何が起こったのか分からなかった。

「浦島くん!!」

だれかの絶叫に弾かれるように、茫然自失としたまま駆け寄る。
すぐに視界一杯に金属の塊が広がり
そして足元を見ると


全体で何tも何百tもありそうな金属の塊の下から、手が突き出ていた。
そのシタイのような左腕に、つけられたウデドケイに、ミオボエがあった

「あ―――――」




4ヶ月前のクリスマスに、景太郎から腕時計を貰った。
結構高そうなやつだった。
それは今も大事に左腕につけている。
私と彼との大切な絆の一つ。
そのせいで景太郎のことを考える時に、無意識に腕時計を見つめる癖がついてしまったほど。

十日後の景太郎の誕生日に、お返しに腕時計をプレゼントした。
それもわざわざ同じタイプのを探して
渡す時に、素子ちゃんの許可までとって。
私は何をしているんだろうと、思った。

けど、景太郎がその時計をつけているのを見るたびに、なんだかとても満たされた



その腕時計が、ひび割れてそこにあった

「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ――」


もうなにもきこえない
もうなにもかんがえられない
もうなにもみえない


視界がアカク染まる

紅く―――――――――

赤く―――――――――

朱く―――――――――

紅く、赤く、朱く、紅く、赤く、朱く、紅く、赤く、朱く、紅く、赤く、朱く、紅く赤く朱く紅く赤く朱く紅く赤く朱く紅く赤く朱く紅赤朱紅赤朱紅赤朱紅赤朱紅赤朱紅赤朱紅赤朱――――――



ああああああああああああああああ―――――――――――!!!!!







ドゴォン―――と、また轟音が響いた。
数瞬、記憶が空白になり
うつぶせに倒れて気絶した景太郎が、そこにいた。
私は呆然としたまま、その場で両腕を上げて膝立ちになっていた。
むつみさんが真っ青な顔をして、私と景太郎に縋りついていた。


そのうち救急隊員が来て景太郎を救急車に乗せ、私とむつみさんはそれに付いていった。
結局入学式には出れなかった。





ぱっと『手術中』のランプがつく。
私はそれを、廊下の椅子に座ってぼんやりと見ていた。

左足複雑骨折です、とその看護婦は言った。
それまで固唾を飲んでいた私は、ふにゃふにゃとへたりこんでしまった。
武道館のタマネギに潰されて足を折る。
この程度ですんで喜ぶべきことなんだろうけど、どうにも気が抜けた。
真っ青な顔をしたまま気を張っていたむつみさんはもっと重傷で、その場で倒れて運ばれていった。
私のほうも、なんだか全身を疲労感が包んでいて
『手術中』のランプをぼんやりと眺めながら、うつらうつらとして



はっと気が付くとランプは消えていて、私の隣に義母がいた。


「目が覚めた?なるちゃん」
「あの…晶さん。景太郎は―――」
「ギプスをつけたあなたの友達なら、313号室に運ばれたみたいだけど」

彼女は、私の言いたい事が分かっていたかのように答えてくれた。
つまり手術は無事に成功して、入院したということか。
とりあえず安心して
そして、本来ならすぐに抱くはずの疑問にようやく気付いた。

「って、なんであなたがここに……父さんとメイもいるんですか?」
「あの二人なら、どうしてもあなたが見つからないから帰っちゃいました。私は―――」
「?」
「なんとなくなるちゃんがここにいるような気がして、そうしたらあなたが眠ってたの」
「………」

なんだか違和感を感じて、私は口をつぐんだ。
―――義母はこんなに堂々と話せる人だったろうか
私の前ではもっと、小動物のようにおどおどとしていたような気がする。
いや、それよりなにより
―――私はこんな普通に、義母と話ができただろうか
なぜか、負の感情を抱くこともなく
まるで友達と話でもするかのように

「あの…景太郎という男の子は、なるちゃんの大切な人なの?」
「…大切といえば大切ですけど、きっと晶さんの考えてるような関係じゃないです」

…そうだ、簡単なことだ。
義母に対する確執は、父さんに関するトラウマから来ていたのだから
それよりも遥かに大きな傷ができた今となっては、どうでもよくなってしまったのだ。
本当に私の行動は、見ていて滑稽なほどに強迫観念に支配されている。
―――彼が必要なのだという、強迫観念に

「そんなに綺麗なものじゃありません」
「あら。恋愛が綺麗じゃないのは当たり前よ」
「だから恋とか愛とかじゃなくて…病院で精神科医の診察を受けた方が良いような類なんです」
「恋の病はお医者様じゃ治せないわよ」
「ですから…」

こんな人だったのか、この人は。
確かに小動物みたいなのだけど、いったん警戒を解いたら擦り寄ってくるタイプだ。
きっと、それだけ他人の意思というものに敏感なのだろう。
とは言え、今までないがしろにしていたため無下に扱うことも出来ずに、私は困ってしまった。

「あいつにはもう好きな娘がいるんですから」
「そんなの関係ないわよ。好きという気持ちは抑えきれないものなの」
「…私の友達みたいなこと言いますね」
「相手に与えるだけで満足できるのが、私の愛よ」
「晶さん、性格変わりすぎです」
「あの人はまだ死んだ奥さんのことを愛してるんだから、こうでも思わないとやっていけないわよ」
「――――!」


どくん、と鼓動が聞こえた。
この人は今、夫婦としての関係をぶった切るような発言をした。
父さんが本当に愛しているのは、死んだ母だけなのだと
それは身代わりなど必要としない、純粋な愛なのだと
…私も薄々知っていた、事実を。


「じゃあ……なんで、結婚なんかできたんですか?」
「言ったでしょう。好きという気持ちは抑えられないって…まあ、いい歳してなに言ってるんだと思うかもしれないけど」
「でも、でも、そんな…」
「いいのよ、私は。たとえあの人の一番じゃなくても…この先一生、一番長く傍にいられるというのは事実だから」
「………」


―――よく、わからない。
義母は、父さんの傍にいられるだけで良いと言った。
何も貰えなくても、与えるだけで満足なのだと。
そんな、ある意味独りよがりの寂しい愛。
それじゃあ……それじゃあまるで、私と同じだ。
それじゃあ私は『景太郎のことを愛している』ということになってしまう。
そんなはずはないのに


「そんなの…寂しすぎます」
「ええ、そうよ。人間というのは、もとより寂しい動物なの」
「………」
「そんな中で、まったく別の未来を持つ人たちが、ほんの少しの間だけ心を触れ合わすことができる…それが家族よ」
「………」
「あなたがあの男の子と一緒にいたいと願うのだって、それは間違いなく奇跡なのよ」
「…私は、景太郎を愛しているわけじゃありません」
「じゃあ、なんなの?」
「……そんなの、自分で決めます」





義母と別れた後、私は313号室に向かった。
個室らしい扉の前に立つと、中はワイワイがやがやと騒がしい。

「なんだ、もうみんな来てたんだ」

―――私の抱えているものが
恋なのか
愛なのか
トラウマなのか
狂気なのか
―――多分、世界中の誰にも分からないだろう。
だったら私が、自分で決めよう。
たとえそれがどれだけ歪んでいようとも…いや、だからこそ
この想いは間違いなく、私だけのものなのだから




「病院であんまり騒いでんじゃないわよ、あんたたち―――――」







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